黒絹の皇妃   作:朱緒

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第62話

 知らないところで仕事の予定が組まれたり、別の人に任せるよう手配されたりしている頃、彼女は北苑で酷い噂をカタリナから聞かされて、倒れそうになっていた。

 倒れそうになっている主な理由は、朝食を取っていないことだが。

―― あああ……全員に訂正するのは無理ですから、えっと……

 彼女が朝食を取っていないのは、出仕前のラインハルトに会うために準備を急ぎ、出かけるときを見逃さないようにするため。

 彼を見送ってから、軽食を取ろうとしたのだが、突然送ると言われたので、このような状況になっていた。

「ねえねえ、ジークリンデ」

 ”噂話よりも、お腹空きました”言われたカタリナは、これは好機とばかりに、彼女の背後に控えているキスリングに意味ありげにして、女性に対しては不適切な表現ながら”獰猛”としか評することのできない笑みを向け、

「なんですか? カタリナ」

「お腹空いてるのよね? リッテンハイム侯爵令嬢がいる小部屋に、軽食が運ばれてるの見たわ。お裾分けしてもらいましょう」

 彼女の腕に手を回して、サビーネの部屋へと突進していった。

 キスリングはその後をついて行く。

 オーベルシュタインが語った懲罰が下されるのだろうと ―― どうしてこの方を選んだのかなあ…… ―― 思いはしたが。

 

 オーベルシュタインとカタリナの関係だが、あの義眼事件のあと、金を受け取りに来るよう命じられ、オーベルシュタインは単身で向かった。彼女がいなければ大丈夫……の筈だったのだが ―― 執拗に連絡先を教えるように言われることに。むろん断ったのだが連絡先を教えなければ、オーベルシュタインの目の前で彼女の胸をあらわにして揉むと脅され、拒否しきれずに教えることに。

 以来カタリナから傍若無人な連絡が届き、その都度、オーベルシュタインは律儀に返信をしていた。返信しないと彼女がなにかされる訳ではないのだが、彼女になにかあってからでは遅いので。

 

 ちなみにオーベルシュタインが律儀に返信する貴族はもう一人いる ―― ランズベルク伯。爵位はないが裕福であったオーベルシュタインは、貴族教育を一通り受けており、ランズベルク伯の詩に対して、適切なアドバイスをすることができるので、ひどく頼りにされていた。「俺やフェルナーには、カタリナさまはどうにもできんが、ランズベルク伯なら止めてくださいと言えるぞ」助け船を出したが「ご心配ありがとうございます。ですが大丈夫です」と一日一回だが、欠かさずに返信し、ラインズベルク伯の信頼を得ていた。

 

 ランズベルク伯はともかく、彼女の貞操を盾にオーベルシュタインから、様々な情報を得ていたカタリナは昨晩 ―― 離宮の小部屋でマールバッハ伯がジークリンデさまにしつこく愛を語っていました。一撃お願いします ―― 連絡がきて、二つ返事で引き受けた。

 事情を詳しく聞かなかったのは、オーベルシュタインへの信頼も少しはあるが……主な理由は、ロイエンタールのことが嫌いだからである。

 

 刺客を放たれたことなど知らないロイエンタールは、好きな女と苦手な女が一緒にやってきたことに、少々複雑であった。

「初めまして、サビーネ。私はカタリナ。カタリナ・フォン・ギレスベルガー。ジークリンデが空腹で倒れそうだから、そこの料理貰ってもいいわよね」

 乱入者にサビーネのほうは目を丸くしたが、

「こんにちは、サビーネ」

 彼女に声をかけられて”どうぞ、どうぞ”と、笑顔で、今までそこに座っていたロイエンタールを押して席を空ける。サビーネと昼食を取っていたロイエンタールは、自分が取り皿として使っていた皿を持ち席をあける。

―― いい香り。ドライトマトとバジルのポテトサラダ美味しそう。ライ麦パンに生ハムを乗せて……

 空腹で一瞬、注意力を持って行かれたが、

「突然お邪魔して、済みません。マールバッハ伯」

 なんとか我慢して、彼女はロイエンタールに挨拶をした。

 カタリナに引っぱられるように椅子に腰を降ろした彼女の前に、サビーネがまっ赤な顔で白い皿を置いて、ナプキンを彼女の膝に広げる。

 侯爵令嬢とは思えぬ行動だが、誰も咎めない

―― 好きな相手に甲斐甲斐しく尽くしてる感がすごいな

 この場で一人、料理に手を伸ばすことができないキスリングだが、サビーネの行動と、彼女の笑顔で充分であった。カタリナの凄惨な嗤いは見ていないことにしている。

「それは構わんが。遅かったな、ジークリンデ」

 追いやられ、立ったまま、皿を手に持ちワインを飲むロイエンタールに、

「昨晩から先程まで、若い夫が片時も離そうとしなかったのよ。九歳も年上だと……ねえ」

 大皿から料理を取り分けながら、彼女の代わりにカタリナが答える。

「カタリナ」

 彼女は声を上げるが、カタリナは我関せず。先程彼女が食べたいと願ったポテトサラダをスプーンに乗せて、彼女の口の前へと持っていった。

「はい、あーん」

 出されたスプーンを思わず口に入れてしまった彼女は、口を手で隠して食べ終え、

「……美味しいです」

 恥ずかしそうに ―― 実際恥ずかしかったのだが ―― しながら、料理を褒めた。

 言葉を紡ぎ出せないサビーネは、両手を上下に何度も振りながら、嬉しさを全身で表す。そんなサビーネの手を掴み、カタリナが優しく囁く。

「サビーネも食べさせてあげるといいわ。ジークリンデはね、食べさせてもらうのが、とっても上手なの。前夫はベッドで気怠げな表情のジークリンデに食べさせるのが大好きでね」

 サビーネはカタリナが言った言葉の意味を全て理解はできなかったが、

「カタリナ!」

 側で聞いているロイエンタールは、どのような状況であったかは理解し ―― 非常に面白くなかった。死者相手に本気になるのは馬鹿らしいとは思えど、感情は理性ではどうにもならない。

「いいじゃない。上手に食べる姿に見惚れるといいわよ」

「……」

 サビーネもカタリナと同じくスプーンにポテトサラダを乗せて、手を震わせながら、期待に満ちた眼差しで彼女の口もとへと運ぶ。十代半ばの女子の期待を裏切れず、

「今日一回だけですよ」

 彼女はサビーネが持つスプーンに噛みつく。彼女が料理を噛んでいる間、サビーネとカタリナは互いに手を叩きあいはしゃぐ。

「なにをしているのですか?」

「あなたが食べてる姿って、綺麗なのよ」

「カタリナったら」

 あまりにもいたたまれなくなったので、空腹ではあるが、早々に部屋を後にしようとした彼女であったが、

「どうだ?」

 ロイエンタールが目の前に一口サイズの大きさに切ったライ麦パンと、その上に生ハムを乗せたものを出してきた。

「ありがとうござい……」

 彼女は礼を述べ、手を伸ばして受け取ろうとしたのだが、ロイエンタールは持った手を高く上げて、

「一口くらいはいいだろう」

「……」

 口に運ばせろと言いだした。

―― どうして婚約者の前でそのようなことをするのですか。サビーネも怒っているではないですか

 サビーネは眉間に皺を寄せて怒っていたが、それはもちろん彼女に対してではなく、調子に乗っているロイエンタールに対してである。

 空腹だが婚約者の目の前で、手ずから口に運ばれるくらいならば彼女は当然拒否する ―― サビーネは良いのか? 問われそうだが、同性なので彼女にとっては大丈夫なラインなのだ。

「遠慮させていただきます」

 目の前のロイエンタールが、本当に残念そうな表情を浮かべ ―― 妙な罪悪感を彼女は覚えたが、その程度でぐらついてはいけないと、背を向けて部屋を出ようとする。

 その彼女の両肩にカタリナは手を置き、

「いいじゃない、ジークリンデ。一口くらい食べてやっても」

 らしからぬ言動に彼女は目を見開いて、発言者のカタリナとロイエンタールを見比べる。

「カタリナ……でも……」

「気にしないわよ。ねえ、サビーネ……ほら、気にしないって」

 彼女とロイエンタールがやり取りしている間に、カタリナがサビーネに”いいもの見せてあげるわ”と囁いたことを ―― キスリングだけは知っている。

 カタリナが同意したことに、ロイエンタールは危険を感じたが、惚れた弱みというべきか。彼女はほとほと困り果てながら”食べさせて下さい”と顎を少し上げて口を開く。

 恥ずかしがるその表情と仕草は、彼女を年齢よりも幼く見せた。そうロイエンタールが初めて彼女と出会った時のような。

 なにも知らない無垢な唇にしか見えないその口に、ロイエンタールがパンを押し込み、

「いい、サビーネ。変な男に絡まれたときは、こうやって逃げるのよ」

 崩れ落ちた。

 

―― カタリナさま。いま急所、突き刺し……俺の急所も縮む……パウルさん、なんという刺客を送り込み……

 

 裏があることなど分かっていたはずのロイエンタールだが、彼女の幼いころを思わせる表情に気を取られ、カタリナにドレスをたくし上げピンヒールで蹴られる隙を作ってしまった。

 蹴られるというよりは、突かれると表現したほうが近いようだが。

「……大丈夫ですか、マールバッハ伯」

 あまりのことに喉に料理を詰まらせかけた彼女は、手近にあった白ワインで急いで流し込み、崩れ落ちたロイエンタールの背中をさする。

「大丈夫に決まってるじゃない、ジークリンデ」

「ですが」

「それは、振りをしているだけよ。その男が、貴族令嬢のキックもどきを食らうわけないじゃない。その男、とっても強いのよ」

 いつの間にか取り出した扇子を開き、獲物を狩った勝者の笑みで言い放つ。

「ですが……」

 彼女もロイエンタールが白兵戦に長けていることは知っている。さすっている背中の硬さから、豪奢な貴族服の下には鍛えられている筋肉がついていることも分かる。

―― でも強さとこの状況はあまり関係のないと思うのですよ

「ジークリンデ。あまり心配したら、マールバッハ伯のプライドを傷つけてしまうわよ。ねえ、なんとも無いわよね、オスカー・フォン・マールバッハ」

「もちろん、だ」

 彼女が声を聞く分には、まったく大丈夫そうではないのだが ―― 男性のプライドを傷つけるのは危険な行為である。とくに痛みを堪え平気だと言い張っているのが、ロイエンタールとなれば、そのプライドは当人の生死に直接関わってくる。

 故にそれ以上は追求せず、

「サビーネ。別の部屋で一緒に昼食を取りましょう」

「うん……」

「カタリナも来てね」

「すぐ行くわ」

 彼女はサビーネを連れて廊下を挟んだ向かい側の部屋へ、急いで退避した。

 サビーネは彼女と一緒ならばどこでも良いので、うずくまっている自業自得な婚約者など気にせず、実家でもほとんど見せぬ笑顔でついていった。

 二人が去り、キスリングが扉を開いたまま両方の部屋に注意を払う。

「あんたのそれ、折れようが潰れようが、知ったことじゃないの。だって、私の人生になんら関係ないから」

 手のひらに叩き付けるようにして扇子を閉じ、

「その通りだ、ギレスベルガー」

「調子に乗って、ジークリンデに愛を囁くんじゃないわよ」

「調子になど乗ってはいない」

「どうでもいいわ。サビーネのことは任せて、あんたはさっさと狩りに行きなさい」

「……」

「私の婚約者候補って、ベンドリング男爵家の三男だったのよね。意味、分かるわよね」

 言い放ち、軽やかというよりは力強く部屋を後にした。

「ねえ、キスリング」

 彼女とサビーネの居る部屋のドアを開けようと手を伸ばしたキスリングは、

「はい! カタリナさま」

 声をかけられて背筋を正す。

「金銀妖瞳のあれ、蹴ったとき少し硬かったわよ。それでも、同情する?」

「一切いたしません!」

 ここで答えを間違ったら、蹴られる ―― キスリングの勘がひたすら肯定するように指示を出し、無事に危険を回避した。

 

「お待たせ。ジークリンデ、サビーネ。あら、何を食べているの。マールバッハ伯? 狩りに行ったわよ」

 

 遅れてやってきた侍女が細やかに動き、彼女たちは昼食を楽しみ、キスリングはカタリナの言葉 ―― 意味、分かるわよね ―― が気になった。

 むろん表情に出すことはなく、なんの動揺も見せずに、部屋の隅で注意力を切らすことなく、どのような状況でも対処できるようにはしていたが。

 

**********

 

 オーベルシュタインの児戯のようでありながら、きつい嫌がらせがロイエンタールに振り下ろされた頃 ―― 三人は本来の業務へと戻っていた。もっとも、あまりにも苛ついて効率は落ちていたが。

 そんなファーレンハイトやフェルナー、オーベルシュタインの元に、兵站総監が分厚い書類の束と共に、テオバルト・ユングと署名された、同盟からフェザーン経由で運ばれてきた手紙を持ってやってきた。

「おい、テオバルトから手紙だぞ……どうした?」

 妻から神経がワイヤーロープと言われている男だが、あまりの空気の悪さに部屋に入るのをためらってしまった。

「いや、色々とな。テオバルトからの手紙か……内容は、あれだろうな」

 ファーレンハイトが手紙を受け取り開き、

「お悔やみですよね」

 フェルナーが後ろからのぞき込む。

 会話についていけないオーベルシュタインが、兵站総監のほうを見た。義眼の視線を眼鏡越しとはいえまともに受けた、後方を取り仕切る男は手紙を読んでいる二人に、話していいのかを尋ねる。

「話していいのか?」

 手紙の主は名を変えた亡命者からのもので、署名のテオバルト・ユングの本名はトリスタン・フォン・ベンドリング。

 ベンドリング男爵家の三男。カタリナの昔の婚約者候補であり ―― 戦闘中に行方不明扱いにしてもらい、ヘルクスハイマー伯爵令嬢マルガレータの後見人となったその人である。

「構わん。説明してやってくれ、キャゼルヌ」

 そして手紙を持って来た兵站総監の名はアレックス・キャゼルヌ。あのアレックス・キャゼルヌである。

 彼の祖先は同盟に逃げそびれ、フェザーンに。

 あの事務処理能力は健在で、フェザーンでも優秀な手腕を発揮し、その才能を見込まれてフレーゲル男爵に引き抜かれ、帝国へ連れて来られ、軍属で私軍の兵站総監を押しつけられていた。

 軍属扱いなのは、キャゼルヌはフェザーン籍なため、正式に帝国軍人になることが出来ないための措置である。

 

 ユリアンがヤンの養子になっていないことに驚いた彼女が”キャゼルヌ先輩、仕事して”と、心中で呟いたが、彼は仕事をしていた。ただ仕事をしている場所が違っただけで。

 


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