会話に花を咲かせ、夕食後マリーカをマリーンドルフ家の邸へと送り届け、
「マールバッハ伯がお会いしたいそうです」
「サビーネさまのことでしょうね」
「そのようです。行かれますか?」
「もちろん。お願い、キスリング」
「かしこまりました」
彼女はロイエンタールの元へと向かった。
―― そう言えば、怖くなかった……ロイエンタールだと知ったからかしら?
車中から流れる景色を眺め、先程会い、これから会うロイエンタールに、いままで感じていた不可解な恐怖を感じなかったことに気付いた。
彼女は恐怖が消えた理由は、目の前にいるのがロイエンタールだと判明したためだと考えたのだが、それは違う。
サビーネ・フォン・リッテンハイム。この少女こそ彼女の ―― ロイエンタールは彼女に死を引き合わせたことで、その任を果たしたのだ。
故に彼からは恐怖を感じず、彼女が感じていた恐怖は本物であった。
そして彼女の心中は平穏になった。凪が訪れた海のように、雪が降り積もった朝のように。自らの死を悼む半旗が翻っていたとしても ――
ロイエンタールが指定したのは、高級レストランの個室。
「きたか、ジークリンデ」
「はい」
キスリングは一度礼をしてから部屋を出て、ドアの前で待機する。
この個室”ぱっと”見ただけでは分からないのだが、じつは二室で一組用となっており、こちら側から分かり辛い部屋には、
「ジークリンデさまがご到着した」
「マールバッハ伯がワインを煽っているだけの、虚しい映像から解放されたか」
「今日のドレスもお似合いですね」
二人きりで会わせて、彼女が襲われでもしたら困るので、ロイエンタールに説明して ―― 許可は得ていない ―― 監視用の機材を設置し、ファーレンハイト、フェルナー(絶食二日目)オーベルシュタインの三人が待機していた。
キスリングがあっさりと下がったことに、あまり疑問を持たず、給仕が開いたメニューを見て、カプレーゼとノンアルコールワインこと葡萄ジュースを注文した。
―― 本当はカプレーゼも要らないくらい、満腹なんですけれどね
料理が来るまでは両者とも無言で、料理が並べられ給仕が下がってから ――
「サビーネは言語障害だ」
サビーネの障害は言語障害。
貴族にはよく見られるものだが、外見には特徴が見られないことと、女性貴族であれば、人前に出なくとも生活できるので、障害の中では軽い物とされている ―― ただ皇帝になるのには難しい。
「言語障害ですか……私はそれらの知識はないので、なんとも言えませんけれど、リハビリで治る種類の物もあるとフェザーンで聞きましたが」
彼女も見たところ、そうではないかと考えた。
ただ言語障害にも様々あり、発音機能に問題があるのか、生活環境によるものなのか、それとも脳に何らかの障害があるものなのか?
「金を積めばなんでもするフェザーン人であっても、皇帝の孫の障害認定は御免だろう。障害を認定したら殺される」
それは不明であった。
彼女自身はフェザーンに行った際、病院で検査についてあれこれ聞いており、その中に言語障害についての検査があったことを記憶しており ―― だが検査を受けるべきだとも、受けないべきだとも言える立場にはない ―― なにより検査したからと言って幸せになれるとも限らない。
障害を認定されないまま、貴族の女性として生きていったほうが幸せな場合もある。
―― ラインハルトがまず門閥貴族を滅ぼしたとして、障害のある貴族に対しての援助などは……ないですよね。障害のある貴族に手を差し伸べたら、ほぼ全員でしょうから。原作のキュンメル男爵のような死病を患っている貴族は、親族がラインハルトと敵対すると、財産没収で死ぬのみですか。貴族など篤く遇する必要はありませんし……ゼッフル粒子で死にそうになる体とはいえ、限りなく健康に近い体で産んでくださったこと、感謝しておりますお母さま。もしも流刑になっても頑張ります……ならないように頑張りますけど
「そうですね」
給仕も下げているため、ロイエンタールは自らグラスにワインを注いで飲んでいる。
そのグラスを空ける早さに彼女は心配になったが、酒が強いロイエンタールは、顔色一つ変えず飲み続けていた。
「それ以外は素直でお前のことが大好きな娘だ。仲良くしてやってくれ」
婚約者であるサビーネに対して見せる優しさに、彼女は思わず笑顔が零れた。ロイエンタールはグラスに口をつけたが、ワインを飲むのを忘れる程にその笑顔に見惚れる。
「とても嬉しいのですが、お父上である、リッテンハイム侯はお許しになっているのですか?」
「お前とサビーネが交友関係を結ぶのは構わんそうだ。侯とて、どこかに命綱を残しておきたいであろうよ。自分の命ではなく、リッテンハイム侯爵家を残すための」
あまり聞きたくない話を振られた彼女は皿に視線を移動させトマトを口に運び ―― 少しだけ時間をおいて、交友関係を結ぶことに対しては快諾した。
「そういった意味ではお役には立てないでしょうが、サビーネさまと仲良くさせていただくのは、私としても光栄です」
「ではこれからも会ってやってくれ」
「はい。……やはり人目がないほうが良いでしょうか?」
「まあな」
「侍従武官たちが詰めている部屋へどうぞ。彼らならば、信頼できます」
侍従武官たちは大きな一室に全員が机を与えられている。
扉を開けた正面に机を構えているのが侍従武官長 ―― 彼女の席。
彼女の机の前には大きなスペースがあり、そこに応接用のテーブルと椅子が用意されていた。
来客はそれほど多くはないが、訪れる者は概ね大物である。帝国として大物である場合もあれば、彼女の知識として大物であったり。
その応接用の空間から少し離れたところ、出入り口側に二つ並びで机が向かい合っており、モルト、シュトライト、リュッケの席になっている。
誰の席でもない机は、他の部署から書類を持って来た人が腰を降ろしたり、彼女の秘書官のフェルデベルトも高頻度で使っている。また彼女の両脇にユンゲルスとキスリングが控える形となっており ―― 彼女は彼らのことを信頼しており、彼らは彼女の信頼に応えうる人物である。
「分かった。俺が連れて行く。予定は秘書官のフェルデベルトに聞いてもいいか?」
一度フェルデベルトに予定を聞いたロイエンタールだが、話の途中で通話を切られるという屈辱を味わった。フェルデベルトは秘書としての仕事を全うしただけである。
通話を切られてすぐに、リヒテンラーデ公より連絡がきて”ジークリンデの許可が出たら、話をするよう言いつけた。それで良いな”睨めつけられることになった。
「はい。伝えておきます……遅くなりましたが、マールバッハ伯、少将への昇進、おめでとうございます」
彼女は手に持っていた濃い紫色の葡萄ジュースが入ったグラスを置いて、車中でキスリングが教えてくれたロイエンタールの昇進に関して、祝辞を述べた。
フリードリヒ四世が死去する少し前に准将となり ―― 新皇帝の即位祝いの一環で、名門貴族に属するロイエンタールの階級も一つ上がり少将となっていた。
上級大将や元帥になっていれば、彼女の耳にも届いただろうが、三十を目前にして少将ではとくに話題になることもない。
「祝杯をあげてくれないか?」
ロイエンタールは新しいワインを開け、ボトルを彼女へと差し出す。
「では一杯だけ、お相手させていただきます」
ここで固辞するのも大人げないだろうと、彼女は用意されていた空のグラスを持ち傾ける。ロイエンタールは手を伸ばして、向かい側に座っている彼女のグラスに少なめに白ワインを注ぎ、
「乾杯」
グラスを掲げて自ら音頭を取った。
「乾杯」
彼女はワインを口に含み、視線を感じたのでロイエンタールを見た。
「どうなさいました?」
「可憐だな」
「なにがですか?」
「酒を飲む仕草……お前は所作の一つ一つが可憐だ。上品にして完璧でありながら可憐で魅惑的だ」
ワイングラスを口に運び、白ワインを少しずつ飲んでいるだけ ―― 当人にとっては、そうだが、他人にはまったく別に見える。
「数多くの女性と浮き名を流しているマールバッハ伯に、そのように褒めてもらえるとは思ってもおりませんでした」
―― 口説かれていると思うべきなのでしょうか。社交辞令だと流すべきなのでしょうか……ロイエンタールは女を口説かない人でしたね! ということは、社交辞令で
彼女が注がれた一杯を飲みきる前に、ロイエンタールは三杯目をグラスに注ぐ。
「これからどちらが先に中将に昇進するか、競争でもしないか」
彼女はやっとワインを飲み終えてグラスをテーブルに置き、からかいに対して、軽く返事をかえした。
「マールバッハ伯が本気になったら、三年もしないうちに元帥になることも可能でしょう。私などとは、競争になりませんわ」
フォークを手に取り、カプレーゼを再び口に運ぶ。
「本当にそう思うか?」
「ええ」
彼女の記憶では、軍事的才能でロイエンタールに勝てる相手など、宇宙にはほとんど存在しない。
―― たしかミッタマイヤーとヤンとメルカッツ、ラインハルト以外には勝てると豪語していましたよね
「……」
「どうなさいました?」
「できるなら、お前に”元帥になれ”と命令して欲しいものだ」
秀麗な顔立ちと、王侯の風格。それら全てが彼の内面から沸き上がる野心に飲み込まれてゆく。
「なぜ私がマールバッハ伯に命令などしなくてはならないのですか」
その野心を映し出しているのが金銀妖瞳。当人の野心を均等に映し出すその瞳は、色の違いすら感じさせないほどの輝きであった。
「お前は偶にだが、かなり無茶なお願いをすると聞いていたのでな。どうだ? 命じてみないか」
「ですから、私はマールバッハ伯に命じるような立場ではありません」
「だが言って欲しい」
―― 厄介な男性ですね。……でも元帥を目指しているのなら、予備役になったりはしないはずですから……これは原作通りでしょうか
「元帥を目指すように……ですか?」
受け答えには細心の注意を払わなくてはならないが、ロイエンタールが相手の場合、注意しようがしまいが、当人が頻繁に放言してしまうので ――
「そうだな、今のところはそれでいい」
「マールバッハ伯のお気持ちは違うのでしょう」
―― ラインハルトの部下ではないのですから、野心を鬱積させる必要もないでしょうし。……サビーネとの婚約は皇帝の座を狙うためと考えるのが妥当ですよね
「ん? どういう意味だ?」
「あなたは野心家だということです。私が命じなくとも元帥になるでしょうし、お願いしようとも更なる高みを目指すことを止めないということです。違いますか」
彼女はこれから起きる”事件”に関しては、なにも聞いていない ―― それに関して、ロイエンタールは信用していた。彼らは彼女を物事に巻き込まないようにする傾向が強いことも知っているし、ロイエンタールが彼らの立場であれば、同様の行動を取るであると断言もできる。
ワイングラスを置き、先程までの野心が滾る眼差しが、優しさと尊敬に変え、
「あの帝国宰相リヒテンラーデ公をして、心を読まれぬようにするのは至難の業と言わせるだけのことはある」
真摯に称賛した。彼は気を使わず褒めると、例え本心から褒めていたとしても貶しているように聞こえてしまう、損な口調と、そう思われても仕方ないと見られる皮肉屋でもあった。
―― 他所の人に、なにを言っているのですか、大伯父上
「人の心など分かりませんよ」
「そうか? ところでお前は俺に軍事的な才能があると?」
「ええ、お有りでしょう」
「お前の見立ては正しいと評判だからな」
―― 誰がそのような評判を……聞いたことありませんが
「そんなことはないでしょう」
「俺の才能は、どれ程の物と見ているのかな?」
「どのようにお答えすればよろしいのですか?」
「そうだな。誰かと比較してもらえれば分かり易いな」
―― 分かり易い……ですか。皇帝を目指すというのでしたら、ラインハルトと比較すべきでしょうね
「才能そのものは、エッシェンバッハ侯と同程度かと」
「……」
「どうなさいました?」
「帝国史上最年少の元帥にして、宇宙艦隊司令長官と同等とは。世辞を言われるとは考えていなかったのでな」
―― それはラインハルトを認めている、ということですよね。麾下には加わっていなくとも、それなりに相性は……良くないのですか
「お世辞ではありません。攻守のバランスにおいて、マールバッハ伯に勝る方はそういらっしゃらないかと」
「なぜ、そう思う?」
「さあ、なぜでしょう?」
―― そうらしいのですよ……できることなら戦って欲しくはありませんが。両者とも、まともに強いので、被害が尋常ではないことに。……ああ、私には関係のないことでしたね
「言われて悪い気はせぬが」
ロイエンタールの意外なほど邪気なく嬉しそうな表情に、彼女は違和感と戸惑いを覚えた。
「マールバッハ伯は誰と比較されたかったのですか?」
「そうだな、お前が良く知っているやつと、比較されると思っていた」
二人を監視している側を挑発する口調と表情を浮かべ、身を乗り出すようにする。
「ファーレンハイトと比較すればよろしかったのでしょうか?」
「まあ、そいつと比較だろうと考えていた」
―― ……性格が悪いといいますか、原作副官のベルゲングリューンもさぞや苦労したことでしょう。それでも尊敬していたようですが、私にはその男心は分かりません
「そうですか。百戦して百勝とはいかないでしょうけれど、マールバッハ伯が五十五勝くらいするのではないでしょうか」
「ほお」
「お気に召しませんでした?」
「いいや。だがお前の答えが思っていた以上に冷淡で、驚いているだけだ」
「そうですか」
「気分を害する質問だったか?」
「いいえ。むしろどうして、マールバッハ伯がそのように感じられたのか? そちらの方が気になります」
「なんとも……ならば、戦場に行くときは、俺の艦に同乗するか? 少将閣下」
「それはお断りいたします。どうしても、誰かの旗艦に乗らねばならないのだとしたら、私は迷わずファーレンハイトの旗艦を選びます。例え敵がマールバッハ伯であっても」
「そうか」
「でも、これは私の希望であって、ファーレンハイトにも意見はあるでしょう。搭乗拒否されたらそれに従いますわ」
「だが俺の旗艦には、決して乗らない」
「はい」
「なぜ俺の旗艦に乗らんのだ?」
「私はあなたの野心には寄り添えない。それだけです、マールバッハ伯」
「……」
「あなたの旗艦に同乗し、あなたと共に星の大海原を駆け、全てを制覇したあなたの隣に立っている人は、必ず存在するでしょう。ですがその隣に立っている人は、私ではないことだけは確かです」
”では誰が隣にいるのか?”聞かれたら彼女は答えられないが、ロイエンタールの隣にいるのは、間違っても自分ではないと確信していた。
「エッシェンバッハ侯の場合はどうする?」
「エッシェンバッハ侯に聞かれたら答えますが、マールバッハ伯にお答えする必要はないかと」
彼女がロイエンタールの瞳に野心の輝きを見たのと同じように、彼もまた彼女の澄んだ翡翠色の瞳には、柔らかいながらも凛とした意思があった。
「そうだな。まったくその通りで言葉がない」
ロイエンタールには彼女の内心を推し量ることはできなかったが、その決意が揺るがぬことを理解し ―― だが諦める気持ちにはなれなかった。
「俺が皇帝になったとして、権力でお前を皇后しようとしたらどうする?」
あまりにも危険な問いに、諫めるべきかと彼女は思ったが ―― それが通じるような男とも思えなかったので、正面から返事をかえした。
「その時は従います。ですが現行法では、私は皇后にはなれませんので、諦めてください」
「新王朝にして、法律を変えてしまえばよい」
「マールバッハ伯ならば可能かもしれませんね。ですが、それならば余計に私を皇后にする必要はないでしょう。新王朝に旧王朝の血を引いた女など必要ありません」
「そうだな。では新王朝はやめよう」
「それでしたら、サビーネさまがいらっしゃいます」
ロイエンタールは想像通りの彼女の答えに、断り切れない理由をつけて押す。
「サビーネをフェザーンで診断させ、治療可能ならば治療させる。治療不可能であれば、やはり障害者にあまり偏見のないフェザーンで過ごさせる。その為にはサビーネを死んだことにしなくてはならない。だからお前を皇后にすると言ったら?」
「マールバッハ伯もお人が悪い」
「よく言われる。お前以外のフォン・ゴールデンバウム認定されている女を皇后にしろと言いそうだから先手を打っておくが、現時点でサビーネの次に有名なのは、リヒテンラーデ一門のお前だ。現皇帝陛下もいらっしゃるが、それを勧めるお前ではあるまい」
自己犠牲の精神に富んでいる彼女ではないが、まだ物事の判断などつかないカザリン・ケートヘン一世に全てを押しつけて逃げるほど、責任感がないわけでもない。
「権力者の大伯父など、持つものではありませんね」
「そうだな」
「ですが最初に戻りますが、私は既婚歴のある女です。皇后にはなれません」
「してみせる」
すっかりグラスから手を離し、語り続けてくるロイエンタールに、脱力気味に常々気になっていたことを尋ねた。
「どうして、それほどまでして、私を皇后として迎えようとなさるのですか?」
”やっとそれを聞いてくれたか”ロイエンタールは全ての感情を込めて、だが淡々と ――
「お前のことを愛しているからだ、ジークリンデ」
それがかえって重みを言葉に与えた。ただし、受け取った相手は、重みは感じたがそれ以上に衝撃を受け、変な声がでそうになって、急いで残り少ない水を飲み、なんとかやり過ごすのに精一杯であった。
―― 私が知っていたロイエンタールはそんなこと言わない……えっと……
「本気ですか?」
「本気だ」
リヒテンラーデ一族を破滅に導く三名、ラインハルト、ロイエンタール、そしてオーベルシュタイン。一人は夫に、一人は部下。だが最後の一人にまさか本気で愛を語られると ―― 彼女としては考えてもいなかった。