黒絹の皇妃   作:朱緒

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第60話

『ウルリッヒ、こっち!』

『お待ちください、お嬢さま』

『はやく! はやく!』

 

 散々な状況になった彼女だが、ラインハルトを責める気持ちは、ほとんどなかった。痛みに関しても”ラインハルトですから”それで、なんとなく許せた。

 

―― ラインハルトとしては、妻にあまり出歩いて欲しくはないのでしょう。原作ではアンネローゼの近侍にコンラートを置いたほどですから、男女間のことは気にしないと思ったのですが……甘かったようです。ラインハルトの女性に対する感情なんて、原作にはほとんど書かれていなかったので、そんなものはないとばかり思っていましたが、そうではないのですね。

 

 突然愛を語りだしたロイエンタール ―― 彼女にしてみると、いきなり告白された ―― も危険な存在だが、嫉妬と感情をうまくすり合わせ制御することができない状態の夫、ラインハルトはその比ではない。

 

「……さま。お嬢さま」

 何度か呼ばれ、ケスラーが彼女の部屋のドアを押さえているのに、やっと気づいた。

「ウルリッヒ……ありがとう」

「侍女を呼んで参ります」

「要りません。今日は帰宅しても出迎えないよう言いつけておいたので。女主人として、約束は違えませんわ」

 ドレスを脱いで化粧を落とし眠るだけ ―― のつもりだったのだが、彼女の予定通りにことは運ばなかった。だがこの状況でも起こすつもりはなかった。状況と格好から召使いたちに曲解されかねないので、ラインハルトの名誉を守るためにも、それは避けた。

「では私が」

 彼女自身の名誉は、ケスラーに見られた時点で砕け散っている ―― 彼女にとって。

 寝室についている小さめな浴室へまっすぐ向かい、

―― できることなら、可愛い少女のまま、ケスラーの記憶に残っていたかった

 脱衣所の姿見で、初恋の相手に見られたくはなかった姿を彼女は映し見る。その後ろに立つ白いシャツ姿のケスラーも鏡に映り込む。

 彼女にはその表情から、ケスラーの感情を読み取ることはほとんどできなかった。

―― ……心が読む事ができるのなら、こんな状況にはなりませんよ、大伯父上

「ウルリッヒ、お湯を張って」

 彼女は鏡越しにケスラーに依頼する。その声は命じるかのような硬さと冷たさで作られており、声の主である彼女自身驚いた。

「かしこまりました」

 彼女の声があからさまに救いを求める頼りないものであれば、ケスラーは彼女の細い肩をかき抱けたが、その声の硬さと冷たさに、我が身の無力さを感じ、彼女の肩に伸ばしかけていた手を止めた。

「少し熱めにしてね」

「はい」

 彼女はバスタブとシャワーの境となるカーテンを乱暴に引き、ケスラーが掛けてくれた上着を脱ぎ、籐製の脱衣かごにそっと置き、下着をタイルに脱ぎ捨て、設定温度を高めにしてシャワーを浴びた。

 降り注がれた湯は、真珠を思わせる光沢のある滑らかで張りの肌の上で躍り、流れ落ちる。

「お嬢さま」

「ウルリッヒ」

「こちらでお身体を温めてください」

 カーテン越しにケスラーは告げ、浴室を出ようとしたのだが、彼女に呼び止められた。

「ウルリッヒ、髪を洗ってくれない。簡単でいいの」

 貴族生まれで貴族育ちの彼女は、髪の手入れは自分でしたことはなく ―― もちろん記憶があるので、人の手を借りずともできるが、とても気怠く、一人になりたいが、なりたくもないような気持ちが、ケスラーを引き留めた。

「私でよろしいのですか?」

「汚れを落とす程度でいいのよ」

 

 バスタオルを巻いて乳白色の湯に体を沈め、仰向けになってバスタブの縁に後頭部を乗せ、ケスラーはしゃがみ腕まくりをし、壊れ物に触れるときよりも注意を払い、黒髪に指を通し丹念に洗う。

「ウルリッヒ、上手」

 目を閉じ髪を洗われている彼女の声が、生来の明るさを取り戻したことに胸を撫で下ろしたケスラーだが、それを再度壊すかのような質問をする必要があった。

「お褒めにあずかり光栄です……お嬢さま」

「なぁに? ウルリッヒ」

「無礼を承知でお聞きします。先ほどの庭での出来事について、お教え願えますでしょうか」

 ケスラーは拒絶も覚悟で聞いたのだが、彼女は温かな湯と、僅かに残っている酒精と、心地良いケスラーの声に、目を閉じたまま概要を語った。

「それ……エッシェンバッハ侯が……」

 むろんロイエンタールと会ったことは隠し、三人に会ったことでラインハルトの浮気を疑われたが、それは嘘で、本当は触れたかっただけ ―― などを。

「私が迂闊で……ああ、ウルリッヒ! 早く下がって」

 洗い流し終わった髪を拭いていたケスラーに迷惑をかけることに気付いた彼女は、大声を上げる。

「お嬢さま」

「自分でできますから! 本当に……私ときたら……」

 白いタオルで彼女の髪を拭いていたケスラーは、

「ご迷惑はおかけいたしません」

「そうではなく……ウルリッヒに迷惑が」

「ご心配なく」

 彼女の髪を拭き続けながら、心配は必要ないと囁く。

「……ウルリッヒが、そういうのでしたら。あのね……」

「はい、なんでございましょう」

「今日のことは、誰にも言わないで」

「もちろんにございます。……お嬢さま、拭き終わりました。そろそろ上がられたほうがよろしいかと」

 ケスラーは髪を拭いたタオルを脱衣かごに入れ、バスローブとタオルを用意し、自分の軍服を持ち、

「それでは失礼いたします。お嬢さまも早くお休みください」

 彼女に声をかけて浴室を出た。

「ありがとう、ウルリッヒ」

 

―― できることなら、知られたくはなかったのですけれど……

 

**********

 

 長い一日が終わり ―― 翌朝はすぐに訪れた。

「おはようございます、奥さま」

 召使いがカーテンを開けさし込んできた陽射しに瞼をくすぐられ、彼女は暗い眠りから引きずり出された。

 気怠い体をもう少しベッドに沈めておきたかったが、出かける準備をしなくてはならない。

 ベッドで二度ほど寝返りをうち、ゆっくりと体を起こす。

「朝食は……」

「エッシェンバッハ侯が何時に出られるか聞いてきて」

「はい」

 侍女は予定を聞くために急いで部屋を後にし、彼女はベッドから降りて窓際に近づき、外を眺める。

 戻って来た侍女から時間を聞き、急いで出かける準備に取りかからせた。

 

 狩猟宴の際は毎日持ってゆく銃も取り替えており、最終日に持ってゆくのは銀銃 ―― ルッツが彼女の父親の依頼で選んだ火薬銃。

見た目はつや消しの銀。すべてが銀製なのではなく、銀塗装が施されているだけで、弾丸を込めトリガーを引けば人間を殺傷するほどの威力がある。

 銃身に施されている彫刻の見事さと、美術品と言っても良い。そしてなにより、彼女の手のサイズにちょうど良いグリップの太さ。

 ルッツはこれを選んでから、キルヒアイスに随行しイゼルローン要塞へと向かった ―― 

 彼女は選んでもらった銃を際立たせる、プラチナラベンダー色でベアトップのマーメイドラインドレスを選んだ。

 胸元は同色の胸の下丈のレースケープ。しっかりと黒髪をまとめ、黒と白の羽で飾られたトーク帽。それにロング丈の手袋。

 彼女の着付けをしていた召使いの手が止まり、

「どうしたの」

「……もうしわけ、ございません」

 彼女に問いかけられ、膝を折り頭をさげて詫びる。彼女としてこのやり取りは慣れたもので ―― 召使いたちがわざわざ見惚れている芝居をしているのではないか? 彼女は疑い、周囲の者はそんなことはない、仕方のないことだと身の潔白を叫ぶ。

「それはいいから、早く用意を。エッシェンバッハ侯が出てしまいます」

 用意を終えた彼女は部屋を出て、玄関ホールのソファーに座ってラインハルトを待った。

 

―― 今日は挨拶をしないと、拗れてしまいそうですからね

 

 迎えの地上車が玄関前に到着し、邸の警備責任者であるケスラーが邸へとやってきて、 いつもと変わらぬ態度で彼女に挨拶し、ラインハルトに迎えの到着を報告するために部屋へと向かった。

「おはようございます……伯爵夫人」

「おはよう、ケスラー」

 ケスラーの任は普段はキルヒアイスが行っていること。

 しばらくすると大理石の床に足音を響かせ、ラインハルトがやってきた。

「元帥」

 ケスラーから彼女がいると聞いていたラインハルトはためらったが、無視するわけにもいかないと、戦場で奮う勇気とはまた別種の勇気を奮い立たせて、青磁に似た色合いの座面を持つ、金枠バロック様式ソファーに座っている彼女に声をかける。

「伯爵夫人……おはよう」

「おはようございます、元帥。いってらっしゃいませ」

 重みなどないかのように軽やかに彼女は立ち上がり、見送り頭を下げると、トーク帽の羽根飾りが揺れた。

 彼女が今日ラインハルトと挨拶をしなければ拗れると ―― ラインハルトも同じ考えで、出かけ際に彼女に声をかけようとしていた。

「あなたを新無憂宮まで送りたいのだが、いいだろうか?」

「よろしいのですか?」

「ああ……伯爵夫人さえよければ、だが」

「嬉しいですわ。ケスラー、キスリングに連絡を」

「はっ」

 ラインハルトにエスコートされ地上車に乗り込み、ケスラーたちの見送りを受け ―― 向かい合うようにして二人は座った。

 ラインハルトは頬杖をつき、視線を逸らすようにしつつ、彼女を盗み見る。そんなことをしなくとも、正面から彼女を見ることが許されている立場でありながら。

 

―― 朝日を浴びているラインハルトを見るのは初めてですけれど、陽射しを背負ったラインハルトは、まさに神々しくて、降臨したと表現したくなります。考えごとをしている表情も”さま”になっていますし……世間的に、浮気されないように気を揉むのは私の側でしょう……記憶がなければ、純粋にこの美しさに身を委ね……そうなると、門閥貴族育ちですから、下級貴族と結婚させられたと我が身の不運を嘆いていたかも知れませんね。結局、変わらないということですか

 

 彼女が考えていることと、同じようなことをラインハルトも考えていた。違うのは彼女はラインハルトが地上に降臨したように感じたが、ラインハルトは眩しい光の中にいる彼女が、天に帰ってしまうような感覚に囚われた。

―― 下らない考えだ

 すぐに自分の考えの愚かさを笑い、意識を切り替えて謝罪しようと口を開く。

「昨晩は……」

 もともと謝罪が苦手な上に、この種の出来事には疎く ―― 昨晩彼女がラインハルトに、どのように声をかけていいのか悩んだときと同じか、それ以上に悩んでいた。

 その明敏な頭脳を駆使し、考えを巡らせ「言い訳せずに謝ろう」最善の結論を出したのだが、その決断を後押ししてくれるキルヒアイスが居なかったこともあり、自分の決断に自信が持てず、言葉に詰まった。 ―― キルヒアイスがいたら、即日謝らせたであろうが。

「元帥閣下。私はあまり察しのよい女ではありません。ですから、なんでも仰って下さい。言ってくださらないと、これからも元帥のことを不快にさせてしまうことでしょう」

 彼女はラインハルトから謝罪をして欲しいわけではない。

 この先のことを考えて、ラインハルトが激高するポイントを知りたいという欲求が強い。

「それは……あなたの名誉を損なう口実で触れたことを許してくれ」

「はい。ですが、私も迂闊でした。彼らは前夫の部下、元帥の部下ではありませんので、疑われてもしかたのないことです」

「いや……その……昨晩、あなたと玄関で会わなければ…………ほつれていた髪が、とても扇情的で、他人もその姿を見たのかと思ったら、悔しく……」

―― ラインハルトの恋愛メンタルがよく分かりません。……もともと知っているつもりで接してただけなので、実際のラインハルトのことなど知らないに等しいのですが

「これからは会わないように致しますので、それでお許しいただければ」

 彼女としては、本来ラインハルトの部下になる彼らを、激高の巻き添えにはしたくはないので、会うのは避けるつもりであったが、

「会うのは構わない……できるなら、昨日のことは忘れて欲しい」

 一晩悩んだラインハルトは、幾分かの冷静さを取り戻し、彼女の交流関係に口を挟んだ自分を恥じた。

「昨晩のことは、元帥のお望み通りに。ですが、会うのは控えますので」

「私は狭量だと思われるのがいやなのだ!」

「狭量などとは思っておりませぬが」

「声を荒げて済まなかった」

「いいえ。お気になさらずに。声が大きくなるのは、軍人には良くあることですので……では、お言葉に甘えさせていただいて、彼らともまた会うといたします」

「ありがとう。私にできることがあったら、なんでも言ってくれ、フロイライン」

―― その気持ちで、一族を助けてくれませんかね……あと、私はフロイラインではありません。一応、あなたの妻です。……もしかして冗談のつもり……だとしたら、そうだとしたら……どのように返したらよいのでしょう

 どう答えていいのか、彼女には分からなかったので、頬杖を付いていない方の手をとり、指先に軽く口付ける。

 下手に答えて機嫌を損ねたり、慌てさせたり、または、何ごとも無かったかのように接したりするよりは、好意的な行動を取ったほうが良いであろうと考えての行動であった。

「……」

 ラインハルトは無言で彼女の腕を掴み、唇を重ねた。

 なにが起こったのか理解するまで、彼女は少しばかり時間を要し ―― 体にかかる重みで、のし掛かられていることに気付く。

 彼女に跨り両腕を押さえ付け、キスを繰り返す。

 感情にまかせてキスをしているので、このような体勢になっているのだが、

―― 体勢と行為が合ってません……ラインハルト……さん

 彼女の唇に自分の唇を押しつけるだけ。本当にそれだけ。

―― このまま、体勢とかけ離れた子供のキスを繰り返させるべきなのでしょうか、少しは誘導したほうがいいのでしょうか……それとも知っていて、触れるだけにしているの……分からない

 そこで彼女はほんの少しだけ口を開き、あとはラインハルトの好きにさせることにしたが ―― ラインハルトは触れる以上のことはしなかった。正確に表現するのなら”知らなかった”のであろう。

 だが行為とは裏腹に彼女の衣服や髪は乱れ、とてもこのまま人前に出られるような状況ではなかった。

 唇を離したラインハルトが、彼女に申し訳なさそうな表情を向けるが”大丈夫ですよ”と、優しく語りかける。

「新無憂宮ではなく、元帥府に向かっていただけると。そちらで着衣を直してから向かいます」

 新無憂宮に向かっていた公用車は元帥府に引き返し、その間ずっとラインハルトは彼女にキスをしていた。

 着衣や髪が乱れてもいいと言われたラインハルトは、腰を抱きまとめた髪を崩すかのように掴んで ―― だが触れるだけ。ラインハルトの歯はしっかりと噛み合い、彼女から誘う隙すらない。

 元帥府の正面に到着したころ、彼女はとても情熱的な夫に求められるがまま応じたかのような格好になっていたが、実際はラインハルトの唇に、控え目なダークローズカラーの口紅をお裾分けしただけ。

 ただ彼女自身、自分がどれほど乱れた格好になっているか分からず ―― トーク帽が足元に転がり、まとめていた髪が解けてしまった程度しか分からないまま、公用車を降りラインハルトと共に元帥府へと。

 


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