黒絹の皇妃   作:朱緒

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第30話

 彼女が宿泊している部屋は、当然清掃が入る。躾の行き届いたメイドたちが、主の持ち物には一切触れることなく磨き上げ、部屋を出てゆく。

「確認するぞ」

 誘拐の恐れがある彼女の部屋に、なにか仕込まれていると困るので、清掃のあと軍人たちがやってきて、プライベートもなにもあったものではない勢いで、部屋を隈無く調べ上げる。

 

 二十歳の人妻が宿泊している部屋を、大将以下、六名の男が白い手袋を装着したまま、無言でベッドを持ち上げている姿は異様以外のなにものでもないが ――

「なんだ、この便箋は……」

 

**********

 

 ヒルダとマクシミリアンが新婚旅行に向かったのを見送り、名代の仕事を無事に終えた彼女は、少々足早に部屋を目指した。

「ちょっと疲れました」

「今日はゆっくりとお休みになってください」

「ええ」

 誘拐される可能性が残っているものの、それは彼女にはどうすることもできない。

 彼女にできるのは一人きりにならないことくらいのもの。

「キスリングも疲れたでしょう」

「いいえ。休憩を何度も挟んでおりますので」

 あとはキスリングたちを信頼するだけ。

 彼女は全面的に彼らを信頼しているので、疑ったりはしない。

 

 

 部屋に戻った彼女はテーブルの上に置きっぱなしにしていた便箋がなくなったことに気付き ―― 持ち去ったと思われる犯人にも気付いた。

「キスリング、ファーレンハイトに連絡を」

 清掃を担当しているメイドが持ち去るとは考えられない。だからその後、部屋の安全を確認した者たちが持ち去ったと。

「通話でよろしいでしょうか?」

「ええ」

「かしこまりました」

 キスリングは彼が預かっている彼女の端末で、ファーレンハイトを呼び出した。

『お呼びと』

「ファーレンハイト。テーブルの上に便箋があった筈ですが」

 便箋は今日の夜にでも、キャンドルの炎で燃やしてしまおうと彼女は考えていた。ゴミ箱に捨てて、処分を他人に委ねる気になれなかったので。

『私の一存で不必要と判断し、持ち出しました。必要でしたか?』

―― 読まれた……読まれたよね。安全確認をすっかり忘れてました

「必要ではないのですけれど……あの、それ、捨ててちょうだい」

 勝手に読まれたことに関しては、恥ずかしさはあるが、怒りなどはなかった。これ見よがしに放置していたこともあるが、安全確認は過去に何度もあったので「こういうもの」だと理解していたのにも関わらず ―― 自分の失敗だと彼女は言い聞かせ、つとめて平静を保って処分を依頼した。

『かしこまりました』

「話はそれだけ。私は休みますけれど……よろしくね」

『はい。ご安心ください』

「おやすみ、ファーレンハイト」

『おやすみなさいませ、ジークリンデさま』

 

 通信が切れたあとザンデルスが、よい表情で主に嘘をついたことについて尋ねる。

「提督、心痛まないんですか。ジークリンデさま、まったく疑ってませんでしたよ」

 ミュラーが羨ましがったそれは、遺書ではなく恋文であった。

「構わんだろう。いずれ捨てるのだ」

「いずれ……ですか」

 彼女の夜に書いた三人宛の遺書は、ファーレンハイトの手に渡り、

【パウル 私はあなたに会えたことを誇りに思っています。私はあなたがいなければ...................】

【a......あなたにはすでに関係ない名となり、遠い過去となっていることでしょう.............................忘れて欲しいけれども、もしも覚えてくれているのなら... Sより】

【親愛なる私の帝国騎士へ..................できることならワルキューレに生まれかわり、ヴァルハラでもう一度出会いたいものです】

 その後、各自の手元へと渡った……が、彼女がそのことを知ることはなかった。

 

 ちなみに「a」とはフェルナーのこと。ファーレンハイトの場合は「A」で表される。

 二人が彼女にメモを残す際、名の一文字を残すのだが ―― アーダルベルト(Adalbert)にアントン(Anton)で、ファーレンハイト(Fahrenheit)にフェルナー( Ferner)と、狙ったかように被ってしまったため、大文字と小文字で分けられた。

 ファーレンハイトにはvonがついているものの、von F と書けば、当然それは彼女の夫であったフレーゲル男爵(Freiherr Flegel)になってしまう。

 もっとも、普通であれば個々の書き癖などで見分けられるものだが、彼女にはそれが苦手であった。

 彼女にとって自分が書く文字も、他人が書く文字もほぼ同じ。彼女がある一定の年齢になるまで、それらに違和感を覚えなかったのは、一重に帝国が規則正しく個性をあまり尊重しない世界なので、手書き文字も半強制的に統一されているのだろうと考えたためである。

 そうではないことを ―― 教えられても、彼女にはまるっきり同じに見えるわけだが ―― これは生まれつき、三つの言語を理解できる能力と引き替えにされたものだろうと ―― ほぼ同時に己の言語能力の高さと、識別能力の低さを自覚した際に、彼女が出した答えである。この知られたら障害と取られるであろう事実を知っている者は極僅かで、誰も他言などしないため、彼女は今日まで無事に過ごしてきた。

 

―― でも、大人ってすごい。あんな文章読んで、真顔でいられるなんて。いや、もうかなり笑ったのかもしれない。きっと……夜のテンションって怖いわ。二度と書かない

 

 昨日と同じように寝る用意が整うと、侍女たちを部屋から出し、護衛のキスリングと二人きりの状態で ―― 彼女は早々にベッドに入った。

 

 そして眠気が訪れるまで、昨晩ミュラーに丸投げした問題を、もう一度考え始める。

 

―― ファーレンハイトと部下たちが、ほぼ全滅するのを避けるためには回廊の戦いを阻止する……回廊の戦いはヤンに要塞を再奪取されたことが原因ですよね。

ヤンは再奪取するためになにかを仕込んでいたはず。

機能停止するような呪文めいたもので、紅茶がどーしたとか……呪文を知っているのはヤンとユリアン? フレデリカ、シェーンコップはどうだったかなあ。

……紅茶にブランデーを五杯とか、そういうのだったような、まったく違うような。

思い出すのは、やっぱり諦めよう。

えーと、回廊の戦いを阻止するためには、要塞を奪取した後、要塞を爆破してレンテンベルク要塞とかをガイエスブルク方式で移動させて、仮の回廊要塞にして、その間にイゼルローン要塞をもう一個……費用ってどのくらいだろう。

でも再奪取されて回廊の戦いを繰り広げて、何百万人も戦死させるよりなら……

ヤンを宇宙で放浪させるのも危険だけど、ヤンが宇宙に出ないように、レンネンカンプ人事を阻止して。

ところでイゼルローンの奪取に成功した人って誰だっけ? えーと、ケンプとミュラーが失敗して、誰かが要塞を落として、そしてワーレン? ルッツ……のどちらかが守っていた時に、またヤンに落とされて。

ケンプは撃墜王で、大将だったよね。うん、死んで上級大将になった筈だから。

大将が失敗したら、次は上級大将かな? 上級大将は……ああ! ロイエンタールだ! ロイエンタール、オスカー・フォン・ロイエンタール。二十年間、その名を忘れたことはない。どこにいるのロイエンタール。いるなら、ここに来て! 私のために! 金銀妖瞳…………

 

 そして彼女は眠りに落ちた。

 

**********

 

―― オーディン・国務尚書執務室

 

 昼過ぎの陽射しがさし込むリヒテンラーデ侯の執務室に、呼んでもいなければ、面会予約も取り付けていないのに入り込んできたのはマールバッハ伯。

「なんの用だ、マールバッハ伯」

 彼女が欲しているオスカー・フォン・ロイエンタール。

「カストロプ公領に行くのだが」

「なんのために」

「ジークリンデの番犬が、なかなか会ってくれんのだ」

 リヒテンラーデ侯に会ってみろと言われたものの、

「あの文面では拒否されて当然だろう」

 ふざけているとしか取れない文面に、会って話す機会を得ることができぬまま。

「まあな。だが事態が事態だ、そろそろ会って本気で話したい。渡りをつけてくれ」

 リヒテンラーデ侯は机の引き出しを開け、

「持って行くがいい」

 

J.V.DよりA.V.Fへ

 

「これが例の手紙か」

 七年前、十三歳の彼女に残された皇太子からの手紙。―― マールバッハ伯が現場を離れ予備役になった原因でもある。

「そうだ。見せれば話は聞くであろう」

「ではお借りする」

「持って帰ってくる必要はない」

「ほう。では俺はこれをA.V.Fに届ければ良い……というわけか。届け先が間違っているが」

「時期が来たら、A.V.Fが正しい持ち主の所へ届けるであろう」

「分かった。失礼する」

 踵を返し立ち去った。その姿は、代々典礼省で重要な役職についていたマールバッハ伯に真に相応しいものであった。

 

**********

 

 帰国日当日、彼女はキュンメル男爵とキスリングの三人で、自分にあてがわれていた部屋にいた。

 

―― キュンメル君。なにを言っているのか分かりませんって……あと、それにね

 

 誘拐の恐れがある以上、一人きりになってはいけないことは、彼女もよく理解している。

 またキュンメル男爵には、時期はどうあれ極力近寄りたくはないと思っていたのだが、目の前で倒れたら放置するわけにもいかない。死病を患っていると知っているので、尚のこと。

 キュンメル男爵が倒れたのは彼女の部屋の近く、彼女は自分の部屋へと運ぶようキスリングに命じ、そして部屋に運び込んだら、突如胸元から起爆装置を取り出して ―― 自分の名を歴史に残すため、ゼッフル粒子で彼女と無理心中をすると喚きだした。

「多くの男たちが、僕のことを憎悪するだろう」

「いえ、そんなことはないと思いますよ」

 キュンメル男爵に言わせると「この部屋」はゼッフル粒子が充満しているのだと言うのだが、

―― あの、そのキュンメル君。あのね、この部屋には僅かなゼッフル粒子もないのよ。私が普通に呼吸できているから

 それが嘘であることは、彼女の体が一番よく知っている。

―― ああ、やっぱり地球教徒か

 キスリングはキュンメル男爵の手の中にある起爆装置は、ここではないどこかを爆破するものなのだろうと考えたが、

「ジークリンデさま!」

 知らぬ何処の心配よりも、自分の護衛対象が大切。

「来るな!」

 キュンメル男爵の叫びなど無視し、起爆装置を持っている彼の腕を蹴り上げ、その蹴り上げた足は地面に着くと軸足に代わり、反対側の足が体勢を崩していたキュンメル男爵の顔に横蹴りを食らわせる。

 手から転がり落ちた起爆装置をキスリングは拾い上げてロックをかけ、ホルスターに押し込み、腰から左手で接近専用の剣を抜く。

「つかまってください、ジークリンデさま」

 そして彼女を抱き上げた。入り口からは、誘拐犯が三名ほど現れ、一人が銃を構えてキュンメル男爵を撃つ間に、キスリングが一人に斬りかかりよろめかせ、するりと間を通り抜け廊下へと出た。

「銃は使うな!」

 キュンメル男爵を撃った男が、逃げる二人を撃とうとするが、仲間に制される声が響く。彼女とキスリングの体が重なっていなければ、狙ってどうにかなるが、彼女が抱きついている場合は敵も銃は使わない。

 逃げた先で待ち構えていた誘拐犯の残りは二名。

 キスリングは大きく右足を出して体を止める。その勢いは彼女の腕が解けるほど。宙に浮いた彼女の体を追いかけるように上体を前へともってゆく、剣を持った腕はその上体よりも早く前へ。鋒が襲いかかってきた犯人の首を切り裂く ―― キスリングの腕に、喉の骨が削れる震動が、自分の右の額が切られた証である血が目蓋を重くする。そして彼女の体を右手で抱きとめて、さきほど自分の動きを止めた右足から走り出す。

 もう一人の犯人は、角から現れた部隊によって射殺されるに至った。

 安全が確保されたのでキスリングは彼女を降ろし、彼女はキスリングの額の傷近くに触れる。

「指が汚れてしまいます」

 シルク製の淡い緑色の手袋が血で染まってゆく。

「ならば、今度は怪我などしないで」

「それは……無理というものです、ジークリンデさま」

 安全な場所という名の、臨時本部へと連れて行かれた彼女は、入って来る情報を聞いて、

―― キュンメル男爵と地球教徒が繋がっていることを教えてくれたら、教えてくれたら……きっと、なにか出来たような……できなかったかな

 キュンメル男爵のあの事件が、前倒しになったことを知る。

 


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