黒絹の皇妃   作:朱緒

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第35話

 かつての彼女は自分が大人だという意識が抜けず ―― 

 

 ケスラーは彼女を美術館近くの公園へと連れてきた。地上車を止めて、ドアを開き彼女に手を差し出す。

 降りるのが億劫だった彼女だが、ケスラーの労りと心配を含んだ表情と差し出された手にに、思わず手を乗せて ―― 外へと出た。

 冷たさを含む空気を吸い込み、少しばかり咳き込む。

「大丈夫ですか? お嬢さま」

「……平気よ」

 喉はすぐに外気に慣れ、それと共に咳も止まる。

「一緒に歩いてくださいますか?」

「ええ」

 彼女はケスラーと腕を組み、帝都の散歩道の一つを俯きながら歩いた。

「旦那さまのお許しを得て寝室に向かいましたが、お嬢さまはいつもお休みでいらっしゃいました」

 彼女は五歳の頃、夜の散歩をケスラーに希望したのだが、夜どうしても起きていられず。自分から誘っておきながら、一度も実行することはできなかった。

「ごめんなさいね、ウルリッヒ」

「いえいえ。お嬢さまの可愛らしい寝顔を、拝見する幸運に預かることができましたので」

 彼女が指定した夜の十時に部屋へと向かうと、そこにはベッドの中ですっかりと夢の国へと旅立っている彼女の姿があった。

 ケスラーは枕元に訪問の証拠 ―― 可愛らしい包装紙に包まれたチョコレートを一つ置いて立ち去る。

「夜の散歩はできなかったけれど、朝起きるとウルリッヒが来てくれた証拠が、枕もとにあるのがとても嬉しくて……だから、できなくても約束をしていたの……でも、今おもえば、夜まで拘束してごめんなさいね」

 目覚め、枕元にあるそれは、彼女をとても幸せな気持ちにしてくれた。

「いいえ。仕事ではありますが、お嬢さまのお側にいられるのは、私にとってとても幸せな時間であります。それは昔も今も変わりありません」

 足元とドレスの裾だけを見ていた彼女は視線をあげる。

「ありがとう」

 昔は屈んでもらわなければ決して届かなかった肩口ちかくに額を押しつけた。黒く艶やかな髪が流れ、耳の後ろから顎に掛けてのラインが露わになる。

「お嬢さまのお父上は、おっしゃっていました。お嬢さまには幸せになって欲しいと」

「……そう、ですか」

「ええ。……そろそろ戻りましょうか、お嬢さま」

 暗い色合いの軍服の側にあって、肌の白さときめ細やかさがより際立つ。

「そうね、ウルリッヒ」

 

 アムリッツァ会戦にて、ラインハルトの圧勝の報告が帝星に届いた ――

 

 それから数日後、彼女はキスリングを連れて新無憂宮へ行き、西苑閉鎖の後片付けを、ケスラーはオーベルシュタインに呼び出され、ブラウンシュヴァイク公邸の軍人たちの詰め所へと来ていた。

 

 オーベルシュタインはケスラーに、ある仕事を持ちかけた。

「憲兵隊の再編成……か」

「然様。卿は軍官僚としての能力に恵まれている。卿がエッシェンバッハ伯の部下であることは重々承知している。だがその能力を少々貸して欲しい」

「エッシェンバッハ元帥の許可が降りれば、幾らでも力は貸そう」

「そうか。では許可を貰うとして……話はそれだけだ、わざわざ呼び出して……」

 オーベルシュタインは彼らしく、用件のみで終わろうとしたのだが、ケスラーはケスラーで話したいことがあったので、この呼び出しに応じたのだ。

「私からも話があるのだが、時間はあるだろうか?」

「構わないが」

「実は先日このようなことがあってな……」

 

 そこで先日リヒテンラーデ”公”が彼女に言ったことを、誇張なしに淡々と、だが彼女のことを考えるとやるせない気持ちを隠さずに告げた。

 

「なるほど。国務尚書……いや、帝国宰相らしい言い分だ」

 ペクニッツ公爵とカザリン・ケートヘン一世を擁した国務尚書リヒテンラーデ侯は、いまや帝国宰相にしてリヒテンラーデ公である。

「お嬢さまが傷ついておられてな」

「……だろうな」

「それで、お嬢さまが望むとは思えぬのだが、リヒテンラーデ一族を背負っている御方だ……無理をしそうな場合は、私が止めるべきだと考えているのだが。出過ぎた真似だろうか?」

「いいや、そんなことはない。卿が諭して止めるべきだ」

「そうか。ところで、お嬢さまは想う方はおられるのか? いるなら教えて欲しい。その方との逢瀬を阻止するようなことはしたくはないからな」

「ジークリンデさまは卿の上司の妻だが? 言いたいことは分かるが」

 ケスラーやオーベルシュタインは、彼女がラインハルトに対し愛情や思慕らしきものを、全く持っていないこと、また心が漫ろになっていることに気付いているため、そう言いたくなってしまうのだ。

「そうなのだが……そうだったな。すっかりと忘れていた。今のは聞かなかったことにしてくれ」

「分かった」

 

 ケスラーが去ったあと、隣室との扉が開き、金銀妖瞳の准将・ロイエンタールが現れた。

 

「リヒテンラーデ公を殺すのか?」

 単刀直入に尋ねてくるロイエンタールに、

「元々地球教徒の襲撃リストのトップにある名だ。死んでも構うまい」

 なんの抑揚もなければ、感情も感じさせない声でオーベルシュタインが肯定する。

「そうか。それも良かろう」

 ロイエンタールは先程までケスラーが座っていた椅子に腰を降ろし、語るかのように男らしいが優美な指先を動かす。

「卿としても、仕事がやりやすくなるであろう」

 リヒテンラーデ公はラインハルトを排除 ―― 抹殺 ―― しようとしている。

 彼女はラインハルトのことを好きではないし、厄介だとは思っているが、殺してして欲しいとは願っていない。全てにおいて彼女を優先するオーベルシュタインは、彼女の意志を尊重すべく、リヒテンラーデ公にテロで倒れてもらう方向で計画を立てていた。

「まあな。ところで、エッシェンバッハ伯は、来るべき帝国内乱の際の同盟対策として、工作員にアーサー・リンチを選んだようだ」

「エル・ファシルで民間人を見捨てた指揮官か」

「その通り。この指揮官、捕虜交換で母国へと帰ると、当然軍事裁判にかけられる」

 三百万人を見捨てたのだから、裁判は避けられないし、その前に逮捕もされる。

「私のようにな」

 同盟では負の意味で有名人であり、多くの人に憎まれているであろうアーサー・リンチは、フェザーンを経由したとはいえ、どのようにして誰にも見つからず帰国し、軍高官と接触したのか? 七年以上異国の地にいた彼が、どのようにしてクーデターを起こしそうな人物を選び得たのか?

「そうだな。だが同盟にはジークリンデはいない。この、見つかったら即袋だたきに遭いそうな男を、どうやって軍官僚に引き合わせようというのか?」

 ラインハルトであろうとも、同盟軍内部、個人の多岐に渡る主義主張など掴めるはずもない。それを知るには最低でも同盟に”いる”必要がある。

「エッシェンバッハ伯も、地球教徒の存在に気付いたか」

 煽動するかのように動くロイエンタールの手と、微動だにしないオーベルシュタインの義眼。

「ただし、それほど酷いものだとは考えていないようだ」

 ラインハルトは責務から逃げ、酒に逃げたアーサー・リンチを、特に弱い男だと決めつけたのだが、彼はそれほど特別だったわけではない。五百年続く帝国を打倒しようと考える男から見たら、ほとんどの男は弱く見えてしまうのだろうが ―― どちらかと言えば、ごく普通の人間である。愚かであり卑怯であったが。

「そうでなければ、捕虜たちを調査なしで迎え入れるなどせぬであろうよ……この件から外れたジークリンデさまが、おっしゃっていた」

「なんと?」

「”多くの人たちが傷ついて帰ってくるのでしょうね。酒や麻薬、そして宗教に逃げざるを得なかった人たちが”……強い精神力を持っているエッシェンバッハ伯には、分からないことであろうな」

 多くの情報を持っているロイエンタールが彼らと合流したため、彼女はサイオキシン麻薬と地球教徒の調査から外され ―― 唐突ではあったが、彼女は「全てが終わったら、詳細とまでは言いませんが、概要くらいは教えてください」とだけ言い引き下がった。

「ああ、そうだな。あの閣下の周囲にも弱い男はいたようだが、その弱さを一切認めず、拒絶して終わったそうだな」

「エッシェンバッハ伯にとって、酒に逃げ、溺れた父親のような兵士など、必要はないだろうが」

「だがそのような兵士が大勢含まれる。遠く離れた地のクーデターをコントロールする代わりに、大量の危険分子を懐に抱えるわけだ」

 自分がすることを、他人がするとラインハルトも考えなかったわけではなかろうが、標的が自分ではないので、些か甘く考えていたのは ―― 後日の帝都の惨状を前にした時、さすがにラインハルトも否定する言葉を持たなかった。

「最大の標的はリヒテンラーデ公だが」

「国内が安定を取り戻したら、地球教本部を叩こうとしていると噂が流れてはなあ……卿の情報操作、恐れ入る。ところで……」

 ロイエンタールはまだ会話を続けたかったが、

「マールバッハ伯。ブラウンシュヴァイク公がお会いになるとのことです」

 アンスバッハがやって来たので、訪問目的を果たすために会話を打ち切り立ち上がった。

「分かった。それでは、また」

 軍服をまとった均整の取れた体が、優美さを持って立ち上がり ―― 部屋を出ていった。

 

 案内するアンスバッハの後ろで、

―― 決してリッテンハイム侯と合流させたりはせぬよ。侯は望んでおらぬし、なによりジークリンデの大事な義理伯父さまなのだからな

 口元を歪め、ブラウンシュヴァイク公に嫌われる言葉を舌の上に用意して、邸の主の元へと出向いた。

 

**********

 

「社会秩序維持局の方と話がつきましたよ」

 フェルナーはリヒテンラーデ公の命令を受けて、社会秩序維持局に「ラインハルトの命令に渋々従うように」詳細な事情は説明せず、だが後々うま味があることを言外に匂わせ、彼らを説得しにいっていた。

「局長はハイドリッヒ・ラングであったか。骨が折れたであろう?」

「そうでもありませんよ、パウルさん」

「そうなのか?」

 ジークリンデは帝国宰相になるような大伯父を持つ身なので、軍人のいないパーティーにはよく出席していた。

「ラング局長はジークリンデさまのかつての義理父、フレーゲル内務尚書に媚売ってましてね、パーティーなんかで何度か間近で見たことがあるので、大体言動は分かるんです。それに、ジークリンデさまが”プライドがないように振る舞っている人ほど、プライドは高いものです。彼はそういう人ですから……注意なさい”とも」

 アイゼンナッハだったり、ワーレンとルッツを混同している彼女だが、ハイドリッヒ・ラングのことは、提督たちよりも詳しく覚えていた。

 ロイエンタールを死に追いやった男として ―― ただし、なにがどうなって、どうなったから、ロイエンタールが追い詰められたのかまでは覚えていない。ある意味、ワーレンとルッツの混同と大差はない程度の記憶と言えよう。

「なるほど」

「なによりラング局長の妻子はジークリンデさまのファンですから。妻子をパーティーに連れてきた時、ジークリンデさまから声を掛けましてね。妻子共々感動してました。ラング局長、あれで愛妻家で家庭的な人なんで。だからジークリンデさまの部下扱いの私のことは、粗雑にできないんですよ。国務尚書……ではなく帝国宰相もそれを知っているから、私に説得に当たらせたのですけれども」

「二面性、というものか」

「ですね。まあ、これでテロ発生後、キルヒアイス上級大将を罪に問う下地はできました……暴発しますかね? パウルさん」

 ラインハルトは捕虜交換で兵士たちを手に入れる。臣民の支持を必要とする彼は、捕虜たちを社会秩序維持局や憲兵隊の尋問、及び拷問から守る。

 その守られた彼らの一部にテロを遂行させ、責任を捕虜交換を行ったキルヒアイスに負わせる。ラインハルトはその時、どのような行動を取るか?

「エッシェンバッハ伯にとって、キルヒアイス提督はかけがえのない存在らしいからな。彼を罪に問い降格させることができるならば、まだ可能性はあるが……どうかな」

「なってみないと分からないと。ところでパウルさん、本気でエーレンベルク元帥も排除するんですか? リヒテンラーデ公は容認しましたけれども」

「ああ。エッシェンバッハ伯の専横を押さえるには、兵士たちに信頼されている者が軍務尚書につく必要がある。門閥貴族出のエーレンベルク元帥では、平民出の兵士たちがエッシェンバッハ伯に流れるのは当然だ」

「誰を軍務尚書に?」

「メルカッツ上級大将。元帥になってもおかしくない人物だ。特にエッシェンバッハ伯にはない、人格というものが備わっている」

「確かに人格者ですが。それが重要ですか?」

「エッシェンバッハ伯の人気は、彼が戦って勝つことにある。だがメルカッツ上級大将は負けても、尊敬が失われることはなく、その人格を否定する者は少ない。だがエッシェンバッハ伯は負ければその人気が確実に翳る」

「……なるほど。まあ、なんにせよメルカッツ上級大将が元帥ってのは、納得の人事ですね。こっちとしては、ジークリンデさまのことで、見事な箝口令を敷いてもらった恩もありますし」

 箝口令とはゼッフル粒子による呼吸障害について。

 これもやはり劣悪遺伝子排除法に引っかかるもので ―― 既に悍ましい力を失っているが、それでもやはり秘密にしたほうが良いものである。

 メルカッツは彼女の呼吸障害に関して部下に箝口令を敷き、それは見事に守られ、あの場にいた者しか知らない状態が保たれている。もっともメルカッツの性格からして、排除法などなかろうが、同じように指示をだしたことであろう。

 またファーレンハイトの部下も、これに関しては一切口外せず秘密は完璧に守られた。


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