彼女はキルヒアイスに会うため、朝早くから軍病院へと足を運んだ。
開院時間はまだだが、彼女を訪問を拒むものはない。
病室に入る前に、誰か来たかを尋ねると、昨日のラインハルトが訪問しており ―― 爆破に巻き込まれたこと。またその理由。一緒にいたアンネローゼが死亡したことなどについて、キルヒアイスは知っていると彼女は報告を受けた。
「このような姿で、申し訳……」
「構いませんよ、グリューネワルト」
病室に入ってきた彼女に、キルヒアイスは起き上がり礼を取ろうとするが、彼女はそれを制する。
キルヒアイスの従卒が彼の肩にガウンをかけ退出する。
彼女はベッドから少し離れた位置にあった椅子を、キルヒアイスの枕元まで運ぶよう指示を ―― 出そうとしたのだが、その前にキスリングが動き、
―― もう少し近い位置……警戒対象ですものね
彼女が思っていたのより、やや離れた箇所に椅子を設置した。話すのには差し支えはないので、その椅子に腰を降ろし、単刀直入に本題を切り出した。
「あなたの怪我は広範囲にわたっており、一刻の猶予も許されない状態でしたので、治療器を使用しました。それにより快復はしましたが、生命を優先したことにより、あなたの体は以前とは異なります」
体に起こった異変についての、詳細が記されている書類を、キスリングがキルヒアイスに渡す。
「この決断を下したのは私です。不満があるのなら聞くわ」
受け取ったキルヒアイスは素早く目を通し、
「不満などございません。大公妃殿下にお手数をおかけしたこと、まことに申し訳なく思っております」
動揺を見せることはなかった。
「そう、私からの報告はこれだけよ。これから色々とありますけれど、まずは快復して良かったわ。早く元気を取り戻してちょうだい」
予定が押している彼女は、早々に立ち上がる。
例え予定がなかったとしても、重傷を負い目覚めてすぐの相手の元に長居するような彼女ではない。
「……あの、よろしいでしょうか?」
立ち上がった彼女に、キルヒアイスがやや慌てるようにして彼女に話し掛ける。
「なにかしら?」
「昨日ラインハルトさまが、ブライトクロイツ一門の処分に関し、大公妃殿下にお願いをしたと聞きました」
―― ここで色々と文句というか、愚痴というか……言いたくなるのは分かりますが、もう少しだけキルヒアイスを労ってあげてー。ラインハルト、もうあなたにはキルヒアイスしかいないのですから
「あったわね。それに対する謝罪でしたら、要りませんよ。それ以外でしたら聞きますけれど。ああ、でも処分を譲って欲しいや、処分対象を増やして欲しいなど、今回の事件に関することは聞きませんよ」
きっと色々と言われたのだろうなと思いながら、彼女はキルヒアイスを突き放す。
「そう、言われるとは思っておりました」
公明正大で優しいキルヒアイスだが、彼とて人間である。
大事にしていた人を失い、その理由や動機などを聞けば、考えてはいけないことが頭を過ぎることもある。
彼はもう力のない平民ではなく、年齢にそぐわない権力を握った青年。自分の希望を叶えることができそうな ―― 夢ではなく現実に届きかけるが、僅かとどかず、だがその僅かは決して越えてはいけないラインでもあった。彼らが彼らとして新国家を築くためには。
「物わかりがよくて結構。あなた達は新しい国を作るのでしょう? 傍若無人な門閥貴族が横行するこの間違った帝国とは違う、新たな人々が住みやすい国を」
彼女の唐突な問いかけに、キルヒアイスは驚きで目を見開く。
そんな彼に、彼女は続ける。
「私憤で刑を決めること、私刑を行い復讐心を慰める。それは、あなた達が悪と断じる存在と同じこと。あなた達も、ゴールデンバウムと同じ道を歩むことになります。それは避けなさい。あなた達が新国家を作るのであれば、旧国家の家臣であろうとも、己を律しなくてはなりません」
彼女はそう告げて、帰るためにドアへと近づく。開けようとしていたキスリングの腕に手を乗せて、くるりと振り返った。そして、彼女は軍帽から下がっているオレンジ色のベールを手で掴み、口元を隠すようにして ―― それは軽やかに語った。
「ああ、言い忘れていたことがあったわジークフリード。私がこの処分を誰にも譲らなかった理由は私憤よ。四親等まで処刑することにしたのは、感情が先行したからこそ」
「それは、ご自身を狙われたことに対する怒り……ですか?」
「ふふふ。本当のことを知らないあなたは、そう言うしかないわよね。良いことを教えてあげる。アレクシアは私のことは狙っていなかったわ。詳しいことは、気が向いたら教えてあげる」
彼女はベールを払いのけ、
「これは私のためだけの処刑。でもね、あなた達と違って、私には許されるの。だって私、ゴールデンバウムなんですもの」
女神と表現すべきか、天使と謳うべきか ―― 彼女は極上の笑顔で、そうキルヒアイスに告げた。
甘やかな声が語る内容は、利己的で残酷なものだが、それはあまりにも蠱惑的で、キルヒアイスのような意志が強い青年であっても、抗い難きものであった。
キルヒアイスは頭を下げるのも忘れ、彼女が立ち去るのを茫然に近い状況で見送った。
キルヒアイスの態度に関してなんら興味のない彼女は、地上車に乗り込み、珍しく窓の当たりに頬杖をついて外を眺めるような体勢に。だが厳重な警備体制がまだ敷かれているため、見えるのは装甲車の側面のみ。
彼女はそれを見つめながら ―― 一筋の涙が頬を伝った。
「私だって、アンネローゼの死は悲しいのですけれどもね」
彼女とアンネローゼは十年来の知り合いである。さすがに友人とは言わないし、助かりたいという下心を持って接していはしたが、友好な関係を築いていた。それこそ、死ねば悲しいと感じるほどに近しくもあった。
「ジークリンデさま」
キスリングは彼女に声を掛けたが、その先が続かなかった。彼は彼女とアンネローゼの関係について、詳しくはない。引き継ぎなどで聞いてはいるが、それだけでしかない。
フェルナーやファーレンハイトのように、彼女がどのようにして当時の寵姫と仲良くなり、過ごしていたのかなどまるで知らない。
だから彼は、それ以上は何も言わなかった。
「彼らに比べたら、悲しみの度合いは低いのは認めますけれども……悲しんでいることを知って欲しいわけではないのですが……」
彼女は自らの指で涙を拭い、向かい側に座っているキスリングに微笑みかけた。
「ジークリンデさまのそのお気持ちを分かっている者は、たくさんおります」
「そうね。分かってはいるのよ。悲しみに暮れている人たちに、求めてはいけないことは分かっているのよ、こんなことを言ってはいけないことも。ついつい、あなたに甘えてしまって……二十を過ぎているのに甘えなんて、本当に恥ずかしいことね」
「あ、いいえ。それは信頼されている証拠なので、お気になさらずに、いつでも気持ちを吐露していただけたら」
「ありがとう、キスリング」
そう言うと頬杖を解き、彼女はいつも通りに美しい姿勢に座り直した。
**********
自裁という名の死刑が行われるとは思えない室内 ―― 手入れが行き届いている庭を望める大きなアーチ窓が並び、自然光で明るい室内。
磨かれてる床はそこにいる者たちの姿を、鏡のように映し出している。
この部屋が使われるのは日中がほとんどのため、明かりが灯されたことがほとんどない、天井を飾るだけの大きく豪奢なシャンデリア。
アンピール様式の室内は、重厚感が溢れていた。
だがここは処刑を行う場であり、既に彼女以外の立会人と、刑に望むアレクシアはそこにいた。
アレクシアはコーラルピンクでの華やかなドレスを纏っている。オーガンジー製のそれはふわりと膨らみ華やかで、とてもこれから死ぬ女性が選ぶような形には見えなかったが、これらを選んだのはアレクシア自身である。
手袋は短めでドレスと同じ色合い、そしてショート丈。
髪は緩やかにまとめ、左サイドから流していた。
アレクシアは手を握りしめ、彼女がやってくるドアを見つめている。待ち焦がれているのが人目で分かるその姿は。瞳は官能に濡れている。
きっちりと口紅が塗られた唇が吐き出す吐息も悩ましげで、死刑が目前に迫っている人間にはとても見えない。
彼女以外の関係者が全員揃い、最後に彼女が現れる。
大きな扉を開かせ、白い長手袋をはめ黒檀の扇子を持ち彼女は現れた。
艶やかな黒髪はオーソドックスに綺麗に纏め、細かい刺繍が施されたショートベールつきのトーク帽を被り、そのほとんどが隠されている。
首元を飾るプラチナのネックレスは、四十を数えるダイヤモンドで飾られ、耳元も同じく。
そしてドレス。上半身は彼女よく着用する、総レース製で体にフィットしたもの。デザインはノースリーブ。
スカートは光沢あるサテン生地で、大量のギャザーを寄せたボリュームのあるAラインドレス。裾は長く二メートル引きずるほど。
「大公妃殿下。お美しいですわ」
「そうか」
「ですが私の望みは叶えて下さらなかったのですね」
彼女のドレスは上から下までロイヤルブルー一色。滑らかな象牙色の肌に、気品ある青はとてもよく映えている。
彼女は閉じている黒檀の扇子を口元近くへと運び、小首を傾げて微笑み、
「お前の何処が憐れなのだ? アレクシア。お前の望みは全て叶ったであろう? 自らが憐れと思うなれば、言え。アレクシア」
ブライトクロイツ家のフルール・ド・リスが刻まれた、黒檀の扇子を開く。
「大公妃殿下、全ての望みは叶っておりませんわ」
「ああ、それか。私は約束は違えぬよ。このフルール・ド・リス、いや双頭の鷲に誓ってな」
彼女はアレクシアの脇を通り過ぎ、彼女のために誂えられた椅子に腰を降ろす。何時ものように、重みを感じさせず、だがその存在感は圧倒の一言。
長いドレスの裾が整えられたところで、
「司法尚書、始めよ」
ロイエンタールに指示を出した。彼はアレクシアに対し罪状を読み上げるが、当のアレクシアが聞いている素振りはなかった。
死刑を目の前にして茫然自失になっているのとは違う、ロイエンタールの背後にいる彼女を網膜に焼き付けようとしているかのように。
読み終えたロイエンタールは、アレクシアに毒杯を渡す。
「邪魔だ」
アレクシアは彼女と自分の間にいるロイエンタールを押しのけ、毒入りのワインを掲げ、
「ジークリンデ・フォン・ゴールデンバウムに栄光あれ!」
高らかに叫び、杯を仰いだ。
グラスも自ら床にたたき付け ―― 苦しむことなく息絶えた。
**********
「なんの用? マールバッハ」
アレクシアの処刑に立ち会ったあと、彼女は邸へと戻った。
ロイエンタールは死体の処理をハルテンベルク伯に任せ、次の仕事へと向かった。
「お前の一門にいる、ブライトクロイツの縁者をこちらに引き渡して欲しい、カタリナ」
彼の最も苦手とする女性、カタリナの元へとやってきて、身柄の引き渡し交渉に臨んだ。
門閥貴族は近い者同士で結婚するため、ブライトクロイツ公爵家の四親等がノイエ=シュタウフェン公爵家の本家筋に近い親等の場合がある。
親等が遠ければ有無を言わせず引っ張ることはできる。また当主が弱ければ、こちらも強引にことを進められるが ―― カタリナとなれば、地位にある者が交渉に当たる必要がある。
「来るの遅いわ。連れてきなさい」
カタリナは扇子を閉じて手のひらを叩く。
その音と声に、兵士たちが拘束されている貴族を連れてきた。
「用意がいいな」
「別に。この程度は普通よ」
貴族は血統を尊ぶが、同時にその血統を守るためには、容赦なく血縁を切り捨てる。
捕らえられた者たちは”助けてくれ” ”せめて子供だけは”などと叫ぶが、カタリナは我関せず。まるでいない者として、ロイエンタールと話を続ける。
「ところで、その兵士たちはジークリンデの配下の者たちでは?」
「役立たずの元帥のもとから持ってきたのよ」
「ファーレンハイトの見舞いに行ったのか。……可哀想に」
「微塵も可哀想なことないでしょう。自分のためにジークリンデが人を殺してくれるなんて、そうそうないことよ」
「……本人に言ったのか?」
「言ったわよ。ま、言わなくても気付いてはいるでしょうけれど。あの子、自分が殺されかけたって、相手を殺そうとはしないわ。そんなあの子に第四親等まで処刑と言わせたその理由は。あの場で事件に巻き込まれた、あなた達に対しての感情でしょう。きっと、あなたが危険に巻き込まれたことも、処刑理由に含まれているはずよ。良かったわね」
「良くはない」
「でも嬉しいでしょう。どいつも、こいつも、申し訳ないと思う気持ちの底で、歪んだ喜びを感じているのよ。そしてあの子が傷ついて弱っている姿を見て、あなた達は後悔するの。でもその後悔、思い出す度に果てるほど官能的なのよ。ほんと、駄目な男たちね」
「お前には勝てる気がしない、カタリナ」
「あ、そう」
そして今まで無視していた、捕らえられている者たちの方を向き、
「なんであなた達、助けて欲しいというわけ? あなた達はノイエ=シュタウフェン公爵家の本家筋に近い。そして私は分家の娘。そんな私が正統の血が濃い者たちを、大手を振って排除できる機会を捨てると思うの? そういう所が、あなた達の間抜けなところで、私に公爵家を奪われた理由よ。血が濃いだけの間抜けは要らないわ。そんなのをのさばらせておいたら、どうなるか? ブライトクロイツ公爵家が証明してくれたじゃない。そうそう、ファーレンハイトから兵士を借りてきた理由は、こいつら逃げるためにノイエ=シュタウフェン公爵家の兵士を買収してたの。私財を投じて逃げる算段を立てていたのに残念ね。なんで知っているかって? それは簡単よ、あなた達が買収に成功したと思っている兵士は、私の兵士よ。誰に忠誠を尽くすのか、違えていない者たちが報告に来たわ。残念だったのは、全員が報告にこなかったこと。まだまだ自分の兵士たちの心を掴めなくて苦労しているのよ。だからファーレンハイトの兵士を借りてきた。正確にはジークリンデの兵士ですけれど。兵士たち、そいつらは絶対に処分しなくてはならない存在よ。生かしておいたら、ジークリンデの身に危険が及ぶ可能性があるのだから。さすが、あのファーレンハイトが選抜した兵士たちね。ジークリンデに対する忠誠心に、一点の曇りもない。そう見事なものね。ああ、なに? 慎ましやかに生きるから……あなた達みたいなのって操られやすいから困るのよ。そう、生きているだけで危険因子なの。理解できた?」
言いたいことを言うと、すぐにロイエンタールに向き直った。
「一つ聞いていいか?」
滑らかによくもまあ、淀みなく話し続けるものだと、ロイエンタールは少しばかり感心しながら、貴族の女性にしか分からないのかも知れないと、彼が考えた疑問を尋ねた。
「なに」
「アレクシアは不愉快な成り上がり者として、グリューネワルトは挙げたが、エッシェンバッハの名を挙げることはなかった。どうしてか、分かるか?」
ロイエンタールの問いにカタリナは貴族女性らしい、優雅な高笑いをし、
「分からないの。本当にあんたって。あんまりにも面白いから、答える気がなくなったわ。そうだ、フランツィスカにでも聞いてみなさいよ。答えてくれるはずよ。あの女は、あんたに文句を言える立場じゃないから”馬鹿な男よのお”と思いながらも、答えてくれるはずよ」
自分と不倶戴天と言われているフランツィスカに聞けと ――
「よく俺が次にフランツィスカの元に行くと分かったな」
「当たり前じゃない。あそこにもブライトクロイツの縁者がいるのは、門閥貴族の当主なら誰でも知っていることよ。そしてあんたは、私の元に最初に足を運ばなくてはならないことも。貴族の序列って、面倒よね」
「そうだな」
「さ、さっさと連れていって。そして全員処刑したら、また来なさいよ」
「分かった」
**********
身長192cm 体重89kg ―― ベネディクトの生前の身長体重。
ロイエンタールが持っている箱の中身は485g。回収できたベネディクトの破片の総重量である。
ロイエンタールは身柄引き渡し要求の他に、ベネディクトの遺体も運んできた。
その箱を一瞥したフランツィスカは、当然の如く引き取りを拒否する。
ロイエンタールは箱をベルゲングリューンに預け、
「お前も準備がいいな」
「門閥貴族の当主であらば当然のことだ」
カタリナ同様、既に捕らえられていたフランツィスカの親族にして、アレクシアの血族を連行する。
「一つ聞きたいのだが」
「カタリナに答えてもらなかった質問か? ……無論答える。私は司法尚書に抵抗できる力はないからな」
「それはありがたい」
ロイエンタールはカタリナにした質問をする。
聞いたフランツィスカは、少しだけ笑い、
「アレクシアがエッシェンバッハと名乗る男を嫌わなかった理由な。簡単だ、エッシェンバッハは皇帝の寵姫の弟だ。皇帝寵姫の親族は出世する。これは帝国建国以来の常識。そんな帝国の常識を聞かれたら、あのカタリナであれば大笑いしたであろうな。そして、あのアレクシアがそれに対して腹を立てる筈があるまい」
「そういうものなのか?」
「そもそも最終決断を下したのは皇帝陛下だ。それに対して、異議を唱えるなど臣民としてしてはならぬことよ」
ロイエンタールの質問に淡々と答えた。
「では失礼……」
疑問に答えてもらったロイエンタールは、フランツィスカの邸を後にしようとした ―― 玄関ホールまでやってきたロイエンタールは、来た時にはなかった袋に気付く。
それは膨らみといい、形といい、不吉さに溢れていた。
「司法尚書。こちらも引き取っていただきたい」
後ろをついてきたフランツィスカはそう言って、その袋を開けさせる。すると、そこにはベネディクトの妹のエリスが入っていた ―― もう呼吸が必要ない体になって。
「死亡しているようだが」
暴行の痕が生々しい遺体を前に、眉を顰めるが、フランツィスカは動じることなく、
「自白剤というものを投与してみた。証言は録りためている。私は見てはいないので、役立つ証言があるかどうかも分からぬが、セットで引き取っていただきたい」
死体を持っていけと言う。
「引き取らなかった場合は?」
「証言は社会秩序維持局長官にでも届ける」
「死体は?」
「我が家にはなんら関係のない者だ。処分場に送る」
「婚姻を解消したのか」
「しない理由が見つからぬ。これたちと婚姻を結んでいて、この先なにか一つでも良いことがあるのか?」
「賢明な判断だ。死体はこちらで処分しよう」