黒絹の皇妃   作:朱緒

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第49話

 二人きりになったので、彼女はカタリナに注意しようとしたのだが、

「カタリナ」

「上手くいったわ、ジークリンデ。これで、あの義眼のパウルくんにお金渡せるわよ」

 カタリナには策があった。もちろんオーベルシュタインをからかうのが一番の目的だが、もう一つ ――

「え?」

「気になってたんでしょう? 召使いにお菓子を配ったり、フェルナーたちが邸に泊まってるの」

 彼女の召使いと、ブラウンシュヴァイク邸の召使いは繋がっており、オーベルシュタインがブラウンシュヴァイク邸の召使いに菓子を配り、彼女に関する情報を集めていると「召使い」から聞き ―― ブラウンシュヴァイク公邸の女性召使いの数を思い浮かべ、菓子代も結構かかっているだろうと気にしていた。

「え、ええ」

 だからといって、そこで金を渡すと ―― 過去にファーレンハイトに金を渡し過ぎて、苦い経験をしたことがあるので”上手く”金を受け取ってもらえる方法はないか? 考えてはいた。無論、口に出したことはないが。

「あなたのことだから、きっと気にしていると思って。これだけ無体なことしたんだから、このお金、お詫びにと渡したら受け取ってくれるとおもうのよ」

 カタリナは栞のように本に挟んでいた、彼女が配った金が入っているカードを取り出す。

「それは……」

「私から貰った金ならため込みもせず、ぱーっと使うはずよ。あの遠慮しないファーレンハイトやフェルナーも、飲みに使おうって提案するでしょうしね」

「……カタリナ」

「なに?」

「もう少し、金額追加してもいいかしら?」

「もちろん。でもあんまり高額にしちゃだめよ。今回は、あと少し足すだけで我慢。次回、また無体を働いてあげるから」

「カタリナ……それは」

 

 

―― ジークリンデは可愛いし、義眼も可愛いし。最高の時間だったわ

 

 

 結局付いて来たフェルナーは、なんの役にも立たなかった訳だが、

「倒錯的な美しさというものに、動けなかったんです」

 カタリナが彼女の口に義眼を押し込む時、表現し難い感情がフェルナーの背筋を駆け上がった。

 性的なものとはまるで別のようだが、全く違うかと問われると否定できないような。

 キスリングは立ち位置で、斜めから見ていたのだが、

「似たような感覚だったと思います。」

 無防備な彼女の口元に、本来はあり得ないものが入り込んでゆく様は、止めなければと思いながらも、キスリングは自ら動きを止めた。

「…………取り乱して、申し訳ない」

 オーベルシュタイン邸で、顛末を聞いたファーレンハイトは、書斎の机に飾られている「いつまでも仲良くしてね、パウル。Sより」と見覚えある文字で書かれている義眼を見て、

「まあ……気にするな。忘れろ」

 同行しなくてよかったような、彼女の口に義眼が押し込まれる姿を見られなかったのを、残念がればよいのか非常に困った。

「ええ、忘れますとも。きれいに忘れさせてもらいます。ところで、書類通りました?」

「ああ。問題無く通った。シュタインメッツもこれで晴れて下級貴族だ……晴れてと言っていいのか、分からんが」

「確かに微妙。までも、これでなんの障害もなく結婚できるのですから、気にしないでおきましょう。あ、旗艦も、もうじき完成なんですね。レオンハルトさまから、最後に大きな贈り物ですね。旗艦名はアースグリムですか」

 

 ファーレンハイトの死亡フラグとも言える旗艦アースグリム ――

 

**********

 

 フェルデベルトは彼女の予定の調整の際、優先すべき相手や、気に入っている店などを、

「この場合は、こちらで」

「こっちですか、シューマッハ大佐」

 ブラウンシュヴァイク公の軍に属しているシューマッハに聞いていた。

 むろん、彼が単独で訪れたのではなく、彼女がブラウンシュヴァイク公夫妻に会いに来たので ―― 本来であれば面会中も同席するべきだが、必要なことはずっと背後に控えているキスリングが教えるので、彼女の秘書として必要なことをシューマッハから教えてもらえと言われ彼は必死に努力していた。

 

 顔を見せた彼女に、ブラウンシュヴァイク公は体が弱い妻のアマーリエの体調を考慮して、領地に帰すことを告げた。

 アマーリエの体調が優れないのは事実だが、本当の理由はオーディンから遠ざけることにある。皇帝に即位することはないが、アマーリエは前の皇帝の娘。少しでも気を抜き油断すると、政争に巻き込まれる立場にある。

 二人で領地に帰るのか? 尋ねると、アマーリエだけを帰すとブラウンシュヴァイク公は告げた。

 ブラウンシュヴァイク公はまだオーディンに残り、中立派たちの調整を行わなくてはならない。夫妻の本心としては、彼女を同行させたかったのだが、いまやラインハルトの妻で、皇帝の寵臣たる彼女を伴うのは無理だろうと。

 それでアマーリエは領地に帰るのだが、時勢が時勢。身の安全のためには、一艦隊くらいはどうしても必要ということで、シュタインメッツ艦隊が付き従うことになった。

 帝国騎士にはなったので、グレーチェンと籍を入れ、彼女も領地へと同行することになっている。式は状況が落ち着いてから ――

 

 公爵夫妻と話しを終えた彼女は、フェルデベルトを残して、海上にある軍工場へ、ファーレンハイトに連れられやって来た。

 人払いが簡単にでき、防諜設備が整っているので、そこで彼女に皇后になりたいかどうかを尋ねようとしたのだ。

「これは?」

 彼女は完成間近の旗艦を見上げ、嫌な予感がした。

 そして手元に映し出された全体図を確認し、早鐘のように打つ鼓動と、頭から引いてゆく血の気。

「新しい私の旗艦です」

「旗艦……」

「レオンハルトさまがイゼルローン方面艦隊司令官に内定した際、私にも褒美を……と」

「そうでしたか。旗艦の名は?」

―― どんな名前でもいいです。この際レオンハルトでもいいから! あの名前だけは……

「アースグリムとなる予定です」

 彼女の願いは虚しく散り、

「アース……グリム……」

―― ファーレンハイトの死亡フラグの一つ……

「ジークリンデさま!」

 引いた血の気は戻ることはなく、更に引いてゆき、全てが冷え切りそのまま彼女は気を失い、ファーレンハイトは皇后になりたいかどうか? 聞くことができなかった。

 

 フレーゲル男爵がイゼルローン方面艦隊司令官になった理由は彼女にあることは、以前にも記述したが、フレーゲル男爵は彼女の我が儘を叶えるのが趣味で ―― かなり変わった趣味に思えるが、かなりの理解者がいた ―― 彼女に様々な我が儘を言わせ叶えてきた。

 普通の貴族女性では思いつかないような、超級の我が儘を彼女は求められ、イゼルローン要塞に行ってみたいと口にしたのだ。彼女を連れてゆくなら司令官にならねば ―― だがイゼルローン要塞は最前線で、その艦隊司令官ともなれば歴戦の将でなくてはならない。

 当時のフレーゲル男爵は、貴族というだけで階位が上がっただけなので、大将になってもイゼルローン方面艦隊司令官に就くことはできない。

 たとえブラウンシュヴァイク公の甥であっても、無理な人事である。「……だから、無理とは言いませんが、諦めたほうが」ファーレンハイトは無理だと説得したが、なると決めたらなる! とばかりに、フレーゲル男爵は前線行きを希望し、彼女の希望だから仕方ないなと、ファーレンハイトも参謀兼副官兼分艦隊司令官兼……フレーゲル艦隊の色々なものを兼任し、指示に教育、軽い暴力を用いて、フレーゲル男爵を「一応」前線指揮官としてやっていけるくらいに仕立て上げ、こうしてフレーゲル男爵は、イゼルローン方面艦隊司令官となった。

 フレーゲル男爵は自分が欲していた役職に就けたのは、自分の力だけではないことを充分に理解し ―― 功労者のファーレンハイトに旗艦の一つでもくれてやろうと手配して、事故に巻き込まれ死亡した。

 

―― 夫婦でファーレンハイトの死亡フラグを建てたと……こんなに色々してくれた相手に対して、酷いことを

 

 頬に冷たいなにかが触れたような ―― その感触で彼女は目を開いた。殺風景な天井と、やや肌触りの悪いシーツ。

「……ここ……」

 体を捻り起こそうとすると、ファーレンハイトの手が差し伸べられ、その補助で上体を起こしきる。

「気付かれましたか? ここは軍工場内の医務室です」

 軍医は彼女の脈を取り、血圧と体温、対光反射を確認し、一礼して部屋を出た。

「えっと……もしかして、私は気を失って?」

「はい。申し訳ございません」

「なにが?」

「もうお心の整理はついたかと、勝手に判断いたしまして、レオンハルトさまの名を」

 彼女が気を失った理由を作った一人だが、ファーレンハイトが思っているような理由ではない。

 だがここで否定しても仕方ないので、流すようにして、

「それは気にしなくていいのよ、ファーレンハイト。それは……。ねえ、ファーレンハイト」

「はい」

「旗艦、他のを用意するから、あのアースグリム、私に頂戴……だめ?」

 彼女は貧血特有の吐き気を堪えながら、根本的な解決にはならないが、当座の危険を遠ざけようと、アースグリムを自分の手元におこうと考えた。

「構いません。どうぞ」

 彼女に欲しいと言われて断るようなファーレンハイトではない。ましてフレーゲル男爵が残したものならば、彼女が最優先されてしかるべきだと。

「ありがとう……では帰りましょうか」

「もう少しお休みになった方がよろしいかと。顔色が優れません」

―― ファーレンハイトに顔色心配されるとは……むしろあなたの顔色の悪さ……いつもより悪いような。心配かけた……のでしょうね

「ではそうします。心配しないでくださいね。眠いだけですから」

「はい」

 

 だが、この旗艦譲渡作戦は失敗に終わった。

 

 旗艦の譲渡となると、宇宙艦隊司令長官の許可が必要になる。そして現在の長官は彼女の夫ラインハルト。

 ラインハルトが仕事をしない司令長官であれば、譲渡と言う名の危険フラグ回収は上手くいったであろうが、彼は非常に真面目な男であった。また、彼女に対し、他者からはあまり理解されない類の愛情を持っていたので、

「新造艦を下さるのですか?」

「ああ。あなた専用に造らせる。それでどうだろう?」

 妻への初プレゼントに、新造艦を贈るという行動に出た。ラインハルトは彼女が旗艦を欲しがって、ファーレンハイトから譲り受けようとしていると考えたのだ。

「ありがとうございます」

 彼女は旗艦が欲しいのではなく、ファーレンハイトからアースグリムを取り上げたかっただけなのだが ―― 前夫が関係している旗艦に固執しているように取られるのは、本意ではないため、大人しく引き下がった。

 彼女に与えられる旗艦の名は「パーツィバル」

 記憶に乏しい彼女だがパーツィバルにはさすがに覚えはあった。ミュラーの旗艦だと、正しく認識している。そしてパーツィバルという名を聞いて、彼女は自分はやはり長生きしないのだろうとも感じた。どうしてと聞かれると、答えられないのだが。

 

 ラインハルトは彼女がイゼルローン要塞に行きたいと言っていると、聞いたことがあったので、彼女は軍事に興味があると解釈していた。

 イゼルローン要塞は「前の記憶がある読者」ならは、一度は訪れてみたい場所だというだけで、軍事関係にはあまり興味はない。

 また彼女は「前夫」と一緒にイゼルローン要塞に行きたかったのであって、イゼルローン要塞そのものに興味はないと考える者たちもいた。例えばキルヒアイス ―― 興味があるのであれば、これから捕虜交換でイゼルローン要塞へと出向く自分に、なにか聞いてきそうなものだが、彼女は一切尋ねなかったことから、そのように判断した。

 だがキルヒアイスも、この判断をラインハルトに言えるかというと、また別の問題である。

 前夫にまだ感情が残っているなど、常識を持っているものならば言えるものではない。彼女としても、そんな指摘をされても困るので、周囲の常識人たちにはとても助けられていた ―― むろん自覚はないが。

 

 

 そして新造艦の話を聞いたフェルナーたちは、深い溜息を吐き出し頭を振る。

「ジークリンデさまは、戦艦が欲しいわけではなくて……」

「エッシェンバッハ侯がジークリンデさまのことを気に入っているのは分かるが、贈り物としては……俺は十年近くジークリンデさまに仕えているが、戦艦が欲しいと言ったことは、ただの一度もない。欲しいのであれば、もっと前に言っただろう」

「ジークリンデさまはアースグリムが欲しかった、と考えるのが、正しいと思うのだが」

 オーベルシュタインの意見はやはり正しい。

 

 そして、

「ジークリンデ記念病院に顔を出すとか。こちらは援助しているのですよね」

「そうだ。ジークリンデさまが援助している医療関係機関は、かなりある。網羅しておくように」

「はい。シュトライト准将……狩猟宴はどうしたらいいのでしょう」

「それはだな……」

 フェルデベルトは日々忙しく過ごしていた。

 


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