黒絹の皇妃   作:朱緒

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第43話

 毎日の予行演習の結果 ――

「胃潰瘍?」

「そうじゃ」

 ペクニッツ公爵が血反吐を吐いて倒れるという事態が発生する。

 検査の結果、胃潰瘍とのことだが、

「ペクニッツが即位するわけでもないのに」

「応急処置で対応できる」

 帝国としては即位式のほうが大事なので、ペクニッツ公爵の扱いはこの程度。

「倒れるなら、式後に倒れろ」

「この先が思いやられる」

 

―― 世の中には、色々な人がいるのですよ……責めないであげて。みんな、あなたたちのように精神が極太じゃないのよ

 

 ペクニッツ公爵を心配している彼女だが、彼女自身錫を運ぶ役を賜っていながら、胃に穴が空くようなことはない。

 おそらく会場でただ一人ペクニッツ公爵を心配をしている彼女を、本番に近い状況でのリハーサルを行うため、会場に集められた「どう扱ってもいい人員」の一部である、ファーレンハイトやフェルナーらは遠くから眺めつつ、

「ジークリンデさまは、度胸がある御方だからな」

「まあね」

 平気な彼女について小声で囁く。

 外から見ている分には、彼女もそう違いはない。なにせリヒテンラーデ公の姪の子で、ラインハルトの妻で、フェルナーを部下にしているのだから ―― 神経が図太いと言われないのは、彼女の見た目と性別によるもの。

 

 美しき女性の場合は”こう”言われる ―― 芯が強い、と。

 

「全く、情けない男ね」

「カタリナ」

 カタリナは退院後、どのような手段を使ったのか、彼女には分からないが、南苑の女官長の座を得て、皇帝一家の私生活を取り仕切っている。

「……(自宅でもゆったりできないのが、胃潰瘍の原因なのでは)」

「……(少しだけ同情する)」

 退出命令が出ないので、その場に留まり、栗毛の美女の動向を黙って見つめる。

「……(フォン・ビッテンフェルト、逃げたぞ)」

「……(そりゃ逃げるでしょう)」

 カタリナとビッテンフェルトは親戚同士であり、不倶戴天の敵……どころか、

「ビッテンフェルト閣下! まだ退出許可が出て……」

 カタリナを前にすると、彼は逃げる。宇宙での勇猛さなど、そこにはない。だがそれをからかうものなど誰もいない。

 いつものようにオイゲンが追いかけ、場の空気が揺るんだところで、ペクニッツ公爵が胃潰瘍であることに関して箝口令が敷かれた後、解散となり ――

「来てたのね、あなたたち」

 カタリナに見つからないうちに人の流れに乗って、さっさと退出したかった所だが、運悪く見つかり声をかけられたため、

「はい」

 二人とも、滅多に使わない業務用の笑いを貼りつけて答える。

「良かったわね、フェルナー。予行練習とはいえ、ジークリンデが錫を持ってる姿を、直接見ることができて」

「はい」

 フェルナーはこのカタリナに、かなり”やられた”くちである。

 カタリナは”少々”攻撃的で、扇子で顎をくいっと上げさせ、頬を打つことも多々ある。基本それらは、相手が悪い時のみであり、フェルナーたちがとやかく言うことではないのだが ―― 以前、フェルナーが西苑で大怪我をし、復帰してから「護衛がなにしてるのよ。ここ? ここなの?」閉じた扇子の先端でぐりぐりと突き刺し、妻を危険に晒すと烈火の如く怒るフレーゲル男爵が「そのくらいで、この平民を許してやってくれ」と止めたくらいには凶暴である。

 ちなみにフェルナーはその一件で、せっかく重傷から復帰したのに、また一週間療養するはめになってしまった。ちなみにこれらに関して、彼女は知らない。毎日フェルナーの様子を見に来て”無理は禁物よ”そう声をかけて、体調を気遣い ―― それはそれで悪くはなかったらしい。

「式典に参加するには、上級大将の地位が必要って、残念よね。ファーレンハイト、あなたは大将よね」

 だが二人とも、カタリナのことは嫌っていない。

「はい」

「とっとと上級大将になればいいのに」

「そうですね」

 苦手ではあるが、なによりも頼りになるので。

 

「カタリナ」

 混雑が収まってからキスリングと共に退出してきた彼女は「ファーレンハイトにフェルナーと仲良く話している」カタリナのところへやってきた。

 カタリナが「二人と仲良い」と言っているので、そうなのだろうと ―― 偶には人を疑ってください、ジークリンデさま……とフェルナーは思えど、そこで疑わない彼女のことが好きなので、否定するわけにもいかず。

「ジークリンデ。その軍服、似合ってるわよ」

 やっと仕立て上がった礼服を、彼女は着用して初めて臨んだ演習だったのだが ―― 結果は代理人胃潰瘍により、途中終了であった。

「ありがとう」

「私、あなたのその軍服姿を見るために来たのよ。嬉しい! こいつらもそうでしょうけれどね」

―― 否定できないのが……

―― そうなんですけれどもね

「ジークリンデさま。ホテルに戻られますか?」

 ユンゲルスとも合流し、キスリングがこれからの予定の有無を尋ねた。昨日は色々と予定があったが、今日はこれ以外はない状態。

 なので、

「ペクニッツ公爵のご容態を確認してから、ホテルに戻ることにします」

「分かりました」

 ほとんどの人に心配されていない ―― 式が行えるかどうか? については心配しているが ―― ペクニッツ公爵に声をかけてから帰ることにした。

「あ、私も行く。なにせ皇帝一家の生活を守る、女官長ですもの!」

―― ……

―― ……

 二人は病状の悪化を予見したが、止める義理も義務もないとばかりに黙った。

「私たちも同行していいですか? ジークリンデさま」

「構わないわよ」

「一々聞かなくてもいいじゃない。あんたたち、付いて来ないほうが不気味よ。さあ、行きましょう、ジークリンデ」

 

 カタリナは彼女と腕を組み、軽やかに歩き出した。

 

 ペクニッツ公爵は、新無憂宮内の療養所にて治療を施され、

「治療は終わったのですね」

 落ち着いたら帰宅することも可能な状態まで快復していた。

「はい。もっともストレス要因がなくなった訳ではありませんので……」

「明後日を過ぎると良くなる……ということですね」

「と、思われます」

「面会はできますか?」

「はい」

 医者の許可を取り、彼女は治療が終わったペクニッツ公爵が休んでいる病室の扉をノックさせ、

「ペクニッツ公爵。よろしいでしょうか?」

 入り口で礼をして入室した。

「ローエングラム伯爵夫人! わざわざお出で下さって」

 顔色がまだ悪い ―― 娘の即位が決定してから、顔色が良い日はないのだが ―― ペクニッツ公爵の枕元にある椅子に腰を降ろし、体調を気遣う言葉をかける。

 新無憂宮に来て以来、優しい言葉を掛けられた記憶がないペクニッツ公爵は、彼女の細い手を掴み、涙ながらに感謝を述べようとして ――

「なにどさくさに紛れて、ジークリンデの手を握ってるのよ」

 カタリナに手首を扇子で殴られた。

「あ、いえ! お許し!」

「油断も隙もありはしないわ」

「カタリナ。病人ですよ。手首大丈夫ですか?」

「命拾いしたわね、病人ペクニッツ公爵。次はないわよ」

 

―― 間髪入れずに叩いた。相変わらずです、カタリナさま

 

 カタリナのことが苦手だが、同時に誰もがこの傍若無人さを頼りにもしている。もっとも、リヒテンラーデ公に「ペクニッツ公爵が、ジークリンデさまを押し倒そうとしていました」と事後報告さえしておけば、ファーレンハイトが蹴ろうが、フェルナーが叩こうが、キスリングが殴ろうが「人目はできるだけ避けるように」程度の注意で終わるのも事実。

 オーベルシュタインの場合は、冗談抜きの警告なしで始末してしまうので、危険極まりないが、事情を知っている者は誰もなにも言わないであろう。

 

 ともかく、皇帝の父親の手首が折れていると”なんとなく”困るだろうと、フェルナーが医者を呼び検査をさせたところ、軽い打ち身ということで薬を塗られるだけで済む。

「騒ぎを起こして、申し訳ありません」

―― 見舞いに来た筈なのに、傷を増やしてしまったような……

 手首の打ち身の原因になってしまった彼女は、恐縮して詫びるも、ペクニッツ公爵はとても幸せそうな表情で ―― 手を握りかけ、彼女の後ろで閉じた扇子で自らの手のひらを叩いている、ノイエ=シュタウフェン公爵家の養女閣下の眼光に気付き動きを止めた。

「いいえ。私こそ……ローエングラム伯爵夫人。本当に……」

「まことに僭越ながら、互いに協力しあって、式典を無事、成し遂げましょう」

―― 互いに協力……全員がペクニッツ公爵をフォローしているような状態だが

「はい! ローエングラム伯爵夫人。よろしくお願いします」

 役に立たない宣言を、無駄に元気よく発したペクニッツ公爵の病室を後にした。

 

「ねえ、ジークリンデ」

「なにかしら? カタリナ」

 病室を出ると、

「あのねえ、邸を買ったの。遊びに来ない?」

「あら。どちらにあるお邸を?」

 カタリナが”間違いなくこっちが本命”の話題を語り出した。

「旧ヘルクスハイマー伯爵邸。安値でリッテンハイム侯が売り出してたのよ」

「ヘルクスハイマー伯爵……数年前に家族旅行中、行方不明になったヘルクスハイマー伯爵の邸ですか?」

 当時ブラウンシュヴァイク公側に属していた彼女が、リッテンハイム侯よりのヘルクスハイマー伯爵のことを覚えているのは、敵対していたから……ではなく、彼女が珍しく帰省した時、実家の待合室で、幼い令嬢を連れ青い顔をしていた貴族が気になり ―― 夕食の席で父親に尋ねたところ、ヘルクスハイマー伯爵だと知らされた。相談の内容は当然教えてはもらえなかった。むろん、彼女も聞くつもりもなかったが。

 ヘルクスハイマー伯爵が家族旅行に出たのは、この後。そして行方不明の噂を聞き、あまり顔色が良くなかったことと相俟って、妙に記憶に残っていたのだ。

「そう、その邸。維持管理費用も馬鹿にならないし、定期的に掃除させているとはいえ、人が住まない邸は荒れるから、売りに出したそうよ」

 リッテンハイム侯は来るべき時に備えて、金が欲しいので、手元にあってもなんの利益も生み出さない”事件現場”を売りに出したのだ。

「邸には遊びに行かせてもらいますけれど……ヘルクスハイマーご一家はご無事かしら」

「リッテンハイム侯も捜したけど、見つからなかったって。まあ、私たちが悩んでも仕方ないことね。捜索の専門家が捜して見つけられないのなら、それに見つからないほうが良いとも考えられるしね」

「たしかに……」

 カタリナと話しているうちに、ヘルクスハイマー伯爵が亡命方法を聞きに来たのではないか? そんな考えが頭を過ぎり ―― あまり深く考えないことにした。

「ジークリンデさま、お着替えのほうは?」

 そんな話をしながら歩いていた彼女は問われ、

「そうね……ホテルに戻るのだから、着換えたほうが目立たないわよね。私、着換えてきますから」

 まだ着慣れない軍服を着てホテルに戻るのは、少々気恥ずかしいので、控え室へと一度戻ることに。控え室の警備はリュッケ少尉が全力を持って当たっている。

「今日は私もホテルに行く。夕食を一緒に」

「分かりました」

 キスリングとユンゲルスを連れて彼女が控え室へと消えると、すぐにカタリナが口を開いた。

「ジークリンデが遊びに来るとき、あなたたち、義眼の男もつれて来て」

 なぜ二人ともそれほど苦手ならば、早急に逃げなかったのか? 責められそうだが、カタリナを一人残し脱兎の如く去るわけにもいかなかったので ―― 貴族仕えの”さが”である。

「オーベルシュタインをですか?」

「ええ。見てみたいの。ジークリンデのこと、大好きなんでしょう」

「大好きというより、敬愛しているようですが」

「そうなの。ともかく、それを見てみたいから連れてきて。ジークリンデが居るとなれば、来るでしょう」

「それはまあ……あまり虐めないでくださいよ」

「あなたのような、大失態をしない限りはね、フェルナー」

 寒くなろうが、気圧の変化があろうが、痛むことのないフェルナーの古傷だが ―― こんな日には偶に痛む。

「言わないでくださいよ。気にしているのですから」

 

**********

 

 ホテル住まいの彼女に、

「コルネリアス・ルッツと申します」

―― ルッツ……ルッツ……義手の人でしたっけ?(誤・ワーレン)

 キルヒアイスは護衛をつけた。

「コルネリアス・ルッツ」

 艦隊司令官にして射撃の名手でもある彼を。

 能力的には問題のない人選であったが、体質的には大いに問題があった。

「はい」

「よろしく頼みます……あら? 瞳の色、青いと思ったのですけれど、よくよく見ると藤色なのですね」

 初めて見る藤色の瞳に、彼女は興味津々で、ルッツの額にかかっている明るめな茶色の髪を、細くしなやかな指でそっと避け、爪先立ちをしてのぞき込む。

 その彼女の後ろに立っていた、ルッツと同期のファーレンハイトは、事情を知っているので笑っていない目でルッツを見つめた。

 コルネリアス・ルッツ。興奮すると瞳の色が変わると有名で、とくにポーカーをするときはサングラスが必須 ――

「注意や気合いで治るものでもないしな」

「申し訳ない」

 とにもかくにも、興奮すると瞳の色が変わる体質の持ち主 ―― いつも変わった状態ということは……あまり大っぴらに言えないことなので、彼女にはルッツの瞳は藤色であると、口裏を合わせることに決まった。

 


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