黒絹の皇妃   作:朱緒

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第26話

 夫であるラインハルトの寝室から出た彼女と、キルヒアイスの寝室から出てきたラインハルト。危機的状況だというのにこの有様、この種の噂を消すのはラインハルトには無理だと、彼女は単独で動くことに決める。

「おはようございます」

 ラインハルトを夫ではなく、立場が上の男性貴族だと考えて接することにした。

「あ、ああ……おはよう……男爵夫人……いや伯爵夫人」

 対するラインハルトだが彼女のことは好きだが ―― 好きで終わってしまうのだ。手や頬や唇くらいには触れてみたいと思うが、それ以上先を求める感情は皆無。

「はい、ラインハルトさま」

 性的なことに疎いラインハルトにとって、やや無防備な彼女の項から背中へかけての白くたおやかな曲線は、美しく触れてみたいとは思えど、かるく触れるだけで満足できてしまう。

「……」

「ラインハルトさま呼びは駄目ですか?」

「駄目ではないのだが……その……」

 ラインハルトが性的なことに疎いことに関して、彼女はラインハルト以上に知っているのだが、日常生活まで覚束ないとは思いもしなかった。

 賢いはずの男がまともな受け答えをしてくれない。

「伯のご希望をうかがいますが」

 賢さと子供っぽさを知っている彼女としては、ラインハルトの意見を尊重したいのだ。

―― 前の時は甘えてるだけで済んだけど。同い年の政略結婚、完全独立住居って難しい……ラインハルトにはキルヒアイスがいるけれど

 フレーゲル男爵と結婚したとき彼女は十一歳で、八歳年上の彼に甘えるだけで物事は解決した。フレーゲル男爵が解決してくれた……というよりも、ブラウンシュヴァイク公爵の敷地に建っていた邸なので、公爵邸から豊富な人材がやってきて、問題が問題になる前に解決していった。

 だが今回は頼れる親族もなく、これら生活問題を解決してくれる有能な部下もおらず、年齢も同い年。

 キルヒアイスの誕生日が二ヶ月くらい早いことに文句を付けるラインハルト。そんなラインハルトより彼女は四ヶ月も誕生日が遅いので、ある意味年下ではあるが、数ヶ月の違いに拘る彼女ではない。

「そうだな……では、その元帥と呼んでくれないか」

 戦争の天才だが、一緒に暮らす相手としては頼りない四ヶ月年上の男の提案に、彼女は丁重に返事を返した。

「はい」

―― さすがヒルダと結婚後、皇帝と皇妃と呼び合っていただけのことはある。でも元帥は他にもいるんだけど、まあ……いいか

 彼女はラインハルトの希望通り、彼を元帥と呼ぶことにした。

 ちなみにこの邸には召使いがおらず ―― 食事の用意はキルヒアイスがしている ―― 彼女が実家に連絡して本日の朝食と数名の召使いを調達した。

 そしてぎこちないにも程がある会話を交わし、

「お見送りにいってもよろしいでしょうか?」

「え……」

「無理にとは申しませぬが」

「無理……ではなく、分かった、軍港関係者に通達しておく」

 

 ラインハルトは一人で身支度を調えて早々に出ていった。

 

 朝食と共に運ばせた数着の衣装を前に、彼女はどれを着ていくか悩み、鮮やかなロイヤルブルー地に襟元と首もとにアクセントとなる白いレースがあしらわれている、ぱっと見たところ豪華そうではないが、運ばせたもののなかで最も高価なドレスを選んだ。

 ドレスと揃いであつらえさせた鍔無しの帽子。アクセサリーや化粧は控え目に。

 用意が調ったので椅子に腰をかけ、便箋を前にして、結婚したことを伝える手紙を書き始めた。

 ラインハルトが門閥貴族たちに嫌われているのは分かっているし、彼らが破滅することは分かっているが ―― 彼女は彼女として最後まで振る舞う必要がある。

 

 四人目の手紙を書こうとしたところで、キスリングが迎えにやってきたとの報告を受け、彼女は立ち上がった。

 彼女から今日の予定を聞かされたキスリングは「はい」と返事をした後に、

「ご結婚おめでとうございます」

 と、やや照れながら彼女に祝辞を述べる。

「ありがとう」

 彼女は昨日の夜について気取られぬよう、万全の武装 ―― 淑女の微笑み ―― で返事をする。夜は散々であったが、キスリングに祝福されるのは素直に嬉しい。それが彼女の偽らざる気持ちであった。

 

 キスリングが運転する地上車は数々の検問を潜り抜け、ラインハルトの旗艦が見えたあたりで停車させ彼女は下車する。無機質に近い軍港の路面を静々と歩き、美の化身のような夫に近づく。。

 誰かに見送られたことなどないラインハルトは、来てもよいと言っておきながら随分と困惑した表情を見せた。

「ありがとうございます、ジークリンデさま」

 キルヒアイスはというと、持ち前の人当たりの良さで彼女の見送りに笑顔で返す。

 昨晩キルヒアイスが戻ってこなかったのは、出征前の細々とした雑事に追われていたため。それとやはり二人きりにしなくては ―― という思いからであった。何も無かったことをラインハルトから聞かされるのは、地上を離れて広大な宇宙に出てからのこと。

 この時点でキルヒアイスは、ラインハルトが好意を持っている女性と結ばれたことを、心から祝福していた。

「元帥、一つお願いがあります」

「なんだろうか? 伯爵夫人」

「自宅が手狭なので、もう少し大きな邸に引っ越したく。もちろんキルヒアイス提督も一緒に住める邸です」

 ラインハルトとキルヒアイスが住んでいる家は小さく、伯爵位を持つ二人が住むのには相応しくない。 

「あなたに任せる、伯爵夫人」

 それに関してはラインハルトも自覚があったので彼女に一任し、両肩に手を置き額に口づけ、

「伯爵夫人、行ってくる」

「ご武運をお祈りしております、元帥」

 ブリュンヒルトへ搭乗した。

 敬礼を受け空に吸い込まれてゆく白い戦艦を見送る。そして彼女は軍港を出て、キスリングに連絡を入れさせた。

『ご結婚おめでとうございます』

「ありがとう、オーベルシュタイン。それでね、お願いがあるの」

『なんなりと』

 オーベルシュタインに邸捜しと、ラインハルトとキルヒアイスに関する悪意ある噂の出所を探るよう依頼し、新無憂宮へと昇り後宮の寵姫二名、うち一名は義理の姉に結婚報告をすることにした。

 皇帝が決めたことに文句を唱えることなどできない二人だが、

「アンネローゼや。おぬしの弟、もう少し痩せさせられぬか?」

「そうですね、シュザンナさま。今度弟とジークが来た時に言いますわ」

 彼女のためにラインハルトをもう少し細身にしようと無茶を言いだした。

「あ、いいえ。あれで良いといいますか」

 別に彼女は痩せている男が好みなのではなく、偶々 ―― だが、オーベルシュタインが加わったことで、彼女も訂正するのを諦めた。言われるくらいに痩せている雰囲気のある男ばかりが身近にいると、認めざるを得なくなったのだ。

 実際痩せているのはオーベルシュタインだけで、フェルナーやファーレンハイトは痩せて見えるだけだと、いや確かに細身だが痩せているという類ではなく……この場において、少し離れたところに控えているキスリングだけが彼女の理解者であった。

「あれじゃ。おぬしの菓子じゃ。あれを食べるから、あの二人は成人男性だというのに子供っぽいのじゃ」

「甘さをもっと控えたものにします」

 

―― それはラインハルトとキルヒアイスの生命の源です。それを絶ったら、私が殺されてしまいます

 

 彼女は死の恐怖に戦きながら、その日は「警備の関係上、ご実家へお願いします」と”ファーレンハイトから連絡があり”言われた通り、実家へと帰宅し父親と兄、そして義理姉にやっと結婚の報告をすることができた。

 

**********

 

「警備体勢が整っていないだと?」

 ラインハルトは邸の警備を用意せずに出征していった。もう少し時間に余裕があればキルヒアイスが完璧に手配をしたのだが、急なラインハルトの結婚により雑事が増えて手が回らず、誰よりも彼女の警備に精通しているであろう。

「これから手配するので、それまでの間、ファーレンハイト提督にお願いしたいとのことです」

 連絡を受け取ったシューマッハ大佐からの報告を聞き、表情を凍らせた。

「……」

「仕方ありませんよ。あの二人は知らないんですから」

 フェルナーが顔の前で手を振り”むり、むり”と、笑いながら、彼女用の警備ファイルを手に取り、当面の予定を調整する。

「四日分でいいぞ、フェルナー」

「どうして?」

「五日後にはオーディンを発つ」

「ああ。マリードルフ伯令嬢とカストロプ公の結婚式か」

 四日間はフェルナーが警備主任を務め、彼女には実家に帰ってもらうことにした ――

 

「こちらとしても警備できるのは、願ったりだが」

「安心できるもんね……でも、なんかね」

「…………」

 彼らはラインハルトの部下ではないので、少々含むところがあったのだ。

 これは後でラインハルトもキルヒアイスに指摘され、軽率であったことを詫びたのだが、彼らを意識せず頼りにしてしまい、結果【リップシュタット戦役に該当する戦い前夜】に、修復しがたい亀裂が生じることとなる。

 

「まあ、気を取り直して面接する」

 

 僅かながらに未来を知っている彼女ですら知らぬ未来 ―― 彼らには知るよしもなく、シュタインメッツとアイゼナッハの面接へと向かった。

 二人はブラウンシュヴァイク公元帥府に入ることに対して抵抗はなかった。ブラウンシュヴァイク公元帥府といっても、実質的な指揮官はファーレンハイト。

 あまり軍事に明るくないフレーゲル男爵を、正式な手順で大将の座につけた手腕を持つ男の下につけるのは、彼らにとっても悪くない話である。

 ただ二人とも身軽な独身ではなく、内縁の妻や妻子のある身。

 いちおう自分たちの決断を、配偶者に打ち明け ――

「採用に際して、ジークリンデさまに会わせて欲しいと……」

 妻と内縁の妻に、一度でいいからジークリンデ・フォン・ローエングラム伯爵夫人に直接お会いしてみたいとせがまれ、根負けして、こうして面接の場で頭を下げるに至った。

「さすがジークリンデさま。まあ、いいじゃないですか、ファーレンハイト提督。会わせてあげましょうよ。ジークリンデさま、人と会うの好きですし」

 フェルナーに言われなくとも、彼女が人と直接会って話すのが好きなのはファーレンハイトも知っているのだが、相手が女性というのに少々困った。

「それは……知っている。卿らの妻子や恋人に会わせたくないわけではない……卿らの伴侶は信じている。信じているが……過去に何度かジークリンデさまは女に襲われかけてな。あの方だけではないだろうが、同性に対しては警戒心が薄れるだろう? だから、こちらで警戒しないと……卿らの伴侶なのだから、そのような趣味はないだろうが……俺が困惑しているのは、過去の出来事を思い出したせいだ……ジークリンデさまにご連絡を取ってみる。待っていてくれ」

 席を外したファーレンハイトが扉の向こう側に消え、フェルナーが最早笑うしかない ―― と言うしかない状況を教える。

「悪く取らないで下さいね。ファーレンハイト提督、ジークリンデさまにまとわりつく女性に困らされたことが多々ある人なので。刃物持った女に襲われたことすらあったんですよ。その襲撃理由が”いつもジークリンデさまの近くにいて憎い”ですから。大体、不思議だったでしょう? 私はともかく提督が、噂を立てろとばかりに四六時中側にいて。それは同性に襲われないように、またそんな噂が立たないように。私や提督が愛人という噂が立ったほうがマシなんだそうです、国務尚書としては」

 女同士で同性愛に耽っていると言われるくらいならば、帝国騎士や平民の男と浮気をしていると言われたほうが良い ―― それはリヒテンラーデ侯だけではなく、彼女の父親や兄の希望でもあった。

 そのくらい彼女は女性にも好意を持たれる。

 

 フェルナーの説明を聞き、二人は顔を見合わせて、何故か納得したかのように頷いた。

 昨日彼らが遭遇した状況と、今聞いた刃物沙汰が被った ――

「お会いしてくださるそうだ。明日、元フレーゲル男爵邸で」

 戻って来たファーレンハイトに二人は深々と頭を下げ、明日の予定を決めて早々に帰っていった。

「平気だとは思うけど。まさか、ジークリンデさまに会わせてくれと言われるとは」

「気持ちは……分かってあげようよ。でも彼ら、なんか納得してたよ。ファーレンハイトが刃物を持った女性に襲われたって教えたら」

「そうか。お前が刺されたことは言えんからな」

 ファーレンハイトは彼女に好意を持った女性に斬りつけられたことが何度かある。対するフェルナーは襲われて左の脇腹を刺されたことがある。傷は背中から腹部へと貫通し、一時危篤状態に陥った。

「ジークリンデさまの前で刺すのは止めて欲しかった。もちろんジークリンデさまの前でなければ刺されてもいいという訳ではありませんが」

 彼女が十七歳の時の出来事で、現場は西苑。

 加害者は側室の一人で伯爵令嬢エリザベート。兄は内務省警察総局次長ハルテンベルク伯爵。

 本来はサイオキシン麻薬の密売で生計を立てようとしたフォルゲン伯爵家のカール・マチアスと恋仲になり、彼を失って廃人同様になり、逆亡命者リューネブルクと結婚することになるエリザベート。

 だが彼女が早くからサイオキシン麻薬蔓延回避のために動き回った結果、カール・マチアスはサイオキシン麻薬の密売に手を染めることができず、生計を立てる目処が一切立たず、結婚が立ち消えとなった。

 そして傷心のエリザベートを兄ハルテンベルク伯はつてを使って西苑へ ―― 兄なりの優しさだったのだろう。とても貴族的な優しさではあるが。

 彼女は当初から鬱ぎ込んでいた。

 周囲の者は皇帝の渡りがないからだろうと考え、腫れ物に触るよう接する。だが彼女は西苑に収められたことよりも、フリードリヒ四世の渡りがないことよりも、カール・マチアスと結婚できなかったことが原因であった。

 彼女がカール・マチアスのことを引きずっていると考えたものは、ほとんどいない。彼はそれほどの男ではないと ―― エリザベート以外の人にとっての認識はそんなものであった。人によって尺度は違う。

 そんな傷心のエリザベートの元を訪れたのが、彼女であった。

 彼女は女官長の仕事のとして西苑をくまなく歩き、全ての愛妾に直接会っていた。彼女は傷心のエリザベートの心の琴線に触れた。

 彼女はエリザベートにそれほど気に入られた覚えはなかった。少しは愛想はよく接したことは認めるが、それはエリザベートが西苑で「物語の中で繰り広げられる、後宮お姫様特有の陰湿ないじめ」をしていなかったからである。

 こうして彼女に自覚がないまま、エリザベートは彼女に依存心に似たなにかを募らせ、警備のフェルナーを排除しようとした。なぜフェルナーを排除しようとしたのか? 周囲が納得できる理由ではないが、フェルナーは彼女の周囲にいるべき男ではないとエリザベートは考え、実行したのだという。

 フェルナーが平民であったことが、エリザベートには気に食わなかったらしい。

 

 西苑の庭を歩いていた時、エリザベートが凶器 ―― 細い鉄柵をヤスリで削って折った ―― を持ち、突進してきた。

 フェルナーは狙いが彼女だとばかり思い逃がそうとした。その隙にエリザベートは狙い通りフェルナーを刺す。

 刺され床に崩れ落ちて、初めてフェルナーは自分が狙いだったことに気付くが動きようがなかった。

「フェルナー! フェルナー!」

 駆け寄ってきて叫ぶ彼女に、早く逃げてと言おうとしたのだが、普段はよく動く口がこのときは動かず。

「なにをするつもり! エリザベート。止めて!」

 動けなくなったフェルナーを抱きしめ庇い、叫ぶ彼女の声に体を動かそうと意識を集中するが、傷が深く意識を保つのが精一杯であった。

「その男から離れてください、ジークリンデさま。下賤の血で汚れてしまいます!」

「フェルナーがあなたになにをしたと言うのですか! エリザベート。その刃物を降ろしなさい!」

 刃物が振り下ろされることは、幸運にしてなかった。

 ジークリンデの声を聞いた一人の女性が駆けつけてくれた。女性はエリザベートの後側から駆け寄る形となったので、不意を突いてエリザベートを突き飛ばすことができたのだ。

「ジークリンデさま、ご無事ですか? フェルナーさん」

「アンネローゼさま!」

 

 フェルナーが覚えているのはここまで。

 

「…………思い出す度に、背筋が凍るんですよ」

 その後はアンネローゼの侍女が助けを求めに走り、平常心には程遠いが、少々の落ち着きを取り戻した彼女がエリザベートの手から刃物を奪い ――

「だろうな」

 ワイヤーロープ並の精神と言われるフェルナーだが、将来のブラウンシュヴァイク公爵夫人と、皇帝の寵姫を危機的状況に晒している原因が自分というのは、思い出すと完治した傷が痛むくらいの恐怖であった。

 この事件は闇に葬られた ―― とは言え、人の口に戸は立てられず、ハルテンベルク伯爵家は取りつぶしにならなかったが、当主の出世の芽はつぶれ、エリザベートは西苑から出され、逆亡命してきたヘルマン・フォン・リューネブルクと結婚させられた。

 

 エリザベートがリューネブルクと結婚したと聞かされたとき、彼女は初めて、あのサイオキシン麻薬密売婚約者と、グリンメルスハウゼン子爵に関係するエリザベートであることに気付いた。

 

 

―― エリザベートって名前、多いから

 

 

 伯爵邸で連絡を受け取った彼女は、明日の準備を整えさせ、ゆったりと入浴し寝間着に着替えて、二提督の書類に目を通し、

「…………アイゼナッハだったんだ。見つかる筈ない……」

 ずっと”アイゼンナッハ”で捜していた自分の適当さ加減に、一人恥ずかしくなり、すぐにベッドに潜り込んだ。アイゼナッハの妻の名もエリザベートであった。


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