彼女はケンプの家族との対面を無事に果たすことができた。
息子たちはやはり、父親の旗艦の見学を希望し「午前中に皇帝の不興を買ったリュッケ」が、旗艦の案内を務めた。
リュッケが皇帝の不興を買った理由は簡単。いつも通り午前中に皇帝の元へと行き、
「陛下。ご機嫌麗しく」
「じくーじくー」
彼女と皇帝が会話を楽しむ。
そして不測の事態により ―― おむつ替え ―― により、彼女と皇帝がしばし離れた。
その間、彼女はカタリナと立って会話をしていた。内容はどのパーティーに参加するかなど、とりとめのないこと。そしておむつ替えが終わった皇帝は身をひっくり返し、彼女に照準を合わせて高速はいはいを開始。
彼女とカタリナが気付いたときには、足に激突しそうな所で、リュッケが彼女を抱き上げた。
激突されると彼女は”ふらつく”ので、よい判断だったのだが、リュッケはそのまま走って場所を移動し、部屋を出てしまった。
要するに皇帝の前から彼女を奪い去ったわけである。
皇帝カザリン・ケートヘン一世(零歳)は、家臣のこの行為に立腹し、奇声を発しながら彼女が連れ去られた方向に、積み木を投げつけるという行動に出た。
皇帝の怒りを鎮めることは彼女にしかできず。
急いで戻ってきた彼女は二十分ほど皇帝を抱きしめなくてはならなかった ―― 部下の失態を上司が償ったのである。
「気持は分かるが」
「もう少し考えろ」
しがみついている皇帝の背中を優しくなでる彼女を、少々離れたところから守る専属護衛二名に、リュッケは注意されるが、
「ジークリンデさまって、軽いですね。びっくりしました」
若い彼は、まったく堪えていなかった。
「……」
「……」
キスリングとユンゲルスは、まるで懲りていない彼を、可哀想なものを見るような目で見つめた。
そんな午前が終わり、午後はケンプの家族と面会。息子たちは前述のようにリュッケに任せ、
―― 艦内で迷子になったり……大丈夫かしら
彼女は心配ではあったが、リュッケは彼女が近くにさえいなければ、それは有能な士官で、問題なくその使命を果たした。
彼女はケンプ夫人と会話を ―― 機能重視のドック内に、彼女は椅子とテーブルを設置させそこで行った。
生まれも育ちも年齢も、まったく違うのだが、それがかえって良かったようで、話は随分と弾んだ。
ケンプ夫人が”夫が同僚に紹介してもらった店で選んでくれたショール”の話などを聞き、
―― ……多分、メックリンガーでしょうね。ミッタマイヤー夫妻のお祝いの際に聞いてみましょう
「とてもお似合いですわ。提督は奥さまに似合う色を、熟知していらっしゃるのですね」
褒めた。
むろんお世辞ではなく、本当に似合っていた。
「そうでしょうか」
「ええ。奥さまのことを、よく分かっていらっしゃるのでしょう」
―― 口に出すような人ではないでしょうが、それなりに愛妻家なのではないかと……思います
少なくとも結婚以来、彼女にドレス一枚用立てたことのないラインハルトに比べたら、立派な愛妻家と言えよう。
物品などで愛を計れないという意見もありそうだが、ラインハルトは性行為もないので ―― 追求すればするほど、彼女が惨めになるだけである。
息子たちとリュッケが笑顔で彼女の元へと戻って来て、そこから予約していたレストランへと向かう。
彼女が普段使っている貴族御用達の高級レストランではなく、平民を相手にしている高値の店。
そこに彼女は夫人と息子たちを招待し、
「忙しいので、あとは代理にお任せします」
代理としてケンプを連れてきて、家族水入らずにしてその場を去った。
翌日ケンプが、メックリンガーの元へ「お礼はどうしたらいいのだ?」と聞きに行くことになったが ―― 家族水入らずの時は、楽しく過ごした。
ケンプの家族と別れた彼女は、キスリングだけを連れて近くの公園へ ―― まだ完全に闇の帳が降りていない空の下、園内を歩き、
「ねえ、キスリング」
「はい」
中心に噴水のある開けた広場脇に停車している、クレープの移動販売車を指さし、
「食べたいのですけれど」
”買ってもいいかしら?”と尋ねる。それも笑顔で。
陽光の下の笑顔は華やかで、夜を背景にしたときの笑顔は艶やかに ――
「かしこまりました」
キスリングは逆らえず、彼女と共にシックな深緑色に塗った車体店舗へと近づき、黒板に書かれているメニューに目を通す。
―― この時代でも、黒板ってあるんですね
銀河帝国に生まれてから初めて見たチョークと黒板に感心しつつ、メニューを読み、懐かしい味を発見した。
「あら? 甘いのもあるのね」
過去のある彼女にとってなじみ深い、生クリームにフルーツ、チョコレートソースなどが使われている甘いクレープは、帝国ではほとんど見かけられなかった。塩味が主流で、精々デザートとしてクレープシュゼットが出る程度。
というわけで ――
「いいのですか?」
彼女は”彼女にとってスタンダード”な、生クリームとバナナとチョコレートの甘いクレープを購入した。
「はい」
代金はキスリング持ち。
”払います”とも言わず、自分の財布を取り出し代金を支払ってしまったのだ。彼女は代金を受け取るように言ったが”要らない”と固辞され ―― 言葉に甘えることにした。
―― たまに男は、女性におごりたくなるものなのです。身分も立場もわきまえずに……と、フェルナーが言っていましたからね。男性のプライドを尊重しましょう
「ありがとう。ゆっくり味わって食べますね」
外灯近くの鉄製のベンチにキスリングが自分のハンカチを広げ、彼女はそこに腰を下ろし、柔らかく暖かいクレープをほおばる。
「おいしいです」
「そうですか」
三分の一ほど食べたところで、再び顔を上げて買ってくれたらキスリングに笑いかける。
巻かれたクレープを食べるのは、二十年以上ぶりなので、彼女の口の端にはわずかに生クリームがついていた。
控えめな赤みの唇と白いクリーム。喜んでクレープを食べている彼女の表情は、年齢よりもずっと幼く、キスリングには十代半ばにすら見えた。
そして意識せず腕を伸ばし、右手の親指でクリームをぬぐい取り ――
「口の端についてました? やだ、この年になって……恥ずかしい」
彼女は膝にクレープを置き、バックからハンカチを取り出そうとし、
「……申し訳ございません! ハンカチを差し出し指摘させていただくべきでした」
キスリングは彼女の足下に膝を折って頭を下げた。
「あの、その……キスリング。護衛なのですから、あたりを見てくれないと困ります。キスリング、指を拭いてください」
―― 浮かれて恥ずかしいことをしてしまいました
**********
前日の行動により、完全にカザリン・ケートヘン一世にリュッケが敵認定された日の午後 ―― 彼女はブラウンシュヴァイク公爵邸へとやって来た。
邸の主である公爵に挨拶をし ――
「先日のマールバッハ伯との会話。一応、知らせておこうと思って」
彼らが監視していたなど知らない彼女は律儀に彼らの元を訪れた。
「……」
「……」
全員軍人らしく後ろに組んでいる手が、居心地悪そうに動くも、彼女からは見えない。
「……」
「……」
―― 申し訳ございません、ジークリンデさま。聞いてました。本当に申し訳ございません。信頼して下さっているというのに
いつものことなのだが、そのたびに彼らの良心が痛み、自らを咎める。
ただ彼女も全てを語ったわけではない。
ロイエンタールが皇帝の座を狙っていることと、彼が彼女のことを愛していると言いだしたことは除外した。
この二つを除外してしまうと、会話の整合性がとれないのだが、それでも彼女はあえて隠す。
―― おかしいと言われたら、忘れたで通しましょう
彼女の説明を聞いた四人は「やっぱり、隠してやるんですね」と、いかにも彼女らしい削除ぶりに納得し ―― 違和感があるところは少し突っ込んで聞き、分からないと言われたらすぐに引くを何度か繰り返した。
あまりに触れないと勘ぐられることを考慮して。
「それで、もし、サビーネさまがフェザーンに行くことになったら、フェルナー付いていってくれる?」
サビーネがフェザーンに行く過程がすっかりと抜け落ちているので、喋らないほうが良いのだが、彼女としてはここだけは除外できなかった。
「はい?」
指名されたフェルナーが声を上げる。
「頼れる人がいないと駄目でしょう」
「そんなのマールバッハ伯が、選りすぐってくれるでしょうから、私の出番なんてありませんよ」
「マールバッハ伯の人選は駄目。絶対にフェルナー。こういう状況で、フェルナーほど信頼できる人はいないもの」
先日この話をしていた時、彼女の脳裏をまず最初に過ぎったのは、ロイエンタールの部下で裏切ったグリルパルツァー(ただし正式名称は覚えていない”ぱ、ぱる? なんとか”)この人物は論外といえば論外だが、思い浮かんでしまう人物である。
その次に彼女が思い浮かべたのが「王朝の繁栄があるとお思いなら~」と言い残し自害したベルゲングリューン。
忠誠心では文句の付けようはなく、歴戦の勇者とまで言われる男 ―― だが、フェザーンで貴族の子女を守るとなると勝手が違う。
それらは歴戦の勇者の範疇外。
フェルナーの言う通りロイエンタールの部下に適任者がいるかもしれないが ――
「……。ジークリンデさま」
異郷に等しい自治領で、身分を隠して治療する少女を任せるに値すると認められたら、悪い気はしない。
「なんですか? フェルナー」
ましてそれが、愛してやまない主であれば尚のこと。
「その時がきたら、全力でご希望にお応えしたいと思います。それで、なにか欲しい物でもあるんですか?」
「突然なんですか? 別にありませんよ」
「今なら、なんでも用意しますよ」
「どうしたのです、フェルナー」
「どうもしていませんが……あ、そうだ、パウルさんでもいいのでは?」
オーベルシュタインは腕力的に劣る ―― 彼女はそのように考えて除外していた。それになにより、
「オーベルシュタインも信頼していますけれど、ほら、犬が悲しむでしょう。もっと若い犬でしたら、連れていっても大丈夫でしょうけれど。私としても、犬には長生きして欲しいですし。オーベルシュタインもそうよね?」
彼女としても犬には長生きして欲しい。
「はい」
―― 個人的な希望としては、最後まで犬と一緒にいて欲しいものです
そこまでは良かったのだが、
「私はキスリングに護衛してもらって、ファーレンハイトにフェザーンに連れていってもらうわ」
追加の希望にフェルナーとオーベルシュタインは噎せた。
「目立ち過ぎますよ」
「連れて行けといわれたら連れていきますが、フェルナーに侯爵令嬢を連れてきてもらったほうが目立たないかと」
「そ、そう?」
「そうですよ。なにより、エッシェンバッハ侯爵が許すかどうかも分かりませんし」
「あ……そうね」
帝国の女性のほとんどは、夫や父親の許可を得ずに旅行することはできない。
彼女がオーディンを離れない理由も”そこ”にあった
内戦前に領地に逃げ込む貴族は大勢いる。彼女もローエングラム領に引きこもり内戦から遠ざかりたいところなのだが、その為にはラインハルトに許可を貰わなければならない。
適当な理由で領地に逃げ込んだとしても、夫であるラインハルトは、彼女の領地に無断で侵入することができる。男尊女卑の国なので当然 ―― その中でも、とくに夫の妻に対する権限は強い。ラインハルトの妻でなければ、領地に引きこもるのも一つの手段だが、そのような事情があって、彼女はオーディンを離れるという策は最初から除外していた。
会話が途切れ、彼女が新しく運ばれてきたアールグレイに口をつける。
「ジークリンデさま」
それを見計らい、オーベルシュタインが一歩前へと出て、作戦を決行した。
「なに? オーベルシュタイン」
「遺産相続に関する書類が揃いました。あとはジークリンデさまのサインだけです」
「ありがとう」
「その言葉は、私ではなく、事務処理を担当した彼にお願いします」
「入れ、キャゼルヌ」
―― キャゼルヌ? ファーレンハイト、いま、キャゼルヌって言いました……よね
「失礼します」
書類が入った封筒を持っている、彼女の周囲ではあまり見かけることのない背広姿の男性。
彼は、はっきりとアレックス・キャゼルヌと名乗り ―― 彼女は動揺を必至に押し隠した……つもりであった。
キャゼルヌに驚いていたあまり、自分の相続額に驚きそびれてしまった彼女。
―― 生まれた時から大金持ちだと、驚かないもんなんだな
相続額を計算してその額に圧倒されたキャゼルヌからすると、金額を見て微動だにしない彼女は、まさに貴族の姫君 ―― 実際に名門貴族の一員だが、本来の彼女ならば金額を前に動揺したであろう。
「配偶者か後見人のサインも一緒に、こちらの欄に記入をお願いします」
―― ラインハルトに、この特権相続を見せるのは、死亡フラグでしょう……知っているでしょうけれども……でも隠すのも悪いような。ラインハルトは隠しごととか嫌いでしょうし
「サインはどちらかに統一したほうがいい?」
「分けても問題はありません」
キャゼルヌに大まかな説明と、彼女のために特別に作製してくれた解説書を貰いざっと目を通す。
「ジークリンデさま」
「なにかしら? オーベルシュタイン」
彼女は解説書から視線を移動させ ―― 体ごとオーベルシュタインの方を向いた。彼女は体を向けて話を聞くタイプで、今はちょうどキャゼルヌが死角に入る状態。
「これ程の事務手続きをほぼ一人で行った彼に、褒美を与えていただきたいのですが」
”聞いていないぞ”と声を上げそうになったキャゼルヌだが、
「構わないわ。なにがいいかしらね?」
彼女の言葉にオーベルシュタイン以下、三人を見回す。
彼らはキャゼルヌをフェザーン送りにするために、諦めずに考え ――
「休暇を与え、帰省させてやってください。妻子はフェザーンへ帰省するのですが、彼だけは仕事が忙しいと言い、帰ろうとしないのです」
最終兵器とも言える彼女に頼んだ。むろん彼女は彼らの意図も、キャゼルヌの意思も知らない。
「ちょっ! おまえ……」
「仕事がそんなにも忙しいのですか?」
「え、まあ……」
「私とシューマッハ大佐で対応いたします。彼ほどではありませんが、仕事を滞らせるような真似はいたしません」
オーベルシュタインは淡々と、だが自信を持って彼女に言いきった。原作を知っている彼女でも、オーベルシュタインとキャゼルヌの能力の比較はできないが、実績は知っている。
前者、軍務省の仕事を一切滞らせなかった男。その彼がはっきりと言い切り、なによりも今は信頼している部下の言葉。
彼女はその意見を受け入れて ――
「折角ですから、家族揃って帰省なさい。褒美として旅費も滞在費も私が出します。それらの手続きをキャゼルヌにさせたら、本末転倒ですしょうから、シューマッハに任せるとしましょう。シューマッハを呼んで」
「かしこまりました」
オーベルシュタインは、キャゼルヌを強制帰国させることに成功した。
「家族揃って楽しんできてねー」
フェルナーの追い打ちに苦虫を噛みつぶしたような形相になるも、
「ご家族の名前は?」
彼女に尋ねられすぐに穏やかな表情を作り、質問に答える。
「妻はオルタンス。娘は二人で長女がシャルロット・フィリス。次女はエリザベートと申します」
―― 次女は帝国に来てから生まれた……のでしょうね。原作ではきっと違う名前でしょう
キャゼルヌの答えで、帝国を支配するエリザベートという存在に、彼女は戦慄を覚えた。
エリザベート戦慄はともかく、呼ばれたシューマッハも、素知らぬ顔で彼女から仕事を受け取り ―― このような形でキャゼルヌは家族で早々に帰省することになった。”お前ら、覚えていろよ”という眼差しで彼らを睨みつけて。もっとも睨まれた方は、誰も痛痒を感じることはなかったが。
そろそろ帰宅しようとした彼女は、ファーレンハイトから二週間ほどオーディンを離れると告げられる。
「演習?」
「はい」
「いつから?」
「一週間後にオーディンを離れます」
「そうなの。じゃあ見送りに来ますから、私が行くまで出発しないでね」
「お待ちしております」
キスリングの運転する地上車に乗り込むと、見送りのフェルナーが窓を叩き ―― ”キスリングが”窓を開ける。
「ジークリンデさま。これどうぞ」
開いた窓から手渡されたのは軍用の大型端末。
「なにかしら? フェルナー」
「アムリッツア会戦の事後処理情報、叛徒版です。ちょっとした、軍事機密かもしれません」
「いいの?」
「ジークリンデさまは少将閣下ですから。でも、目を通したら返してくださいね」
「もちろん。ありがとう、フェルナー。いつも本当にありがとう!」
彼女が手を振り、彼らは頭をさげて見送った
―― 後方事務関係の人事異動は……キャゼルヌ先輩ではない人が、辺境に飛ばされてますね。新しい人事までは分からないのが残念ですが、ユリアンがヤンの所に行っていないところから考えて……あのキャゼルヌが、アレックス・キャゼルヌ先輩で間違いないのでしょう。奥さまの名前も同じですし。
そうなると同盟の補給ってどうなってるのかしら。アムリッツア会戦ってもしかして、補給しない同盟が侵攻してきていたとかだったら……怖い。
そういえば、原作ファーレンハイトに同じ穴の狢と言って、激怒させた……ク……ウェル。マックスウェルどこに居るのかしら? 名前には自信がないので……違うような気もしますけれど。マックスウェル? 違う?
(マックスウェル× ロックウェル○)