黒絹の皇妃   作:朱緒

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第44話

 彼女はルッツについて、詳細を覚えていないので ―― 主役級以外はほとんど覚えていない……が正しいのだが ―― 先入観を持たずに接することにした。これは彼女がこの世界で二十年掛けて習得した、当たり前のことである。

 

 ルッツは警備の職務にまともに従事しているので、彼女に話しかけてくるようなことはない。だが、彼女としては是非とも会話をして、仲良くなりたいと考えていた。

 

「ジークリンデさま。キルヒアイス提督から連絡が」

「なんでしょう? つないで、キスリング」

 どうやってルッツと会話するべきか? 思いつく前にキルヒアイスから、ラインハルトと父親の挨拶の日時を伝えられた。彼女の父親とラインハルトは、まだ一度も会って話したことはないのだ。平民ならばそれもありそうだが、駆け落ちした貴族でもないのに、これは珍しい。

「分かりました。詳細はフェルデベルトにお願いします。ええ。それでは」

 キルヒアイスとの通話を終えて、彼女は額に手を当ててやや俯き、

「ルッツ提督を呼んできて」

「はい」

 護衛ではないので、部屋ではなく廊下に立っているルッツを呼びに行かせた。

「お呼びと」

 すぐに現れたルッツが彼女の前で膝を折り、頭を下げる。

「立って」

 彼女はこの後頭部に話しかけるのが大の苦手なので、すぐに立たせる

「かしこまりました」

 座って会話してもらえれば嬉しいのだが、それはさすがに相手が拒否するので、堪えている。

 腕を後ろに回す、軍人の立ち姿勢をとったルッツに、彼女はラインハルトの趣味について尋ねた。

 ルッツの驚きの表情に、父親とラインハルトが会うこと、

「挨拶だけで終わらせるわけにはいきません。ですが私としては、二人に少しでも会話を通して、距離を縮めてほしいのです。ですが夫の趣味が分からなくて。夫の趣味が分からない妻というのは滑稽でしょうが、事実なので。事情はルッツも知っているでしょう」

 彼女がラインハルトのことを知らないことを告げ、協力を求めた。

「事情は聞き及んでおります。それで……小官もエッシェンバッハ侯のご趣味は分かりません。キルヒアイス提督ならばご存じでしょう」

 彼女としてはラインハルトの趣味は無趣味 ―― と記憶している。

「キルヒアイス提督が用意した話題以外のものを、用意したいと思うのです」

 おそらくキルヒアイスが何らかの話題を用意してくれるだろうが、任せっきりというわけにはいかない。せっかく父親とラインハルトが直接会話するのだ。ここで好印象を与えて、できれば殺されないように ―― 好機を最大限に利用しなければと、彼女は考えを巡らせたいのだが、

「お役に立てずに申し訳ない」

 ルッツが頭を下げた。ラインハルトの趣味など彼が知らなくても当然なので、詫びる必要はないのだが、このときルッツは本当に申し訳なく思い頭を深々と下げた。

「いいえ。気にしなくて……どうしました? フェルデベルト」

「お話中、申し訳ございません。ブロンザルト商会の会長が、お会いしたいと。本人確認はできましたが……いかがなさいます」

 彼女はフェルデベルトの照会した画面に書かれている備考を読み、直接自分には関係ないが、会っておくべきだろうと面会を許可した。

「ルッツ。会長の身体検査を頼みます。応接室に通して」

 ブロンザルト商会とは火薬製銃器の専門業者である。現在火薬を使用する銃器は一般では使用されておらず、嗜好品の一種となっている。

「フライリヒラート伯には、いつもご贔屓にしていただいております。伯爵さま、そしてローデリヒさまは、このたび行われる北苑の狩猟宴にご参加なさるそうで。その宴に当社の弾丸を一つでも使っていただければと」

―― そうでした。新陛下の御名のもと、狩猟大会が開催されるのでした

 ただ嗜好品ではあるが、狩猟はすべて火薬製銃器で行われるので、男性貴族の嗜みでもある。

 彼女と父親と兄は、狩猟は好きなほうで、なかなか腕も立つ。

 そして今回行われる祝賀行事の一つである狩猟宴にも参加する ―― 彼女は招待状を見たわけではないが、立場上、必ず送られてきているであろうと予想できた。

「私は狩猟は嗜みませんけれども、薬莢の細部にまでこだわっていると……兄が言っておりましたわ。火薬の質がいいとも」

「ローデリヒさまに、評価していただけ、光栄にございます」

 北苑の狩猟は大規模で、銃器を取り扱っている店にとっては稼ぎ時。

 狩猟を楽しむ女性貴族はほとんどいないのだが ―― ヴェストパーレ男爵夫人は狩をするが ―― 小さな火薬銃を持参して、夫や親族と共に北苑へと足を運び、狩猟小屋という名の離宮で、お喋りをして時間を過ごすのだ。

「こちらの銃を、お納めいただければ」

 その離宮での会話の際、テーブルに銃の形をした宝石を乗せて、色々なものを誇示するわけである。

 銃器会社としても、名のある貴族が自分の銃を持っているとなると良い宣伝になるので、宝石で飾り立てた銃を、無料で提供しようとするのである。

「とても嬉しいのですけれども、やはり夫の許可を得てからでないと……ですが、夫は大遠征から帰還したばかりですので、お忙しいことでしょう。ここは父に聞いてみたいと思うのですが。いいかしら?」

 ラインハルトの名を出したが、最初から彼に相談するつもりなどなかった。こんな公然たる賄賂話をラインハルトに振ったら「門閥貴族どもめ!」となるのは、火を見るよりも明らかなので。

 商会会長の方も、狩猟を一切しないラインハルトより、上得意である彼女の父と会ったほうが得である。

「ローエングラム伯爵夫人にお会いしたいという気持ちばかりが先行して、決まりごとをすっかりと忘れておりました。まったくこの賤しき身の度し難きこと。本当に申し訳ございませんでした」

 

―― 絶対、知っててきただろう、このすだれ禿。それにしても目つきが……これが視姦ってやつ? 抉るぞ

 

 ジークリンデの右斜め後方に立ち、ブロンザルト商会会長を眺めていたキスリングは、舌なめずりしながら喋る会長の口をブラスターで撃ち抜きたい気持ちに耐えて ―― 会長は無事に部屋から出ることができた。

 あと一歩でも彼女に近づいたら「襲おうとしていました」とリヒテンラーデ公に殺害報告をするところであった。それを会長が知らなかったのは幸いであろう。

 

「あれほど装飾された銃は、初めて見ました」

 会長を後ろから見ていたルッツは、彼女をねっとりと見ている視線には気付かなかったが、護衛のキスリングが殺しそうな目になっていたので見当はついた。だがあえて触れはしなかった。

「あれを銃と言っていいのやら」

「小官が見たところ銃身の造りはしっかりとしておりましたので、撃つことは可能でしょう。ただ弾丸を込めるのに些か苦労しそうですが」

「ルッツ。狩猟が趣味なの?」

 火薬式の銃など貴族の狩猟か、決闘くらいにしか使われない。

「いいえ。小官は狩猟ではなく、射撃そのものが趣味でして。火薬式の銃はその延長線上のものです」

「銃に興味ある?」

「はい」

 運良くルッツの趣味を知ることができた彼女は、この好機を逃すまいと躍起になった。

「では、私の実家にいらっしゃい。父のコレクションを幾つか見てやってちょうだい」

―― 庭の一角に射撃場もあるから、楽しんでもらえるはず

「伯爵閣下の銃をですか? それは恐れ多い」

「平気よ。フェルデベルト、父上に連絡して」

「父上……フライリヒラート伯爵閣下にですね。少々お待ちください」

 

 実家に連絡したところ、父親は快諾してくれたのだが、両者と彼女の予定の合う日が一日しかなかった。

 その一日とは、ラインハルトが父親に挨拶をしに来る日。

 父と夫の初顔合わせという重要な日なので、彼女も少々逡巡したが、話せる機会は逃してはならない! とばかりに、その日に予定をねじ込んだ。

 

 こうしてルッツの趣味は分かったのだが ―― 奇しくも父親の好感を稼げる ―― ラインハルトの趣味は見当もつかず。

―― いいえ、一つ趣味はありました。そうでした、ラインハルトの趣味は戦争でした……けど、戦争するわけにいきませんし。軍人、軍人……シュターデンさんに勧められて、シュタイエルマルクの戦術論を読んでいる姿を目にしたくらいですし。そもそも、ラインハルトと戦術論を語り合ってどうしようと

 

 彼女が脳裏に描いている、父親の知り合いのシュターデンは、あの理屈倒れのシュターデンなのだが、彼女はそのことを知らなかった。彼女はシュターデンのことを「理屈倒れ」としか覚えておらず、彼女の周囲にいる軍人たちは普段は「理屈倒れ」と揶揄するも、彼女の前では猫を被って大人しく、言葉もいささか丁寧になるので、誰も理屈倒れのシュターデンとは言わなかったので、まるで気付かなかったのだ。

 

**********

 

「伯爵に挨拶か」

「はい」

「後まわしにすれば、するほど……失礼だろうからな」

 ラインハルトは彼女の父親である伯爵に挨拶すらしていない。

「用意のほうは整えております」

「そうか。お前には本当に気を使わせるな、キルヒアイス」

「いいえ。それで、ラインハルトさま。僭越ながら、伯爵とお会いする前に、ジークリンデさまの処遇について、明確にお決めになられたほうが良いでしょう」

「伯爵夫人の処遇? どういうことだ、キルヒアイス」

 彼女は現在伯爵夫人にして侯爵夫人 ―― 奇妙な状況だが、ラインハルトが伯爵夫人と呼ぶので、周囲の者たちも伯爵夫人と呼ぶこととなる。

「ラインハルトさまは、リヒテンラーデ公をどうなさるおつもりですか?」

「向こうにとって、俺は最後に処分したい邪魔者だろうな」

「はい」

「だが、黙って処分されるつもりなどない」

「もちろんです。ですが、ジークリンデさまはどうなさいます?」

 利害が一致したので手を結んでいるだけ ―― そう言い切れない要素が一つだけある。それが彼女。

「伯爵夫人か……」

 ラインハルトが憎いフリードリヒ四世から下賜されたもので、喜んだのは二つ。一つは捨て去ったミューゼルという家名、そしてもう一つは彼女。

 自らの地位は己の手でつかみ取ったという自負があるが、彼女はフリードリヒ四世から下賜されない限り、手には入らなかっただろうことは、ラインハルトも自覚していた。

 ラインハルトにとって、彼女はまさに高嶺の花で、自力で皇帝の座を得ても、彼女に求婚はしなかった ―― 権力を行使して手に入れることを恐れ、権力がなければ手に入らない。この方法以外では決して手に入らず、手放したら終わりであることを分かっていた。

 だが、大伯父を殺害した相手を夫とする苦痛も理解できる。

「貴族の女性は、自らの一族を守るためには、殺害した相手と婚姻を結ぶことも珍しくはありません。愛情が芽生えることも稀にですがありますが……それを期待しますか」

「期待か……そんな期待を持つことが許されるのだろうか?」

「私にも分かりません。では離婚なさいますか?」

「だが、キルヒアイス。いま伯爵夫人と離婚するというわけにも行かないだろう」

「そうですね。リヒテンラーデ公と手を組んでいるという、明かな証でもありますから……事態が済んだら、離婚なさいますか? 大伯父を殺害した相手と婚姻を続けるのは辛いかと。ジークリンデさまご自身から言い出すことはないでしょうが」

 リヒテンラーデ公とラインハルトは並び立たない。

 両者とも相手を最終的に排除 ―― 殺害 ―― を目的としているため、突き詰めるとそうなってしまうのだ。

「伯爵夫人を手放すのか……だが、ただ手放すという訳にはいかないだろう」

 影響力のある彼女は自由にはできない。そのため、監視できる範囲で幸せになってもらうことになるのだが、その手段はラインハルトにとって驚きであった。

「そうですね。……あまり取りたくはない手段ですが、褒美として家臣に娶らせるということになるのでしょう」

「家臣に? 家臣というのは、俺の部下に?」

 ラインハルトは積極的に彼女と離婚したいわけではないので、部下が彼女と結婚するというのは、胸になんとも言い難い不快感が広がった。

「ええ。年齢やその他のことを考えると、ミュラー提督が最適です」

 キルヒアイスがミュラーの名を出すと、ラインハルトは納得すると同時に、反射的に否定条件が口から零れた。

「ミュラーは平民だ……貴族とは比べものにならぬ良い男だが、その……伯爵夫人の夫は貴族でなくてはならぬ……ような」

 門閥貴族を嫌い抜くラインハルトだが、彼女の夫に平民を ―― そうなると、また別であった。

「ラインハルトさまのお気持ちは分かります。ですが部下の方で該当者を捜すと、ミュラー提督以外は」

「それは駄目だ。いや、ミュラーはいいのだ。ミュラーは。だが……だがミュラーにも想う相手がいることを、考慮せねばならぬであろう」

「そうですね」

 ミュラーの手痛い失恋話について聞き及んでいるキルヒアイスだが、その噂をラインハルトに伝えることはしなかった。

 

 結局ラインハルトは明確な答えを出すことはできず、キルヒアイスも離婚を強く勧めることはできなかった。二人は漠然とだが、全てが終わった時、彼女に決断を委ねようとした。

 

 ラインハルトはリヒテンラーデ公を手を切ることになっても、ここで彼女と離婚さえしていれば ―― 彼女がどうすることもできない決断で、彼女の運命は決まってしまった。

 

 ここでラインハルトが彼女と離婚を選ばなかったことが、全ての終わりの始まりであった ―― ジークリンデにとって。

 


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