イゼルローン要塞へと向かう途中のキルヒアイスに、アンネローゼからの通信が届き、
「そ、それは……分かりました、アンネローゼさま。対処方法を考えておきます」
無難に返したものの、正直なんの策も思い浮かばなかった。
なにせ相手はラインハルトである。そう、ラインハルトなのだ。
通信が切れたあと、キルヒアイスのみならず、後方に控えていた副将のルッツも絶望的な表情を浮かべ
―― 帰還したくない
これほどオーディンに帰りたくないと思ったのは、両者共初めてであった。
**********
ラインハルトを帰宅させるためには、別居しなくてはならないが、別居となるとアンネローゼが気に病むので……と、八方塞がり状態に。
「申し訳ございません、お嬢さま」
もっとも、帝国歴四六七年にリヒテンラーデ一族に生まれた時点で、四方は塞がっているような状況ではあったが、それが更に悪化した感は否めなかった。
「謝らなくていいです。ウルリッヒが悪いのではありません」
提案をしたケスラーにまで恐縮がられ ―― あくまでも一般論を述べたいケスラーは悪くはない。
「ですが。私が事情を説明して参ります」
「ウルリッヒに説明されても困るでしょうし、下手をしたらあなたがエッシェンバッハ侯の不興を買う恐れもあります」
そうは言ったものの、ラインハルトがケスラーのことを高く評価していることは、彼女も知っている。ラインハルトが不在の時に姉がいる邸の警備を任せているあたり、信頼が篤いのは明か。
そんな彼が彼女の深夜の来訪理由を説明したところで、不興を買うとは思わないが、さすがにこれ以上迷惑を掛けるのは、彼女としても心苦しかった。
「そのような心配はご無用です。もともと辺境を渡り歩いていた私です。また辺境へと戻されても」
「あなたはエッシェンバッハ侯には必要な人です。だからこそ、そんな説明をさせたくないのですよ、ウルリッヒ。私のことは気にしないで」
「お嬢さま」
ケスラーはラインハルトが抱きしめようとしない彼女の肩に手を伸ばし、力任せに引き寄せて抱きしめた。
「ウルリッヒ……心配しなくとも大丈夫よ。私は気にしていませんから。あなたも気にしないで」
子供の頃に抱きついた腕だが、いま彼女の背中に回されている腕は、その頃よりも男性らしさを感じ、黙ってこの腕の中に居てはいけないような気がして、
「なにより、私は男性に対しての努力が空回りする性格なのは分かっていますから」
少しばかり戯けるように微笑み、ケスラーに顔を近付けた。
「どの……ような?」
「例えば、初恋の人に、夜のデートをねだっておきながら、いつも寝てしまうような」
「お嬢さま」
ケスラーの腕の力が緩んだのを肌で感じ、その腕からするりと抜け出す。
「他にもたくさんありますけれど……それはまた今度。いつか教えてあげるけど、笑わないでね、ウルリッヒ」
「はい」
こうしてラインハルトの帰宅時間を報告しにきたケスラーを下がらせて、
―― 昼食は避けられていないので、シュワルツェンに居ない日を伝えましょう。帰ってきてください、ラインハルト。あなたの姉上さまが、待っていますよ
明日は外泊するべきか? 邸に留まるべきか? 悩みながら、消そうと思っている映像を再生して、消去ボタンに指を乗せて、虚ろなままそれを見ていた。あまりにも心がその場になかったため、ドアをノックされたことに気付かず。
「失礼します、お嬢さま」
「えぁ?」
さきほどの状況から、ノックしても内側からなんの反応もないことが心配になったケスラーが扉を開け、彼女が無事であることに安堵して声をかけ ―― その声に思わず指が動きボタンを押してしまい、映像を消すことはできた。
思いもよらぬ状況で消去が叶ったわけだが、
「気にしなくていいのよ」
「そうは参りません」
ケスラーが悪い形に。とくにケスラー自身がショックを受けて、彼女の前に跪き項垂れる。
「本当にいいのよ。消える運命だったの……」
「このケスラーに、是非とも失地回復の機会をお与えください。お嬢さま」
「いえ、あの……」
「お許しいただけませんか」
「許すもなにも。映像は……消したかったの! そう、消そうと思ってたの! 本当よ! 私を信じて、ウルリッヒ」
面を上げたケスラーは、彼女を仰ぎ見て首を振る。
「信じてと言われてしまっては、私に残された道は最早……」
ケスラーがいまにも自害しそうな眼差しで彼女を見つめてきたので、
―― 映像と一緒にケスラー自身が消えてしまいそう
結局、映像の復元を任せることを許可した。
それともう一つ。
―― ケスラーが証拠物件として持っていてくれるのなら……悪いことにはならないはず。ケスラーの元を訪れる理由にしたいからと言って、所持していてもらいましょう
ケスラーの将来と性格を思い出し、信頼して預ける形にすることにした。
騒ぎが一段落してから、彼女は訪問理由を尋ねた。
「ところでウルリッヒ。なんの用事だったの」
用もないのに部屋を訪れるようなケスラーではない。
「申し遅れました。エッシェンバッハ元帥が、今夜は帰宅できないとのことです」
「そうですか。わざわざありがとう、ウルリッヒ。そして、御免なさいね、余計な仕事を増やしてしまって」
だがラインハルトの帰宅拒否により、アンネローゼとの会話が進んだこともあった。
ワーレンが息子を連れてお詫びをしにきた時のこと。
前日に「明日、元帥の部下がご子息を連れて……」事情を説明したところ、アンネローゼが「弟とジークを支えて下さっている方とお会いしたいのですが……」と、思いもよらぬ意見を、彼女に控え目に。豪奢な金髪に華やかな顔立ち、苛烈過ぎる輝きを放つラインハルトとまるで同じ”もの”なのだが、アンネローゼのそれは消え去る寸前の儚さすら感じさせる。
そんな表舞台に立ちたがらないアンネローゼの思いがけない願いに、彼女は快諾してから、内心でワーレンに詫びておいた。
―― 御免なさい、ワーレン。悪気はないのです。許して
アンネローゼはワーレン親子の為にケーキを作り、他愛のない話をし、土産用の別のケーキを持たせ、一時間弱で帰っていった。
「また、いらっしゃい」
「はい!」
彼女はそのように声をかけたが、豪毅で知られるワーレンの顔が引きつっていたので ―― 二度と来ないだろうことを確信して手を振った。
彼女としては遊びに来てくれるのは嬉しいが、ワーレンとしては、元寵姫の姉が同居している上司の家などに、そうそう足を運びたくはないであろう。彼女だって自分がワーレンの立場なら、遠慮したい。
ワーレンが訪れたその日は彼女がシュワルツェン邸にいるため、ラインハルトは深夜の帰宅になると連絡があった。
本来であれば夫が帰宅するまで、起きて待っているのが妻の務めだが、ここで出迎えのために寝ずに待っていたら、ラインハルトを今まで以上に追い詰めることになりそうなので、彼女は決して出迎えず、朝になるまで知らぬ素振りで過ごすことにしている。
だからアンネローゼは、人前では開いたことのないものを取り出した。
「それは、なんですか? アンネローゼさま」
「これは、家族のアルバムです」
今日ワーレンの息子を見てアンネローゼは、幼き日のラインハルトのことを思い出した。五歳年下の弟のことは、生まれた時から記憶があり ――
「最初で最後の家族旅行の際の写真です」
立体映像で下に撮影した場所と日時が浮かび上がっており、ラインハルトが三歳の時に撮影されたもの。撮影場所は彼女の記憶にはない所で、家族の後ろに僅かばかりに映っている風景から、海沿いであることだけがかろうじて分かった。空と海が溶け、太陽に照らされて輝く黄金の髪は今と代わらず。
「エッシェンバッハ侯も楽しそうですね」
母親に抱かれたラインハルトの笑顔は、まさに天使そのものであった。
家族写真にはもちろんキルヒアイスは映っておらず ―― 今のラインハルトは家族とは認めないであろう、終わってしまった家族の写真。
「ええ」
母親が事故死するまでは、定期的に撮影していたがそれ以降は激減し、そして引っ越した先で【家族写真】が撮影される。アンネローゼとラインハルトとキルヒアイスの三人が笑顔で映っている写真が ―― 少しだけ。
これからたくさん撮影されるはずであった家族写真は、アンネローゼが後宮に収められたことで叶わなかった。
「……きっと覚えていますよ」
”語りあえる”とはさすがに言えないが、無責任ながら覚えていると言ってもいいのではないかと、白皙の肌に涙が伝っていないのが不思議なほど寂しげなアンネローゼの横顔に、彼女はそう応えた。
「そうかしら……そうだと、いいのだけれど」
その日、彼女は初めて生まれたばかりのラインハルトと、アンネローゼの映像を見た。どちらも、それは可愛らしく、生まれた時から溜息をつかせほど可愛らしく、将来の美貌を感じさせるものであり、また彼女にとってラインハルトはラインハルトという人間なのだと ―― 家族を殺して流刑にしてくれる金髪の孺子だけではないのだと実感させられて、ひどく憂鬱な気持ちにもなった。
**********
危険回避なんて、もうどうでもいいです、なるようにしかならないでしょう……と思わせるほど忙しい日々が続く中、
「カストロプ公から通信が入っております」
軍務省内にある侍従武官の執務室で、軍律を読んでいた彼女の元に、カストロプ公ことマクシミリアンから通信が来ていると、フェルデベルトがやってきた。
「なんでしょうね?」
―― 秘書官を通したということは、軍務的なことではないのでしょうけど……
彼女は他の侍従武官を執務室に残して、護衛二人と共に秘書官が待機する小部屋へと向かい、久しぶりに会ったマクシミリアンと対面した。
近況を語り合い ―― オーディンから近いとはいえ、別惑星に住んでいるマクシミリアンにまで、ラインハルトが帰宅拒否気味であることを知っていることに鳥肌が立った ―― マクシミリアンは普通に彼女のことを心配して話題に出してくれただけだが。
『それで本題なのだが……実はヒルダが妊娠して』
「おめでとうございます」
『まだ妊娠初期なので、内密にしておきたいのだが』
妊娠初期の流産はよくあること。その為、安定期に入るまでは、公表しない貴族も多い。
「それがいいでしょう」
『それで、狩猟宴の欠席を上手く誤魔化してくれないだろうか?』
妊娠しているヒルダはオーディンに来ることはできないが、マクシミリアンは来ることができる。だが、彼は身重な妻が心配なので、欠席したい。だが、欠席理由を明確にはしたくないので、こうして彼女を頼ったのだ。
「……あ、そういうことですか。わかりました」
彼女は参加者の選別に何ら関わっていないし、誤魔化しが得意なわけでもないが、そこはリヒテンラーデ公に頼めば全て問題なくあっさりと片付く。
直接頼まないのは、ほとんど接点のないマクシミリアンやマリードルフ伯は、リヒテンラーデ公に辿り着くまでに時間を要するためだ。
『面倒をかける』
「気にしないでください」
だが彼女は友人なので、連絡を取りやすい。
『お言葉に甘えさせてもらう。それで、もう一つ頼みがあるのだが』
「私にできることでしたら」
『できるというか……子供の名前の相談なのだが』
―― よほど楽しみなのですね。まだ公表できないほど妊娠初期の段階で
「その相談は、私よりも適任の方がいらっしゃるかと」
『そうではなく、男の子が生まれたらレオンハルトの名を貰って、アレクサンデル・レオンハルトと名付けたいのだが……いいだろうか?』
「それはもちろん」
アレクサンデルにレオンハルト。どちらも有り触れた名前ではあったが、それは決別でもあった。彼女はラインハルトとヒルダが完全に離れてしまったことを認め、
―― 悪いほうにしか考えられません……
逸脱と乖離に、恐怖と諦めしか思い浮かんでこなかった。