皇帝の名代を務めることになった彼女は、マリードルフ伯に出席者の名簿を送ってもらい、公人として挨拶をすべき相手の確認をした。その際、キュンメル男爵の名を発見する。
―― もしかして私、キュンメル男爵に狙われる?
自領から動くことができないはずのキュンメル男爵が、結婚式の執り行われるカストロプ領にいると聞き「元気でよかった」と最初思ったものの、移動はできるが死病に罹っていると知り ―― ネルトリンゲンの客室で、言いしれぬ不安を感じていた。
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彼女をカストロプ領で守るのは、メルカッツに一任された。
メルカッツに対する信頼は絶大で、他者にこれらの情報を提示して協力を求めることを嫌うリヒテンラーデ侯ですら「メルカッツ提督ならば間違いはなかろう」と、あっさりと許可を出した程である。
ファーレンハイトが事前説明にあたり、
「……という次第です」
「地球教とな」
事情を聞いたメルカッツは、人員を選りすぐり彼女の護衛にあたることを確約した。
「現地についてからですが、本官のほうは本官が対処いたしますので。ジークリンデさまのこと、よろしくお願いします」
「分かった。だが一人で無理はするなよ、ファーレンハイト」
こうして彼女はメルカッツが選び抜いた兵士が守るネルトリンゲンに、ファーレンハイトとキスリングと共に乗り込んだ。
タラップ前の敬礼にやや気恥ずかしさを感じながら――
「ミュラー中尉?」
「はい!」
その列に一人、懐かしい人物を彼女は見つけた。砂色の髪と瞳を持つナイトハルト・ミュラー”中将”である。
彼女は足を止め、隣に立っていたファーレンハイトも同じく足を止める。厳しめな顔つきで立っていたミュラーだが、彼女が目の前で立ち止まると途端に表情を緩める。
「あら、ごめんなさい。もう中将なのね。中尉さんなんて気軽に声をかけられないわね」
「いいえ、そんなことはありません。気軽に呼びつけてください。あの、フェザーンの頃のように」
ミュラーの「中尉時代の手痛い失恋、その相手」が暴露された瞬間でもある。
もうじきメルカッツの下を離れて、彼女の夫であるラインハルトの麾下に入るミュラーに、無駄に優しく、無意味に同情した。
そして誰一人、彼女が相手であることを疑わなかった。
知らぬは彼女だけ ――
ファーレンハイトと彼が連れてきた一行は、艦内でも彼女から距離を取り、護衛は専らキスリングとミュラーそしてメルカッツの副官のシュナイダーが担当することとなる。
「三人とも士官学校の同期なの?」
「はい」
三人が同い年で士官学校で、ファーレンハイトの副官ザンデルスをも含め、それなりに交流があったこと、また学生時代の話を聞いて彼女は楽しみ、
「上手よ、キスリング」
「は、はあ」
キスリングにダンスや食事の作法などを教えて過ごした。
警護としてついてきたキスリングがダンスに誘われた際に、困らないようにと。キスリングは自分に声をかけてくるような人はいないと、当初断ったのだが、覚えていて損はない。
「昔、ミュラー中尉……ではなくて、中将にも教えたのよ」
むろん”高等弁務官の情報は役に立たないから、ミュラーと仲良くなってフェザーンの世情など一般的な情報を流してもらおう計画”の一環であり、効果がありすぎて失敗した計画でもあった。
「そうなんですか」
ちなみにミュラーから情報を得るという計画が頓挫したため、フェルナーがオーディンとフェザーンを直接行き来して情報を持ち帰っている。帝国軍人が頻繁にフェザーンとオーディンを行き来していたら不審に思われそうだが「奥様(ジークリンデ)から買い物を頼まれた」で、ほとんど疑いを持たれることはない。貴族女性というのは、そのようなものであろうと ―― フェザーン商人の思い込みはフェルナーにとってとてもありがたい。唯一問題があるとしたら「あの奥方が命じるとは思えんが?」と、ルビンスキーがあまり信用していないこと。だがルビンスキーはそれ以上は聞いてこない。ルビンスキーにはルビンスキーの思惑があるのだろうと。
「ええ。十五歳の生意気な娘の教えを、大人らしく笑顔で聞いてくださったのよ」
ステップを踏みながら、キスリングはそれは本心から笑っていたのだと思いはしたが、あえて言わなかった。
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―― 帝国の惨状、甘く見てた
「お待たせいたしました、ジークリンデさま」
「ありがとう、ファーレンハイト」
そして夫の身を案じる妻というスタンスで、ラインハルトの麾下にいる将校たちの名簿をファーレンハイトに調達してもらった。実際のところ、彼女はラインハルトのことは心配していない。彼が戦死しないことを、彼女は誰よりもよく知っているからだ。
ファーレンハイトは、あまり近くにいるつもりはないが、下手に離れすぎていてジークリンデに気付かれると困るので、呼び出しには必ず応じるようにしている。
リストの名をみながら、
―― ロイエンタールはいないのですね。えーとミッターマイヤーとキルヒアイス。あとはカール・グスタフ・ケンプにコルネリアス・ルッツにアウグスト・ザムエル・ワーレン、ふむふむ。エルネスト・メックリンガー。……これにミュラーが追加。ちょっと少ないような、こんなものだったかなあ。でもラインハルトとキルヒアイスでどうにか……あれ? アムリッツァってもしかして、あの焦土飢餓作戦? 自分の夫が焦土作戦を指揮……知らない、知らない。私はなにも知らな……それこそ逃げちゃだめよね、ファーレンハイトに聞いてみよう
この戦いが、あの焦土飢餓作戦であることも同時に思い出した。
あまり彼女に会戦について教えたがらないファーレンハイトにねだり、作戦の一部を聞き出した彼女は、焦土作戦を遂行していなかったことに胸を撫で下ろした。焦土作戦を決行したほうが効率が良いのは彼女でも解るが、分かることと感情は別物。
だが ――
「焦土作戦など、どこで覚えたのですか? ジークリンデさま」
貴族女性の口から出てくる言葉ではない。
ファーレンハイトに不思議そうに聞かれて、
「あの……なんか聞いたことがあったような、違ったのならいいのです」
以前その作戦がこの戦いで使われたと読んだのです……とは、とても言えないので、彼女は扇子で口元を隠して、少しばかり恨めしそうに上目遣いでファーレンハイトを見る。
「深くは追求いたしませんが」
彼女の意図したとおり、ファーレンハイトは追求をそこで止めたが、続く言葉は彼女の予想もしていないものであった。
「そもそも、この辺境一帯は、焦土作戦をする必要がないほど困窮しております」
「え? ……あっ……」
「叛乱軍は物資で侵略した惑星を懐柔するでしょうが、支えるのは不可能でしょう。辺境の民に充分物資を提供することができるとしたら、すでに帝国に勝利しているはずです」
彼女は農奴の現状など普通の貴族よりもよく知っているが、そこまでの困窮は知らなかった。国軍が根こそぎ物資を持ち去り、侵略者から与えられ奪われるよりも、与えられてから元々持っていたものまで奪われるほうが、はるかに恨みが深くなる。同盟軍は多大な恨みを買い撤退してゆく ――
焦土作戦は取っていないが、焦土作戦と同じ状況に同盟軍が遭遇していることは、彼女も分かった。帝国の惨状についてはともかく、焦土作戦が使われなかったことに関して”立案者”きっとオーベルシュタイン”だと彼女は判断し、これからもラインハルトにオーベルシュタインを近付けず、キルヒアイスと覇道を進んでもらおうと考えていた。
―― このオーベルシュタインは温すぎて役に立たない可能性もあるしね
焦土作戦が取られていないが、この戦いは民間人を盾にする作戦であることは変わりない。
「ところで、ファーレンハイト」
「はい」
「叛乱軍の兵士は全員、紳士でしょうかね」
辺境の女性たちが暴行されないかと ―― 彼女もまったく期待はしていない。
「言い切れません」
結局のところ、それらは避けられない。
―― 会戦終結後に医療船を送るべきだよね。いまから手はずを整えておこう……オーベルシュタインに任せて。でも、堕胎はできないのよねえ。辺境はほとんど農奴だから
同盟軍が侵攻統治、そして略奪する辺境の住民はほぼ農奴。
農奴は当然自由はなく、領主の固有財産なので勝手に処分 ―― 堕胎 ―― することはできない。
「技師の他に助産婦も何人か用意して”逆算”して、医療船を巡回させたいですね」
長期的な再建計画はラインハルトに任せ、二百八十日前後で訪れる問題に取り組むことにした。十年後に立派な周産期医療施設が完成したとしても、ここではなんの解決にもならないのだ。
「宇宙船のほうはお任せください。細かいことはフェルナーとパウル、それとシューマッハに任せますが」
「……」
「どうなさいました?」
「いいえ。頼みましたよ、ファーレンハイト」
オーベルシュタインと全員が上手くかみ合っているなと、彼女は安堵していた。
だが、思わぬ人物から人事異動を提案されることになった。
医療船の手配を整えたと報告を受け取ったあと、”お話したいことがあります”と言われ、会議室へと彼女は通された。
「オーベルシュタインを夫の元帥府へ? ですか。ファーレンハイト」
「はい」
室内にはメルカッツ、シュナイダー、ミュラー。そしてファーレンハイトとキスリングに囲まれ、オーベルシュタインの移動について話合うことになった。
―― あんなに自宅に遊びにいってるのに、仲悪くなった? どういうこと?
ファーレンハイトやキスリング、フェルナーやシュトライトにシューマッハ、果てはアンスバッハもオーベルシュタインとは仲が悪くない。だからこの移動について、まさに青天の霹靂であった。
「オーベルシュタイン中佐は私の配下にいても、能力相応の地位に就くことはできません」
だがファーレンハイトは関係が悪くないので、彼女にオーベルシュタインの身の振り方を相談したのであった。
「どういうことですか? ファーレンハイト」
「軍に残る劣悪遺伝子排除法による差別です」
「差別……」
「先天性の障害を持ったものは、大佐以上の地位に就くことはできないのです、ジークリンデさま。どれ程有能であろうとも、武勲を立てようとも」
「……」
彼女の周囲に先天性障害を持った者は一人だけ ―― だから、そんなことになっているとは知りもしなかった。
「そんなことが、まかり通っているのですか」
「恥ずかしながら」
差別とは縁遠いメルカッツが、軍部を代表して彼女に詫びるように語りかける。メルカッツも差別を嫌っているのだが、彼にはどうすることもできない。この問題を解決できるのは、ある地位。
「夫の元帥府に移動させることで、正当な評価が得られるのですか?」
「元帥になりますと、本人の裁量で階級を上げることが可能になります。煩わしい昇格審査なしに」
「先天性の障害を持ったものを昇格させる、唯一の手段ということですか? ファーレンハイト」
「はい。ブラウンシュヴァイク公も元帥閣下ではありますが……公は門閥貴族として開明的な御方で、オーベルシュタインが配下にいることを拒否しませんが、大佐以上の地位を与えることはしますまい」
「ファーレンハイトから経歴を見せてもらいましたが、低く見積もっても少将が妥当な地位だと考えます。先天性障害を持って大佐の地位を得た男はまずおりません。パウル・フォン・オーベルシュタインは間違いなく有能な男です」
まっとうに評価されるべきだと考えて、彼らは彼女に移動を申し出たのだ。関係が良好なままであることに安堵するも、オーベルシュタインが置かれていた境遇に溜息の一つも漏らしたくなった。そしてメルカッツが元帥になってくれたらいいのにと彼女は思ったが ―― 同時に、この無骨で孤高の宿将は、これ以上出世することはないだろうとも。
「皆さんからの意見、ありがたく頂いておきます。あとは……帰国してオーベルシュタインと直接会って話して決めさせていただきます」
オーベルシュタインを正当な評価を与えて昇格させるために、ラインハルトの元へと行かせる。だがそうなるとキルヒアイスが ―― だが原作においてもオーベルシュタインは二度の二階級特進し元帥の座に就いたが、これに関してはラインハルトが決めたこととは言え、誰も異論を唱えなかった。能力だけならば、彼はなんら問題はない証明でもある。
「どうしましょう」
ラインハルトが帝国を打倒したら、それらの差別を撤廃してくれるのではないかと彼女は思ったが、
―― あれ、ラインハルトって劣勢遺伝子排除法に興味あったっけ? オーベルシュタインが持ち込んで初めて、差別と現状を認識したような。多分ルドルフを打ち倒すから、全部廃止法案にするかもしれないけど……そもそもラインハルトって基本、打倒フリードリヒ四世とヤン・ウェンリーに勝つ! みたいに、敵は個人だから……あんまり人の弱さとか気にしないから、法案撤廃したからあとは個人の問題とか言い出しそうな。こういうのは廃法になってからが本番なんだけど、やってくれるかなあ。キルヒアイスが生きていたら、問題解決かな
差別の撤廃はしてくれるであろうが、その後がどうなるのか? 彼女は少々不安であった。晴眼帝により無実化した排除法だが、人々の根強い差別は変わっていない。それらの差別をなくするのは戦争ではない。
**********
―― ゼッフル粒子がそんなに怖ろしいものだとは、知りませんでした
彼女はネルトリンゲンの医務室のベッドの上で呼吸補助機を装着されながら、軍医の説明を聞き、
「事前検査を怠り、まことに申し訳ございません」
「……(誰も悪くないです、悪くないです。悪いのは私です)」
メルカッツの謝罪に首を振って否定していた。
なぜ彼女が医務室で治療を受けているのか? ―― 彼女は皇帝の名代らしく、ネルトリンゲン内を視察して歩き、揚陸部隊の演習を見学することになった。
初めてみる演習だったのだが、開始数分で咳が止まらず呼吸もままならなくなった。もともと気管支が弱い彼女だが、それとは違う苦しさに倒れそうになった時、キスリングが彼女を抱え上げて、近くのトイレへと駆け込み洗面所で頭から水をかけた。
そして彼女に説明をすることもなく、引き裂いてドレスを脱がせ出ていった ―― その直後、医療スタッフがやってきて彼女を医務室へと連れて行き、呼吸補助機を装着させ、全身に薬剤を散布し、その後水で洗い流すという治療を施された。
なにをされているのか? さっぱり解らない彼女だったが、聞くにも声が出ずなされるがまま。そして治療が終わり、補助機を使用しているが呼吸も安定した彼女に、ゼッフル粒子に対し過敏症を起こす者が、少なからずいるのだと軍医から説明があった。
ゼッフル粒子は爆発してしまえば人体に害はない(周囲には被害が及ぶが)だが爆発前の気体の中に、特定の人の呼吸器系に害を及ぼす物質が含まれている。
それらの症状にも段階があり、
「検査させたいただきましたところ、十段階の八から九に属しておりますので。ゼッフル粒子には注意なさってください」
「……(そうですね。あまりゼッフル粒子がある場所に行くことないですからね)」
彼女はかなり害を受けやすい体質であった。
キスリングは彼女の症状を見て、ゼッフル粒子による呼吸困難だとすぐに気付き、急いで対処方法取ったのだ。
呼吸器回りの粒子を洗い流し、粒子を吸った着衣を脱がせる。
対処方法は間違っていなかったが、ゼッフル粒子の危険性の説明と検査を怠ったことに関して、反省文を書かされていた。
キスリングが反省文を書かされていると知ったら、彼女は首を振って「悪くない」と否定するところだが、まだ呼吸器に残る違和感と、気管支の炎症による発熱で、それどころではなかった。
―― 結婚式までに、体調を整えて……横になると苦しいけど、上体を起こしたまま寝るのも……苦しい
カストロプ領につくまで、彼女はベッドの上で大人しく過ごした。