黒絹の皇妃   作:朱緒

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第29話

 カストロプ領に到着した彼女は、医療スタッフの治療の甲斐あって、熱も引き苦しさからも解放された。

 彼女の彼女たる所以、美貌は全く損なわれてはいない ―― 彼女自身は、結婚式の主役は花嫁なので、今回は自分の容姿に関してはどうでもよかった。

 マリードルフ伯に出迎えられ、ヒルダの控え室に案内してもらった。

 本来であれば前日にカストロプ領に入ろうと考えていた彼女だが、皇帝の名代になったので、宿泊期間が長ければ長いほど、相手側に負担をかけるだろうと、当日入りして二泊する短期滞在に切り替えた。

「とてもお似合いですわ、ヒルデガルドさん」

「ありがとうございます、伯爵夫人」

 ヒルダのウエディングドレスは可愛らしい、まさにプリンセスライン。

 フリルやレースがふんだんに使われており、お姫様そのものであった。かつての一読者の感覚としてヒルダの好みではなさそうに感じたが、幸せであるのなら問題はない。

 ヒルダの控え室を出て、マクシミリアンの控え室に入ったところ、その事情が分かった。ヒルダのドレスはマクシミリアンの趣味で、マクシミリアンの衣装はヒルダの趣味で選ばれたものだと。

―― 幸せそうでなによりです……マクシミリアン、気を使わなくていいから

 マクシミリアンは結婚した彼女に「ジークリンデの夫はやはり軍人が似合う」や「きっと、上手くいく」など、必死に祝福を言おうとするのだが、破綻する以前の問題の夫婦を祝福するのは中々難しいもの。単純に「おめでとうございます」と言われるだけなら良いのだが、言葉を重ねられると、

「私のことは気にしないの。今日はあなた方の結婚式なのですから」

 彼女”が”途中で切ってやるしかない。

 

―― なんでしょう。自分がすごい地雷になったような気がしますよ。いや、地雷ですよね

 

 

 帝国に名だたる名門カストロプ公と、美貌の伯爵令嬢の結婚式は、門閥貴族のものとしては、とても簡素で慎ましやかであった。また門閥貴族同士の結婚式とは思えぬほど、平民の出席者が多かった。

 平民出席者の多くはヒルダの大学時代の友人。同性の友人だけではなく、異性の友人も招かれていた。

「貴族の方にはこれを付けていただいております」

 五㎝幅のアイボリー色のシルクリボンを、二の腕に巻いて欲しいと ―― 平民と貴族の見分けを容易にするための措置。平民の出席者が多く、だが門閥貴族もいる会場となれば、そのような措置を執る必要もあろうだろう ―― 事情を聞いた彼女は、誘拐犯が身近にいることを警戒する意味で、係の者ではなくキスリングに巻かせた。

「キスリング、巻いて」

「はい」

「落ちないように、もうすこしきつく」

「はい……」

「もっと”きゅっ”と縛っても平気ですよ、キスリング」

「はあ……折れてしまいそうで」

「そこまで力を込めてとは言ってませんよ、キスリング」

「分かっておりますが。……」

 入り口脇でしばし、もたついた時間が流れ ――

 

「提督。代わりに結んであげたらいかがですか? 慣れてない人には無理でしょう」

「何を言っていやがる、ザンデルス。俺が近づいてジークリンデさまに危害が及んだらどうする」

「言うとは思いましたが」

 

 少し離れたところにいる、昔同じようなことで苦労したファーレンハイトからの助けを得られることなく、

「まあ、いいでしょう」

「申し訳ございません」

「いいえ。行きますよ」

「はい」

 それでもなんとかキスリングは彼女の腕に、落ちない程度に巻き付けることに成功した。

 

 今日の彼女はエンパイアドレスで、色は控え目な銀。輝きすぎず、されど地味に見えない。落ち着いた上品な色。あとは真珠の装飾品で無難にそして普通にまとめた。

 

 挙式を終え、お披露目のために大広間に移動する。カストロプ公爵邸の大広間は「大広間」の名に相応しい作りである。

「初めてみました」

 キスリングや多くの平民たちなど、カストロプ公爵邸を見たことのない者たちは一様に驚く。

「でしょうね。帝国ではあまり見ない建築様式ですから。これはドーリス様式という建築様式です。発祥は地球上にあった古代ギリシャでパルテノン神殿というものが有名でした。ですがこれはギリシャのパルテノン神殿を模したものではなく、リトアニアというこれも地球上にあった小さな国家ですが、その国の聖スタニスラフ大聖堂を再現したものです……どうしました? キスリング」

「あ、いえ。ジークリンデさま、お詳しいんですね」

「ええ。初めてではありませんし……」

―― 以前本物の聖スタニスラフ大聖堂、見たことあるしね……

 

 会場は立食式で、両側の壁に料理が乗ったテーブルが並べられ、中央部は開けている。高い場所というものはなく、花嫁や花婿も会場内を歩き回る形式となっていた。

 

―― 声でるかなあ。途中ほとんど喋ってなかったから、自信ないけれど……マイクが高性能だから大丈夫な、はず

 

 ”マクシミリアンなら、きっとカストロプを再建させることができる。マクシミリアンという名に恥じないよう頑張って。ヒルダは聡明で美しい。娘さんを大学に行かせたマリードルフ伯の英断は凄い。こんな素晴らしい女性と結婚できて、マクシミリアンは幸せ。不正を許すことない、マクシミリアンと結婚できてヒルダも同じくらい幸せ。カストロプ公爵家、マリードルフ伯爵家、永遠なれ”……といった内容を、シュトライトに皇帝の名代らしい文章にしてもらい暗記した甲斐があり、無事にスピーチを終わらせた。

 

 招待客は権勢欲のない貴族が多く、スピーチする人も少なめに抑えられていたので、すぐに乾杯となり、あとはオーケストラが奏でる音楽が流れるなか、食事を楽しみつつ歓談を楽しむ時間となった。

 彼女はというと、欲は深くないが帝室には忠誠を誓っている、よき貴族たちからの挨拶を受け取っていた。

 一通りの挨拶を受け、やっと自由になった彼女は周囲を見回す。

「ミュラー、人気ね」

 まず彼女の目に飛び込んで来たのは、ヒルダの大学の友人に囲まれているミュラーの姿であった。

「そうですね」

 彼女の斜め後ろに立ち警護しているキスリングが、やたらと嬉しそうに同意する。

「この場でもっとも階級が高い平民の軍人ですからね」

 もう一人、彼女の身辺警護につくことを命じられたシュナイダーも、なにをそれほど納得しているのだろうか? というほど、得心した表情で頷く。

「同期の幸せは祝福するべきだよな、シュナイダー」

「もちろんだ、キスリング」

 ミュラーも彼女の警護につく予定だったのだが、女性たちが群がったので離れろと ――

 平民出身、二十六歳中将は、彼女たちにとって格好の獲物であった。

 同盟も帝国も人口を増やすことに腐心している。そして帝国において人口増加策は、独身の禁止である。

 三十歳を過ぎで独身、または子供がいない平民は、福祉税という名目の独身税が徴収されることになる。”帝国の福祉……どんな福祉? 聞いたことないなあ……その金、どこに流れ……私たちにでした!”と、彼女は呆然としたが、とにかくその様な名目で結構な額が徴収される。

 賢いであろう大学に通っているヒルダの友人たちは、結婚した方が得であることを充分理解している。だが、なまじ賢いので、男にもある程度の地位を求めたがる ―― そこに現れたのが二十六歳の独身の軍人ナイトハルト・ミュラー。地位も将来性もあれば、見た目も家族構成も抜群。なにせミュラーは、

―― まさかまた弟妹が増えて、十二人兄弟になっているとは思いませんでしたよ。五年前は十人兄弟でしたのに

 十二人兄弟。不妊だとか、なんだとか(ラインハルト的なあれ)に全く縁がない……そのように判断された。

 

 だが彼女は知らない、ミュラーが公式で十四人兄弟であることを ―― 彼女が知らないということは、この世界の誰も知りはしないということだが。

 

 ちなみに独身だとか兄弟が多いだとかバラしたのは、キスリングとシュナイダーである。彼らとしては、ミュラーの周囲に女性たちを集めて遠ざけ、警護をしやすくしただけのこと。

 好きな人の前で、女性たちに言い寄られているミュラー。それを見つめる彼女……

 

―― 手痛い失恋が癒やされるといいですね

 

 彼女の心の裡が分かったら、さすがにキスリングとシュナイダーも「ひどいなあ」と言うであろう。ただし、笑いながら。

 

 ファーレンハイトはザンデルスと共に、彼女からもっとも離れた場所で、壁に背を預けて白ワインの注がれたグラスを傾けている。周囲には女性の姿はなかった。

 声をかけたいと思う女性は大勢いるのだが「一応」女性たちに被害が及ばぬよう、近づきがたい雰囲気を出して遠ざけていた。

 むろん全員がその雰囲気に飲まれて話しかけないわけではないが、ランズベルク伯をして「雰囲気は侯爵」と言わしめた”それ”は健在であった。

 

 ちなみに何故「侯爵」なのか? 伯爵や公爵ではなく、なぜそんなにも限定なのか? 気になった彼女が尋ねたところ ―― なんとなく ―― ……それ以上聞いて、ランズベルク伯の気分を害することもなかろうと、追求はしなかった。ファーレンハイトの雰囲気が侯爵で迷惑を被るのは、聞いて笑い過ぎたフェルナーぐらいのものだったので。

 

「ジークリンデ」

「マグダレーナ」

 楽しげにミュラーを眺めていると、いつも通り愛人を連れたヴェストパーレ男爵夫人が、一人の少女を連れてやってきた。青みがかった黒髪と、頭髪とよくにた色合いの大きな瞳が特徴的な少女。

 少女は十三歳で名を、

「マリーカ・フォン・フォイエルバッハと申します」

―― ケスラーの嫁!

 ”ケスラーはロリコン”と言われる原因になった少女である。

「ジークリンデ・フォン・ローエングラム……初めまして、マリーカ」

 上級大将を大佐と間違ったり、何度も会っているのにケスラーのことを全然覚えていなかったりと、皇妃の侍女としては甚だ頼りない少女。

―― でも、それが可愛いのよね。二十以上も年上の男性からしたら、可愛くてしかたないでしょう

「ジークリンデお姉さまと呼ばせてください」

 期待に満ちたまっすぐな眼差しで見つめられたら、

「え……いいですけれど」

 断るわけにもいかない。

 ”お姉さま”と呼ばれながらマリーカと会話を交わしたところ、予想通りマリーカはマリーンドルフ伯領の貴族の娘であり、ヒルダとも仲が良いとのこと。

「お姉さま。またお話してください!」

「ええ」

 ヴェストパーレ男爵夫人に連れられ、マリーカは別の人に話しかけにいった。

 

―― ヒルダが中央に出てこないと、マリーカも中央に出てこない……のかなあ。ケスラーの嫁が……。ケスラーにマリードルフ伯に行けと命じることができたら良いけど、ケスラーが何処にいるのかも知らないし、そもそもケスラーに命令なんてできないし。二人が出会うのをお膳立て……いや、あれはかなり危機的状況でそこから……そんな所にマリーカ呼ぶわけにいかないし。……頑張れ、ケスラー。名前知らないけど。あ、ファーレンハイトに話しかけた。良かったわね、若い子に話しかけられ……あれ? そういえば

 

 マリーカはヴェストパーレ男爵夫人に連れられて、壁際で先程から全く減らない白ワインのグラスを片手に立っているファーレンハイトに、ジークリンデに話しかけた時と同じように、全身で喜びを表しながら話しかけた。

 

「ファーレンハイトと何を話しているのでしょうね」

「なんでしょうね? 楽しそうですが」

―― ジークリンデさまを讃美しているのだと思われます

―― 間違いなく、ジークリンデさまのことです

 久しぶりに会った同期は、両者とも離れた事象を見事に的中させていた。

 彼らとは違い「おまじないとか教えられたりしないように。それはケスラー専用ですからね」余計な知識のある彼女は、まるで見当違いなことを考えていた。

”ファーアァ……アーダルベルト”

”ファーレンハイトでいいですよ、ジークリンデさま。それで、なんでしょう?”

”アーダルベルトの好みの女の人、教えて”

”…………私より年上で、仕事をして自分で稼いでいる女です”

”好みの女性と巡り会えると良いわね!”

”…………ええ、まあ”

 

「ファーレンハイトですが、私がまだ子供だった頃、どのような女性が好みなのか聞いたところ、年上で自立している女だと言っていたのですが……好みの女性に巡り会えなかったのか、女性の好みが変わったのか。私ももう子供ではないので、無邪気に聞くことはできませんが……平民ほどではありませんが、帝国騎士ですから独身税取られているでしょうに」

 

 爵位持ちの貴族に、福祉税という名の独身税はかからない。

 

―― それは聞かないほうが良いと思います。そして、その税金は、喜んであなたに捧げていることでしょう。といいますか、その女性像は本当に正しく語ったものなのでしょうか? その時点で既に好意を持っていたとしたら、本当のことは言わなかったのではないでしょうか?

 甘いマスクのハンサムと言われる少佐は、かなり鋭くそう考えた。

―― ジークリンデさま、ファーレンハイト提督の女性の好みは激変している上に、ものすごく狭いです。十一歳年下の人妻です。それも黒髪で翡翠の瞳を持った細身。ゼッフル粒子で呼吸困難に陥る、帝国軍唯一の女性佐官にして女伯爵ですよ

 前髪を下ろすと年寄りも若く見られ、それを気にしているトパーズ色の瞳の准佐は、付き合いはそれほど長くないながらも、完璧に好みを理解していた。

 

 

 キスリングとシュナイダーの予想通り、彼女の美しさに対する感動をファーレンハイトに語っていたマリーカは、

「あら、ヒルダちゃんが呼んでるわよ、マリーカ」

「お話してくださって、ありがとうございました! 提督さん」

 花嫁の元へと元気よくかけていった。

 身軽な少女を見送ると、ヴェストパーレ男爵夫人が派手な扇を開き、ファーレンハイトの耳元で囁く。

「ジークリンデの様子、おかしくない?」

「少々……お疲れのようでして」

「そう。気付いているならいいわ」

 言い残してヴェストパーレ男爵夫人は愛人たちを引き連れ、人の中へと消えていった。

 

**********

 

 彼女の様子がおかしい ―― それは彼女自身にも自覚はあった。

 先日、ゼッフル粒子自体が致命傷になることを知った彼女は、二十年引きずっている死の恐怖に改めて対面し、人はいつ死ぬか分からないということを実感するにいたった。

「下がって」

 初日の式が終わり部屋に戻り、衣装を脱ぎ入浴して疲れを洗い流し、寝る用意を調え侍女二名に下がるよう命じた。

 部屋にいるのは彼女。残っているのは護衛のキスリング。

 「誘拐」の恐れがあるので、部屋に一人きりにするわけにはいかない ―― 彼女もこれには慣れているので、とくに何を言うこともなく、部屋に備え付けられている便箋と万年筆を、キャンドルが灯されている応接テーブルへと移動させ、

「電気を消して」

「かしこまりました」

 柔らかな明かりの元で遺書めいたものを書き始めた。

―― いつ死ぬか分からないから、遺書のような物を残して……ファーレンハイトが戦死せず、オーベルシュタインが爆死せず。難しいなあ……フェルナーは死なさそうで、キスリングは絶対死なないから大丈夫。え……

 夜の闇のまとう静けさと、キャンドルの揺れる灯りが作る震えるような影。上質な用箋とインクの香り。不規則に、だが止まることのないペンの動き、そして音。

 それらに集中し、自分の世界に入り込んでいた彼女を現実に引き戻したのは、キスリングとミュラーの交代であった。

「まだ起きていらっしゃったのですか?」

 ミュラーの声を聞き、顔を上げる。

「ミュラー」

「はい」

―― 夜にラブレター書いてはいけないと同じで、夜に変な設定の遺書書いちゃ駄目ですね……なにこれ、読んだら……笑ってもらえそうだけど、あまりの頭の悪さに泣きそうな気も

「こっちに来て、座って」

 遺書に関しては冷静になった彼女だが、完全に冷静さを取り戻したわけではない。

「かしこまりました」

 ミュラーを隣に座らせると、すぐに抱きついた。

「伯爵夫人?」

「ミュラー、お願いがあるの」

 彼女自身が無理なら、ラインハルトの直属だと死にそうなので、麾下で生き延びること確実な男に託そうと ――

「私にもしものことがあったら……」

 彼女が抱きつく両腕に力を込めると、ミュラーも彼女の腰の辺りで腕を交差させて力を込める。

「なにを突然」

「ファーレンハイトとフェルナー、そしてオーベルシュタインのことを……お願いしたいのです。あの三人を引き取ってください!」

 ジークリンデ・フォン・ローエングラム。

 結構無茶を言う女 ―― 過去には内勤だったファーレンハイトに、いきなり艦隊指揮させようとしたり、未来ではイゼルローン要塞をもう一つ作って欲しいと、オーベルシュタインに呟いてみたり ―― だ。本人に自覚は……少しある。

 普通の門閥貴族女性では、到底想像もつかないレベルの無茶を数々言い、男たちに成し遂げさせた彼女。その無茶の中でも、かなりの高レベルなお願いをミュラーにつきつけた。あんな癖の強い三十路男を三人(一名はまだ二十代だが)全員引き取るなど ―― そもそも一人はミュラーより階級が上なので、引き取りようなどない。

「落ち着いてください、伯爵夫人」

「昔はこうやってお願いしたら、なんでも聞いて下さったのに」

 ミュラーは彼女の背中を落ち着かせるために撫で、

「それとは違いますよ。そうでしょう、伯爵夫人」

 額を近付け年長者が年少者を諭すような口調で話しかける。

「え、ええ。でも、嘘でもいいから」

「私はあなたに嘘をつくなどできません。事情をお聞かせ願えませんか? 事情さえお聞かせいただければ、この命と引き替えてでも、かならずやあなたのご希望を叶えます。ですから、本心をお聞かせください」

―― ミュラーに死なれたら本末転倒なんです。そして事情……事情は聞かせられないのですよ。まだ起こってない会戦でファーレンハイトが死ぬとか、まだ発生していないテロでオーベルシュタインが死ぬとか言えませんし。なんか……ミュラーがあれ……

 

 ミュラーは彼女のことを愛している。久しぶりに会った彼女はミュラーが覚えていた彼女よりも更に美しく。闇を頼りなく照らす明かりが浮かび上がらせる白い肌の艶めかしさに息を飲み、預けてきた体の柔らかさを離すまいと、両腕を背中から腰にかけて無意識に腕を回す。細い首は扇情的で鎖骨は華奢。いつもは首までしっかりと隠す服を着る彼女だが、眠る時は首もとがゆったりとしたものを着用する。そのため上半身を預けるようにして抱きついていると、ミュラーからは彼女の胸骨から胸の膨らみが見える上に、感触もある。

 

「ミュラー……あの」

 ミュラーがラインハルトにはない反応を示したことに気付いた彼女は、抱きついていた腕を更に絡ませ、細い指で耳を撫でた。

「申し訳ありません。伯爵夫人、離れていただけないでしょうか」

「では腕を解いてください、ミュラー。そして昔のようにジークリンデと呼んでください」

―― 腕が解ける気配がない。これは……私が不用意だったことを認めるけれど。どうしようかなあ

「ジークリンデさま」

「なんですか?」

「事情を教えては、くださらないのですか?」

「……ええ」

「では事情を聞かないかわりに、あなたの願いを叶える条件として」

「なに?」

「あなたを抱かせてください」

「……そんなことでいいのなら!」

 彼女は自分が酔ってしまった末……というのは我慢できないが、交換条件というのならば ―― ミュラーの襟元を彼女の指先が緩めたが、そこで手首を掴まれて、痛みを堪えたような表情のミュラーが首を振る。

「馬鹿なことを言ってしまいました。お止めください」

 ミュラーは彼女から離れるとソファーから降り、膝をついて頭を下げた。

「ミュラー」

「ジークリンデさまのご希望に、最大限添えるよう努力することを誓いますので……お許しください」

「許すもなにも、私が持ちかけたことです。私にはこの身しかありませんし……無理にとは言いません。夫にも相手にされない身ですから、あなたのような方を満足させることもできないでしょう」

「はぁ?」

 

―― あ……言うつもりなかったんですけど……ミュラーをフォローするつもりで、ついつい失言……

 

 俯いていたミュラーが顔を上げて、信じられないものを見るような瞳を彼女に向ける。

「前の夫ではなく、今の夫のことですから」

 死人に口なし、なのでフレーゲル男爵の名誉だけは保っておこうと、彼女は務めて明るくミュラーに答えた。

「……あの」

「今夜のことは、あなたも私も、なにも聞かなかったことにしましょう。ねっ!」

「かしこまりました。ジークリンデさま、そろそろお休みにられたほうが」

「そうね。そうします」

 彼女は膝をついているミュラーの脇を通り抜けて、ベッドへと急いで潜り込んだ。

 

 彼女の寝息が聞こえてきてもまだしばらくミュラーは俯いたまま、自身に対する酷く苦い嫌悪感を噛みしめていた。

 彼女の体を交換条件として求めたことは当然だが、それ以上に彼女がそうまでしてミュラーに託したいと言った三人に対して。

―― 男の嫉妬は見苦しいとは言ったものだが……どうして、こう……

 密やかに溜息をつきミュラーは立ち上がり、明かりが灯ったままのキャンドルの火を落とそうと手を伸ばすと、その明かりの下に何枚もの遺書を見つけた。

「遺書を残してもらえるなんて、羨ましい限りです。託したいと言っていただけたということは、私のことエッシェンバッハ伯よりも、信頼してくださっているのでしょうか」

 

 翌朝目覚めると、警備はミュラーからシュナイダーに変わっており、

「おはよう」

「おはようございます、ジークリンデさま」

 彼女はかなり安堵した。

 

―― 顔会わせ辛い……でも、なんか言っておかないと、ミュラーに……少しは私に好意持ってくれてるのかなあ。それとも単なる生理的欲求だったのかなあ……好きとも何とも言われてないから、後者ということにしておこう。勘違いは見苦しいからね

 

 彼女は式の二日目も皇帝の名代としての任務を果たした ――

 


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