黒絹の皇妃   作:朱緒

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第45話

 フェザーンの黒狐ことルビンスキーは、様々な情報を整理して、

「ルパート」

「なんでございましょう、自治領主閣下」

「フェザーン経由で帰国する、アーサー・リンチを捕らえろ」

 クーデターを阻止することに決めた。

「……かしこまりました。ですが、理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「理由は簡単だ。アムリッツァで帝国が勝ちすぎた。だが、まだ調整できるの範囲内だ」

 アムリッツァで大勝したラインハルトだが、

「同盟のクーデターを防ぐことで、均衡を取り戻すと?」

「そうだ。やつらに真相を教えてやれ。すぐに出兵の採決が下るだろう」

「ですが、このたびの捕虜交換は、票集めのためですから」

「攻めるのは、同盟最強の第十三艦隊だ。エッシェンバッハ侯が、門閥貴族どもと戦っている時に、ヤン・ウェンリーに後背を攻めさせる」

 ヤン・ウェンリーを使えば、ラインハルトの短期勝利は望めず、権力確立が遅延する。

 同盟側としても、ラインハルトは是非とも倒しておきたい ―― アムリッツァでラインハルトがどれ程危険な男か、鈍い同盟政府も認識した ―― 故に、この好機をむざむざと見逃しはしない。

 なにせ帝国にもっとも近い場所にヤン・ウェンリーがいるのだ。混乱に乗じてラインハルトを討てば、この先同盟側が優位になる ―― 

「なるほど」

「ヤンの部下の詳細を」

「はい。ヤン・ウェンリーの副官はラップ少佐。この副官、ヤンとは同い年ですが、病気療養が長引き、つい最近軍に復帰したばかり。ただ少佐の地位に甘んじておりますが、実力はなかなかのものだそうです。参謀長はムライ准将、副参謀パトリチェフ准将、艦隊副司令官フィッシャー准将。分艦隊司令はグエン准将、アッテンボロー大佐」

 フレデリカが居るべき場所に、病が長引いたことでアスターテ会戦に参戦せずに済み結果生き延びたラップが収まっていた。

 ちなみにラップはジェシカと結婚し、いまはイゼルローン要塞で新婚生活を送っている。

「ふむ。同盟の統合作戦本部長はクブルスリーか。たしかヤンのことを高く買っていたな……念の為に、アンドリュー・フォークを、もうしばらく入院させておけ。あれはヤンの足を引っぱるのに使えるが、ヤンを使うときは、厳重に管理しておかねばならん」

「かしこまりました」

 

 アンドリュー・フォークは自傷が見られるとされ、厳重な管理下に置かれることとなる。そして皇帝の即位と前後して、民間人たちとアーサー・リンチが調印式前にフェザーンを経由して、同盟に帰国する ――

 

 ルパートはアーサー・リンチの偽名を特定し、捕らえるように命じたが、結果としてそれは無意味であった。

 捜し出す必要はなかったのだ。彼自身が、ルビンスキーに面会を求めて来たことによって、その手間が省かれた。

 彼はルビンスキーに「ラインハルトが立案したクーデターの計画書」を手渡した。

 なぜ自分にこれを手渡すのか? ルビンスキーが尋ねると「全ての計画が自分が考えた通りに進むと思っている姿に腹が立った」ので、計画の頓挫を味あわせてやろうと考えたのだと ―― ルビンスキーの所にこれを持って来たのは、彼に協力する手はずになっている地球教徒が、ルビンスキーの関与をほのめかしたので、一か八かの賭に出たのだ。

 ルビンスキーは彼に新しい人生を与え、彼はそれを享受してフェザーンの片隅で誰にも知られることなく、生きて死んでいった。

 

 ラインハルトとキルヒアイスは、ルビンスキーが地球教徒を通じて偽の報告を届けさせていたので、クーデターが阻止されたことには気付かず ―― リッテンハイム侯を盟主とする貴族連合との戦いの際、後背をヤン・ウェンリーに突かれることとなる。

 

 ラインハルトの麾下には、海千山千のルビンスキーに対応できる権謀術数の人間がいなかったので、このような事態になった。もっとも謀略で国家は成り立たないというのが、キルヒアイスやラインハルトの考えなので、そのような人間が配下にいなくとも良かったのであろう。彼らはあくまでも正道を進み、銀河を手に入れることに意義を見出しているのだから ――

 

 民間人捕虜たちは、フェザーンで皇帝の即位式を観て、歓喜の声を上げた。皇帝カザリン・ケートヘン一世に対してではなく、彼らに便宜を図ってくれた慈悲深き侍従武官長閣下の姿に対して。

 

 病身(胃潰瘍再発)の身をおしてペクニッツ公爵は式に臨み、無事に即位式は終わり ―― 捕虜交換が行われることとなる。むろん使者はキルヒアイスで、副官のルッツも同行することに。

 

**********

 

 カザリン・ケートヘン一世の即位式が終わり ―― 彼女はリヒテンラーデ公の真意を問うことにした。

 もしかしたら、ラインハルトとの共存を望んでいるかもしれないと。だが、もとより大して期待はしていない望みであったが、

「そうですか」

 あっさりと否定されると、やはり辛いものがある。

「向こうも、そんなことは望んではいまい」

「そうでしょうが。とにかく大伯父上のお考えは分かりました。帝国の将来展望に関する政策に、積極的に協力できるような才覚は持ち合わせておりませぬ身ですが、一つだけ。私の浮気はエッシェンバッハ侯につけいる隙を与えると思われますので、控えさせていただきます」

 もともと浮気など彼女はするつもりはない。

「それを切欠にするとは考えぬのか」

 浮気 ―― 女は浮気相手の女を責め、男は浮気した女を責める……古来より言われていることは、現在でも当てはまっていた。男が男であり、女が女である以上、これは不変のようである。

 天才であるラインハルトがこれに則しているかどうかは不明だが、妻のことを愛していなくとも、妻の浮気は許せないという男も世の中にはいる。自分のプライドが傷つけられた、恥をかかされたとして、彼女をその手で殺害することも考えられる。

「私としては殺されるにしても、もう少しまともな理由で死にたいのですが」

 

―― 大伯父の命令とはいえ、自分の意志で浮気して、見つかって殺されるなど間抜けも過ぎる。綺麗な死に方には興味はありませんが、もう少しまともといいますか。別に自分に相応しい死に方をしたいと言うわけではなくて……浮気がばれて殺されるのは嫌。でもばれないように必死に浮気するのも嫌

 

 倫理観などもあるが、好きでもない相手と寝るというのが非常に耐え難く、それらを乗り越えて努力して浮気をし殺されるなど ―― ”やっていられません”それが正直な気持ちであった。

「侯はお前のことは殺さぬと思うが」

 そういう意味では、一度は寝室まで自ら足を運んだラインハルトのことは嫌いではないとも言えるが、あの場合は単純に結婚相手の寝室に向かっただけのこと。

 好きだから身を委ねるというのとは、若干意味が違う。

 嫌いかと問われたら首を振るが、好きかと問われた首を傾げる ―― 寝ることはできるから嫌いではないが、肌を重ねることを切望するかと聞かれると否定する ―― 彼女にとってラインハルトという男は、そういう認識の人物。

「まだかなりお若い方ですよ。プライドも高いでしょうし、激情に駆られることもあるでしょう。私のように既婚歴があるわけでもないのですから、男女間のことに関しては潔癖症のきらいもありましょう」

 政略結婚でも即日結婚でも、時間さえかければ愛情が芽生えると彼女は実際経験しているので分かるのだが、では、ラインハルトと時間をかけて愛情を育みたいと思うか? と問われると、これもまた困る問いであった。

―― ラインハルトの好みもありますしね。私はレオンハルト好みに育てられたので、門閥貴族女性そのものですから。貴族女性嫌いのラインハルトからすると……うん、嫌われる要素しかありません

「お前の浮気を知ったとしても、ずるずると婚姻を継続しそうだが」

 彼女はフレーゲル男爵好みに育て上げられたので ―― 彼女には自分はラインハルトの好みからはかけ離れているという、必要のない自信を持っている。

 頼みの綱である容姿も、ラインハルトが容姿に頓着しない性格であることを知っているので、期待はしなかった。

「そこまで決断力がない方とは思えません。大伯父上、その程度の相手をやり込められないのですか」

「そう言われると弱いな」

 

 結局この会話で彼女の浮気は一時保留となったのだが ―― 彼女の浮気に関してラインハルトが取った行動は、リヒテンラーデ公の意見のほうが、彼女の意見より正解に近かった。

 だが彼女は自分のことはよく理解していた。彼女は必死に、かなり努力をして浮気を継続させることとなり、ラインハルトはそれを全て容認して ―― 離婚を希望する彼女を追い詰めることとなった。

 

 「あれは浮気とは言わんだろう。とっとと離婚してやるべきだ。そしてあの浮気と呼べぬ浮気をしている相手も変えるべきだ。この俺にな」と言ったのは、ワルター・フォン・シェーンコップである。

 

**********

 

 彼女の侍従武官長としての仕事が始まったわけだが、

「給与、貰いすぎのような気がするのですけれど」

「そのくらい、働いていますよ。気になさることないでしょう」

「そうかしら? キスリング」

「はい」

 朝の九時から正午前の十一時三十分で終了する。三時間弱の仕事で、月収は二万帝国マルク。休日以外の日に無断欠勤しても、とくにお咎めなしという、意味のなさが露呈するかのような地位 ――

 

 カザリン・ケートヘン一世の治世が始まってすぐに、皇帝の寵臣が誕生した。

「さすが」

「さすがですな」

「当然というべきかな」

 その寵臣、黒髪の女性将校 ―― 彼女である。

 侍従武官の主な仕事はシュトライトとモルトがこなし、彼女はリュッケを連れ皇帝に奏上奉ることのみが仕事になっている。

 一応報告する時間が決まっており、三十分は報告と称して、その場にいなくてはならない。

 だが零歳児が軍事報告をしてどうするのか?

 体面を重んじ過ぎる大人たちの行為が、あまりにも虚しいというか、馬鹿げているというか、幼子の大切な時間をこんなことに割いてどうする? と、彼女は感じたので「陛下のご宸襟をお騒がせするようなことは、起こっておりません」とだけ報告し、あとは持参した楽譜を開いて、ピアノを奏でて時間を過ごし帰ることにした ―― カザリン・ケートヘン一世は、メックリンガーをして「天上の調べ」と賞される彼女の旋律を非常に気に入った。

 もっともピアノだけではなく、美しい彼女の顔自体も気に入っており、彼女が来ると大喜びで、よたよたと這って近づこうとするくらい。

 全力ではいはいができるようになると、高速で彼女に激突し、追いかけ回すことになるのだが。

 現在はまだはいはいができないので、全力で泣いてくる。

「……っ! カタリナ、あとはよろしく」

「分かった。早く!」

 彼女が去ったあと、女官たちは泣き止ませるのに毎日、一時間近くかけることになる。そんなカザリン・ケートヘン一世の泣き声を聞きながら、足早に立ち去るのが彼女の日課になっていた。

「精神が削られます……」

 後追いされると辛く、思わず残りたくなるのだが、それは我慢して。

「ローエングラム少将閣下」

 泣き声が聞こえなくなるところまで走り、肩を落とす彼女に、楽譜運搬係をも務めるリュッケが心配そうに声をかける。

「明日も参りますから……明日はワルキューレは汝の勇気を愛せり、でどうかしらね? リュッケ」

「ローエングラム少将閣下が弾かれる、ワルキューレは汝の勇気を愛せりですか……素敵ですね」

「間違いはないか聞いて頂戴。キスリング、ユンゲルス、フェルデベルトも」

 

 彼女は九時前に軍務省に登頂し、九時にシュトライトから報告を聞き(彼女用に、とても簡単な報告になっている)特に皇帝に報告することがないこと、また帝国宰相に報告すべきことを確認後、新無憂宮に参内して十時十五分から三十分間、定時報告という名の音楽会を開いて、ご機嫌な皇帝を「退出」という行為で、どん底に突き落として走り去り ―― 十一時にリヒテンラーデ公に色々と報告し、

「今日も泣かれました。辛いです」

「寵臣の辛いところだな」

「本当に……寵臣って私のことなのですか?」

「そうだ。気付いておらんだろうと思って教えてやった、ありがたく思え。それで、ジークリンデ。北苑の狩猟宴初日、陛下も短い時間ながら参加なさることになった。女官長より侍従武官長に、陛下のお側に控えるよう依頼が来ておった……カタリナと一緒に離宮で陛下のご機嫌を取れ。ピアノも用意しておく」

「…………かしこまりました」

 仕事を与えられて、フェルデベルトに予定調整を任せ、十二時半からラインハルトと昼食を取るために、元帥府へと急ぐ ―― ラインハルトとの昼食は毎日ではない。麾下の将校と共に取ることも多いので、週に二度ほどのものだが、新婚なのに滅多に顔を合わせない夫婦には、わりと重要な時間であった。二人とも家で会えばいいようなものだが、ラインハルトは自宅では姉上で、彼女は一定距離を保ち好感度を上げることを目的としているので ―― 一緒に住んで、気分を害するような真似はしたくはない。

 両者の思惑はともかく、昼食のその席にキルヒアイスを同席させるくらいに、ラインハルトは彼女のことを特別扱いしていた ―― 他人から見ると「夫婦の昼食に部下が混じっている」明かにおかしいことに、聡明なはずのラインハルトは気付いていない。

 当の彼女自身は「キルヒアイスと仲良くなっておくのは、必須ですよね」ということで、好機とばかりに彼を否定することもなく。微妙にいたたまれないキルヒアイスと、微妙に腹立たしいキスリングと、毎回唖然とするフェルデベルトと ―― 先に昼食を取っているユンゲルスと、リュッケ。

 

「明日は伯爵夫人の父上とお会いするのか。緊張するな」

「父も同じでしょう。明日、実家で元帥と会えるのを、楽しみにしております」

 

 この会話をしている二人は、同じ住所に住んでいるとされる夫婦である ―― 

 

 カタリナやヴェストパーレ男爵夫人から、弟の昼食状況を聞かされたアンネローゼは深い溜息をつくばかりであった。

 


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