黒絹の皇妃   作:朱緒

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第52話

 ミュラーではなくラインハルトの案内で、彼女はブリュンヒルトの見学へ ――

 二十歳の元帥と同い年の妻にして、帝国初の女性将校。帝国でもっとも美しい夫婦が並んで歩く姿は、無機質な建物ですら幻想の世界へと誘うようであった。

 彼女はラインハルトから、専門的過ぎてほとんど意味不明な説明を聞き”あとで調べておきましょう”と、単語だけ心にとめて、にっこりと微笑む。

 そこで分からないと言えば良さそうだが、ラインハルトがあまりにも楽しそうに説明しているので ―― 黙って聞いて気分を良くするのは、ごくごく一般的なことである。

 それにヨーツンハイムもほうの説明も、乗組員がしてくれたのだが、ラインハルトと似たり寄ったり。要するに軍事に疎い人間には分からない作りになっているのだ。

 

 整備兵や軍港職員は、彼女とラインハルトが歩いている姿を見た感想は様々であった。

「あの夫婦か……どんな化け物じみた容姿の子供が生まれてくるんだろう」

「両親が人並み外れた美形だと、生まれて来る子は意外と普通ってこともある」

「その場合、才能だけでも遺伝しないと可哀想だな」

「でも中身が両親の二乗だったら、すごくないか? 二十歳の元帥と二十歳の侍従武官長だぞ」

「でも元帥は姉が元寵姫だからで、侍従武官長は本家当主が帝国宰相だからだろ」

「元寵姫は身内が元帥一人しかいないが、帝国宰相には他にたくさんの親族がいるんだぜ。その中で選ばれたってことは、それなりに凄いんだろう」

「容姿で選ばれた……っても、選ばれるだけのものはあるってことか」

「姉が寵姫だと、下級貴族でもあんな美女下賜されるんだぜ」

「美女……ああ、同い年なのか。子供っぽいから、まだ美少女でも通じるな」

「いやいや、年齢より大人びてるだろう」

「いいなあ、あの美人。同性愛者だって噂立ったら、あんな美人もらえるんだぜ」

「やっぱり世の中、地位と権力と金だよ」

「元帥は恒星を思わせるが、少将は水と緑に溢れる豊かな惑星のような雰囲気があるな」

「分かるような気がする」

「大昔なら太陽と地球というところか」

 

 あまり好意的な意見がないのは、若くして出世し、美女をも手に入れたという嫉妬から。そして最後のほうは、軍内に紛れ込んでいる地球教徒の発言である ―― 

 

 軍内の地球教徒に気付くこともなく、彼女は珍しくラインハルトと共に帰宅して、アンネローゼを喜ばせた。

 ラインハルトは、なぜ姉が喜んでいるのか? 気付かなかったが。

 キルヒアイスはイゼルローン要塞へと発っているので、三人で夕食を取り、彼女は一人で部屋へと下がり、

「しゃ……しゃふと……なにシャフトでしたっけ?」

 ラインハルトの説明を必死に思い出し、調べるために書きだす。

 覚えていたつもりでも、あまり覚えていなかったことに、自分の記憶力の残念さを噛みしめて、ラインハルトから戦艦について書かれている本を借りてこようと、部屋を後にした。

「専門書を借りてきましょう。おぼろげでも、覚えているうちに」

 彼女の部屋は二階で、吹き抜けからのぞける位置が談話室のようになっており、アンネローゼとラインハルトは、大体そこで会話している。

―― 二人ともいないということは、部屋へ戻ったということですか

 彼女は廊下をすすんで、ラインハルトの部屋の扉をノックする ―― だが中からは返事がなかったので、彼女は階下へと降りて召使いに居場所を尋ねた。

「入浴中ですか」

―― 部屋のどこに目的の本があるかを聞くだけでいいのですから……ドア越しに聞いてみましょう。貸してくれないということもないでしょうし、ラインハルトに限っては見せたくないような本を隠し持っていることもないでしょうから

 彼女は気軽にそう考えて、浴室へと足を向けた。

「失礼しますわ」

 彼女が浴室手前、脱衣所の扉を開けると、風呂上がりのラインハルトがいた。水に濡れた金髪は、普段よりも滑らかな輝きがあり、体も細身ながらもしっかりと筋肉がついており、汗と見間違う水滴が艶めかしさすら感じさせ、腹筋も割れ腰骨から足の付け根にかけては ――

「う……わぁああああああ!」

 

―― 風呂上がりの夫が、顔を赤らめ悲鳴を上げて浴室に逆戻りするとは思いませんでした。たしかに全裸でしたけど……

 

 まさかのラインハルトの逃走。

 悲鳴を聞いて駆けつけたアンネローゼは、事情を聞いて表情を曇らせた。それはそうであろう、風呂上がりに妻と遭遇して悲鳴を上げる夫など前代未聞である。

 そこに第三者、例えば愛人と情事の跡を洗い合っている場面に踏み込まれたというのならば、まだ理解してくれる人もいるであろうが、やましいところがないのに逃走。

「申し訳ありません、ジークリンデさま」

「アンネローゼさまが気になさることではありませんので」

 まさに実の姉が妻に謝ることではなく、妻としても義理の姉に謝られる筋合いはない。

 当のラインハルトは、顔をまっ赤にしてパジャマを着てガウンをはおって、談話室へとやってきて詫びた。

「驚かせて申し訳ない」

「いいえ、こちらこそ。不躾な真似をして、申し訳ございませんでした」

「あの、なにか用があったのだろうか?」

「ええ。本日元帥に戦艦について説明していただいて、少しばかり興味を持ちましたので、詳細が載っている本を貸していただけないかと。ついつい気が急いて、浴室に押し入ってしまいました」

「そういうことか。それならば、待っていてくれ」

 ここで彼女の手を引いて、一緒に部屋へ行こうと言えるラインハルトならば、アンネローゼの肩が落ちることもないのだが。

 ラインハルトは急いで部屋から戦艦の本を三冊持ってきて渡し、

「まだ仕事があるので。二人は早くに休んでください。それでは」

 彼女とアンネローゼにお休みのキスをして、部屋へと戻っていった。

「……」

「これ、部屋に運んで」

 彼女は一切気にせず、分厚い本を部屋に運ぶよう召使いに命じ ―― 室内の空気には、あえて気付かないふりをした。

「ジークリンデさま!」

「はい! アンネローゼさま」

「本当に……弟が……誘ってくださったというのに」

 召使いはなにも言えないし、アンネローゼもあまり言いたくはないが、恥ずかしさといたたまれなさから、彼女の手を取り謝罪する。

「いえ、誘ってなどおりませんので。ご安心ください」

 一緒に暮らしていても、自分から手を出そうとしないどころか、妻の控え目な誘いにも応じない男 ―― となりつつあるラインハルト。

「ジークリンデさまのお優しさに甘えて」

「本当にお気になさらずに」

 そうは言いながらも彼女自身、この立場におかれたら、アンネローゼと同じ行動を取るだろうと ――

「こんなお願いをするのは心苦しいのですが、弟のことを見捨てないでください」

 こればかりはアンネローゼの接し方が悪いというわけでもない。むしろ、アンネローゼもどうしていいのか分からない。弟が妻に恥をかかせている姿を間近で見て、相談できる相手は遠くイゼルローン要塞へ。もっともキルヒアイスも、相談されたとしても困る類のものである。

「え、ええ。もちろん」

―― ラインハルトの噂のこともありますし……更に、そっち方面が駄目という噂が立つのも不名誉ですよね。誘うのは諦めたのですが、そこまで言われたら、もう少し努力を……誘い方をもう少し考えてみましょうか

 

 ラインハルトに迫るのは死亡フラグと考えている彼女だが、アンネローゼを悩ませるのも危険なような気がする。だが、アンネローゼが気に病んでいるから、少しは芝居をしてくださいと……事情を説明してラインハルトに依頼するのも気が引けた。なによりこの手の芝居は下手そうで、事態悪化を招きかねないと彼女は考えた。

 

 よって男性から見て、魅惑的な誘い方を ――

 

「というわけなのです、ウルリッヒ」

 彼女の寝室に呼び出されたケスラーは、話を聞かされて絶句した。

「お嬢さま……それは」

 身近な男性を思い浮かべ、相手をしてくれそうで、尚かつ、彼女が全く好みではないであろう人選をしたところ、邸の警備を担当しているケスラーが最適だと考えた。

「駄目かしら」

 もっとも彼女は勝手に自分はケスラーの好みではないと思い込んでいるだけで、彼が三十過ぎても独身である最たる原因なのだが、残念ながら彼女は気付いていない。

 ケスラーの名誉のために断っておくと、五歳の彼女に本気で惚れたわけではなく、五歳の彼女はこれから美しく成長していかれるのであろう、遠くから幸せを願っております……という思いに囚われたままの独身である。

 考えようによっては、余計悪いような気もするが、五歳児に本気ではなかったことだけは確か。

「駄目もなにも……」

「ウルリッヒだけなのです」

 ケスラーとしては、裸を見られて叫んだあたり、彼女に対して特別な感情をいだいているのでは? と解釈したが、同時に二十歳でそれはどうかとも、気が遠くなるような感覚をも持った。

 女性の扱いが下手であろうが、上司として優れていればなんの問題もないと、ケスラーは考える方だが ―― 扱われる女性はケスラーの知らない相手に限る。

「お嬢さま……私はなにをすればよろしいのでしょうか?」

 自分の知っている相手が、あり得ないレベルで夫婦生活に悩んでいる姿というのは、結構辛いものである。

「ありがとう、ウルリッヒ。その……男性に引かれない程度に誘う……態度を」

 普段彼女が着ている、首まで隠しているデザインではなく、胸の膨らみが僅かにのぞくほど大きく開いた、茶色の細いビロードリボンのアクセントになっている、ギャザーがたっぷりで足首丈のペールピンクのシフォンナイトドレス。

 濡れているかのような光沢ある黒髪を無造作にまとめ、昼間よりは薄い化粧 ―― ナイトドレスに合わせた微かな桜色の口紅、反対に目元はややきつめに、薄紫のアイシャドウ。

 普段彼女が使用しているラベンダーの香水ではなく、イランイランが入った甘さのある香水。”誘う……”と、けぶるような睫をやや震わせ、頬を赤らめて語る彼女。

「充分だと思いますが」

―― 本当にお美しくなられました

「なにが? あのね……ウルリッヒだから教えるのですけれど、一度誘った際、この格好だったのですけれど、完全敗北でした。今更ですが、もっと清純そうな格好が良かったのでしょうか」

 彼女としては中身が清純ではないので、格好だけ……というのは、いただけないだろうと、だがラインハルトの性格を考えて扇情的すぎないものを選んだつもりであった。

「私にはその格好は充分魅力的に見えます。どうも、お嬢さまの力にはなれないようです」

―― それでしたら、私には最早、諦めてくださいとしか言いようがないのですが

 実際はこの上なく扇情的。ケスラーほどの男ゆえに、耐えられているような状況 ―― ラインハルトも耐えていると言えば耐えているのだが、方向性が違う忍耐力によるもの。まったくもって不必要な代物である。

「人それぞれですものね……」

「急がずにゆっくりと距離を縮めていっては、いかがでしょうか? 焦ることはありません。お嬢さまの心はきっと通じることでしょう」

 大人の余裕を失わず、彼女を諭す。彼女とラインハルトは二十歳なので、時間は充分にある ―― 普通に考えた場合は。

―― そうなのですけれど、その時間が厄介なのです。

 ”知っている”感覚すると、わかり合うには短く、破滅を迎えるには長すぎる。彼女としては、この曖昧な時間が早くに過ぎ、解放されたいと願っている。

「そうね。ウルリッヒの言う通りね」

 

 こうして仕事熱心で、自宅でも夜遅くまで仕事をするラインハルトの部屋に、夜食を持ってゆく ―― 召使いがワゴンを押し、彼女が机に置いて、

「元帥。あまりご無理をなさらぬように」

「あ、ああ。伯爵夫人も早く……休んで、くれ」

 一声かけて去ることを繰り返した。

 

 その結果、ラインハルトの帰宅時間は遅くなり、ほとんど深夜に。

 

「帰宅して伯爵夫人がいると思うと、注意力が散漫になってしまい仕事がはかどらないのだ……言葉にし辛い、もやもやとしたものが。熱に浮かされるような」

 欲求と本能と知識が結びつかず、悶々としたまま帰宅拒否気味になった元帥と、帰宅しなくなった夫の原因が自分にあると知り”姉との大切な時間を奪ってる”と焦る少将と、帰宅しない理由を聞いて深い溜息を吐く元寵姫と。

 

―― 抱けばいいだろ。仮にも夫婦なんだしさあ。若いのに……やりたいって思うのに、どうしてやらない。まさかやり方が分からないとか言わないよな

 

 ラインハルトの呟きに対して、ほとんどの者は”そう”思い ―― ラインハルトの性的知識の乏しさを知るものは、キルヒアイスくらいのものである。

 


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