黒絹の皇妃   作:朱緒

48 / 258
第48話

 彼女の侍従武官長としての日々、一部抜粋 ――

 

「寵臣のあなたが磨けば、好きになるのではないかと思って」

 ある日出仕すると、カタリナから小さな歯ブラシを手渡され、カザリン・ケートヘン一世の歯を磨くように言われた。

 彼女は身の回りの世話をする係ではないので、どうしてなのか? 尋ねたところ、皇帝は歯磨きが嫌いで、泣きわめくので、彼女に磨かせたら少しは好きになるのでは? となったのだ。 

「そんなに簡単なことではないと思いますけれど。もちろんやりますよ。でも、練習させてくださいね。他人の歯なんて磨いたことありませんから」

 嫌いなものは嫌いだろうと彼女は思ったが引き受けた。

「この際、成人でもいいでしょう」

「それはそうですね。練習に付き合ってね、ユンゲルス」

 近場にいた成人男性を練習台にすることにした。

 歯ブラシを手に持ち、椅子に座らせたユンゲルスの顎に手を添えて、

「はい」

 顔を近付ける。

 人間というのはそうそう口の中を他人に見られるものではないので、慣れないことに羞恥心が沸き上がる。

「口を開けてちょうだい。もっと大きく……」

 女官時代と同じように、香り玉を含んだ清涼な吐息がユンゲルスの頬に微かにかかり、口の中を、やや伏し目がちのぞき込む。

 その恥ずかしさといったら、経験したもの以外には分からない ―― 上唇から口が開いている口内へ、鼻血が落ちてきた。

「……? 鼻血出てるわ! キスリング、私のバッグを」

 突然のことに驚いた彼女だったが、フェルデベルトに歯ブラシを手渡し、受け取ったバッグからレースのハンカチを取り出して、鼻の辺りをそっと押さえる。

「理由もなく鼻血が出るなんてことはないから、病院で検査してもらったほうがいいわ。それとも疲労かしら」

 どこか悪いところがあるのではないか? と彼女は心配して、検査入院の予約を入れようとしたのだが、

「申し訳ございません。こいつは、鼻の血管が弱くて、頻繁に鼻血が出る体質なので。本当に、ご心配に及びませんので」

 事情を理解している、キスリングが頭を下げて、ユンゲルスは病院行きは避けることができた。

「それならいいのですけれど。詰め物を常備しておきますね」

「ありがとうございます……」

 カタリナの嬉しそうな蔑みの眼差しを浴びつつ、ユンゲルスとフェルデベルトはその場に待機となり、彼女はキスリングとリュッケを連れ、カタリナと共に皇帝の元へと向かった。

「……」

「あの近距離でお顔を拝したら、絶対こうなるから」

「気持ちは分かります。ところで、そのレースのハンカチ、弁償できますか?」

「……」

 渡された歯ブラシをどうするべきか? フェルデベルトは悩み、ユンゲルスは間違いなく高額であろうハンカチを持ったまま、彼女が戻ってくるのを待った。

 

 顔を近付けただけで、成人男性から鼻血を出させるという ―― 過ぎたる美貌は凶器となる状態の彼女は、

「陛下。今日はこのローエングラムが、歯を磨かせていただきます」

 小さな歯ブラシを歯科技師から受け取り、皇帝に近づいた。

 邪気のない皇帝は彼女の顔を見ても、鼻血を出すようなことはなく、

「じく、じく」

 大喜びで彼女を迎え入れる。

「カタリナがジークリンデというから」

 皇帝が最初に覚えた言葉はファーターではなく、ジークリンデを指す「じく」

 彼女は皇帝の前ではローエングラムと名乗っていたのだが、側にいるカタリナがジークリンデと呼んだ結果、

「別にいいでしょう。ジークリンデがお気に入りなんですものね」

「じく、じく」

 ローエングラム少将ではなく、ジークリンデと認識してしまった。

 同一人物を指すとはいえ、礼節上の問題あるのだが ―― まだ皇帝が幼いということで、今の所は不問とされている。

「陛下。お口を開けてください。あーん、ですよ」

 何をどうやっても歯を磨かれるときは泣くとされていた皇帝だが、

「ご機嫌ですけど」

 口を開けて歯を磨かれて、あまつさえ手を叩く状態。

「さすが寵臣。いつもこうだと、楽でいいのにね」

 下の前歯が二本しかないので、簡単に磨き終わり ―― もっと磨いてもいいぞ、とばかりに口を開く。

「陛下。ご立派ですわ」

「じく、じく。じくー」

「では、もう少し磨かせてもらいますね」

 これで皇帝が歯磨きが好きになったのか? というと、それは別の話で、専門の者が歯ブラシを持つとやはり嫌う。まるで ―― 余の歯を磨いていいのは、ジークリンデだけ! ―― と言わんばかりに。

 

 一部抜粋終わり ――

 

**********

 

―― 厄介なことは、早急に終わらせるべきだろう ――

 オーベルシュタインを見たいといっていたカタリナの希望は、早急に叶えないと、ろくなことにならない……カタリナについて詳しいファーレンハイトとフェルナーの彼女に言えない意見により、早期訪問が実現した。

「おじゃまします、カタリナ」

「いらっしゃい、ジークリンデ。義眼……と、フェルナー? なんでフェルナー」

 彼女はカタリナの邸にオーベルシュタインと護衛のキスリング、そしてフェルナーを伴ってやってきた。

 彼女も最初はフェルナーを連れてくるつもりはなかったのだが「どうしても!」と言われたので、カタリナならば許してくれるだろうと連絡無しで連れてきたのだ。

「付いて来たいって。きかなくて」

 フェルナーはカタリナとはできれば会いたくはないが「パウルを守ってやれ。可哀想なことになるのは、明白だからな」ファーレンハイトにその様に言われ、また彼自身、思い当たる節があったので、こうして着いてくることにした。

 ちなみにファーレンハイトは仕事のため、臨席することができなかった。進んで行きたいわけではないが「ジークリンデさまのお供ができなかったのは残念だ」と会場でぼやき、ザンデルスが宥めている ――

「大歓迎よ。そんなに私に会いたかったの、フェルナー。可愛い男ね。いつ会いに来てもいいのよ、あなたなら」

「なんだか、いろいろ、ありがとうございます。カタリナさま」

 旧ヘルクスハイマー伯爵邸は、中々に華美で、前の持ち主の趣味が煌びやかなことが窺い知れた。

 応接室へと通され、彼女とカタリナが並んで座り、向かい側に一応客であるオーベルシュタイン。警護のキスリングは彼女の隣に立ち、フェルナーはオーベルシュタインの背後に立った。

 テーブルにはフルーツティーを淹れるための道具と、一口大のチョコレートが宝石のように飾られ置かれていた。

「座りなさいよ、フェルナー」

「私はパウルさんの付き添いですから。座るなんて、とんでもない」

 できるだけカタリナから距離を取りつつ、遊ばれてしまうであろうオーベルシュタインを助けるために陣取る。

 他のことに関してならばオーベルシュタインがカタリナに負けるはずなどないのだが、彼女が関わってくると分が悪い。

「ジークリンデ。フルーツティー淹れて」

 客にお茶を淹れさせるというのもおかしいが、そこは気心の知れた仲。彼女はすぐに、お茶を淹れだす。

「ええ」

 カットされた果物、オレンジにキウイ、苺にマスカットをガラスのポットとカップに飾るように入れて、ティーポットで紅茶を仕上げて、フルーツが入ったガラスポットに注ぐ。そこで香りを移してから器へ。

 カタリナは一口紅茶を飲み、

「このフルーツの配合が、絶妙なのよね。護衛と付き添いも飲みなさい」

 フルーツティーを褒め、そして二人にも勧める。

 付き添いのフェルナーはともかく、護衛が茶を飲むのは正しくないのだが、

「今日だけは特別よ」

 ソーサーごと彼女から手渡され、キスリングは恐縮さを隠さずに受け取り ―― もったい無いが早々に飲み干すことにした。

「ファーレンハイトは付いて来なかったのね」

「大将級の会合に参加しないといけないとのこと。カタリナさまの邸を拝見できないこと、とても残念がっておりました」

「じゃあ、今度あなたが連れてきなさいフェルナー」

「はい。ファーレンハイト大将も喜ぶことでしょう」

 フェルナーの白々しい話しぶりを聞きながら、キスリングは「このフルーツ、食べたほうがいいのか?」一人、漂う果物に頭を悩ませていた。

「私はあの男、ファーレンハイトのことだけど、結構好きなの。どうしてか、知ってる? 義眼……じゃなくて、パウル」

「存じ上げませんが。それとパウルではなく、オーベルシュタインと呼んでいただけないでしょうか」

「オーベルシュタインって長いじゃない。パウルが嫌ならオーベって呼ぶわよ」

「パウルで結構でございます」

「それでね、あの男のどこが好きかって、昔あの男に”私、あなたは好みじゃないわ”と言ったら微笑を浮かべて”まことに光栄でございます”って返してきたのよ」

 ”極み”まで付けなかったところが、カタリナに対するファーレンハイトの最低限の礼節である。

「ぶっ!」

 フルーツをどうするか? はともかく、急いで茶を飲み干そうとしていたキスリングは、それを聞いて思わず吹きだした。ファーレンハイトとはそれほど長い付き合いではないが、表情と口調があまりにも完璧に再現できてしまい、我慢ができなかったのだ。

「キスリング、大丈夫」

「大丈夫です。ハンカチは結構です。自分のを使いますので」

 

 結局ユンゲルスは弁償はしなかった。佐官が気軽に買えるような金額ではなかったこともあるが、彼女が要らないと言ったので、そこは引き下がったのだ。ただ以来、彼らはしっかりとハンカチを持ち歩くようになった。

 本来であれば当然持ち歩くべきものなのだが、若い独り身の軍人は、面倒臭がる者が多く、彼らもそうであった。だが、また彼女のレースのハンカチで鼻血を拭かれた困るので ―― 鼻血を我慢できる自信がなかったので、面倒だが二週間分ほど揃えて、なにかあった時は、彼女の手を煩わせないようにと。

 

「提督らしい言い方ですな」

 当然皮肉なのだが、彼女は皮肉だとは気付いていなかった。

「でしょう。そういう所、気に入ってるの」

「中々に良いご趣味でいらっしゃいます」

 彼女さえ絡まなければ、オーベルシュタインは問題なく受け答えできるのだが ――

「それはともかく、目的の義眼よ、義眼。ねえ、その義眼外して見せて」

「カタリナ!」

「かしこまりました」

 義眼を目の前で外せと言われることは、想定の範囲内であったので、俯き彼女に外しているところを見られないようにして、右側の義眼を外し差し出した。

 カタリナはオーベルシュタインの手のひらの上にある義眼を覗き込み、

「これ……シリアル番号違うじゃない」

 彼が彼女の元へとやって来た理由になった義眼ではないことに、不満を漏らす。

「別の物を」

「私に奪われることを警戒して?」

「メンテナンス中なので」

 オーベルシュタインは自分の大切なものを、他人に易々と見せ、触らせるようなタイプではない。またフェルナーが「絶対、義眼で遊ぶから」と言ったこともあり、別の義眼を装着してきたのだ。

「まあ、そんなことだろうと思ったわ。だから……はい、医療用マーカー」

 想定内よ! と勝ち誇ったようにカタリナが、手術の際に使われる、人体に害のないマーカーを取り出した。

「それでどうするつもりなの?」

 彼女は医療品の知識は豊富なので、医療用のマーカーがどのようなものなのかは、説明されずとも分かる……が、使用方法までは思いつかなかった。

 カタリナはオーベルシュタインの手から義眼を取り上げ、

「落とした時、分かり易いように名前書いてあげましょうよ」

―― キウイ、底から剥がれないな。うーん……

 キスリングはフルーツをほとんど食べたのだが、最後の一かけが底にへばりついて取れないで、困っていた。ここまで食べたら、全部食べてしまおうと、頭を悩ませる。

「番号で持ち主は分かりますよ」

 フェルナーが言うが、カタリナが聞くはずもない。それに当然のことだが、義眼は簡単に落ちたりはしない。例え後頭部を殴ろうとも、前に飛び出すような作りではない。

「落書きは駄目よ、カタリナ。これ、大事なものなのだから」

「落書きじゃなくて、余白のところに名前書いてあげるのよ、ジークリンデが」

「余白……」

 白目に当たる部分に名前を書けと、彼女の前に義眼を持ってくる。

「良いわよね、パウル。ジークリンデに”パウルへ”って書いてもらえたら、嬉しいでしょう」

「それはもう、まことに……はい」

 人には聞かせられないような地球教徒の殲滅方法を、あれこれ考えている男とは思えない受け答え。

―― キウイ取れねえなあ。ソーサーを置いてスプーンで……ソーサーを持ったままカップを傾けて、ちょっと難しいか。取れねえ。底叩いたら落ちてきそうなんだが、叩くわけにもいかないし

「パウル、いいの?」

「問題はありません。是非ともお願いいたします」

「じゃあ……」

 マーカーは一週間もすると消えるのは分かっているので、彼女はならばと、カタリナの手から義眼を受け取った。

「お待ち下さい! お手が汚れます」

 右目を閉じたままオーベルシュタインが制止の声を上げた。

 彼の細い体からは想像もつかないほどの大声で。

―― いまだ!

 全ての注目がオーベルシュタインに集まっていることを感じ取り、キスリングは天上を見るようにして、カップを垂直にしてソーサーを持った手で底を叩き、最後の一かけを口に収めた。

「汚れて……」

「私が掴んだ時は、なにも言わなかったじゃない」

「それは……気にならなかったので」

―― パウルさん、正直者!

 自分の体から取り外したものを、直接彼女が触れることに、オーベルシュタインは焦った。

「本当に正直よね。でも、汚くなんてないわよね、ジークリンデ」

「私たちが触れたから汚れた……というのが正しいと思いますけれど」

「そんなことはございません」

 やや興奮しかけ、義眼を外した側の目が開きそうになってしまい ―― 彼女を怖がらせてはいけない ―― 必死に手で覆い隠しながら、オーベルシュタインは力説する。

「まあまあ、パウルさん。落ち着いて」

「そうよ、落ち着きなさいパウル」

 張本人のカタリナがおしぼりで手を拭き、チョコレートをつまんで口に入れる。

「えーと」

「親愛なるパウルへ、あなたの女神ジークリンデより。くらいは書いてあげたら」

「自分で自分のこと女神って書くのですか? それはおかしいですよ」

「大帝?」

「やめて、カタリナ!」

 自分のことを神格化した、彼女たちの祖先。それが大帝ルドルフ。

「ハートマークとか入れてあげたら」

「そんな義眼、装着したくないと思いますよ」

「基本装着はあなたの誕生日番号入りのなんでしょう? だからこれは展示用に」

「パウルは自宅で義眼を展示したりは……しないわよね」

「分かりません」

 彼女が文字を書いてくれた義眼となれば、オーベルシュタインは書斎の机に飾っても良いと ―― 彼女が二度と書かないと誓った夜に書いた遺書(ファーレンハイトが捨てたと言ったもの)も、表装して飾っているのだから、文字が書かれた義眼も間違いなく飾られるであろうが。

「分からないって……これでいいかしら?」

 彼女は球体に苦労しながら文字を書き、カタリナが二つ目のチョコレートを食べ終えたところで、文字を見せた。

「まあ、いいんじゃない?」

 義眼を受け取ったカタリナは、面白そうにくるくると義眼を回す。

「キスリング、カップを」

 手が空いた彼女はカップを持ったまま立っていたキスリングからカップを受け取り、テーブルに置いた。

「ジークリンデ。はい、あーん」

 カタリナの声に、彼女は無防備に口を開き ――

「カタリナさま!」

 チョコレートの残り香のある指先が、彼女に放り込んだのはチョコレートではなく義眼。

―― がりっ! て言った……オーベルシュタインとフェルナーの顔……

 彼女は急いで口から義眼を取り出し、おろおろする。

「噛んじゃった。壊れたらどうしましょ……」

 義眼など彼女の財力があれば、幾らでも買えるのだが、そういう問題でもない。

「ジークリンデさま、病院に行きましょう!」

「気にすることないわよ。ジークリンデも知ってるでしょう? 物資不足のとき、自分で舐めて入れるって」

 義眼はほとんど普通の目と変わらず、様々な性能があるのだが、メンテナンスをしなければ涙に類する機能は衰え、眼窩に挿入する際に潤滑油不足となり軋むようなこともある。それを応急的に解消する方法が舐めること ―― 「見る」機能だけは最後まで保たれるが、それ以外は面倒なところもあった。

「それは読んで知ってますけれど。私が口に入れた義眼なんて、装着したくないでしょう」

 自分の義眼が彼女の口に入った。それはオーベルシュタインにとって、まさに神聖不可侵のである彼女を犯したようなものである。

「装着したくないなどということはありません。ですが、カタリナさま! ジークリンデさまが間違って飲み込んだりしたら、どうして下さるのですか!」

 実際彼女の口に、自分の眼球を押し込んだようなものなのだから、口を蹂躙したと言えなくもない。

「あなたがキスして取り出せばいいじゃない」

「本当に申し訳ございません! ジークリンデさま! 私が義眼であったばかりに」

 自分の口から取り出した義眼を持ったまま、彼女はどうしようかと悩み ―― 心得たとばかりにキスリングがオーベルシュタインを落として、騒ぎは一時中断した。

「カタリナ……」

「あそこまで騒ぐとは思わなかったのよ。義眼のメンテナンスセット、持ってきなさい」

 遊んだ後は、メンテナンスをして返そうと、全部用意していた。

 また義眼を壊してしまった場合、あるいは彼女の誕生日が番号になっている義眼を装着してきた場合は、こちらで用意した義眼で遊ぼうと、新しい義眼も用意していた。

 キスリングとフェルナーは、頭と足を持ち、オーベルシュタインをベッドへと運ぶことになった。

「パウルさんを玩ぶのは止めてください」

 部屋を出る際に、フェルナーがそう言ったが、

「面白い男よねえ。純真っていうの? 容姿が純真に見えないから、余計楽しいわ。あなたやファーレンハイトは、こうはならないからね」

 カタリナは悪びれることもなく ―― フェルナーはカタリナを見ると、自分を見ているような気がすることもある。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告