黒絹の皇妃   作:朱緒

34 / 258
第34話

 犬を乗せて汚れてしまった地上車の車中を掃除しながら、オーベルシュタインは”分かってくれる”可能性のある相手に、あることを漏らした。

「あの方と目が合ったとき、あの方は私のことを、以前から知っていてくれたのではないかと……そう思ってしまった。私もアンドリュー・フォークという男を笑えないな」

 腕まくりをして座席下を拭きながら言うオーベルシュタインに、マットについた犬の毛を取っていたキスリングが答える。

「それ、分かります、パウルさん。”あら? 来てくれたの”と……言われたわけではないのですが、言われたような気がしました。うまく表現できませんが、パウルさんの感覚と同じといいますか。そう言って欲しかっただけなのかもしれませんが」

「……そうか、私だけでなくて良かった」

「でもアンドリュー・フォークとは違うと思います。むしろ、違うと思いたい」

 

**********

 

 アンドリュー・フォークはイゼルローン要塞で、彼にとって無能な前線指揮官たちに檄を飛ばしていた。

 前線の無能な指揮官たちは、邪悪な専制君主国家の手先どもと戦うことなく撤退しようとしている。

 それどころか、彼に前線に出て来いとまで言いだした。

 彼は彼女を無事に救い出すためには、前線へと赴くことはできない。なぜならば、ロミオとジュリエットの最大の悲劇は、連絡伝達不備によるものである。ジュリエットが仮死状態で待っていることをロミオが知らず死んでしまい、そしてジュリエットが彼の後を追って死んでしまう ―― もしもアンドリュー・フォークが戦死したという誤報が彼女の耳に届いたら、彼女が死を選んでしまう。それは彼にとって確定している事実であり、どうしても避けねばならない出来事であった。

 

「だから小官は前線に立つわけにはいかないのだ! なぜそれが分からないのだ!」

 

 ”自分と彼女”と”ロミオとジュリエット”を都合良く混同している彼は、イゼルローン要塞という誤報が出ない場所で、無能な指揮官たちに攻略を頼らざるを得ない ―― この歯痒くもどかしい気持ちをどうして理解しないのか?

 

 そんな彼の訳の解らぬ理論を押しつけられた、ビュコック提督の言葉は正しく、

「彼はなにを言っているのだね?」

「さあ。本官にも分かりかねます」

 副官の意見も正しい。

 

 ただ倒れた彼をモニター越しに眺めながらそう呟き、軍医からヒステリーであることを告げられ ―― 

 

 この会戦でアンドリュー・フォークが戦死したと聞いたら、彼女は宇宙でもっとも疑い、死ぬどころか、全力を持って調べたであろう。

 なにより彼女には、アンドリュー・フォークを追って死ぬ義理はない。その存在は知っているが、知らないのだから。

 

**********

 

―― 倒錯した世界よねえ

 

 アンドリュー・フォークが彼女への愛を、周囲の者たちが理解しないどころか妨害し、それに耐えかねてひっくり返っていた頃、彼女はロイヤルボックスで、オペラを観劇していた。

 急遽決まった観劇で、それに関してキスリングは平静であったが、タイトルがロミオとジュリエットと聞いた時、”え?”という表情を思わず浮かべてしまった。

 

 彼女の隣には、劇に対して興味のなさを隠そうともしないフォン・ビッテンフェルト。

―― それにしても、キリスト教は絶えて久しいのに、そこかしこに痕跡が残っているのが……

 二人が観ているオペラは、演じているのは全て男。

 女性役は全てカストラート ―― 去勢された男たちである。

 ルドルフは彼の主観における退廃した文化を排除した。その際に女性が舞台に立つことも禁じ ―― 結果、地球上で二十世紀に消滅したカストラートが、復活を遂げることになった。

 カストラートがもてはやされたのは、教会で女性は沈黙していなくてはならないとされたことが理由で、カストラートが消滅していった理由の一つは、女性が教会で沈黙しなくても良くなったことが挙げられる。むろん、人権的な見地からも廃止されたのだが、退廃した文化を嫌うルドルフの命により”退廃以前の文化”として甦ることとなった。

―― カストラートひとつ取っても、同盟とは相容れないのは分かりますけど……こっちは、ルドルフが甦らせたものなので徹底抗戦するしかないのですよ。たしかに悪いことだとは思いますけれど

 同盟からすると、年端もいかぬ男児の睾丸を切除することは、人権侵害も甚だしい。また女性が舞台に立つことを許されないのも、女性軽視として到底受け入れられない。

 同盟の全ての人が自らの政治形態が神聖なものだとは思っていないが、帝国の非人道的ともいえる文化を容認することはできない。

 

―― 私も民主主義には特になにも思っていませんでしたけれど、宗教による女性のあれとか……は、女性の権利がある程度守られている安全な国に生を受けたので、助けるべきだと思いましたよ。帝国の現状はそれに近いものですから……滅ぼしたほうがいいと考える人が多いのは当然でしょう

 

 帝国が勝てば、カストラート以外にも存在する、彼らには受け入れがたい文化を押しつけられることとなる ―― そのように考えられても仕方がない。

 

―― 由緒正しい帝室直轄のカストラート歌劇団だから、廃止するにも……結構、嫌いな人が多いのですけれども。実際、ビッテンフェルトも嫌いですし。話すとみんな、下腹部のあたりを押さえて目を背けますもの

 

 観たくもなければ来たくもない歌劇を、こうして不機嫌ながらビッテンフェルトが観ているのは、帝室関係の行事だからである。

 もっともビッテンフェルトはこれが本当に嫌いで、逃走したことは一度や二度ではない。そのたびにオイゲンが必死になって捜す ―― 普段であれば彼女にこんなことを頼まないオイゲンだが、ビッテンフェルトが逃走中に小康状態を保っている皇帝に異変が起き、早急に新無憂宮に向かうことになった場合、見つけられないと非常に困るので ―― オイゲンから事情を聞き頼まれて、彼女はこうしてビッテンフェルトとカストラートのオペラを観ていた。

 

―― それにしてもフェルナー。なにもあんな情けない顔しなくても

 

 帝国に生を受けた以上、カストラートは必ず一度は通る道 ―― フロリアン少年とカスパー一世のことは、醜聞だが貴族ならば一応は学ぶ。

 彼女がこれについて教えられたのは十六歳の時。重要人物のフルネームすら覚束ない彼女は、いつも通り「ああ、そんな人もいたような気がしました」と流しつつ、

「去勢とは睾丸を切除することですよね、アントン」

 悪気なく言ったところ、話しかけられたフェルナーが、

「やめて下さい、ジークリンデさま。お姫さまは、そういうこと言っちゃ駄目です」

 それは情けない表情と力のない声で、彼女の言葉を制した。

 ”たかが去勢くらい……それに、お姫さまじゃありませんよ”と思った彼女だが、心底言わないで欲しいのだろうと、彼女にも容易に見て取れる表情を前に口を噤んだ。

 あとでファーレンハイトに、確認の意を込めて聞き返すも、

「……と言ったら、アントンがとても情けない顔をして、止めてと」

「はあ。それで、私に何を聞きたいのですか? ジークリンデさま」

「去勢とは睾丸を切除することで間違いないのよね? アーダルベルト」

「……はい…………(またそんな言葉を、どこで覚えてきたのやら)」

 フェルナーほどではないが、ファーレンハイトも困り果てた表情で返事を返したので ―― 以来、それに関しては話さないようにしている。

 

 彼女はフェルナーを原作通り、容赦無く踏み込んで来る人として認識している。実際フェルナーは、遠慮なく彼女の額にキスをして「ジークリンデさまは、賢いの端にぎりぎりぶら下がるくらいですよ」と言い放つ。

 まさに原作通りで、彼女も自分のことは然程賢いとは思っていないため、フェルナーの言動を特に咎めることもなく、友情の証のようなキスも黙って受け入れている。

 だが本当のところ、フェルナーはオーベルシュタインといい勝負の彼女の崇拝者で、色々と彼なりにできる限り、普通に接することができるよう努力した結果であり、それが限界でもあった。

 

―― 夜ごと姿を変える不実な月……ね。月はいまでも、地球を照らしているのかしら

 

 彼女は今にも立ち上がって出て行きそうなビッテンフェルトの手に、そっと手を乗せ黙って舞台を見つめる。

 演劇そのものは見事なのだが、パンフレットに書かれている出演者の経歴などを読むと ―― 五歳のころ有名な指揮者に見出されてカストラートの道へ ―― 彼女としても、ビッテンフェルトの気持ちはわかる。存在を認めていいものか? 認めなければ? そんな複雑な感情をいだいたまま、悲劇は幕を降ろし、喝采を受ける彼らを見つめる。

 こうして見事だが不愉快な舞台が終わり、オイゲンが安堵の表情で退室をうながし、彼女はそれに従って椅子から立ち上がろうとしたのだが、

「ジークリンデ」

「はい」

 離れた彼女の手をビッテンフェルトが握り絞めた。

「話があるのだが」

「はい、なんでございましょう」

 彼女は再び椅子に腰をおろして、こちらに礼をして去ってゆく観客たちがいなくなるまで待った。閑散とした劇場に二人きりになって、ビッテンフェルトは彼らしからぬ小さな声で、彼女自身気付いていない核心に触れた。

「無理をしていないか?」

「無理などしていないつもりですが」

「お前は非常に前向きな性格だが、辛そうに前を見ていることがある。ように……思えるのだが」

「それは……」

「前向きなのはいいが、たまに振り返ってもいいのだぞ」

 

 このとき、彼女がこの言葉の意味に気付いていたら、少しは未来は変わったのかもしれないが ―― 彼女が気付いたのは、冷たそうに見える髪に最後に指を絡めた時であった。

 

 もう少し話したいことがあったビッテンフェルトだが、新無憂宮から火急の使者が訪れ ――

 

 新無憂宮に到着した彼女はビッテンフェルトと別れ、フリードリヒ四世の寝室へと通じる廊下に急遽置かれた長椅子の端に座り、

―― 眠い……

 俯き加減のまま時が過ぎるのを待った。

「大丈夫ですか? ジークリンデさま」

「大丈夫ですよ、キスリング」

 彼女は少々の悲しさと、これからについての不安と、現実から逃避したい気持ちとに嘖まれ ―― 目を閉じて、隣に立っているキスリングに上体を少し預けた。

 

―― あ、扉開いたみたい。顔は上げないでおこう

 

 どれ程、時が過ぎたのかは分からないが、部屋の扉が開き、重鎮たちが廊下へと出てきて ―― フリードリヒ四世の寝室の扉が閉ざされると同時に、憤怒と混乱が入り交じった声がそこかしこから上がった。

 彼女は聞き耳は立てるが、顔は下げたまま。

「こちらへ」

「はい、国務尚書閣下」

―― 大伯父上と……聞いたことのない男性の声ですね。でも”こちらへ”と言われているから、偉い人なんでしょう……誰?

 俯いていた彼女の前に、リヒテンラーデ侯と知らない男性が立ち止まる。

「ジークリンデ」

「はい、大伯父上」

 声をかけられた彼女は顔を上げ、いつもと変わらぬ痩せぎすのリヒテンラーデ侯と、彼の隣にいる、顔色悪く暑くもない室温だというのに、汗を流している男性の顔を見た。

「もうしばらくここで待機していろ」

「はい……あの、隣の男性は?」

「ペクニッツ子爵……いや、ペクニッツ公爵閣下だ」

「あ……」

―― ペクニッツ子爵って、どこかで聞いたことがあるような。子爵は日向ぼっこ子爵と、コルプトくらいしか出てこない。もっとちゃんと覚えておくべきだった……

「では、また後でな」

「はい。大伯父上、そしてペクニッツ公爵閣下」

 二人の後をぞろぞろと付いて行く、役人や門閥貴族を透き通るような翡翠の瞳で見送り、廊下に静けさが戻った頃、

「ローエングラム伯爵夫人。お部屋へ」

「はい、分かりました」

 彼女の前に従者がやってきて、付いてくるよう告げた。彼女は急いで立ち上がり、その後ろをついていった。

 さすがにキスリングは皇帝の寝室には入れないので、扉の前で待機する。

―― 本当にペクニッツ子爵か

 オーベルシュタインが提示した人物が国務尚書と共に歩いていたのを見て、キスリングは皇位に就く人物が誰であるのか、彼女よりも先に知ることになった。

 

「ローエングラム、御前に」

 本来であればキスリングよりも先に分からなくてはならない彼女なのだが、

「きたか、ジークリンデ」

「はい、陛下」

 まったく気付くことなく、フリードリヒ四世の前に立った。

「ジークリンデ。お前は望めば何でも手に入れることができる。それを忘れぬようにな」

「陛下……」

 フリードリヒ四世の心中を彼女は測りかねたが ―― 胸の前で指を組みやや前屈みとなり、よくフリードリヒ四世が褒めた、その笑顔で応えた。

 

 彼女はそうして退室し、それから半日後、フリードリヒ四世はこの世を去った。享年六十四歳。

 

 時を前後して彼女はカザリン・ケートヘンが即位することを知り、

―― 象牙細工さんだったのね……

 ペクニッツ子爵が借金まみれの象牙細工好きであったことに、やっと気付いた。

 

 フリードリヒ四世の死は粛々と ―― そう言えば聞こえはいいが、悲しむ者は極僅かで、大葬から即位までをつつがなく執り行い、その間に権力を失わないよう、また新たに手に入れられるよう水面下で動き出した。

 

 アンネローゼはいまだ西苑で、シュワルツェン邸に一人で住んで居る彼女は、そんな中、リヒテンラーデ侯に呼び出された。

 ケスラーを伴い書斎へと足を運ぶと、リヒテンラーデ侯はケスラーを一瞥し、下がれともなにも言わず、彼女に座るよう告げ、自分はテーブルを挟んだ向かい側に腰を降ろし、呼び出した目的を告げた。

「ジークリンデ。女婿を儲けろ」

 すでにカザリン・ケートヘンの婿の話は出ている ―― 彼女も聞いていた。

「……儲けろといきなり言われましても」

 ここまでは彼女も予想はしていた。

「エッシェンバッハ伯の子でなくともよい。お前が産んだ男児であれば、父親は問わぬ。むしろエッシェンバッハ伯以外の子がよい。お前も分かっているのであろう? エッシェンバッハ伯はそういう男ではないことを」

「……大伯父上の跡を継ぐのは兄上です。兄上と義姉の子のほうが、よろしいのでは?」

「ローデリヒとエルフリーデの子では弱い。お前が産んだ息子ならば、他の貴族を懐柔しやすい。この邸、お前は自在に立ち入ることができるであろう」

「不倫しろとおっしゃるのですね」

「そうだ。年の差は、二、三歳程度が望ましい。お前の好きな男の子でも構わん」

「好きな男性はおりませんが、相手をしてくれそうな男性を捜してみます」

「捜す必要はなかろう。周囲にいるので構わん」

 

 リヒテンラーデ侯の言葉に異義を唱えることなく、黙って話を聞き終えた彼女は地上車の中で行儀が悪いと知りながら、膝を抱きしめて顔を埋めた。それが善し悪しではなく、帝国では当たり前であることは分かっているのだが、それがどうしても受け入れがたかった。

「お嬢さま」

「別に珍しいことじゃないから……気にしなくていいですよ、ウルリッヒ」

「昔できなかった夜の散歩、付き合ってくださいませんか?」

 地上車を止めたケスラーは、昔のように頭を撫で、彼女を外へと連れ出した。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告