黒絹の皇妃   作:朱緒

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第36話

 オーベルシュタインは邸を選ぶ際、彼女の好みの調査が必要だと、召使いたちに尋ねた ―― その彼女たちの多くは、今彼女が住んでいる邸で働いている。

「話は変わるが、ジークリンデさまはエッシェンバッハ伯のことを、まったく案じていないそうだ」

 もともと同じ職場にいた召使いたちは、頻繁に情報交換を行っており、

「好意的に考えると、エッシェンバッハ伯のことを信用している……でしょうけれど」

 ブラウンシュヴァイク公邸にようとも、彼女の日常はある程度手に入る状態となっていた。

 とくにオーベルシュタインは、彼女たちから情報を得るために休憩室に菓子を差し入れ、休憩時間に彼女の好みを聞き出したりしたりと ―― いつの間にか自動的に、彼女たちから”ジークリンデさま情報”が届くようになっていた。

「まあな。だが召使いたちにはそうは映らぬようだ」

「それは。レオンハルトさまやファーレンハイトが出征しているときは、時間があれば空に祈りを捧げていらっしゃるようなお人でしたから」

 彼女としてはラインハルトは死なないことが分かっているため、祈りなどしない。 ―― 死んでくれたら嬉しいような気持ちもあるが、さすがに祈る気にはなれないのが彼女である。

「夫であった男爵は別として、ファーレンハイト提督のほうが、いまの夫であるエッシェンバッハ伯より余程心配されていたと……召使いたちは言っている」

 対するフレーゲル男爵やファーレンハイトは、バタフライ効果激しい世界ではいつ死ぬか? とても不安なので出征のたび、無事に帰還させてくれるよう、切に祈っていた。ただ祈る対象はオーディンではなかった。オーディンに祈ると逆に連れて行かれそうな気がしたので。

「それはそうでしょうよ。この五年くらいはレオンハルトさまも前線に行きましたけど。基本、フレーゲル艦隊の戦闘を担っていたのは、分艦隊指揮のファーレンハイトですからね。ジークリンデさまも、それはご存じでいらっしゃいましたから」

「……心配しないほど無関心なのか、心配しなくても良いと考えるほど信頼しているのか」

「でも、まあジークリンデさまの性格からすると、心配しないというのは考えられないのですが。どこぞの誰かに心が傾いている……のかなあ」

 彼女に長いこと仕えているフェルナーも、最近の彼女の言動と虚ろな状況を心配していた。それが良い方向に進むものであれば、彼らとしては問題はないのだが。

「それもあり得るな。そうだとしたら、その相手と結ばれて欲しいものだ」

 

**********

 

 フェルナーたちの予想とは違い、彼女はラインハルトのことは全く心配していない。

 ちなみに彼女は戦場でのラインハルトを心配しないのと同じくらい、ミュラーのことも心配していない。この二人はまず戦死することはないだろうと。

 軍事において彼女が気にしているのは、キルヒアイスが生き延びて元帥になった場合、マントはやはり赤なのか? キルヒアイスが赤いマントになってしまうと、ミッターマイヤーはどうなるのか? ロイエンタールがいないから青いマントになるのか? それともミッターマイヤーがキルヒアイスルートになって消えてしまうのか? くらいのものである。

 

―― アムリッツァ会戦終了しましたか。フェザーン経由で戦死者リストを手に入れて、アンドリュー・フォークが死んだかどうかを確認したいものです

 

 ラインハルトに対して無関心。あるいは他に好きな人がいる ―― と思われ始めていることなど露知らず、彼女は西苑閉鎖の雑事をこなしていた。

―― フォークが生きていると、ヤン暗殺以前に、精神病院が焼かれて、入院患者が焼き殺されてしまうので……嫌なんですよね。同盟の救国軍事会議? を阻止するためにも……門閥貴族と同盟からの侵攻で、ラインハルトがきりきり舞いしてくれたら。でもアーサー・リンチがどこにいるのか分からない。同盟の捕虜のリストなんて、私見られないし。誰かに頼むにしても、ピンポイントでアーサー・リンチは……帝国でも有名人ですものね

 

 民間人三百万人を見捨てた叛徒の指揮官は、帝国軍でも有名であった。”門閥貴族の指揮官に命じられたのならともかく、自分の意志で同じ平民を見捨てるとは酷い奴だ”と。

 

―― でもアーサー・リンチ見つけたところで、私になにができるのか? というと…………私にできるのは、来るべき終末を回避することのみ。ラインハルトの機嫌を損ねないように頑張る!

 

 初心に返り決意を固め、彼女はシュザンナの館へと来ていた。

「ベーネミュンデ公爵夫人」

「ジークリンデかえ」

 フリードリヒ四世はこの最も長く寵愛した寵姫に対し、陞爵とそれに伴う俸禄の増、そして、

「ジークリンデ。来てくれたのか」

「ええ。アルフレットさま」

 後見人としてランズベルク伯アルフレットを付けるようにと遺言を残した。家柄は申し分なく、人柄も決して横領などするような人ではないのだが……後見人に後見人が必要としか思えない人選でもあった。

 だが哀しみにくれているシュザンナを励ます、真摯なランズベルク伯を前にして、もともと彼の善良すぎる人となりをよく知っている彼女は、自身に余裕と能力はないものの”困ったことがあったら、私でよければ頼ってください”と、言わざるを得なかった。

―― シューマッハ、フェルナー、オーベルシュタイン……色々頼むかも知れません。ごめんなさい、安請け合いしてしまいました。でも、でも……

 ちなみに彼女が舘へとやってきた理由は別で、

「分かった。そういうことならば、協力しようぞ」

 シュザンナは彼女の申し出に、快く応えてくれた。

 

 彼女はその足で同じことをアンネローゼにも頼みにいった。

 アンネローゼはグリューネワルト伯爵夫人のまま ―― ラインハルトがエッシェンバッハ侯爵になることが決まっている。

 アンネローゼもシュザンナと同じように、後で返却を条件に、協力してくれることを約束してくれた。

「……」

「グリューネワルト伯爵夫人、悲しんでもいいのですよ。私はエッシェンバッハ伯にもキルヒアイス提督にも、決して言いませんから」

 あの二人にとっては憎悪の対象でしかないフリードリヒ四世だが、アンネローゼにとってはそんなに簡単に割り切れる存在ではない。

「……ありがとう、ございます」

 だが、自分を助けようと必死なラインハルトと、自分の言葉に従いラインハルトを支えてくれているキルヒアイスの生き方を、全否定してしまうような行動を取ることもできなかった。

「エッシェンバッハ伯がなにを望んでいるのか、私も朧気ながらですが理解しているつもりです。ですがグリューネワルト伯爵夫人の心は自由です」

 アンネローゼはアンネローゼであって、ラインハルトではない。

「ジークリンデさま……」

「検査入院が終わりましたら、お迎えにあがりますので。お待ちしております、お姉さま」

「ありがとう、ジークリンデさま」

「私のことは、ジークリンデでお願いします」

 

 こうしてアンネローゼの館を出て、キスリングの運転で最後に協力を求める相手、カタリナの元へと向かった。

「キスリング」

「はい」

「わざわざ言わなくても口外しないことは分かっていますが、グリューネワルト伯爵夫人のことは……お願いね」

「はい」

 シュザンナとは違い、アンネローゼがフリードリヒ四世に対してどのような感情を持っているのかは分からないが、ラインハルトのそれと完全に一致しているとは ―― 彼女には見えなかった。

 

 栗毛が美しいやや釣り目の美女ことカタリナは、さきほどの二人とは違い ―― もう少し、悲しんで見せたほうがいいのではないかと、周囲が冷や冷やするくらいに軽やかであった。

「退職金の分配? 側室たちに」

「慰労金が出ない側室に配りたいのですけれど、選んで配布すると色々と問題がありそうなので、側室全員に分配することにしたのです」

「ベーネミュンデ公爵夫人やグリューネワルト伯爵夫人にも?」

「ええ。私の希望を説明したら分かってもらえました。それでカタリナが最後の一人」

 この三人が受け取ったとなれば、それ以外の者たちも受け取りやすくなるので、最初に事情を話して協力を求めたのだ。

 渡すのは ―― フリードリヒ四世の子がいないかどうかの最終確認 ―― 検査入院後。

「いいわよ。ただし条件があるわ」

 貴族の娘や俸禄を約束された爵位を所持する者にとっては、さほどの額ではないが、慎ましい生活を送るものにとっては、当座は困らない程度の額である。

「なに? カタリナ」

「まず一つめは、分配金は受け取るけど、あとで返却するからね」

「それは二人にも言われました。でも受け取ってくれていいのですよ。私の個人的な満足に付き合ってもらうという意味もありますが、カタリナたちがいてくれたことで、西苑の女官長の仕事が楽しかったのも……」

「いやよ。それを聞いたら余計にいや」

「そうですか。わかりました。それで、一つめということは、まだ条件があるですね」

「もちろん。二つめは、来るべき内乱の際、ノイエ=シュタウフェン公爵家はどうするべきか? 教えて欲しいの」

 カタリナを生まれた時から世話をし、養女となった先にも、側室となった先にも付いてきた初老の侍女が表情を強ばらせた。

「それは……私が教えて欲しいくらいです」

 そして話題を振られた彼女も、少しばかり体を固くした。

「なに言ってるのよ、ジークリンデ。あなたは門閥貴族最大の敵エッシェンバッハ伯の妻にして、最大中立勢力の庇護下にあるじゃない」

「最大中立勢力?」

 西苑の後片付けや手配に忙しく、権力闘争や保身のために必死になっている貴族の動向など、彼女はまるで知らなかった。

 なによりこれらの情報は”あとでフェルナーに聞こう”が最も効率がよいので、それほど真面目に集めていなかったことも関係している。

「ブラウンシュヴァイク公は中立を選んだそうよ。宇宙艦隊司令官もブラウンシュヴァイク公私軍とは、ことを構えたくないでしょうし」

「ファーレンハイトが練度を上げたので、それなりに戦える艦隊ですからね」

「貴族の私軍の中じゃ最強ですものね。正規軍とやりあっても勝てるんでしょう? 凄いわよね」

―― 正規軍とやり合って勝てないと、逃げられないと思ったので……必死になってファーレンハイトに鍛錬を頼みましたから

「ファーレンハイトが十年近くかけて鍛えてくれましたし、あと演習も頻繁に行いましたから」

「その演習よ。演習とは言え他の貴族私軍に負けるのは恥だからって、ほとんどの貴族の私軍は演習しないじゃない。まったく実戦経験なしの艦隊を所持しているほうが恥でしょうに」

 貴族の私軍は規律なく、また鍛錬もない。

 正規軍が行う合同演習などが行われることは ―― カタリナが言った通り、己の軍の不甲斐なさを晒すことも、演習で負けることも彼らのプライドに傷をつけることになるので、滅多に行われることはない。

「恥というより、無駄でしょうね」

「ノイエ=シュタウフェン公爵家も、御多分に漏れずそうなのよ。あなたの夫である宇宙艦隊司令官の配下にはなれないし、かといって中立というのも。あなたの夫、門閥貴族嫌いでしょう? 中立といってもそれを維持する力もないのが現状なのよ」

―― ラインハルトの覇気は、隠しきれるものではなかったようです

 ラインハルトが権力を握るために門閥貴族と一戦交えることは、もはや避けられない状況だと、誰もが予測していることに、彼女は少々どころではなく驚いた。

「中立を申し出れば……ノイエ=シュタウフェン公爵家ですものね」

「そうなのよ。ノイエ=シュタウフェン公爵家なのよ。結構な名門じゃない」

「すごい名門ですよ」

「ブラウンシュヴァイク公爵家は強いし、あなたの元の嫁ぎ先ということもあるから、エッシェンバッハ侯も中立を認めるでしょう」

「ブラウンシュヴァイク公爵夫妻には、私も色々とお世話になりましたから。中立というのなら、全力で守らせてもらいます。あとはリヒテンラーデ一族全てとまでは言いませんけれど、実家のフライリヒラート伯爵家くらいは」

 

―― 大伯父上がラインハルト排除を企てているかどうか? 企てていないとしても、ラインハルトにとって邪魔……でも排除する際に、キルヒアイス殺害の黒幕に仕立て上げられたわけだから、キルヒアイスさえ生き延びていれば。ブラウンシュヴァイク公爵は中立だから、アンスバッハが暗殺を企てることもなく……

 

「そう言えば、カストロプ公爵家も中立を宣言したそうよ。カストロプだけでしょう? ブラウンシュヴァイク軍と合同演習してたのは」

 カストロプ公私軍との合同演習は、彼女が希望したものである。もちろん最初から合同演習を持ちかけたわけではなく、軍事的才能があるマクシミリアンをその気にさせて、私軍の練度を上げるために協力すると持ちかけて ―― 原作よりもずっと素直で真面目であったマクシミリアンは、彼女の下心に気付くこともなく、フレーゲル男爵と彼女に深く感謝して、ファーレンハイトに殴られようとも耐えて、カストロプ公私軍を鍛え上げた。

「ええ。マクシミリアンは負けることを恥とは考えませんでしたし、なにより才能もありましたから。中立はマクシミリアンもそうですが、義理父マリーンドルフ伯の意見が大きく反映されていると思われます。伯は中央の政争から距離を取りたいお人ですから」

「あとブラウンシュヴァイク公私軍と演習してたのって、黒色槍騎兵艦隊くらいよね」

「はい。でもそれは皇帝親征軍ですから、夫の軍と協力しないまでも、対立することはないでしょう」

「フォン・ビッテンフェルトだって、あなたと敵対することはないでしょう。まともに戦える艦隊は、全てあなたを守るために存在している……といっても過言じゃないでしょう? ジークリンデ。だからあなたは安心するべきよ」

 たしかに艦隊そのものは、彼女を攻撃しないが ―― もともと貴族女性なので、戦場に立つわけではなく、政争に敗れて流刑の道が待っているので、カタリナにそうは言われても、あまり安心はできなかった。

「それは偶々というか……でもブラウンシュヴァイク公爵が中立とは驚きました」

 中立してくれたことは嬉しいが、

―― 中立したせいで、別の誰かが報復的にヴェスターラントに……は止めて欲しい。内乱中は、誰かがずっとヴェスターラントにいてくれたら

 そこがもっとも、彼女にとって気になるところであった。

「それね。リッテンハイム侯の使者と大喧嘩して、中立を決めたそうよ」

「使者と喧嘩ですか」

 ヴェスターラントの行く末を案じていた彼女は、中立理由の出だしを聞き、何とも言えない気持ちになった。

「ええ。まあその使者ってのが、あのマールバッハ伯だったそうよ。すっごい挑発的で、ブラウンシュヴァイク公、頭の血管が切れるんじゃないか? って、アンスバッハが心配するくらい怒ってたそうよ」

「マールバッハ伯ですか」

 ”リッテンハイム侯、本気じゃなかったのでは?”彼女はそう考え ―― それは正解であった。むろん彼女が知るところではないが。

「マールバッハ伯と言えば、あの女たらし、軍に復帰したのよね」

「そうらしいですね。軍法会議所で、復帰手続きを終えたばかりのマールバッハ伯に会いました」

「そうだ、忘れてたわ。リッテンハイム侯の私軍も、この一年くらい鍛えられて結構動けるようになったそうよ。そのマールバッハ准将、かつてのロイエンタール大佐が容赦無く鍛えたとか」

「ロイエンタール大佐? え……」

 オスカー・フォン・ロイエンタールという名で、金銀妖瞳の眉目秀麗な美丈夫。不倫のち出産、目玉を刳り貫こうとして失敗。その後自殺した女を母親に持つ、下級貴族出身の男となると帝国全土を捜しても ―― 彼しかいない。

 こうして彼女は、オスカー・フォン・マールバッハとオスカー・フォン・ロイエンタールが同一人物であることを、知ることができた。

 

 背後に立っているキスリングは事情を知っているので、できれば会話を阻止したかったのだが、立場上それは無理であった。

 


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