彼女は寄付している病院に顔を出して ―― 理事長だとか看護師長だとか、事務局長だとかに見送られ、貴賓専用の出入り口をくぐり、病院を後にしたのだが、
「ミッターマイヤー提督ですね」
地上車に乗り込み、ぐるりと敷地を一周した際に、フェルデベルトが入院患者用の玄関にミッターマイヤーが居るのを見つけた。
「ミッターマイヤー……提督ですか」
彼女もミッターマイヤーとは、クロプシュトック侯討伐の際に一度会っているのだが、
「私服ですと、随分と雰囲気違いますね」
私服姿のミッターマイヤーは、良く言えば若々しい。悪くは言いようはないのだが、軍服を脱ぐと、まだ大学生で通りそうな雰囲気であった。
「誰かのお見舞い……には見えませんね」
待ち人らしい初老の男女を笑顔で出迎え、院内へと消えた。
「入院患者出入り口であの笑顔ということは、良いことがあったということでしょう」
病院での笑顔といえば、手術が成功したか、病が完治したか、
「お子さん? かしら」
我が子の誕生あたりが、まっさきに思い浮かぶ。
ミッターマイヤー夫妻と言えば、子供がおらず、ロイエンタールの子を引き取ったと記憶している彼女だが、ロイエンタールがそれほどミッターマイヤーに深く関わっていないこの世界では、
―― ロイエンタールに付き合っていた時間の全てを、エヴァンゼリンに回した……ということかしら
”そのようなこと”もあるのではないかと考え ―― 昼食の席でラインハルトに尋ねてみた。
すると彼女の予想通りで、先日ミッターマイヤー夫妻に男児が誕生し、届け出があったと答えが返ってきた。
「お宅を訪問したいけれど……」
訪問してエヴァンゼリンと会話する好機だが、産後まもないエヴァンゼリンの体調を考えると気が引ける。
そこで、彼女はまずは贈り物をすることにしたのだが、この世界の平民の出産祝いというものが分からない。彼女自身は階級に拘りはないのだが、やはり生活には大きな差があり、使わないものをもらっても仕方がないだろうと。
―― 記憶通りだとすると裕福な平民で、義理両親も良い人で……貴族的な贈り物は、控えたほうがいいとして。では、なにを……あ、そうだ!
彼女は兄弟が多く、なにを貰えば嬉しいのか熟知しているに違いない人物 ―― ミュラーに連絡を取ることにした。
「キスリング。中尉さん……ではなく、ミュラー提督に連絡とって」
「かしこまりました」
普段は秘書官のフェルデベルトに取らせているのだが、ミュラーとキスリングは同期だから良いだろうと考えて、連絡を取らせた。
仕事中のミュラーの元に、連絡が入ったのは、彼女が命じてからすぐのこと。先ずは連絡を受け取った副官ドレウェンツは、本日のミュラーの予定を脳裏に描き、少しだけ同情してから取り次いだ。
「閣下」
「なんだ? ドレウェンツ少佐」
「キスリング少佐から連絡が入っております」
「キスリング少佐から?」
「なんでもローエングラム伯爵夫人が、閣下に頼みたいことがあるそうです」
椅子から立ち上がり端末を受け取り、声を張り上げる。
「代わりました……ああ、キスリングか。どうした? 今日の退出時間? 買い物? 今日は定時退出ではなく……ジークリンデさま! お久しぶりです! 本日はどうしても抜けられない用事がありまして。……ああ、ええ。捜しておきます。明日ですか? 明日でしたら! はい! このナイトハルト・ミュラー、どこまでもお供させていただきます!」
端末を持っていない側の手で敬礼し、通話が切れてもしばらくそのまま ――
「ん? ……ナイトハルト・ミュラーです! あ、キスリングか」
『声でけえよ、ミュラー。ジークリンデさまの鼓膜破れたら、どうすんだよ……はい、ただいま参ります、ジークリンデさま。じゃあな』
あまりにも声を張り上げたことを注意され、
「そんなに私、声大きかったか?」
「はい……かなり」
ドレウェンツにも言われ、ミュラーは頭を抱え込んだ。
いつもは元帥府最年少者ゆえに、出来るだけ背伸びをして落ち着いた雰囲気を作っている上官の、年齢よりも子供っぽい行動に苦笑しつつ、明日の予定を確認、調整して声をかけた。
「閣下。明日の午後は空きました」
明後日は深夜まで残業になりそうですが ―― ドレウェンツは、それは言わなかった。そしてもちろん彼は、最後まで付き合うつもりである。
「そうか! では、時間を伯爵夫人の秘書官に送ってくれ。そしてよほどの事態がない限り、明日は呼び出さないでくれ」
「もちろんです……しかし」
「なんだ? ドレウェンツ少佐」
「閣下もお聞きになっているでしょう。エッシェンバッハ侯とローエングラム伯爵夫人の、不仲ではないが、良好には見えない関係を」
彼女とラインハルトの微妙な夫婦関係は、あちらこちらで囁かれている。ただあまりにも、微妙過ぎて、どのように表現していいのか? 分からないという人が大多数であった。
「聞いてはいるが、夫婦というものは、一概に”こう”と言えるものではないからな」
「です……な」
「さて。私は明日の為に、いつも以上に仕事に励むとしよう」
ミュラーはそう言い、書類に向き直った。そんなミュラーの内心は、非常に複雑であった。彼は彼女には幸せになって欲しいと願うが、心の奥底で、ほんの僅かだが……不幸を願うわけではないが、現在の夫婦間の噂に、微かな可能性のようなものを感じてしまい、
―― 自分を嫌いにならないためにも……諦めるんだ
首をもたげるその感情をねじ伏せて、自分を律そうと必死であった。
**********
ミュラーと会う約束を取り付けてから、
「メックリンガー提督に、今すぐ会えるかどうか、連絡を」
「かしこまりました」
彼女はメックリンガーに面会を求めるよう指示を出した。
―― いかにして、メックリンガーに楽譜を譲渡するか……事情を説明できないから、オーベルシュタインに相談もできないし
彼女の古典音楽好きは上流階級では知られており、色々な人から、地球時代の作曲家の直筆の楽譜をプレゼントされ、結構なコレクターになっていた。
ヘンデルやベートベン、バッハにリスト、ワーグナーなどの直筆の楽譜が彼女の手元にあるのだが、万が一のことを考えて、然るべき人物に預けたいと考えていた。
その然るべき人物というのは、もちろんメックリンガー。
だが物が物なので簡単に「全部どうぞ。お気になさらずに」とはいかないのである。
地上車中で狩猟宴に持参するレースを編みながら、楽譜を渡す口実を考えた彼女だが、なにも思い浮かばず”受け取らなければ良かった……”手元に楽譜があることを後悔していた。
「ジークリンデさまが? いつでもお会いできると、伝えなさい」
連絡を受け取ったメックリンガーは、すぐに会えると伝え ―― 彼女がやって来るのを待った。
軍服姿のままメックリンガーの執務室を訪れ、
「メックリンガー……提督」
顔見知りの分、現在の格好に気恥ずかしさを感じて、入り口で少し戸惑ったものの、
「お久しぶりです、ジークリンデさま。いや、ここはローエングラム少将閣下とお呼びするべきでしょうか。いや、軍服姿もお美しいですな」
促され席についた。
呼び方は軍人としてならばメックリンガーのほうが階位が上なのだが”ここは気にしないで”ということで、いつも通りに呼びかけることになった。
「実は相談に乗って欲しいことが」
「わたくしで答えられることでしたら」
「メックリンガーが適任ですの」
「なんでしょう」
「ケンプ提督ってどういう御方ですの?」
「ケンプ……カール・グスタフ・ケンプ中将のことですか?」
意外な人物の名に、メックリンガーは様々な考えを巡らせた。
「ええ。正確には彼のご家族と会ってお話してみたいのですけれど。そういうことを許してくれるような方ですの?」
ケンプはラインハルトの命令に叛くような男には思えないので、特に期待はしていない ―― 最近彼女は疲れてきたこともあるので、助命や流刑回避の為にということではない。
ただ純粋にケンプの家族に会ってみたい……という、本当に興味から出たものである。
「なるほど。そういうことですか」
「エッシェンバッハ侯にお話する前に、メックリンガーに相談に乗ってもらおうと思いまして」
「分かりました。彼は……」
メックリンガーから話を聞き、
「……ですね」
「では、エッシェンバッハ侯に頼んでみます。ありがとう、メックリンガー」
当初の計画通り、ラインハルトを通してケンプに依頼することにした。
「お役に立てて光栄です。ところで、ジークリンデさま。叛徒の捕虜の一部が、頑なに帰還を拒否しているとか。聞かれましたか?」
用件は済んだが ―― まだ時間はありますとばかりに、メックリンガーが彼女に話しかけて来た。内容は貴族の女性に相応しくないが、彼女ならば気になるであろうと。
話題を振られた彼女は、いきなりのことではあったが、すっとなにかが落ちた。
「いいえ……理由はなんとなく分かりますけれど。エッシェンバッハ侯がアムリッツァで大勝したからでしょう」
今回交換される捕虜の中には、アムリッツァ会戦で捕まった者たちも含まれている。彼らは未曾有の帝国侵攻を行った。その結果の敗北であることを理解している。
またどれ程多くの者たちが戦死したかも、実感している。となれば ――
ヤンが士官候補生だった頃ですら、財政は逼迫していたというのに、アムリッツァでの歴史的大敗。遺族年金や一時金などの財源確保のために「選挙後に」大規模増税が行われるのは確実。
また国家の軍隊ゆえに、給与が下が下げられるのも明か。増税と公務員の減俸はセットで行われるものである。それも選挙後に。
「そのようです。叛徒の財政状況は、私などより、ジークリンデさまのほうが余程お詳しいでしょうが」
増税と減俸に耐えて暮らしても、現在の帝国の状況からして、戦争が収まるような気配はなく、小康状態など望めない。
同盟政府が戦争はしばらくせず、国力回復を図ると言ったところで、帝国が攻めてこないと宣言したわけでもない。
兵力の彼我の差から、むしろこの機に攻め込んでくると考えるほうが普通。そうしたら、彼らはまた戦場に立たなくてはならない。
その時、同盟は持ちこたえられるか? もはや、軍の体裁を成していないような状態。ケーフェンヒラーなみに意地を張って、帝国で捕虜生活をしていたほうが、生き延びる可能性が高い。
「そんなことはありませんわ」
「いえいえ、ご謙遜なさらずとも」
対する帝国はラインハルトが一階級昇進と、給与の現状維持を保証する。なにせ負けていないどころか大勝しているので、戦費に余裕があり、給与を下げる必要がない。それだけでもやる気がでるというものだ。
―― 帰らないでじっと待つのも手だと思います。死ぬのが分かっているのに、帰れというのも
メックリンガーの話を聞き、同盟の弱体化は同盟の手によるものなのだと……しみじみ実感しながら、彼女は帰途につき、ケンプの家族について詳細を得て、翌日の昼食の際、ラインハルトにケンプの家族に会いたい旨を伝えた。
ラインハルトは最初、目的が分からず首を傾げたが、軍人の妻として先輩であるケンプ夫人に、女性として聞きたいことがあると言うと、彼女の希望全てに許可を出した。
**********
「ケンプ提督……ああ、もう話がついたのか。早いな」
ケンプが会いたいと、副官のザイフェルトがメックリンガーに伝えたのは、彼女が訪れた翌日であった。
「メックリンガー提督。実は……」
「ジークリンデさまが卿の細君とご子息に会いたいと言ってきた、のだろう」
彼女はせっかくなので、ケンプの家族と会ってみたいと希望し ―― ラインハルトに言われたケンプは、すぐさま了承したのだが、そこからが問題だった。
ケンプも彼女のことは知っているが、知り合いでもなんでもない。それなのに、いきなり家族と会いたいと言われ……困惑し副官に事情を説明して、ラインハルトの麾下で彼女の顔見知りであるメックリンガーに尋ねてみたらどうかと提案され、こうしてやって来たのだ。
「なぜ、知っている」
ケンプの問いにメックリンガーは、前日彼女が訪問したこと、その際にケンプについて聞かれたことを教える。
「そうだったのか」
ケンプとしては、そこで拒否してくれと思ったが、今更言っても仕方がないこと。
「軍人の妻同士として、聞きたいことがあるとおっしゃっていたが、本心は別であろうな」
「なにをお望みなのだ?」
「単純に話をしたいだけであろう」
「……」
あまりにも漠然とした”本心”に、ケンプは表情を曇らせた。
「そのように難しい顔をしなくとも」
「伯爵夫人と妻では、生まれも育ちもなにもかも違い……話しなどできぬどころか、失礼をしてしまう。息子も然りだ」
それほど家にいる父親ではないが、息子たちが少しも大人しくしていない、腕白盛りであることを ―― 妻からの連絡で、良く知っていた。
「気にすることはない。ジークリンデさまは些細なことに、腹を立てるような御方ではない」
「では、なにか注意することはないか?」
「特に注意はないが、日程としては、この三日間は外した方が良い」
カレンダーを差し出し、軍人らしからぬ整った指先でメックリンガーが指し示す。
「なにかあるのか?」
「新無憂宮の北苑で、狩猟宴が行われる。陛下も臨席なさるそうで、寵臣たるローエングラム少将閣下の出席が望まれている」
ちなみに本日の寵臣ローエングラム少将は、皇帝陛下が美味しく召し上がり、
―― 陛下、私は食べ物ではありません。まして軍服も
軍服の袖口が涎で濡れて大変なことになっていた。
「そうか。教えてもらわねば、大変なところだった」
「除外しなかったところからすると、その日を指定されたら狩猟宴ではなく、卿の細君にお会いするのを優先するつもりであったのだろう」
メックリンガーの意見は正しく、彼女としてはできれば狩猟には行きたくなかった。
慕ってくれる皇帝と共にいるのも、離宮での貴族女性たちとの社交も楽しいのだが、獲物を見せられるのが苦手であった。
彼女にしてみると”なぜか”だが、貴族の男性は、狩った獲物を彼女に自慢したがり、彼女としては父親や兄の狩猟仲間に、冷たい態度を取るわけにもいかないので、言葉少なに、だが丁寧に褒める。そうするとまた ―― 付き合いの関係上、無視するわけにも、拒否するわけにもいかないのだ。
「恐れ多い」
「それほど卿の細君とご子息に会いたいようだな」
「ああ……」
「なにか、問題でも?」
「洋服を新調する必要はなく、平服でよいと言われたのだが、やはり新調すべきであろうか?」
ケンプ夫人には平服で、彼女は軍服で会うと伝えたのだが、そう言われても”はい、そうですか”で済ませられないものである。
「難しいところだが、平服といっているのだから平服で。気になるのであれば、小物を新調したらどうであろう」
「小物?」
「ショールなり、靴なり鞄なり。高価なものである必要はないが、ジークリンデさまのご趣味に合い、かつ卿の細君に似合うようなものを」
「いっそ、高額品と言われた方が楽だ」
”高度な柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対処する”作戦にも似た提案に、さほど家計に余裕はないが、思わすそう零してしまう。
「ジークリンデさまにとって高額な商品といえば、三百五十万帝国マルクしたブリーシングの首飾りくらいのものだ」
原作のカザリン・ケートヘン一世に退位後支払われる年金が、百五十万帝国マルクであったことからも、どれ程のものか分かる。
むろんこの首飾り、彼女が欲しいと望んだのではなく、気が付いたら枕元にあった一品。高価であろうことは一目でわかったが、これほどの額とは思わず、周囲に尋ねてやっと答えを貰い愕然とした。ちなみに値段をばらしたのは、フェルナーである。
「桁が違いすぎるな」
「ジークリンデさまのご趣味ならば、ミュラー提督も詳しいかもしれないな。彼はフェザーンの駐在武官時代に、ジークリンデさまの護衛兼案内役を務めていたことがあったからな」
「フェザーン?」
「フェザーン自治百十周年記念式典に、ご夫婦で。公務だが、ジークリンデさまはまだお若かったので、参加できない会合もあり、その際に駐在武官であったミュラー提督にフェザーンを案内させたとか。買い物などもなさったであろうから、好みを覚えていることだろう」
「ミュラーか……」
「ザイフェルト大尉。ミュラー提督に連絡を」
メックリンガーの指示で副官が連絡を取るも ――
「閣下。残念ながら、本日ミュラー提督は早退なさっているそうです。また緊急事態でもない限り、連絡の取り次ぎも……なんでも、ローエングラム伯爵夫人がミッターマイヤー提督の出産祝いに贈る品を、平民のミュラー提督に選んで欲しいと依頼されたとのことで」
ミュラーは既に退庁した後であった。
「そうか。……というように、ミュラー提督はジークリンデさまの信頼が篤い」
「なるほど。だが……卿の提案にする。どこか、よい店を知らないか?」