黒絹の皇妃   作:朱緒

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Epilogueですが、本編はまだ続きます
(次話を更新の後、この前書きは消します)


Epilogue

 新帝国歴二十五年七月二十六日 皇帝は死んだ。病死であった ――

 

 新帝国歴二十五年八月十七日、かつて皇帝であり一度は退位したカザリン・ケートヘン・フォン・ブラウンシュヴァイクは、今から十年ほど前に再建されたイゼルローン回廊の要塞へと足を運んでいた。

 

 本来であればカザリン・ケートヘンは、彼女の住まいがあったオーディンから新帝国の首都であるフェザーンへ向かわなくてはならない立場なのだが ――

 

 宇宙はゴールデンバウム王朝からローエングラム王朝へと代わり、帝国の首都もオーディンからフェザーンへ。それにより旧帝都は徐々に寂れていった。

 カザリン・ケートヘンはフェザーンに居を構えることもできたが、彼女はオーディンを離れなかった。カザリン・ケートヘンにとって、幸せな思い出の詰まっているオーディンを離れるなど、考えたこともなかった。

 旅行や招待を受けて留守にすることはあったが、カザリン・ケートヘンがいる場所はいつだってオーディンであり、命が潰えるその時までオーディンに在り続ける ―― はずであった。

 

 カザリン・ケートヘンは七月の末に、彼らしからぬ人生の最後を迎えた皇帝の葬儀に参列すべくオーディンを離れた。

 その皇帝が惑星のベッドの上で死ぬなど、思ってもいなかった。

 彼は戦場で死ぬと誰もが信じていた ―― 負けることはないが、戦艦の指揮官席に座って死ぬと思われていたし、皇帝当人もそれを望んでいたが、世の中はままならぬものである。

 カザリン・ケートヘンはオーディンを離れたのだが、

 

「ジークリンデ帝に倣ってみた。正確には逆だが」

 

 イゼルローン回廊の要塞へとやってきた。

 

「そんなところ、倣わないでもいいんじゃないのか」

 

 カザリン・ケートヘンの悪びれない一言に、腕を組み隣に立っているポプランは笑いながら応えた。

 二人がいるのは要塞内でも、特に人の立ち入りが制限されている箇所で、ドーム状の天井には星々が映し出されている。

 

「なにを言っておる、オリビエ。おぬしが妾をここまで連れてきたのではないか。駄目だと思っていたのであらば、連れて来なければ良かったであろうが」

 

 カザリン・ケートヘンは葬儀に向かうと見せかけ、フェザーンとは反対方向へ。

 

「俺はカザリンに頼まれたら、断り切れないからな」

 

 ポプラン一人だけの力ではなく、カザリン・ケートヘンの護衛を務めているベッケラート上級大将も従った。

 ベッケラート上級大将は途中でカザリン・ケートヘンの夫に連絡を入れてはいる ―― カザリン・ケートヘンが連絡を入れるなと命じなかったので入れられたのだが。

 皇帝の病状が悪化しはじめた頃、既にフェザーンに渡っていた夫は、ベッケラート上級大将からの報を受け取り、年甲斐もなく頭を抱えて悲鳴のような声を漏らしたが、すぐに立ち直り急ぎイゼルローン回廊へと向かっているところである。

 

「ジークリンデ帝に命じられたからであろう」

 

 ポプランは幼かった皇帝が独り立ちできるまで側にいた。

 それは仕えるというのにも、見守るというのにも程遠く。当事者以外は、側にいたとしか表現できないが ―― 他者には到底理解できぬ主従であった。

 

「それはもちろんだが、この時を逃がしたら、カザリンが来る機会を得るのは難しいだろう」

「そうだな」

 

 新たに造られた要塞は、かつての要塞より少々大きめ。 

 ノウハウがあるので、施工期間は短縮できるはずだったのだが【皇帝の離宮】に相応しいようにと、あれこれ盛り込んだ結果、施工期間は十年越で費用も以前の要塞と同額。

 それだけの時間と金を掛けただけのことはあると、初めて訪れたカザリン・ケートヘンも納得できる作りとなっていた。

 

「ところでオリビエ。かつてのイゼルローンの要塞と、この要塞を比べてどうだ?」

 

 尋ねられたポプランは改めて周囲を見回す。

 初めてイゼルローン要塞内を観た時は、趣味はともかく豪華さにはかなり驚いた ―― 二十年以上も前のことなのでかなり薄れてしまった記憶ではあるが、驚いたことは忘れてはいない。

 その後、新無憂宮に連れて行かれ、数多くの豪華絢爛な建築物を観たポプランだったが ――

 

「以前よりずっと派手、いや、この場合は帝国らしいと言ったほうがいいのかな。銀河帝国じゃなくて、ゴールデンバウム帝国らしいな」

 

 そのポプランをしても、この【離宮】は、目を見張るほど豪華であった。

 

「そうか。皇帝の離宮に相応しい……皇帝が訪れることはないが」

 

 憲法で定められたわけでもなければ、法律として決まっているわけでもないのだが【離宮】に皇帝が足を踏み入れることはない。

 

「そうだなあ」

 

 【皇帝の離宮】と呼ばれているのにも関わらず。

 その理由なのだが、この離宮、ゴールデンバウム王朝最期の皇帝のために建てられたもの。滅亡のさせた側であるローエングラム王朝の皇帝が立ち入ることは竣工前から拒否された。

 宇宙を統一したはずの皇帝へ対しての立ち入り制限。

 無論、再建を命じたゴールデンバウム最後の皇帝はローエングラム王朝の皇帝の立ち入りを禁ずるなどとは一言も言わなかったが、再建を命じられた部下は、最後の皇帝が死去すると同時に、先の皇帝に命じられた任務ゆえ、職務続行は不可能だとし再建の仕事を辞してしまった。

 この回廊に要塞がないのはかなり不自由なので、そのまま建築は進められることになったのだが ―― 彼の後、それなりに優秀な者を十人ほど彼の代理にしてみたものの、彼の事務処理能力は並外れており、同じように仕事が進まなかった。

 無駄に時間をかけるのを好まない皇帝は、好待遇を提示して仕事を続けるよう依頼したが、どうにも引き受けてもらえず ―― 最終的に支配者側からの提示ではなく、彼の希望を聞くという形にしてやっと話し合いになり、彼側から「新王朝の皇帝の立ち入り禁止」が提示された。

 あまりの条件に、彼が引き受けるつもりがないことは、誰の目にも明らかであったが、皇帝はその条件を了承した。

 皇帝が飲んだことに彼は驚いたが「あなたが自分で言ったことですよ」と、彼は妻に言われて仕事を引き受け、見事に要塞を完成させた。

 引退するにはまだ早いと惜しまれたが、それらを振り切り公職から身を引き、大貴族の領地で領主代理を務め ―― 今でも夫婦仲良く幸せに暮らしている。

 彼らには二人の娘がおり、どちらも仕事に家庭にと幸せな毎日を送っている。

 カザリン・ケートヘンはその二人の娘とも仲がよく、折に触れては連絡を取り合っていた。

 

 巡航艦が停泊している区画で、カザリン・ケートヘンは足を止める。

 

「オリビエ」

「なんだ、カザリン」

「いってよいぞ」

 

 カザリン・ケートヘンは四半世紀仕えた男に暇を出す。

 

「……」

 

 ポプランが自由になりたがっていることに気付いたのはカザリン・ケートヘンが十二歳の頃。

 いつかポプランはふらりと出てゆくだろうとカザリン・ケートヘンは思っていたが、十八歳の時に、ポプランが何かに縛られていることに気付いた。

 

「お前のような、自由気ままに生きるのが好きな男が、よくぞここまで妾に仕えたものだ。ジークリンデ帝に言われたからであろうがな」

 

 そして二十三歳の時に、ポプランを縛っているものに気付いた。

 

「よくご存じで」

 

 自分が最後の皇帝の年齢を越えた時、それに気付いたのだ。

 

「妾の勝手な推測だったのだが、的中していたようだな。それにしても、相変わらずジークリンデ帝は凄いものじゃのう。なにを言ったのかは知らぬが、お前のような男を、二十年以上も妾の元に留めておけるのだから」

「そうだな。俺も随分とあの人の言葉に縛られた」

「お前を縛った言葉はなんだ? 教えてくれぬか、オリビエよ」

 

 カザリン・ケートヘンは彼が答えぬこと知りながら尋ねた。

 

「色々言われたからなあ」

 

 予想通りポプランは答えようとはしなかった。カザリン・ケートヘンは答えてもらえなかったことよりも、あまりにも自分の予想通りの答えに思わず笑い声を上げる。

 

「教えるつもりはないのであろう。分かっておる。どの男も、自分だけが知っているジークリンデ帝の欠片を大事にしていること。それを決して語らぬこと、妾の夫でよく分かっておる」

 

 鈴を転がすような声で歌うかのように自分を”陛下”と呼んでいた ―― 二十五年も前のことであり、まだ物心すらついていなかったはずの自分の記憶に、しっかりと残っている、あの透き通るような声。

 

「カザリンは全部お見通しだな」

 

 微笑んで言われたら、きっと断れない ――

 

「そうだ。だから、もういいぞ。オリビエよ」

「ああ」

「どこに居ようとも、何をしようとも構わぬ。だが妾が呼んだらすぐに来なくてはならないぞ、オリビエ」

「……分かった。だがそれで本当にいいのか?」

「構わぬ。妾を誰だと思うているのだ。船はニクラスに用意するよう命じておいた。元気でな、オリビエ」

 

 ポプランはゆっくりとカザリン・ケートヘンの側を離れる。呼び戻されることはない。それはポプランは分かっていた。

 カザリン・ケートヘンも何があっても呼ぶことはない。

 しばらくその場にカザリン・ケートヘンが佇んでいると、一隻の巡航艦が停泊所から離れ外へ ―― 巡航艦は直ぐに星にまぎれ見えなくなった。

 

 永遠の別れというものは、いつでもあっさりと訪れるものだなと、カザリン・ケートヘンは広がる宇宙を眺めながら、二十五年前、碧落に溶けたパーツィバルを重ねる。

 

 

「首尾はよいか、ニクラス」

 

 フェザーンに行くと見せかけイゼルローンに向かえと、ポプランを遠くに連れてゆく巡航艦を用立てろと、様々な命令を出されていたベッケラート上級大将は、

 

「はい」

 

 全て無事に終わらせましたと、カザリン・ケートヘンに頭を下げる。

 この上級大将はかつてファーレンハイトの従卒だった青年。ファーレンハイトの死後に従卒を辞め、士官学校へと進学し卒業後、ファーレンハイトに言われた通りメルカッツに師事し、その才能を開花させたのだが、多感な時期にファーレンハイト、多くを学ぶ時期にメルカッツに付いたせいで、彼らの思考も受け継ぎ、帝国でも有名な新皇帝嫌いの急先鋒提督となった。

 ただ新皇帝は嫌いだが、内乱はもっと好きではないとして、新皇帝とそのNo.2が矛を交えた際には中立を保った。

 新皇帝嫌いという点をカザリン・ケートヘンは非常に気に入り、ベッケラートを直属の部下に加えた。

 

「それで、あれは何時到着する」

 

 カザリン・ケートヘンが”あれ”と呼ぶのは夫だけ。

 

「あれ……ですか?」

「そう、あれだ。で、何時だ? ニクラス」

 

 たまには名前で呼んではいかがでしょうかと思うも、夫婦のことに口だしするのは分を弁えぬ行為だと ――

 

「あと二日ほどはかかるかと」

「そうか。ではその間、要塞内を思う存分探索しようか。案内せい」

「御意」

「ところでニクラス。お主にもジークリンデ帝との特別な思い出はあるか?」

 

 歩き始めたカザリン・ケートヘンは扇子で口元を隠して語る。その仕草は新宮内尚書によく似ていた。

 

「ブラウンシュヴァイク公爵夫人に語れるようなものはございません」

 

 カザリン・ケートヘンに淑女教育を行ったのが新宮内尚書なのだから当然といえば当然であり、仕草は非常に女性らしく優美なのだが ―― 新宮内尚書の強かさが重なり、なんとも手強そうに見えてしまう。

 

「お主もか。どいつもこいつも、大切に胸の奥にしまい込みおって。妾のように、惜しげもなく語ろうとは思わぬのか」

「いえ、本当に語るほどのことはないのです」

「全く……あの皇帝も、終ぞジークリンデ帝のことは語らなかったが。だが、あの皇帝が大理石碑に刻ませた言葉は納得いかん」

 

 初代皇帝は皇妃の生家跡地にシンプルな大理石碑を建て、そこに文字を刻んだのだが、その文面が賛否両論であった。

 

 【もう一度ここに来て、私を愛してください】

 

 あの皇帝が刻ませるには、あまりにもらしからぬ文面に、皇帝は本当に皇妃のことを愛していたのだ、だから他の女を娶らなかったのだと言う者もいれば、皇妃は最初から皇帝のことなど愛していなかった、皇帝が妃を迎えなかったのは、どの女も皇妃に見劣りしたからだと ―― ゴールデンバウム王朝最後の皇帝にしてローエングラム王朝唯一の皇妃が、皇帝のことをどう思っていたのか? それは謎に包まれている。

 皇妃は皇帝のことをあまり語らなかった……からではなく、皇妃が語ったと思われる相手が軒並み殉死しており、側仕えで僅かながら死を選ばせてもらえなかった者たちも一切語らないため、知りようがない状態であった。

 

「……」

 

 ベッケラート上級大将は最後の皇帝がどう思っていたか? その断片を知る人物であった。

 

「なんだ、ニクラス。その表情は」

 

 当時彼はまだ十代半ばであったこともあり、二人のことについて知らないと思われており、当人も吹聴するつもりはないので黙していたのだが ――

 

「なんでもありません」

「その優越感に溢れた表情が、なんでもないと? それは先ほど妾がジークリンデ帝の思い出を語れといった際にした表情よりも酷い。お前、なにか知っておるな?」

 

 表情からそれがこぼれ落ちた。

 

「いえ、なにも存じませぬ」

「嘘をつくな! 言え! 言わぬか!」

 

 上級大将は最後の皇帝は新皇帝のことを、愛していたと ―― 彼の目の前での会話。滅び行くゴールデンバウムの皇帝らしいものであり、また分かりづらく理解しがたきものではあったが、そこに愛はあった。

 だからこそ新皇帝は戦い ―― 彼は無粋な真似はしないと、内乱に背を向けた。

 

**********

 

 ベッケラート上級大将から結局なにも聞き出せなかったカザリン・ケートヘンは、

 

「いかがなさいました」

 

 眼前に広がる宇宙空間を眺めていた。

 

「宇宙を眺めている以外、なにかしているように見えるか?」

「いいえ」

 

 急ぎやってきた夫に、カザリン・ケートヘンはつれなく答える。

 何時ものことなので夫は特に気にせず、急ぎフェザーンに向かわねばと、急かしそうな従者を下げ、カザリン・ケートヘンが飽きるまで付き合うつもりで黙って待つ。

 

「妾は二十六歳となった」

「はい」

「そなたは四十七か」

「はい」

「ジークリンデ帝とそなたは同い年であったな。四十七歳のジークリンデ帝、想像できるか?」

「間違いなく、銀河でもっともお美しいお方でいらっしゃったことでしょう」

「妻に向かって、そう即答できるそなたが大好きだ」

 

 カザリン・ケートヘンは振り返り、ここまで急いできた夫を労う。

 

「申し訳ございません」

「なにだが?」

「カザリンさまが、ここに来たがっていたことは知っておりましたが、お連れすることをせず」

「妾はそなたに、ここに来たい言ったことはない。だから連れてこなくて当然であろう……正直迎えに来るとは思わなかった。妾は迎えなどなくとも、ぎりぎりになるが葬儀には間に合うよう、フェザーンに向かうつもりであった。夫を辛い思い出のある所に連れてくるつもりなどない」

「お優しいお言葉」

「人間として当然であろう。皇帝になったら、どうなるかは分からぬが」

「かつて皇帝でありながらお優しいのですから、この先もお優しさは変わらないかと」

「そうか……ところで、ジークリンデ帝は本当にここで亡くなられたのか?」

「……」

「やはり黙りか。誰も本当に何一つ語らぬな」

 

 カザリン・ケートヘンは扇子で顔を隠さずに、手で口元を隠して高笑いする。

 

「カザリンさま、それは違います。語らないのではなく、語れないのです」

「臣下が語ることなどできない……か?」

「はい」

「生死くらいは語っても良いのではないか? そなた達がはっきりと語らぬゆえに、いまだ帝国ではジークリンデ帝生存説が流れておるではないか。カタリナなど、その説を信じておるしな」

 

 死んだはずのベンドリングが生きて帰ってきたこともあり、カタリナは死体を見るまでは死んだことは認めないと公言していた。

 

「死体は……」

「死んでも美しかったのであろう? それこそ、あどけなく眠っているかのように。今にもあのけぶるような睫で飾られた目蓋が開き、可憐な口元が透き通るような声で名を呼びそうな……妾とて見ずとも分かるわ」

 

 夫が美しき遺体に近づけたかどうかは、カザリン・ケートヘンにも分からない。当時の夫は、それほど高い地位に就いていたわけではない。

 役職こそ侍従武官ではあったが、侍従武官長が付き従っており、それほど皇帝に近づけるような立場ではなかった。

 無論、全く会話を交わせぬようなことはなく ―― 最後に戦艦を降りる者たちを率いるよう皇帝から直接命じられてもいた。

 

「……」

 

 勅命を拝したことだが、それは戦艦を降りた者たちが語っていたことで、カザリン・ケートヘンの夫が語ったことはない。

 

「死体を直接見た男ですら死を信じられぬのだ、死体を見ていない者に信じろというほうが無理だな」

 

 きっとどれほど尋ねようとも語らないのだろう ―― そして彼らは言うのだ。「誰々に聞けばいい」と。

 

「私は最期を看取ったわけではありません。終幕を直接見ることができたのは軍務尚書閣下のみ。お尋ねになられるのでしたら、軍務尚書閣下に」

「馬鹿者。あのパーツィバルが答えるわけなかろうが! そなた本気で言っておるのか? あれが答えると? 妾があれだけ欲しいと言っても……くぅ……思い出すだけで腹立たしい」

 

 最後の皇帝は、即位が一年にも満たない故「皇帝時代の品」はほとんど無い。

 自らの命と共にゴールデンバウムの終焉を宣言した皇帝にとって、皇帝時代の品など処分対象でしかなかったのであろう ―― 多くの者の見解である。

 最後の皇帝は退位すると同時に、自らの旗艦パーツィバルを、護衛艦隊を率いる将校に下げ渡した。その際に皇帝時代身につけていたマントをも提督席を覆い隠すようにかけていた。その将校、現軍務尚書は黄金のマントを自分のものとした。

 マントは何十枚もあったが、その一枚以外は全て処分されており、それが唯一であった。

 カザリン・ケートヘンはそれを欲したのだが、軍務尚書は決してそれに応えることはなかった。

 

「まあ……たしかに」

「大体あやつは、宗主代理を務めた時のジークリンデ帝のことも知っているくせに、一つも語りはしない」

 

 カザリン・ケートヘンは扇子を折らんばかりに両手で握り締め力を込める。

 

「失恋確定初恋だったそうですから、語りづらいのかも」

 

 最後の皇帝がフェザーンで宗主の代理を務めた頃を知っているのは、本当にごく僅かしか残っていない。

 

「それすら認めぬではないか! あやつは人を愛したことなど一度も無いと、嘯きおる! 人の良さそうな顔、取っ付きやすい雰囲気の奥に、ジークリンデ帝の全てを閉じ込めて」

 

 人当たりのよい、誰にでも優しい軍務尚書なのだが、隔絶している箇所があった。

 

「落ち着いてください、カザリンさま。亡き陛下がフェザーン宗主代理を務めた際、警備を担当した婦人警官たちを見つけました。彼女たちは当時のことを語ってくれるそうです」

「…………行くぞ」

 

 踵を返し白黒の大理石が交互に並ぶ廊下かけ出し、立ち止まって振り返り、遅いぞ! と手招きするカザリン・ケートヘンに夫は駆け寄る。

 

「お待ち下さい」

「遅いわ! そなたも軍人ならばもっと早く走れ! ところで、アレクは?」

 

 カタリナ・ケートヘンは幼い我が子のことを思い出し ――

 

「カタリナさまに預けて参りました。即位なされるお方と、立太子なされるかもしれないお方は、同じ場所には」

 

 夫がカタリナ・ケートヘンに先んじてフェザーン入りしたのは、次の次の後継者である二人の息子を、連れて行く任務があったため。

 

「それは分かっておる。誰に預けてきたのか聞いているのだ」

 

 皇妃以外は誰も側におかなかった皇帝は、故人となった皇帝の親友と同じ名を持つアレクを、非常に可愛がった。

 

「カタリナさまに」

「そうか。では妾は”二世”となるために、フェザーンへ向かうとするか。それにしても、ゴールデンバウムのカザリン・ケートヘン一世とローエングラム=ブラウンシュヴァイクのカザリン・ケートヘン二世が同一人物とは、系図を描く者は少々苦労するであろうな!」

「確かに」

「だが妾以外いないのだから仕方あるまい」

 

 歯も生えそろわぬ二十七年前に即位し、二年後に訳も分からず退位し ―― そして二十五年を経てカザリン・ケートヘンは自ら納得して再び皇帝の地位に就く。

 

 

【Epilogue】

 

 カザリン・ケートヘン二世の夫は、どれほど聞かれても最後の皇帝について語らなかったが ―― 年の離れた妻への最後の贈り物として回想録を認めた。

 そこにはカザリン・ケートヘン二世が知りたがっていたことが色々と書かれていた。特にカザリン・ケートヘン二世の心を掴んだのは、退位後についての記述。

 若くして死を選ぶしかなかった皇帝が死の際に選んだ衣装。

 総レース製のマーメイドドレス。肌の露出がほとんどないデザインで色は純白。

 身長より遙かに長いマリアベールと、ダイヤモンドと真珠で作られたマリアベールティアラで額を飾り、黒髪は即位していたときと同じように降ろされていた ―― その姿、どれほどに美しくあったろうと。

 

 そして、その記述によると棺に眠るジークリンデ・ツィタ・フェオドラの胸元を飾っていたのは ――


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