黒絹の皇妃   作:朱緒

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第38話

 帰宅した彼女に、とある伝言がもたらされた。

「統帥本部から連絡?」

 それは、彼女には全く見に覚えのない場所からの連絡であった。

「はい。ご帰宅後、どれほど遅くなっても、必ず連絡が欲しいとのことでした」

「エッシェンバッハ伯ではなくて、私にですか?」

「はい」

 連絡を受け取った執事も思わず「ローエングラム伯爵夫人ですか?」と聞き返し ―― 「そうです」と答えが返ってきた。

「そうですか。ファーレンハイト、黒ビールでも飲む?」

「ありがたいのですが、仕事中ですので飲酒は」

「アッサムティーを二人分」

「はい、奥さま」

 座り心地のよい革張りのソファーに体を預けた彼女は、向かい側のソファーに”座りなさい”と手でファーレンハイトに合図を送る。

「なにかしらね? 思い当たることある? ファーレンハイト」

 指示通りに、そして行儀良く腰を降ろしたファーレンハイトは、膝のあたりで指を組み、さきほどリヒテンラーデ公に向けた薄笑みとはまったく異なる、常日頃言われている冷たい容貌からは想像もできないような優しげな笑みを浮かべ、穏やかに答えた。

「分かりませんね」

 ただ、彼女にそのように答えたファーレンハイトだが、

―― まったく分からない……わけではありませんが

 答えないだけで、幾つか思い当たる節があった。

「そうよね。ファーレンハイト、紅茶を飲み終えたら、統帥本部に連絡を取って」

 だが自分の予想を語るのは、出過ぎた真似だろうと。また明日になれば、全てが明かになるので、その時でも遅くはないと考えて知らぬを通すことにした。

「かしこまりました」

 侍女が運んできた、把手と口縁は金箔で僅かに飾られた、バランスの取れた白無地のカップに紅茶の水色が映え、それに塩味のレモンクッキーが添えられている。

「ジークリンデさま」

「なにかしら? ファーレンハイト」

「お休み前にお時間を頂きたいのですが。よろしいでしょうか?」

「構わないわよ」

 

―― なにかしらね、ファーレンハイトの表情から読めた試しはありませんけれど。お休み前……寝化粧くらいはしておきましょう。最近、すっかり怠けてました。する必要がないと、人間はすぐに怠惰になるものです

 

 紅茶を視線を落としている、やや俯き加減のファーレンハイトを前に、彼女はすぐに表情を読むことを諦め、丸形のクッキーに手を伸ばした。

 

 短いティータイムが終わり、ファーレンハイトが彼女の代理として統帥本部に連絡を入れた ―― 

「使者と言ったわよね」

 向こうの話は「明日、訪問したいので、都合のよい時間を教えて欲しい」とのこと。その時間に使者が訪れるので、よろしくお願いします……とも。

「言いましたね」

「この時期に使者が訪れるということは……」

 皇帝の死に伴う大規模な人事異動について ―― 彼女も話しには聞いていたが、フリードリヒ四世が即位してから十年以上経過してから生まれたので、それほど実感はなかった。だが今彼女はそれを実感させられている。望んでもいないのに。

「なにがしかの役職に就くことになったのでしょう」

―― おそらく侍従武官……もしかしたら侍従武官長かもしれません

 統帥本部の総長は皇帝の統帥権を代行する者である。侍従武官は皇帝に軍事に関する奏上の伝達を行う ―― 侍従武官は職務だけならば統帥本部に属するのだが、皇帝の側にいることが多いという性質上、人選に宮内省なども絡んでくる。

「さきほど会ったとき、大伯父上はなにも言ってませんでしたけど」

 軍部と宮中の両方が是とする「八ヶ月の女帝に仕えるに相応しい軍人」となれば、銀河帝国において彼女以外は存在しない。

「統帥本部は軍部ですから、リヒテンラーデ公であっても、易々と人事に口を出すことはできないでしょう」

―― 知ってはいるでしょうが、あの人ですから

「ファーレンハイト。明日、時間はありますか?」

 彼女はなんの為に使者がやってくるのか? 見当も付かなければ、軍部の公式な使者と単独で会って話したこともないので、ファーレンハイトに助力を求めることにした。

「はい」

「明日一日、私に付き合ってちょうだい」

「喜んで」

 彼女は自分に軍の役職が振り当てられるなど、思ってもいなかった ――

 

 明日の準備を整えてシャワーを浴び、ボディローションで肌を潤わせ、オリーブ色のロング丈のネグリジェに袖を通す。シルクコットン生地のそれは滑らかで着心地がよく、柔らかで質の良い眠りに誘ってくれることは疑いの余地もない。

 侍女に朝食のメニューを告げて下がらせ、ドレッサーの前に座り、久しぶりに寝化粧用のパウダーを手に取って軽くはたく。

 保湿用の淡い紫色のアイシャドウを乗せ、ラベンダーの香水を手首に垂らし、ベッドに入り、枕元に下がる使用人に繋がっている呼び鈴を鳴らす。

「ファーレンハイトです」

 使用人の控え室に待機していたファーレンハイトが、彼女の寝室をノックした。

「入りなさい」

「失礼いたします」

 扉を開けたファーレンハイトが、困惑したかのような表情を浮かべて立ちつくす。

「どうしました?」

 いつも首までかっちりと隠してしまう服を着ている彼女にしては珍しく、襟ぐりが大きく開き首筋から鎖骨にかけてあらわになっている。濡れたような光沢の黒髪との対比により、肌理細やかな白い肌は高貴ながら扇情的で、当人にその気持ちはなくとも、

「どう……といわれてしまいますと、困るのですが」

 男の自制心を試しているとしかいえない状況であった。

「ファーレンハイトのこと困らせるようなこと、したかしら?」

「自覚がないのは存じておりますが」

 絶対の信頼に応えるべくファーレンハイトは彼女のベッド脇へと近付き、

「ジークリンデさま」

 膝を折り頭を下げて手紙を差し出す。

「手紙?」

「ユリアーヌス・フォン・デーニッツから託された手紙です」

 送り主を確認しようと伸ばしていた手を止め、詰問するかのような口調で尋ねる。

「……ファーレンハイト、あなたが彼から預かったのは、指輪だけではなかったのですか?」

「はい。手紙はフリードリヒ四世の崩御のあと、渡すよう厳命されておりました。本当はすぐにお渡ししたかったのですが、遅くなってしまいました。申し訳ございません」

 

―― ファーレンハイト

―― ジークリンデさま。ユリアーヌス・フォン・デーニッツという男が、アウレーリア・フォン・ファーレンホルストという女官に”少しばかり遠くへゆくのでもう会えない”と伝えて欲しいとのことです

―― そうですか

―― デーニッツに”もう必要ない”とリングを渡されました。ジークリンデさま、アウレーリアに届けますか?

―― あなたが持っていなさい

―― かしこまりました

 

「ファーレンハイト」

 彼女は、とても子供っぽく、騙されてるべくして騙されて死んでしまった皇太子のことを少しばかり思い出し ―― 伸ばしていた手から力を抜いてベッドに乗せ首を振る。

「はい」

「手紙は読みません。焼き捨てて頂戴……それと指輪も処分して」

「かしこまりました」

 ファーレンハイトは手紙を掲げていた手を下げ、しばらくの沈黙の後立ち上がった。性格はともかく静謐さを感じさせる表情はいつもと変わらないのだが、

「他にもなにかあるのかしら?」

 眼差しがやたらと物憂げであることが彼女は気になった。

 ファーレンハイトは右手を彼女の髪に通して支えるようにし、腰をかがめて顔を近付ける。

「なにも」

 不意に目の前に現れた、見慣れているのに知らないような ―― 感じたことのない雰囲気に彼女は目を見開く。

「……」

 ファーレンハイトは顔をずらし、耳元に口を寄せて囁くように彼女に尋ねた。

「忘れておりました。指輪はどちらに?」 

「ドレッサーの宝石箱の中です」

 黒髪を梳きながら右手を背中まで下げ、近付けていた体をやや離す。

「…………そうですか。後日処分しておきます。夜分遅く失礼いたしました」

「部屋を出るとき、電気を消して」

 彼女は背中に回されている手に背を預ける。支えるように置かれていた手は彼女の背をベッドへと送り届け、名残惜しそうに引き抜かれる。

 明かりが消えた彼女がいる室内からでは、廊下の明かりを背にしたファーレンハイトの表情は見えなかった。

 

―― なんでしょう、なんか……疲れてるのかしら、ファーレンハイト。あーでも、久しぶりにファーレンハイトにどきどきしました。初めて会ったときは、あの雰囲気と面立ちに心躍ったのが……懐かしい

 

**********

 

 昨晩彼女が休んだあとに帰宅したケスラーと、翌日彼女の護衛のためにやってきたキスリング、そして従卒に着替えを持ってこさせたファーレンハイトは、

「……と、俺は考えたのだが」

「提督の考えが有力かと」

 彼女の役職や、その場合どうするかについて話合った。

「准将がいてくれて助かった。俺はこの手のことが苦手でな。いつもフェルナー任せだ」

 約十年、彼女のお願いの元、艦隊指揮を専門にしてきたファーレンハイトは、大まかなことは分かっているが、細かな軍務についてはあまり明るくない。

「そう言っていただけて光栄だ。もっと私としては、宇宙に出たいと常々思っているのだが、希望とは裏腹にこの種の仕事ばかり任せられる」

 ケスラーは艦隊指揮官を希望しているのだが、その軍官僚の才能が災いして、宇宙に出る任務につくことはまずない。持て余され気味だったのにも関わらず、前線に送られないあたり、ケスラーの才能がうかがえる。

「やはり提督と呼ばれてみたいものですか? ケスラー准将」

「それはな。卿はそうではないのかな? キスリング准佐」

「小官は初めから、自分には艦隊指揮は向かないと感じておりましたので」

 

 彼らが彼女の職務について色々と気を回しているころ、彼女はベッドの上で朝食を取っていた。これは彼女が遅く起きたわけではなく、彼らが早くから待機しているだけのことである。

 単色緑地に、ふんだんに金を施した組紐文様のトレイと、それと揃いの器が並べられている。器の中身はフルーツの盛り合わせ、サラダにスープ。クリームチーズを薄く塗り、一口サイズに切られたパン、それと白いソーセージ。

 一つ一つは小量で、彼女は誰もから小食だと思われている ―― 実際はそれほど小食でもないのだが、なにか事態があった場合、護衛が自分を抱えて走るので、重いと迷惑だろうし、自分でも嫌なので食事をセーブし、運動して体重の維持に務めている。

「使者か……レタス……あ」

 サラダのレタスを口に運んだ彼女は、ラインハルトが和名チシャことレタスを、蛇蝎の如く嫌っていることを思い出し、

―― レタスは食べないようにしましょう。レタス食べなくても死にはしませんし

 寒くはないのだが体を震わせて、朝食を終わらせてベッドから降りた。

 

 地紋様が入った深緑色のサテン生地で作られたドレス。形そのものはシンプルだが、ふんだんに使われたレースが描くドレープにより、華やかさを持ち、彼女の容姿を引き立てる。首もとを飾るのは真珠。イヤリングも首もとに合わせて真珠に。

「おはようございます」

「おはよう、三人とも。ファーレンハイトから聞いていると思いますけれど、統帥本部から使者がきます」

 

 使者がくるまでの間、彼女はケスラーの生まれ故郷の話や、キスリングがかつて経験した戦闘の話などを聞き ―― 使者が訪れ、彼女は彼らを応接室へと通した。

 使者は丸められている書状を恭しく取り出し、ゆっくりと上下に開いて、その文面を読み上げた。

 その文面は、やはり彼女を侍従武官長に ―― というものであった。

 ファーレンハイトたちには予想通りだったのだが、彼女は寝耳に水。

「夫に相談なしで決めるのは……」

 断れないことは分かっているのだが、彼女としては返事を引き延ばしたい一心で、まだ戦地から戻らない夫・ラインハルトの意見を尊重したいと申し出た。

 貴族の既婚女性たるもの、夫の意見を聞かずに自分の意志で物事を決めるなど以ての外。使者もそのことは重々に承知しているので、一度席を外し統帥本部総長に指示を仰いで ――

『エッシェンバッハ侯には私から話す』

「ではお願いします、大伯父上」

―― 昨晩のうちに教えてくださっても良いのではありませんか? 知ったところで……とくに変わりはしませんが

 彼女の後見人の一人であるリヒテンラーデ公から説得の通信が届き、

「謹んでお受けいたします」

 引き延ばしは失敗に終わった。

 こうして大任を果たした使者たちは帰り ―― 

「私が侍従武官長だなんて」

 彼らが帰ってすぐに、ソファーの背もたれに俯せて、否定の言葉こそ発しなかったが、全身で望んでいないことを表した。

 テーブルに置かれている書類には”侍従武官長ローエングラム少将”と書かれている。大佐であった彼女は、預かり知らぬところで二階級昇進し、

―― 戦場経験と軍務経験なしで少将ですよ。もっとも駄目な貴族将校じゃないですか……

 皇帝カザリン・ケートヘン一世の側近となった。

 想像もしていなかった大出世であり、彼女にとっては死亡フラグにしか感じられない配置である。

 


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