黒絹の皇妃   作:朱緒

37 / 258
第37話

 思わぬ人物から思わぬ人の存在を聞くこととなった彼女は、しばし言葉を失った。

「ところで、ジークリンデ」

「なんですか? カタリナ」

「あなた、子供のころに、あの女たらしになにかされたの? なにかされたから、怖いんじゃないの?」

 彼女がロイエンタールのことを苦手としているのは、カタリナも知っている。

「……いいえ。会ったことありませんよ」

 彼女は黙っているだけでも噂になる存在であり、対する漁色家もそれはよく話題に上る男。知りたい ―― 侍女や召使いたちに呟くだけで、真偽はともかく大量の情報が手に入る。

「あなたのお母さんは、あなたが四つの時に亡くなったのよね」

「ええ」

「あの女たらしは、あなたより九つ年上だから……会ってるはずよ、葬儀会場や墓地で」

「あの目立つ金銀妖瞳は、一度見たら忘れられないはず。でも覚えていません」

「忘れてるだけよ! きっとあの女たらしに酷いことされたから、記憶が閉ざされてるのよ! 私がこじ開けてあげる」

「いや……でも、どうしてそう思うのですか? カタリナ」

「まずね、絶対に葬儀には来てるのよ。あなたが四つってことは、女たらしは十三でしょう」

 カタリナが繰り返す”葬儀”

 貴族の葬儀は典礼省の役人が取り仕切る。そして現マールバッハ伯も典礼省の高級官僚であった ―― 軍に復帰したので典礼省官僚の地位は捨ててしまったが。

「マールバッハ伯は典礼省の首席秘書でしたね。代々典礼省に?」

「典礼省に力を持つ……いいえ、持っていた伯爵家ね。没落したとはいえ、人脈は完全に途絶えたわけではないし、再興を図る場合でもやはり典礼省でしょう。それでマールバッハ伯オスカーは、先代マールバッハ伯の三女レオノラと、帝国騎士で富豪のロイエンタールの間に長男として生まれた。夫人は浮気をしていたが、息子のオスカーはまちがいなくロイエンタール氏の子。母親は浮気発覚後、自殺したのよ」

 

 カタリナから「名前以外は、私が知っているロイエンタールで間違いありません。ミッターマイヤーがいないだけで」という逸話を聞き、彼女は頭を抱えたくなった。

 

「……本当に自殺だったんでしょうか?」

「さあ、どうかしらね貴族の自殺のほとんどは、体裁を守るため。名誉の殺人みたいなもだから。伯爵家としては、ロイエンタールの息子を産んだ時点で、もはやどうでも良い存在でしょうし」

 ロイエンタール家から金を恵んで貰うために娘を嫁がせたのに、ろくな役割も果たさずに浮気。財産を継ぐ子が運良く生まれた ―― そうなれば、伯爵家が厄介払いしたとしても、なんら不思議ではない。

「ロイエンタール家の財産ですか」

 自殺と言われているのは、ロイエンタールにマールバッハ伯爵家を継がせるために努力した人物が、わりと評判が良く”彼はそんなことはしないだろう。精神病院に隔離するくらいで留める”と思われているためである。

「そう。オスカーにはロイエンタール家の全財産がついてくる。次男とか三男とか、長女とか生まれたら財産分与しなくてはいけないから、全部受け継ぐ息子一人のほうが、マールバッハ伯爵家としてはありがたいわよね」

「オスカーをマールバッハ伯爵家の跡取りに添えたのは、財産が目的ですか」

「どう考えてもそうでしょう。九つのときに伯爵家の跡取りになるべく養子に。唯一まともと言える義理の父が、彼を伯爵家の跡取りとして認めさせるべく、僅かに残っていた典礼省への繋がりを頼りに、彼を連れて葬儀会場や墓地に頻繁に顔を出すようになるのよ」

 ロイエンタールの母親である三女は、大金持ちの帝国騎士に嫁いだ。

 二女は早くに亡くなっている。

 長女は親戚筋から婿を迎えて、伯爵家を継ぐのだが ―― 財政的にはロイエンタール家に頼ることに。そしてこの親戚筋から迎えた婿、放蕩の負債を背負うハメになった彼は、本家であるマールバッハ伯爵家を潰さぬよう、さまざまな策を巡らせ、オスカー・フォン・ロイエンタールを養子に迎えて行動に出た。

「でも来ていなかった……わけないですね。母の葬儀には大伯父上が来てましたから」

「リヒテンラーデ公が来なくても、あなたのお父さまには会わせたかったはずよ。司法省のお偉方と懇意でしょう」

 彼女の父親はどこにも務めてはない。領地運営で生活の糧を得る無欲に近い門閥貴族なのだが、オーディン大学の司法学部を卒業した関係で、司法省に多くの知り合いがいた。

 卒業成績は優秀で、人柄も悪くはないことから、問題ごと解決のアドバイスを貰いにくる貴族も多い。

―― 司法省……司法省。典礼の司法手続き……貴族の養子手続き

「……あっ」

”伯爵閣下のお陰で、我が家もやっと跡取りを得ることができました”

”これで安心ですな”

”はい。伯爵閣下のご子息はどちらに? 従卒としても優秀ですし、白兵戦の技量も将来楽しみと言われておりますので、きっとお役に立てるはずです”

”では息子ではなく、娘の護衛を頼もうか。人の出入りが多いと心配でな。ジークリンデ、こっちへおいで”

”…………これはこれは。かねがねお噂は聞き及んでおりましたが、お美しいですなあ…………。これは失礼いたしました。オスカー、来なさい”

”お呼びでしょうか”

「思い出した?」

「オスカーという青年はいたような覚えはありますが、彼の瞳は両方黒だったはずです」

「それよ!」

「どういうことです?」

「彼は幼年学校の半ばまで、片方の瞳の色を偽っていたのよ! 知らない? ……のよね。まあ、あなたはレオンハルト一筋だったものね。でも貴族令嬢の間では有名なのよ」

 彼女は生まれて二十年、ケスラーへの初恋はあったが、基本生き延びることに全てを傾けていたため、格好良い男性に浮つくような余裕はなかった。あったとしても、結婚していたので興味を持つことはなかったであろう。

「ええ、知りませんでした。両眼黒で幼年学校……年齢からすると少年だったんですね。青年だとばかり」

 また彼女にとってロイエンタールは士官学校卒業という記憶があったため、歪みによって幼年学校卒業後、すぐに士官するなど思ってもみなかったのである。

―― どうして典礼省に務めるのに幼年学校へ……医者目指して幼年学校に通っていた従卒もいらっしゃいましたね……気にしないでおきましょう。それにしても、あのオスカーがロイエンタールですか

「思い出した?」

「四歳のころの記憶なので、思い出したと言っても、朧気ですが」

 意識して覚えようと思っていた相手ではないので ―― 初恋の相手ならばまだ記憶にあったかもしれないが、残念ながらそれは翌年遭遇するケスラーなので ―― 思い出しても、思い出した”きり”である。

「その時、なにかされたりした?」

「…………特に、なにも。あの時は怖くなかったのですよ。ぶっきらぼうですが、優しかった記憶しか」

 彼女がロイエンタールに残したほどの印象を、ロイエンタールは彼女に残すことができなかった。

 

 その後、ロイエンタールの浮き名について大量に聞かされて ―― ノイエ=シュタウフェン公爵家の取るべき道について、なにも決まらぬまま彼女はカタリナの邸を後にした。

 

―― ミッターマイヤー効果がないから、あんなにも怖いのかしら……ミッターマイヤー、ロイエンタールを引き取って。かなり切実なお願いです……でも、ロイエンタールがいることは分かったけれど、同時に敵対確定ですか。困ったものです

 

 衝撃の事実を知った彼女だが、いつもの如く、何ができるわけでもないまま ―― 彼女の希望通り、退職金の分配は認められた。

「宮内省としては前例を作りたくはなく、私としても前例になりたくはないので」

 女官長として分配するのではなく、ローエングラム伯爵夫人個人として配る許可が得られ、側室と彼女を除く女官たちは検査入院となり、こうして西苑は完全閉鎖となった。

 

―― 退院後にラインハルトたちが帰還するから、アンネローゼを連れて出迎えにいこう。もちろん私は出しゃばらす、後ろに下がって。帰国後、二週間くらいは三人だけで暮らさせたほうがいいでしょうね。……よし

 

 ラインハルトに悪印象を持たれないようにするために、彼女は細心の注意を払って、その時が過ぎるのをひたすら待つことになる。

 

**********

 

 彼女の雑事が終わったのに合わせて、オーベルシュタインの自宅で食事会が開かれることとなった。むろん彼女が訪れることはオーベルシュタインに知らせてはいないし、気付かれてもいない ――

「ねえ、ウルリッヒ。どうかしら?」

 本日の彼女は室内着 ―― 首から胸元にかけてフリルで飾られているアイボリーのワンピースに、ベルベット生地の濃紺のロングスカートは、裾を白いレースがのぞいている。三㎝程度のヒールの黒い革靴。

「とてもお似合いですよ、お嬢さま」

「そう? 良かった。では、オーベルシュタインの家へ行きましょう」

「かしこまりました」

 

 彼女としてはケスラーの後ろに隠れてオーベルシュタインを驚かそうと考えたのだが、スカートの裾の広がりを隠すことができず ―― それでも、一応は試すことにした。

 オーベルシュタイン邸に到着し、執事の出迎えを受けて、中へと通された。

「よくぞお出でくださいました、ローエングラム伯爵夫人」

 発案者のキスリング、悪乗りしたフェルナー、ファーレンハイトらは、すでに食事を取っているとも教えられた。

「旦那さま、お客です」

「誰だ」

 執事は”どうぞ”と客である二人を促す。最初に現れたのはケスラー。そして背後にちらりと見えるドレスの端。

「邪魔をする、オーベルシュタイン」

「ケスラー准将……」

 ケスラーの訪問程度では驚かないが

「オーベルシュタイン」

「ジークリンデさま」

 ケスラーの後ろから現れた彼女には、大いに驚き ――

「卿らの仕業か」

「なんのことでしょう?」

 フェルナーは素知らぬ顔で言い返す。

 訪問を知らされていた執事は料理をワゴンに乗せて運び、テーブルにセッティングしてゆく。

「驚いたかしら?」

 彼女は持参した、淡い色合いでまとめられたミニブーケを困惑気味なオーベルシュタインに差し出す。

「驚きました」

 料理が並べられ会話が始まり ―― 話題は多岐に渡った。

 そこでキスリングが、オーベルシュタインが犬を拾ったことを話題にし、

「犬ですか?」

「はい」

「見たいのですけれども」

 彼女は念願の犬と対面する機会を手に入れた。

 

―― オーベルシュタインの犬! ……名前がないのにはびっくりしましたけど、オーベルシュタインらしいと言えばらしいですよね

 

 オーベルシュタインの犬は「犬」

 名前は付けていはいなかった。あまりにも”らしく”て ―― 久しく会っていなかったケスラーすら、妙に納得するほど。

「撫でてもいいかしら?」

「むろん。撫でてやってください」

 彼女は毛並みの良くない老犬を撫で ―― 老犬も大人しく撫でられた。この犬は触られることは嫌がらないのだが、

「気難しい好き嫌いの多い犬でして。なかなか餌を食べてくれません」

 ”食事”に関しては、とても気難しかった。

―― ……あれ? えっと……たしかに、ピンポイントですものね

 彼女にとって犬の餌は”これ”しかないのだが、彼らにしてみると皆目見当もつかない。なので、

「柔らかく煮た鶏の胸肉はどうかしら?」

 彼女は滅多に原作知識を表に出さないのだが、犬の餌程度なら自分が語っても大丈夫だろうと、犬を両手で撫でながら提案することにした。

「……ラーベナルト」

「かしこまりました、旦那さま」

 こうして犬は好物を毎日食べることができるようになり、オーベルシュタインの彼女に対する忠誠度がさらに増した ―― 彼女の乏しい原作知識が役だった、数少ない事例である。

 

 会話を楽しみながら食事をし、犬と対面することもでき、

「庭に穴を掘ったり、埋めたり……あの、少々問題児でして。注意しておきますわ」

「いいえ。旦那さまも楽しんでいらっしゃいましたので」

 執事とも少し会話をすることができて、非常に有意義な時間を過ごすことができた。

 

―― 人の家の敷地で穴掘って埋めて……なにをしているのですか、あなたたちは

 

「では私は帰ります。ファーレンハイト」

 訪問時はケスラーであったが、帰宅時はファーレンハイトが彼女と同行する。

「はい」

 彼女はオーベルシュタインをのぞく全員から、ケスラーとオーベルシュタインは同期なので、積もる話をさせてやりましょう……と言われ”それは良いことですね”と快諾した。

 二人がどのような会話をするのか? 非常に興味はあるのだが、かといって根掘り葉掘り聞くわけにもいかないことを、少々残念に思いながら、見送りに手を振ってオーベルシュタイン邸をあとにした。

「ファーレンハイト」

「はい」

「大伯父上の自宅に寄って」

「かしこまりました」

 それと、先日のことがあったので、ケスラーを伴いリヒテンラーデ公の元へ行きづらかった彼女は、警護が変わるこの日に尋ねることにした。

 あの日のリヒテンラーデ公の言動をファーレンハイトたちが知っているかどうか? それに関して彼女は触れていない。彼らがとくになにも言わない限り、知らないこととして振る舞う。それが約束していない約束ごとであった。

 

 夜の入りも過ぎたリヒテンラーデ公の邸は”大盛況”であった。

 

 彼女は事前に訪問する約束を、わざと取り付けておらず、格好も出かけた途中で立ち寄ったと思わせるもの。

 ファーレンハイトに土産のブランデーを持たせ、取り次ぎ役の従僕に声をかける。

「無理にとは言いません」

 従僕は主の部屋へと急ぎ、そして ――

「夜分遅く、突然訪問して済みません」

 リヒテンラーデ公は僅かながら時間を割いて、彼女と面会した。

「構わぬ。どうした?」

「お礼にこれを」

 彼女の指示を受けてファーレンハイトが差し出す。リヒテンラーデ公の好きな銘柄で、かなりの逸品。

「受け取っておこう」

 お礼というのは、退職金分配に関して。忙しいとは分かっているが、話さないわけにもいかないので、全てを整えてから事情を説明した。その時は「よかろう」とも何とも言わなかったが、止めるよう言われなかったので彼女はそのまま行動に移し ―― 「宮内尚書と典礼尚書の妻と会ってくるように」という指示があった。

 尚書本人に賄賂の性質を持つ贈りものをするのではなく、夫人に宝石なりを直接会って渡せと。それも結果に大きく影響していることは自明であった。

「人がたくさんいらっしゃって。帝国人事を一手に担うのも、なかなか大変ですね。大伯父上」

「そうでもない。お前は嬉しそうだな、ジークリンデ」

「私は仕事がなくなったので、これから普通の貴族女性として、のんびりと生きていけますもの」

「……ふむ、まあ、私から仕事は預けん。お前には丈夫な子を産んで欲しいからな」

 彼女の後ろに立っているファーレンハイトの氷を思わせる薄笑みを、リヒテンラーデ公が”どのように”解釈したか? 笑みを浮かべた当人にとっては、どのように思われたところで関係はない。

「そうですわね。努力いたしますわ。では、失礼いたします」

 そのような背後のやり取りに気付いていない彼女は、ポストが欲しくてやってきている者たちを、あまり待たせるのも悪いだろうとすぐに帰宅した。

 しばらくして人が引いた応接室で、箱から出したブランデーを枯れ木のような手で掴み上げ、

「だが……そうもいかぬようだぞ、ジークリンデ」

 リヒテンラーデ公は意味ありげで、清涼さとは程遠い笑いを口の端に浮かべた。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告