未来の皇妃が消えてしまった衝撃に呆然としているジークリンデ。多くの者は彼女の放心を、夫を失った哀しみによるものだと解釈し、誰もがその姿に涙した ――
彼女もフレーゲル男爵を失ったのは悲しいのだが、悲しむことは後でもできる。それこそ、動乱を生き延びてからでも。
クロプシュトック侯の乱が終息し、帝星へと戻って来たブラウンシュヴァイク公は晴れて元帥の座に。
そしてもう一人、元帥の座に就いた者がいた。
「レオンハルト・フォン・フレーゲルを元帥に叙す」
フリードリヒ四世を庇い死んだフレーゲル男爵。名誉の戦死で二階級特進となった。彼女は夫の代理として式典に臨み、そして、ここで再度衝撃を受ける。
「ジークリンデ」
「はい」
「そなたにローエングラム伯爵夫人を授ける」
「……(はいぃ?)」
フリードリヒ四世は若くして夫を亡くした彼女に、伯爵夫人の地位を与えた。
「フレーゲルにくれてやるつもりであった」
驚いているジークリンデに、皇帝がそのように告げる。事前に打診がなかったのは、議案としてのぼった直後、フレーゲル男爵が死亡したため、かの国務尚書もこの話は立ち消えになったと考えていたためだ。
だが皇帝はジークリンデの軍功にいたく感激し、これならば武門の伯爵家を継がせても良かろうと ―― 完全に単独で彼女に爵位を授けるに至った。
式典の場はざわついたものの、
「ありがたくお受けいたします」
もともと門閥貴族出身で権門の近親者の妻。実質国政を支配している国務尚書の親戚の娘。皇帝の覚えもよく、夫は皇帝を庇って死亡した軍人 ―― ともなれば、多少の嫉妬はあるものの、誰も異義は唱えなかった。
もっとも異義を唱えたかったのは、ローエングラム伯爵夫人の位を授けられたジークリンデ本人だが、そこは帝国貴族として口を閉ざす。
式典が終わり、諸手続をするために国務尚書の元へと赴き、
「そんな話があったのですか」
「あったが……お前ならば伯爵夫人としても充分にやっていけるであろう」
お墨付きを貰いながら、幾つかの書類にサインをした。その中には寡婦手当 ―― 元帥の未亡人には年額五十万帝国マルクが支払われる ―― に関する物も含まれている。
年金だけで充分生活してゆけるので、新憂無宮の女官長の地位を返上しようかとも考えたのだが、
「二週間後には出仕するように」
「はあ……分かりました」
大伯父に釘をさされ、内心で”面倒だなあ”とこぼしつつ、全ての書類にサインをし終え、
「大伯父上。頼みがあるのですが」
「なんだ
「一つはミュッケンベルガーに爵位を授けてやってください。付きまとわれると困るので」
早々に歴史からミュッケンベルガーを退けることにした。
「分かった。他は?」
これは恩を売るなどではなく、目障りを遠ざけるためと、ラインハルトの障害を幾つか取り除くため。
彼女はラインハルトに迫害される立場だが、ラインハルトそのものは大切だと考えている。最大にして最悪のバタフライ効果、帝国が同盟に完全敗北するのを避けるためにも、ラインハルトはどうしても必要である。
「陛下に直接会って、お礼を申し上げたいのですが」
「すぐにか?」
「はい」
まだ薔薇の手入れをしているということで、二人はフリードリヒ四世の薔薇園へと急いだ。
薔薇園の入り口までは国務尚書も同行したが、そこから先は一人で来るようフリードリヒ四世からの命令があったので、彼女はさきほどまでの急ぎ足とはうってかわって、静々と皇帝の元へと近づき、三歩ほど下がったところで膝をつき頭を下げる。
「来たか、ジークリンデ」
「はい。このたびは……」
「ジークリンデ」
感謝を述べようとしたジークリンデの言葉に、皇帝が枯れた声を被せる。その声はいつもと変わらないのだが、圧力のようなものがあった。
彼女は口を下を向いたまま口を噤む。
「帝国を滅ぼすもよし、乗っ取るもよし。好きするがよい」
「……」
顔を上げた彼女の目に飛び込んできたのは、薔薇を一輪持ち楽しげに微笑んでいる皇帝の横顔。
皇帝フリードリヒ四世はジークリンデの瞳の中にある、帝国の滅亡を確かに感じ取った ―― ただし、ちょっと間違っていた。
皇帝の勘違いが酷いので、リヒテンラーデ侯に話す訳にもいかず、彼女は挨拶をして退出した。
自宅に戻ったジークリンデは、
「少し一人になりたいので。誰も取り次がないように」
「かしこまりました。奥様」
パウダールームに入り、ドレッサーの前に座る。ここに篭もったのは、あまり広くないのが理由。二十年門閥貴族をやってきた彼女だが、生前の物と思しき記憶と習慣はなかなか抜けない。
彼女は白粉が入った缶を手に取り蓋を外し香りを”吸い込む”全身に広がる化粧の香りは、彼女を以前の自分へと連れ戻してくれる。この世界は彼女が”生きていた”と認識するよりも、十五世紀ちかく後の話なのだが、化粧品の香りは変わらず。
絶対に崩れない化粧品と、なんでも落とすクレンジングは、この時代でも競い合っている ―― それは同盟と帝国の戦争の歴史よりも長い。
化粧用具入れを開き、地味目な色合いのアイシャドウや口紅を捜す。
大貴族ゆえに葬儀に足を運ぶこともあるので、それらは一式揃っているが、これからしばらくは夫の喪に服すため、予備が必要となる。
「ファンデーションの色はともかく、チークはひかえて……装飾品類は至急手配……あっ!」
ジェットの宝飾品を注文しようとしたとき、約束を思い出し、彼女は思わず声をあげ、すぐにスツールから立ち上がり、執事を呼びファーレンハイトに「取りに来るよう」連絡するよう命じた。
彼女が思い出した約束とは、ファーレンハイトの末妹にティアラなど、社交界デビューの宝飾品を一式貸すこと。
ファーレンハイトと言えば貧乏貴族で名を馳せる ―― 死ぬ間際に漏らす言葉には注意したいものである ―― 男である。
貧乏貴族で兄弟が多く……兄弟の内訳を彼女は覚えていないが、この世界のファーレンハイトには弟が四人に妹が一人。この末っ子長女が十六歳を迎え、社交界デビューとなった。
資産的にはまだ貧乏の部類に属するファーレンハイト家。
そんな一家に、主の妻として宝飾品を貸してやる約束をしていた。本当は新しいのを買ってやろうとしたのだが、さすがにそれは……とファーレンハイトに固辞された。
彼女としては、せっかく社交界デビューができるのだから、祝ってやりたかった。彼女自身は社交界デビューをする前に結婚してしまったので、人とは少々違う思い入れがあるのだ。
彼女が持っているアクセサリーを借りることで落ち着いていた。
「これを」
「わざわざありがとうございます。ジークリンデさま」
仕事を切り上げてやってきたファーレンハイトが、ジークリンデが見立てたアクセサリーを受け取る。
「それとエスコート役ですが」
実はファーレンハイトの妹のエスコート役はフレーゲル男爵であった。
ファーレンハイトと彼女が話しているのを聞き、ランズベルク伯に感化されたフレーゲル男爵が自ら立候補したのだ。
最初は辞退したファーレンハイトだが、フレーゲル男爵は迂遠な言い回しを理解せず ―― ファーレンハイトは折れた。幸いだったのは、ファーレンハイトの妹が喜んだこと。ジークリンデと結婚して以来、妻の必死の努力で評価がうなぎ登りであったフレーゲル男爵。悪い噂も消え去り、貴族の中でも稀にみる好青年と下級貴族の間でも評判で ―― 妻のジークリンデは笑いをこらえるのに必死であったが。
「それは」
「ランズベルク伯に頼んだところ、快諾してくださいました」
互いを『我が友』と言い合っていたランズベルク伯は、未亡人となった彼女のことを何かと気にかけており、出来ることならばなんでもしようと考えていたので、この頼みも快諾してくれた。
ファーレンハイトに妹の社交界デビューが終わるまで顔を出さなくてもいいことを告げ、喪服と化粧品を追加を命じ、彼女は眠りについた。
喪に服しているというには活動的だが、黙って死を悼んでいることができないが現状であった。
ジークリンデは職務に復帰する前に ―― ファーレンハイトには休みを与えているので、護衛をかねて、
「奥様……いいえ、伯爵夫人。用意が整いました」
「そうですか、シューマッハ」
”あの”シューマッハを連れて挨拶回りに出た。
彼女は自らの死亡フラグを潰すために、優秀な部下を夫フレーゲル男爵の元に集めていた。その一人がファーレンハイトであり、もう一人が、あのフレーゲル男爵を諫め、部下たちが彼を慕ってフレーゲル男爵を射殺。彼らを見捨てるわけには行かないので、希望者を連れて逃走、そして農場経営。剥げ領主の息子より誘拐の手伝いをしろと言われて、最後には宇宙海賊討伐に向かって行方不明になるという、脇役にしては随分と盛りだくさんな人生を与えられたレオポルト・シューマッハ大佐。
彼女がシューマッハを手に入れるのは簡単であった。
なにせ元々、フレーゲル男爵の幕僚に加えられてしまう人物ゆえ……気付いたらフレーゲル男爵の配下になっていた。
彼女がすることは、彼を逃さないようにすること。
あまりにも贔屓にするのは得策ではない。あまり特別扱いせず、だが忠誠心を持たせるよう ―― ジークリンデは心を砕き、その結果シューマッハから信頼を得た。