黒絹の皇妃   作:朱緒

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第61話

 華美を嫌うラインハルトが開いた元帥府のため、大人数の出迎えがないことは、彼女にとって幸いであったが、朝からしどけない姿の彼女と遭遇することになったミュラーは大変不幸であったといえよう ―― 本人は決してそれを口にすることはできないどころか”お幸せそうで”ということしかできないが。

 

 部屋に通された彼女は「嫌ではないか?」と確認を取られたあと、またキスをされることになった。

 もちろんこの段階でも進捗はなく ―― 二十歳の権力者の内側に渦巻くのは、十代半ばのような欲求と、姉を奪われた際の潔癖と罪悪感で雁字搦めになった性欲と、幼稚園児なみの恋愛感情と知識。

 それらを受け止めなくてはならない彼女は、大変な立場であった。

―― ラインハルトがこんなに異性に興味を持っているなんて、思いもしませんでした……これなら、最初からラインハルトの恋人を目指し……

 

 ”ラインハルトと恋仲になり死亡フラグを回避する”

 

 彼女も考えなかったわけではないが、原作におけるあの薄い性欲と、姉一筋の姿を読んでいたら、常人はまずそんな考えには至らない。近づいても汚いものを見る目で帰されるだけだと、彼女も最初から諦めていた。

 ラインハルトとキスをしながら、彼女は考える。

―― このまま、誘って興味を持ってもらえれば、上手く取りなしてもらえるかも……今まで考えたこともなかったことですが

 彼女は女らしさを全面に出して、ラインハルトに好印象を与えようと考え、まずは全身で抱きつこうとしたのだが、腕も足も動かせなかった。

 それと言うのも、なぜかラインハルトは彼女の腕を掴み、動けないように拘束してくるので、背中に腕を回すこともできず、足もラインハルトが乗っているので動かせず誘いようがなかった。

 ラインハルトも、彼女が逃げるとは思ってはいない。なにせ押さえている腕には力はこもっておらず、体を捩り逃げるような素振りも見せないからだ。

 ではもっと普通の男が女を抱くようにすれば良さそうだが、ラインハルトは男が女を抱きしめる方法を知らないので、格闘術の抑え込みのような形になってしまう。

 その半神とも見紛う美貌と、白皙の肌のせいで、あまり格闘は強くないように勘違いされるラインハルトだが、その戦歴には白兵戦も多く含まれており、それらでも武勲を立てている。なにより身長183cmの男性軍人を、身長約167cmの訓練などしたこともない彼女が、どうにかすることなど不可能である。

―― 顔が整っていることもあって、迫力がすごい

 楽しそうというよりは、幸せそうな表情で角度をかえて唇を押しつけてくるラインハルトの、美しい顔を間近で見て、その整った容姿に彼女は思わず震えた。

「ジークリンデ」

 ラインハルトに名を呼ばれ彼女は戸惑ったが、

「……はい、ラインハルト、さま」

 自由になった口を開き、出来るだけ甘い声で返事を返した。彼女の甘い声は郷愁を誘う旋律でラインハルトの名を紡ぎ、その主を絡めとる。

 そして今日、何度目かのキスを再開しようと彼女に近づく。

「腕を放してくださいませんか。これでは抱きつくことができなくて、とても苦しいのです」

 苦しいと言われラインハルトは腕を解き、彼女は礼を言う代わりに、ラインハルトのマントの内側に手を入れて背中へと回して応える。

 

 行為そのものには至らないとはいえ、ラインハルトに性的な欲求を感じさせるほどの美を持った彼女である。ド・ヴィリエやルビンスキー、フォークやロイエンタールを狂わせても、なんら不思議ではないと言えよう。

 

 召使いたちがやってくる前にラインハルトは仕事へ向かい ―― ソファーの上には脱力した彼女が、とても触れるだけのキスの後とは思えない格好で残されていた。

 彼女は仰向けで、髪は解けて、ドレスはまくり上げられ右足が露わになっている状態。

 部屋には彼女が一人でいるわけではなく、キスリングが召使いたちを連れてやってくるまでの間、警護がつけられていた ―― ミュラーである。

 状況からミュラーは彼女の見えない場所に控えており、まったく気付かれなかった。

 

―― 本当にキスだけなのに、疲れました……

 

 キスリングが引き返して連れてきた召使いたちに身支度を調えさせ、彼女は新無憂宮の北苑へと向かい ――

「朝から夫に行為を強制されたって本当?」

「なんの話ですか、カタリナ」

「そんな噂を耳に挟んだから。面と向かって聞く相手は、私くらいでしょうけれど」

「そんなことしていません」

「全くしてないの?」

「なにもしていないとは言いませんが、強制はされておりません」

 貴族たち噂の伝達速度は怖ろしく早く、ねじ曲げられること甚だしい。特に貴族に嫌われている男と、貴族に慕われている女では、前者が悪いように仕立て上げられてしまうのは必然。

 

**********

 

 彼女を見送り、迎えのキスリングに連絡を入れたケスラーは、昨晩の出来事の一因でもある彼ら ―― ファーレンハイト、フェルナー、そしてオーベルシュタイン ―― に、事情を説明しにやってきた。

「お嬢さまには口外せぬよう命じられたが、事情が事情なので、あえて叛かせてもらった」

 彼女の名誉に関係することだが、巻き込まれた彼らも知っていなければ、また同じようなことが起こりかねないと ―― この時点でケスラーは、ラインハルトが車中で面会を許可したことは知らない。

 知っていたとしても、ケスラーは報告しにきたであろうが。

 その頃三人は近々行う演習について、調整をしていた。

 ブラウンシュヴァイク公の私軍は定期的に演習をファーレンハイトが行っているため、これから内乱などが起こるのは分かっているが、その時まで知らぬ振りをするには、いままで通りの動く必要があった。

 そんな調整の最中にもたらされた報告に、三人は表情を強ばらせる。

「……」

「……」

「わざわざ教えてくれて、感謝する。ケスラー准将」

 こうしてラインハルトは、オーベルシュタインの粛清リスト、不動のナンバー1に躍り出た。

「申し訳なかった。もっと早くに止めていれば」

 ケスラーは己の行動の遅さを恥じるが、彼の立場では、あの状況に割り込んだことすら、越権行為に該当する。

「仕方のないことだ。エッシェンバッハ侯とジークリンデさまは婚姻関係にある。行為を止める権利は卿にはない。たとえ暴行まがいのことをされていても、帝国ではなんの罪にもならぬしな」

「オーベルシュタイン!」

 ケスラーの叱責に、オーベルシュタインは視線を彼に向けて、

「だが事実だ、ケスラー准将」

 感情がこもっていない、突き放す口調で事実だけを述べた。

 各々コーヒーを飲み終え、陶器が触れる音すらしなくなり ―― 沈黙が場を支配しかけたところで、

「ケスラー准将」

「なんだ? フェルナー准将」

「旦那さま……フライリヒラート伯爵に話したところ、伯爵がお持ちのジークリンデさまの映像データの複製、許可してくださるそうです。それで条件として、ルッツ提督も一緒に連れて来るようにとのこと。お伝えしましたよ」

 ケスラーの訪問と入れ違いに、通信文で送った内容を、改めて口頭で伝えた。

「感謝する」

 ケスラーは三人に出来る限りのことはすると言い、ブラウンシュヴァイク邸から去っていった。

 

「……提督、准将」

「なんだ、パウル」

「なんですか? パウルさん」

「エッシェンバッハ侯はジークリンデさまの意思を確認せずとも、殺害でいいな?」

 低く一定の調子を保っているオーベルシュタインの声だが、端々から狂気が溢れださんばかりになっている。

「ジークリンデさまの性格では……ようとも、侯を殺せとは言わんだろうが」

 ファーレンハイトが口に出すのも嫌だと濁した”……ようとも”とは性的暴行の類の単語。考えるのも悍ましいが、ケスラーの報告から起こりうることと想定し、苦虫を噛みつぶしたかのような表情で。

「分かっている。だがこれ以上、ジークリンデさまがお辛い目に遭ったら、私はジークリンデさまを殺害してしまいそうだ」

「落ち着いて、パウルさん!」

「侯を殺害するのは止めない。お前のジークリンデさまに対する気持ちも良く解る。だから、まず落ち着こう、パウル」

 

 彼女は幸せでないと、彼女が殺害される恐れすらある ――

 

 オーベルシュタインを落ちつかせ ―― フェルナーが羽交い締めにして、ファーレンハイトが義眼を奪取して ―― ながら、自分たちも落ちつきを取り戻した二人だったのだが、また別の報告が届き、殺意を募らせることになる。

『皆さん、そちらにいらっしゃいますか?』

 彼女が元帥府で身支度を調えている間、キスリングは離れた位置でミュラーと共に控え、その際にこの状況について報告を受け ―― 急いで報告することにした。

「三人ともいるが。どうした、キスリング」

 ファーレンハイトは通話をスピーカーに切り替え、机の上に置き、オーベルシュタインに義眼を返す。

『非常に報告し辛いのですが、ジークリンデさまが……』

 オーベルシュタインが慣れた手つきで義眼を眼窩に押し込む。

「昨晩、自宅で侯に理不尽な扱いを受けたのは聞いた」

 二度も同じことは聞きたくはないと、ファーレンハイトは話している最中に割り込み会話を打ち切ろうとしたのだが、

『なんの話ですか……いや、なんですか、それ』

「違うのか?」

『じゃあ、昨日の今日ってやつですか。実は……』

 キスリングの呆然とした声に、机を囲んでいた三人は互いに表情を確認して、身を乗り出し、今朝起こった出来事を聞くことになった。

『昨晩のことですが……』

「任務が終わったら、来い。教える」

「キスリング。ジークリンデさまから目を離さないでくださいよ」

「カタリナさまに、事情は説明せずにロイエンタールに懲罰を食らわすよう頼んだ。その結果についても教えてくれ」

『はい』

 ファーレンハイトとフェルナーが話した内容は意味が分かったが、最後のオーベルシュタインの発言の意味は分からなかったものの、北苑へ行けば分かるだろうとキスリングはまとめて返事をして通信を切った。

 マホガニー材の円卓を囲み、腕を組み直したファーレンハイトが、

「俺は演習と称して、元帥府にミサイルを撃ち込めばいいのか? 」

 殺すのならばさっさと殺してしまえと、演習に託けて爆撃すると言いだした。

「私としてはそうして欲しいところだが、提督が罪に問われるとジークリンデさまが悲しむであろうから、別の方法で」

 罪に問われないのであれば、今すぐにでもと ――

「ここには過激派しかいないんですか。普通は穏便に暗殺でしょう。ファーレンハイト、パウルさん!」

 穏便の意味を辞書で引かなくてはならない男たちが話を続ける、そんなストッパー不在の部屋に、

「失礼する」

「シュトライト、どうした?」

 穏やかな人となりのシュトライトが訪れた。

「ジークリンデさまのことで、卿らの意見が欲しいのだ」

 彼女の部下として侍従武官の仕事をこなしている彼が、わざわざ彼らの所へやってきた理由は”否定”の後押しを求めて。

 三人の中でもっとも階級の低いオーベルシュタインが席を立ちコーヒーを淹れ ―― 会話の内容を外に漏らさないため、給仕用の従卒などは置いていない ―― 席に着いたシュトライトの前に出す。

 シュトライトはそのコーヒーに、常識的な量のミルクを入れ、二口ほど飲んでカップを置きおもむろに話し出した。

「ジークリンデさまのことなのだが」

「どうしました?」

「なんだ?」

「十代半ばの少年の中に飛び込んでいただいたら、どうなると思う?」

 シュトライトらしからぬ話し方と内容に、

「行かせるか!」

「落ちついて、ファーレンハイト。ジークリンデさまが飛び込むとでも言ったのですか?」

 ”なにをさせるつもりだ?”と二人は声で、オーベルシュタインはその視線でシュトライトに問い質す。

「卿らの記憶にもあるだろうが、そろそろ士官学校の視察を行う時期なのだ」

 三人とも士官学校を出ているので「皇帝陛下の視察」があることは覚えていた。ただ彼らの在学中、皇帝フリードリヒ四世が訪れたことは一度もない。かの怠惰の代名詞と影で揶揄された皇帝は、そのようなことは何一つせず、代理の者がその公務をおこなっていた。

「陛下の代理で、侍従武官長が来ていた……」

 現皇帝カザリン・ケートヘン一世の場合、表に出して多くの者と接し、感染症などにかかると困るため、やはり先代皇帝と同じく代理の者を立てることになり ―― 前例を踏破することが正義と疑わない宮内省が、侍従武官長である彼女にその任をこなしてもらおうと考えた。

 彼女は”侍従武官長の仕事はあまり分からないので、全てシュトライトとモルトを通して”言っているので、まずは彼らの元に打診がきた。

「ジークリンデさまに士官学校を視察させるんですか? あそこ、男しかいないんですよ」

 フェルナーがあの頃の自分を思い出し、首を振る。

 冷めたような学生時代を送ったフェルナーだが、女に興味はあった。むしろあの頃の男子生徒は、異性に興味があって当たり前。

「あの年齢の全寮制男子学生にジークリンデさまを近付けるのは……候補生の人生が取り返しつかなくなるぞ」

 ファーレンハイトは彼女と出会った頃の自分を思い返し”取り返しがつかなくなる”の部分に力を込める。彼女と出会って爾来、人生のほとんどを彼女に捧げている彼の言葉には、不必要なほど重みがある。

「ジークリンデさまの場合、普通にお美しいでは済まないのが問題です。単純にはしゃぐ集団ができるだけならいいですが、今までの実績からすると、信奉者と狂信者とストーカーと誘拐犯が大量生産されるだけでしょう」

 ”彼女の”女ストーカーに突き刺された古傷を押さえるようにして、フェルナーが力説する。

「いまでさえ、ジークリンデさま狙いでブラウンシュヴァイク公私軍に配置を望む兵士がいるくらいだ。これで視察されたら、正規軍が瓦解しかねん」

 副官のザンデルスが「ここはジークリンデさまを守る艦隊であって、ジークリンデさまを愛でる艦隊じゃねえんだよ」と新兵の鍛錬の際に漏らしているのを聞いているファーレンハイトとしては、これ以上増えたらザンデルスが逆上しかねないという考えもある。―― 帝国軍は彼女を守る軍ではない……という冷静な訂正は、ここでは入らない。

「危険であろうな。帝国軍の士官の半数以上が、性犯罪者予備軍を兼ねるという、悲惨この上ない状況が生まれるだろう」

 あのラインハルトですら我慢がきかなかった彼女である。十六歳から二十歳の隔離された生活を送る青年たちの所へ、ほのかにラベンダーの香りを漂わせた、透き通るような美しい笑みを絶やさない、女性らしい優美な曲線を持ちながら、少女の雰囲気を色濃く残している、半神というよりは神の領域にちかい美貌を持つ彼女がやってきたら ――

「信奉者はまあ、いいです。狂信者もそれだけでしたら……なんとかなりますけど、それにストーカーと誘拐犯が重なると厄介ですから。とくにジークリンデさまの誘拐未遂実績は、帝国随一でしょう」

 生まれた直後に、看護師が新生児とは思えぬ、あまりの可愛らしさに彼女を病院から連れだそうとして警備員に捕まる。

 生後二日目、同じ病院で出産した母親が彼女の美しさに、自分の子と取り替えようとして、伯爵が手配した護衛により逮捕。

 こうして彼女の人生は、生まれて二日で二度の未遂事件から始まり、邸では部屋に閉じ込められるような生活が続く ―― 彼女は子供だったことと”貴族ですからね”という認識で、あまり気にしていなかったが、主な理由はそれである。

 そして母親が四歳で死亡した際に、初めての外出でロイエンタールと遭遇し彼の人生を、一切の自覚なしに変えてしまう。

 そして五歳のときにケスラーを惑わし ―― おそらくケスラーは不惑になろうとも、彼女に惑い続けるであろう。

 そして日々誘拐未遂事件。彼女は知らないが、父親の狩猟仲間であったオフレッサーが助け出してくれたこともある。

 以前にも触れたが、誘拐は彼女自身が目的なので、ひどい扱いにはならない。

 できるだけ傷つけないように攫おうとする。そのため薬物などで意識を失わせ ―― 意識を失っている間に助け出されるので、気付くとベッドの上で目覚める状態。

 

 士官学校の生徒にとっても、彼女にとっても、視察は危険であった。

 

「やはり危険か。私もそうは思ったのだが、ジークリンデさまにもっとも近いところにいた、卿らの意見を聞きたくて、こうして足を運ばせてもらった」

 シュトライトも彼女との付き合いは、それこそ嫁いできた頃からなので長いが、距離という点ではファーレンハイトやフェルナーには及ばない。

「別の代理を立てるのが、誰にとっても最良でしょうね」

 フェルナーは肩をすくめ、半笑いを浮かべ、全身で”聞くまでもないことでしょう”と答えた。オーベルシュタインは、再度コーヒーを淹れてシュトライトへ出し、やや下方からのぞき込むようにして、

「夫であるエッシェンバッハ元帥に頼んでみてはいかがでしょうか?」

 彼女に興味を持ち始めたラインハルトの名を挙げた。

「……それは、良いかもしれぬな」

 シュトライトは彼らの元を退去したその足で、ラインハルトの元帥府へと向かい ―― 快諾を得た。

「では、私から宮内省のほうに話しておこう」

「お願いいたします、元帥閣下」

 後日全てが決まってから、報告を受けた彼女は非常に残念であったが ―― ラインハルトとキルヒアイス以外の軍人の母校をみてみたかった ―― わがままを言っても仕方ないと諦めた。

 

 士官学校の生徒たちが、非常に残念がったことだけは、明記しておこう。

 


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