マクシミリアンから最後にもう一つだけ頼まれ事があり、彼女はそれも二つ返事で引き受けた。
その用件とはマリーカが狩猟宴と被る時期にオーディンへと行くので、侍女としてでもよいから、参加させてやってくれないか? というもの。
ただ引き受けはしたものの到着するのは狩猟宴当日で、彼女は空港まで足を運ぶことができなかった。
そのため彼女は、早速ケスラーにマリーカを迎えに行って欲しいと頼むのだがケスラーにはその時期、どうしても外せない用事があり、結局フェルナーに迎えと、北苑にいる彼女の元まで連れてきてくれるよう依頼することになった。
こうして悩むことは多いが、時間は淡々と過ぎ ―― 狩猟宴が始まる。
「考えてみたら、軍服以外で陛下にお会いするのは初めてですから、気付いてもらえないかもしれません」
「その時は、その時でいいでしょう」
彼女はいつも皇帝の前に出るときは、軍服を着用しているのだが、今日は鮮やかな青と、所々に使われたている黒レースのコントラストが目を引くドレスを着て、髪をしっかりと結い上げた。流れる黒髪が降りている姿も美しいが、結い上げて顎から耳元までが露わになっているのは艶やかである。とくに最近はずっと隠されていたので、久しぶりに晒された柔らかなラインは人目を惹く。
開会の儀を終えた皇帝は柔らかな絨毯が敷き詰められた部屋で、不服でもなさそうだが、楽しくもなさそうに座っていた。
「陛下。陛下の大好きなジークリンデ・フォン・ローエングラムですよ」
本来であれば見下ろしてはいけないのだが、床に座っている一歳未満の皇帝では、膝をついても見下ろす形になってしまう。
―― 寝そべるわけにもいきませんしね
紹介してくれたカタリナの後に続き、彼女は皇帝に微笑んで自己紹介をした。
「陛下。いつもと違う格好ですが、ジークリンデにございます。分かっていただけますでしょうか?」
「…………じく!」
普段とは違う格好の彼女に、皇帝は最初誰か分からなかったようだが ―― 顔を見てすぐに理解して、はいはいの後、しがみつき、あとは離れようとはしない。
「今日はいつもより長い時間、一緒にいられますよ」
カタリナの言葉は当然理解できていないだろうが、雰囲気は分かるようで、皇帝カザリン・ケートヘン一世はご満悦であった。
なにせ「大好きなじく」を独り占めできるのだから。
ソファーに腰を降ろした彼女の膝の上で向き合い、スクワットのような動きを繰り返し、胸元にしがみついては顔をなすりつけるようにして ―― 満足すると顔を上げてまた、スクワットを繰り返す。
「陛下って美形が好きなのね」
隣に座っているカタリナが、笑顔で「じく、じく」言い続けている皇帝を見ながら、顎に閉じた扇子を当ててしみじみと零す。
「気に入ってはいただけているようですけれど……顔でしょうか?」
性格云々言われるよりは納得できるるものの、皇帝にそこまで気に入ってもらえるような顔だとは彼女自身思えない。
「あなたの全部が好きなのでしょうけれど、顔は確実に気に入っているわよ」
「じく、じく!」
興奮状態の皇帝は彼女から離れようとはせず、ピアノを奏でる隙もなければ、他の参加者と会話する時間すらなかった。
マリーカと会うことすら難しいくらいに、皇帝が離れない。
―― フェルナーに任せているから、心配はしていませんけれど
「はい、陛下。あーん。陛下の大嫌いなブロッコリーですよ……あら、良い子ですわ。ジークリンデに抱っこされていると、好き嫌いすら無くなるのですね」
カタリナは好機とばかりに、皇帝に栄養価はあれど、嫌われている食品を口に入れる。
「じく!」
”ほめて”とばかりに彼女を見つめる皇帝の、自慢気な可愛らしい笑顔に、
「陛下。食べるの、本当にお上手ですわ」
彼女も笑顔で返す。
「じく!」
声の調子と表情とその空気から、彼女に褒められていることに気付いた皇帝は、もっと褒められるために、苦手な食品を求める。
「褒められて、嬉しいんですね。では、もっと褒められるために、もう一口どうぞ……いつも苦労している乳母たちに見せてあげたいわね」
皇帝の寵臣独占時間は続き ―― それを中断したのは、彼女の護衛キスリング。
「ジークリンデさま。ローデリヒさまが、足を運んで欲しいと」
皇帝を膝の上に乗せて、絵本を読んでいた彼女に声をかけてきた。
女性の多い空間だが、彼は気にすることなく彼女の側に控えて、辺りに注意を払っていた。それというのも、名簿の中にリューネブルク夫妻の名があったためだ。
本当は妻のエリザベートが「自分」に襲いかかってくる可能性を考えて、別の人物 ―― 貴族であるリュッケ ―― に警護を任せようとも考えたのだが、
『宴の間は、私が作ったハンカチを持ってね。このレース、全部私が編んだのよ』
皺一つない白いハンカチを手渡されて、
『女性貴族が多数いる空間だから、はい、香り玉。口を開けて……はい』
彼女の手で香り玉を口に含まされ、その考えはすっかりと消え去った。付いて来てと言われたら、どれ程危険な空間でもついて行くのが護衛だとばかりに。
「お兄さまが? わかりま……」
エリザベート(殺人未遂)が参加していることを知らない彼女は、兄の元へ赴くために皇帝を乳母に渡そうとしたのだが、
「じくー!」
当然のことだが、しがみついて離れようとはしなかった。
だが彼女は皇帝を抱いたまま歩くなどできないので、なんとか乳母に手渡して、
「陛下、一緒に来てくださいますか?」
皇帝を護る近衛に声をかけて、ぞろぞろと兄が待つ離宮の玄関ホールへと向かった。そこには、数名の従者と彼女の兄ともう一人下級貴族の男性。そして長椅子に寝かせられている ―― 半眼で白目を剥いている皇帝の父の姿があった。
「ペクニッツ公爵?」
その公爵の隣に立っている兄に、事情を聞こうと口を開きかけたのだが、
「ジークリンデ。これはこれは、陛下」
兄はその前に、突然現れた皇帝に礼を取る。
カザリン・ケートヘン一世は初めて見る彼女の兄に、
「じく? じく?」
なにか近いものを感じて、不思議そうに呼びかける。
「兄でございます、陛下」
「じく? じく!」
兄がなにかは分からない皇帝だが、彼女とどこか似ている兄も気に入ったようで、整っている顔を触らせろとばかりに小さな手を伸ばす。
美形兄妹を前にして、機嫌のよい皇帝の姿に、ローデリヒ皇配説が囁かれるようになる始末。ローデリヒとカザリン・ケートヘン一世の年齢差は二十歳と少々。政略結婚ならば男性側が二十歳以上年上であろうとも、なんら問題とはなく、むしろ現実味があるほど。
後日それが彼女の耳に入ったとき、愕然とすると同時に、ケスラーとマリーカの年齢差とほぼ同じと知り『原作ではケスラーとマリーカのカップルが一押しだったのですけれど……実の兄がそうなると……』それ以降、彼女はこの二人を推そうとはしなくなった。
後日の前に、いまは白目を剥いているペクニッツ公爵をどうにかしなくてはならない。
「キジバト……ですか」
兄のローデリヒの簡単な説明によると、今回が初めての狩猟となるペクニッツ公爵は、まだ息があるキジバトが猟犬にくわえられ、暴れもがいている姿を見て気を失ったので、こうして離宮に運ばれてきた。
狩猟である以上、怪我人が出ることも珍しくはなく、離宮には救護室もあり、医師も控えている。
「後を頼んでいいか? ジークリンデ」
ローデリヒが目覚めるまで付いていてもよかったのだが、妹である彼女ならば、自分よりも上手く取りはからえるであろうと考え、呼び出して任せることにした。
「もちろんですわ、お兄さま」
「それでは陛下。ではな、ジークリンデ」
「じく?」
兄は狩猟へと戻り、ペクニッツ公爵はここまで運んできてくれた貴族が、救護室まで運び”すぐに目覚めるでしょう”と医師に診断をくだされ、あとは彼女が付き添った。
「じくー! じくー!」
皇帝も彼女と一緒である。
「陛下、できたらお静か……」
部屋には他に、ここまでペクニッツ公爵を運んでくれた貴族と、隅にキスリング。部屋の外には乳母二名と近衛が五名ほどついている。
「じく! じくー!」
隣で眠っている父親には一切興味を持たず、ひたすら彼女と遊び ―― さすがに疲れ、彼女の腕の中でて眠りに落ちた。
その可愛らしい寝顔と柔らかい頬を指で撫でてみる。少々のくすぐったさがあるはずだが、ぐっすりと眠っている皇帝は身じろぎ一つせず、彼女の腕と胸の中で夢を見続けている。
そんな皇帝と前後するようにペクニッツ公爵が目を覚ました。
「気付かれましたか?」
「…………伯爵夫人と陛下」
娘である皇帝を抱いている彼女の姿に、ペクニッツ公爵は飛び起きようとするが、彼女がやんわりと制して、
「いま、医師を呼びますね」
医師を呼ぼうとコールボタンに手を伸ばす。その手にペクニッツ公爵が触れようとした時、
「気付いたか」
入り口からの目隠しとなっている衝立の裏から、低く威嚇するような声と共に、オフレッサーが現れた。
「ばっ……ぼ、オフレッサー装甲擲弾兵総監!」
―― ペクニッツ公爵。なぜ、そんなにも説明的な叫びを……
彼女はあまりにも説明的な叫びに首を傾げたが、人は心に疚しいことがあると饒舌になる。その一種で、彼女の手に触れようとした時に、オフレッサーが現れたので、気の弱いペクニッツ公爵は混乱して、こんなにも説明じみた叫び声を上げたのだ。
気が弱いのならば彼女の手に触ろうとしなければ良いものを ――
「オフレッサーがペクニッツ公爵を運んだのですよ」
彼女とオフレッサーはそれなりに付き合いが長い。オフレッサーは彼女の父親と同じく狩猟を好むので、その関係で幼い頃に出会った。
見上げても顔が見えない大男。自分を見て泣かなかったどころか、微笑んだ彼女に、オフレッサーは”容姿に似合わず、胆力がおありですな”と、おおよそ褒め言葉とは思えぬ言葉をかけて、彼女に膝を折った。彼女としては、あまりにもオフレッサーがオフレッサーらしくて、思わず笑みが零れただけである。
ニメートルを越える偉丈夫で、髪は癖が少ない黒みがかった茶色。立派な髭を蓄えており”右頬”にレーザーで切られた跡が残っている。
本来であれば”左頬”なのだが、彼女がそれを覚えているはずもない。
それはそれとして、彼女とオフレッサーの出会いは悪くはなく ―― 彼女としてはオフレッサーと仲良くしていいものか、積極的に交流を持つべきかどうか悩んだが、その悩みは不要であった。
オフレッサーは粗暴ではあるが、自分の出自の低さを弁えて、貴族社会の枠組みの中で生きてきた下級貴族。どれほど昇進しようとも、軽々しく彼女に声をかけるようなことはなく、まさに貴族らしい付き合いのみに留まっている。
「そ、それは、その……お、お手数をおかけ……」
肌触りのよいリネン類で揃えられたベッドの上で、冷や汗をかきながらペクニッツ公爵は、途切れ途切れオフレッサーに感謝を述べる。
「構わん。ローエングラム伯爵夫人、医者を」
「はい」
医師を呼び、一通り検査されなんの問題もないと診断されたペクニッツ公爵だが、顔色が悪いので、彼女は帰宅を勧めた。
「大事をとって、今日はもうお帰りになられたどうでしょうか?」
毎日皇帝と顔を会わせる際に、ちらちらと覗いているペクニッツ公爵 ―― 彼女は娘である皇帝を心配しての行為だと信じているが、実際は彼女を見にやってきている ―― と何度か話をして知ったのだが、彼は本当に象牙細工以外にはなんら興味がなく、狩猟に興味もなければ、さほど乗馬も上手くはなく、火薬式の銃を持ったのも、娘が即位してから。練習させられたのだが、なにぶん”むき”ではないため、公爵は狩猟に楽しさなど微塵も感じることができない状態だったので、彼女の言葉にぐらつき、
「それがいいな」
オフレッサーにも背を押されたので、彼にしては随分と大声ではっきりと答えた。
「では帰らせていただきます」
「では、私が代わりに皆さんに伝えておきますね」
「ありがとうございます、伯爵夫人」
ペクニッツ公爵は娘である皇帝と共に、同じ敷地内だが居住区である南苑へ、近衛たちと共に帰っていった。目を覚ました皇帝が「ジークリンデがいない!」と大泣きするのは、これから三十分後のこと。
「今日は俺も帰るとしよう。もう充分狩ったからな。ではローエングラム伯爵夫人、また明日」
彼らの姿が見えなくなると、オフレッサーは立派な髭を右手で撫で回しながら、彼女にそう告げて背を向けて、出口へと大股に歩き出した。
「気を付けて……は、変かしらね? キスリング」
生身であってもハンド・キャノンくらいの武装をしていなければ、倒せそうもない相手に対して、これほど不適切な言葉もないのでは? 彼女の問いかけに、
「はあ、たしかに気を付けては……ですが、言われて悪い気はしないので、良いと思います」
キスリングとしては、上手い答えが見つからず、かなり困った。
だがこのとき、困っていたのはキスリングだけではない。フェルナーはキスリングよりもはるかに切実に、困るというよりは生命の危機にさらされていた。
一方的な因縁の相手エリザベート(殺人未遂)と、したくもない再会を果たしてしまったのである。
フェルナーはマリーカを迎えに行き、輝く大きな眼差しを向けられ”ジークリンデさま、ジークリンデさま! ジークリンデさま!!”彼女について、散々聞かれた。
前もってファーレンハイトから聞いていたので、あまり驚きはしなかったが。
フェルナーはマリーカを北苑離宮にいる、彼女に引き渡すのが任務 ―― だが彼女が皇帝の側から離れられず、予定通りにことは進まなかった。彼女の元にマリーカを送り届けるまでが任務、途中で誰かに預けるのは命令に反する。
直接彼女に関係することならば、リヒテンラーデ公に連絡を入れば解決するが、マリーカの一件は彼女が個人で引き受けたこと。
そこはフェルナーも弁えており、本日マリーカが宿泊する邸の主である彼女の父、フライリヒラート伯爵に連絡を取り、フェルナーがマリーカを連れて、離宮で待機できるよう便宜をはかってもらい、
「もう少し待ってくださ……」
「平民」
エリザベート(殺人未遂)フォン・リューネブルクとの再遭遇である。
だが二度目の遭遇ゆえに、目的が自分であることを重々理解しているフェルナーは、
「離れていてください」
マリーカの背中を押して自分から離し、エリザベート(殺人未遂)と対峙する。
エリザベート(殺人未遂)の手には刃物は見えないが、やや窶れ青ざめた顔とには不釣り合いな、怖ろしい輝きを放つ眼差しは尋常ではない。
騒ぎを大きくはしたくないフェルナーは、エリザベート(殺人未遂)から目を離さず、できるだけ距離を取り、走って逃げようと考えた。
格闘したら勝てるが、相手は貴族。相手に非があるだとか、生命の危機にさらされていただとかいうのは、理由にはならない。一方的に処罰されるだけである ―― むろん彼女がそんなことはさせないが、彼女に迷惑を掛けるのはフェルナーの本意ではない
―― 厄介だな
もはやどうしてフェルナーを狙っているのか? 当人も覚えていないであろうが、危機的な状況。
深緑色のドレスを着た幸薄そうなエリザベート(殺人未遂)が一歩一歩、フェルナーに近づいてくる。
「エリザベート! 落ちつけ!」
そこに騒ぎを聞きつけて、駆けつけた夫のリューネブルクが羽交い締めにする。
「離してください……あなた……」
叫んだりしないところが、エリザベート(殺人未遂)の、底から迫り来るような恐怖の根源とも言えよう。
「お騒がせいたしました」
フェルナーはなにもしていないのが、そこは平民。まずは詫び、それからマリーカを彼女のところへ連れて行き、あとで落ち着いている夫のほうに更に詫びる ――
「フェルナー?」
救護室から戻ってきた彼女は、妙な空気が漂うホールにフェルナーを見つけ声をかける。
「ジークリンデさま……」
離宮の奥にいるとばかり思っていたフェルナーは、あらぬ方向から現れた彼女に”まずい”と、わずかに眉をひそめる。
当然すぐに彼女もリューネブルク夫妻にも気付き ―― これ以上騒ぎが大きくなったら、収拾をつけることができないであろう夫ヘルマンと、これ以上精神的に病んだら危険なエリザベート(殺人未遂)を見比べ、またフェルナーの立場も考えて、彼女は右手を握り絞めてフェルナーに近付き頬を打った。
人を打ったことなどない彼女の平手は、あまりにも下手で、はめていたダイヤモンドの指輪の立爪でフェルナーの唇を切ってしまった。
深い傷ではないもののフェルナーが血を流したこと、彼女がフェルナーの頬を打ったことで、エリザベート(殺人未遂)は落ち着きを取り戻し、事態は終息して、可能な限り穏便に済んだ。平手打ちした彼女以外にとっては。
カタリナにマリーカを預け、彼女はフェルナーを連れて先程までいた救護室へ引き返す。フェルナーは医師に診察される程ではなく自分で治療したいと希望し、一目見た医師も、それほど深い傷ではないのは分かったので、看護師に救急キットを渡すように指示し ―― ペクニッツ公爵が休んでいた個室とは別の部屋に通した。
フェルナーは壁の鏡で自分の口元の傷を確認する。
すると後ろで俯いている彼女が気になり、見ながら傷口を触って、もう血が止まっていることを確認して向き直る。
「ご迷惑をおかけいたしました。最善の策でしたよ、ジークリンデさま」
「……ごめんなさい」
「謝る必要はありません」
彼女も最善の策だと思ったからこそ打ったのだが、最善の策と感情が同じかというと、そう上手くはいかない。感情が散り散りになり、なにか言おうとすると泣きそうに ――
フェルナーを打った自分が泣くのはおかしいと、彼女は自分に言い聞かせ、右手を握り絞めその拳を左手で包み込む。手のひらに触れた、ダイヤモンドの感触に表現のしようのない苛立ちを感じ、指に爪をたてるようにして左手で指輪を引き抜き、床に叩きつけようとしたのだが、キスリングに背後から、拳を包むようにして止められた。
「ジークリンデさま、指が痛いなどはありませんか?」
キスリングに掴まれていない右手をフェルナーが撫で、指に青痣などがないかを確認する。白くほっそりとした指に跡はなく、薄いベージュ色のマニュキアが塗られたラウンド型の爪が美しく映えている。
「……ない、です」
「安心しました。私の唇の傷は、最良の結果をもたらしたのですから……そんなお顔、なさらないでください。どんな表情でもお美しいので、そんな顔をしていると、美貌が台無しと言えないところが辛いところですが」
フェルナーが手を離し、キスリングも手を離す。
彼女は握り絞めている指輪をどうしようか悩み、フェルナーの手に握らせる。
「言い訳になりますけれど、怪我をさせるつもりはなかったの」
「分かってますよ」
「その指輪、捨ててください。もう二度とつけない」
フェルナーは彼女の指から外された、号数でいえば四号よりの五号の間になる、特注の指輪を自分の小指に乗せ、
「捨てろと言われても困ります。こんな高価なもの」
にやにやしながら拒否する。
「でもいや」
「わがままなんですから」
「売って慰謝料にでもして」
「私がコレを売ろうとしたら、捕まります。私のこと、刑務所送りにしたいんですか? ジークリンデさま」
「そんなつもりはありません」
「はいはい。ジークリンデさまは、あまり賢くないのですから、慰謝料とかそういうの考えないでください。この程度の傷でこの指輪じゃ、ぼったくりもいいところですよ」
「でも、なにか……私ができることとか」
言ってはみたものの、できることの少なさに恥ずかしさを感じ、フェルナーの脱力したような表情に更にその感情を募らせた。
「ジークリンデさまに出来ることですか。難問中の難問ですね」
彼女ができることは多数あるが、フェルナーとしては、わざわざなにかをしてもらおうとは思わないので、
「もういいです」
「怒らないでください。そうですね、傷にキスでもしてくだされば、それでどうです?」
軽い口調で傷を指で叩いた。
「……キスしたら、傷が余計痛くなったとか言うんでしょう」
「痛ければ痛いと言ってしまう性格なので」
「そうよね」
いつも通りのフェルナーに、彼女は左側から抱きついて、首に腕を回し唇で噛むようにキスをして、そのままの体勢で見上げる。
―― 軽く触れても痛いと言うでしょうから、少しだけ本当に痛く……
「なんと申しますか、申し訳ないというより、自分の浅薄さに……ありがとうございます。ジークリンデさま。これで、痛み分けということで」
「痛くなかったのですか? フェルナー。痛いと言うと思って噛んだのに」
彼女の背後に立っていたキスリングが、親指を立ててフェルナーに笑顔を向けた。