黒絹の皇妃   作:朱緒

25 / 258
第25話

 だが彼女に関するこれらの出来事だけであれば、ブラウンシュヴァイク公の邸で行う必要はない。

 リヒテンラーデ侯がこの邸まで出向いたのは、ブラウンシュヴァイク公を説得するためである。

 彼女とラインハルトの結婚に対して、当然ブラウンシュヴァイク公爵は異議を申し立てた。ビッテンフェルトは皇族の一員なので、皇帝の意思に表立って異論を唱えるようなことはしなかった。

 彼は基本、ジークリンデが幸せになってくれさえすれば、それでいいのだ。その相手が自分でないことに寂寥感はあれど、権力を誇示したりするような真似はしない。彼は戦う姿勢と女性(ジークリンデ)に対する姿勢は、まったく違う。

 だが事情は聞きたいと考えた。ブラウンシュヴァイク公爵家は蔑ろにされるような家ではないし、門閥貴族の調整を図る上で、決して蔑ろにしてはならない比類なき名門。

 国務尚書のリヒテンラーデ侯ならば、重々承知しているであろう ―― それを無視して執り行われた即日結婚。

 彼女とラインハルトの結婚は、皇帝フリードリヒ四世の戯れ言から発したもので、リヒテンラーデ侯は了承はしたものの ―― 侯は皇帝の意志に沿うことで権力を握っているので当然だが ―― 後日のブラウンシュヴァイク公らの説得に頭を悩ませていたのも事実であった。そこに降って沸いた”大侵略の目的”

 

 リヒテンラーデ侯はこれを効果的に使うことにした。要は叛乱軍が大挙して奪いにくるような娘を、名門にくれてやるわけにはいかないと。門閥貴族でもどうすることもできない”叛乱軍”が相手とあって、ブラウンシュヴァイク公は渋々ながらも諦めた。だが、これからも離婚を求めると主張してきた。

 彼女のことを娘のように可愛がっていたブラウンシュヴァイク公は、叛乱軍の出兵理由が彼女であることを、彼女自身に知られぬようにするために、いままで通り離婚を求め、ビッテンフェルトとの結婚を望むと言うのだ。

「そのくらいの譲歩はしてもらいたいものだな、国務尚書」

「確かに。見ず知らずの男が、訳が解らん妄想をいだいて帝国を侵略してきたなど、ジークリンデさまがお聞きになったら心痛のあまり倒れてしまわれるかも知れません」

「それどころか、帝国の為にと叛徒共の元へと赴いてしまうかもしれません……ファーレンハイト提督が従わない限り、その可能性は低いですけれど」

「それに関しては、安心してほしい。どれほど懇願されようとも、叛乱軍の元へなど行かせない。だがそんな考えをおこさせぬよう、情報管理をお願いしたい」

 

 彼らに口々に言われ、リヒテンラーデ侯もそこは譲ることにした。むろん、侯としても願ったりである。

 

 話が終わると、

「では俺もエッシェンバッハ伯と共に叛乱軍を倒すとするか」

 案の定、ビッテンフェルトが立ち上がり、扉の向こう側にいるオイゲンの名を呼ぶ。

「フォン・ビッテンフェルトは予備兵力として残るべきです。エッシェンバッハ伯に万が一のことがあった場合、帝国軍を率いて戦うのはフォン・ビッテンフェルトの責務です」

 様々なことでオイゲンに便宜を図ってもらっているフェルナーは、猪突猛進に首輪をつけて、

「ここはジークリンデさまの為にも自重していただけると」

 ファーレンハイトが鎖を引っぱる。戦闘を好む彼だが、ジークリンデの名を出されると弱い。とくに今回は、彼女を狙っているらしいと聞かされたこともあり、

「そ、そうか。そうだなエッシェンバッハ伯は勝つだろうが、万が一な……そうだな」

 彼にしては珍しいほどあっさりと、出撃を諦めた。

 

 フェルナーやオーベルシュタイン、ファーレンハイトは先に退出し ―― 部屋を出ると見張りをつとめていたオイゲンが、心配したような面持ちで声をかけようとした。フェルナーは親指を立て無言のまま笑顔で答えて、その場を立ち去った。

 

**********

 

 ぎりぎりの所でリヒテンラーデ侯に同盟側の事情を伝えたルビンスキーは、

「よくあんな男、見つけたわね」

 ジークリンデのこと ―― 可愛いお姫様 ―― をこよなく気に入っているドミニクと、酒抜きで話をしていた。

「なんのことだ? ドミニク」

 唐突に話題を変えられたルビンスキーは、ドミニクの見慣れた顔が少しだけ違って見えた。

「自由惑星同盟の命運をかけた大出兵を立案した男。彼の政治的な”つて”を作ってあげたのは、あなたでしょう?」

「アンドリュー・フォークのことか。その男には元々目をつけていたからな」

「そうなの」

「これを見ろ」

 ルビンスキーはリヒテンラーデ侯に送った写真と同じものを、ドミニクに見せる。

「なにかしら? この写真」

 ドミニクは写真を眺め、そして一人の男を見つけた ―― アンドリュー・フォークである。

「ジークリンデ警備担当の婦警が撮影したものだ。ジークリンデの周囲にいる者を撮影して、前科者などと照らし会わせる作業を毎日行っていた」

「あちらこちらに映っているわね」

「犯罪者ではないので逮捕はできなかったが、同盟の士官ゆえに警告を食らった」

「へえ」

「やつに向けたものではない微笑みを盗み見て、自分に向けたものだと勘違するようなストーカーと化していたフォークは、警告を受け、遠ざけられて凡百のストーカーらしく脳内で物語を作りあげ、ホテル近くで叫んだ」

「囚われのお姫様を助けるつもりなのかしら?」

「そうだ。やつにとってジークリンデは、キャピュレット家のジュリエットだ」

「自分がロミオ? 勉強は出来るけど、鏡を見たことがない馬鹿って可哀想なものね」

 

**********

 

 本邸から出て、軍人の詰め所に使われている離れへと向かう途中、オーベルシュタインが抑揚のない口調で突如尋ねてきた。

「フェルナー准将」

「なんですか? パウルさん」

「卿は先程、この男の妄想をかなり具体的に語っていたが、どのような経緯でそれを知ったのか?」

 彼女のフェザーン旅行に同行していないオーベルシュタインは、当然アンドリュー・フォークのことは知らない。

「それね。パウルさんロミオとジュリエットって知ってる?」

「一応は」

「アンドリュー・フォークはその一場面を突然演じた。ジークリンデさまが宿泊していたホテルの側で、あなたはどうしてジュリエット……と。見ていたフェザーン市民は大道芸だと思ったらしい」

「……」

 オーベルシュタインは表情は乏しいが、感情は乏しくはなく、薄い唇をやや開き、大事な義眼をやや大きく見開くようにした。

「帝国と叛徒をキャピュレットとモンタギューに当てはめ、自分がロミオでジークリンデさまがジュリエットだと」

 ファーレンハイトは古典に詳しい男ではないが、それでもアンドリュー・フォークがロミオはないのではないか? と、路上の下手な大道芸を見ながら、頭の芯が冷えてゆくのを感じた記憶がある。

「アンドリュー・フォークの中では、完全にそういう話になってた。ストーカーの怖ろしいところですよ」

「幸い、ジークリンデさまはホテルの最上階に宿泊していたので、下界の馬鹿の存在に気付かなかった」

「それは幸い」

「そうだな……俺は今回ほどエッシェンバッハ伯の完全勝利を願ったことはない」

「ですね。それにしても、打倒ルドルフ大帝に連なる全てを掲げておきながら、ルドルフ大帝の末裔にあたる姫君を助けるための戦争って、おかしいと思わないんでしょうかね。アンドリュー・フォークとその仲間たちは」

 腹立たしいし、甘受できないが、それでも同盟軍の目標がゴールデンバウム王朝の血を引く者すべてを殺害する。その一人が彼女だというのなら彼らも納得はできる。

「ジークリンデさまを助けるということ自体がおかしいだろう」

 だが同盟軍が今まで敵としてきたゴールデンバウムの血を引く女性を欲するというのは、彼らにとっては理解しがたいものであった。

「ジークリンデさまはルドルフ大帝の末裔ではなく、晴眼帝の末裔だと思う」

「……そうですね、パウルさん」

 一瞬世界が音を失い ――

「パウルさん。ジークリンデさまから通信が」

 駆け寄ってきたシューマッハによって、その沈黙ではない静けさはすぐに打ち破られた。

「いま行く。卿らもお会いするか?」

「いいや。あとで」

「それじゃ、パウルさん。ジークリンデさまとのお話が終わったら、来てくださいね」

「了承した」

 足を止める必要はないのだが、二人はオーベルシュタインと離れ、

「晴眼帝の子孫か」

「思うところがあるんでしょう」

「なかったら、軍になど属していないだろう。俺とは違って食うに困ることもないのに、差別のある軍に身をおいているのだから」

 彼の内側にある複雑な感情と、彼を形作った環境について ―― 二人とも何度かオーベルシュタイン邸を訪問している間に、執事のラーベナルトから感謝を述べられ、同時に静かであった彼の人生について断片的に聞き ―― 一般論の範囲で留めた。

 

「でしょうね……さて、ファーレンハイト。将校二名、選んできましたよ」

 同僚の過去を色々と考えている……時間は彼らにはなかった。

「お前に任せる。俺は苦手でな」

「いい歳した大将が、配下増やすの苦手とか言ってる場合じゃないでしょう」

「できないことを出来るというよりはましだろう」

「それは認めます。でも認めません」

「それで、誰だ? フェルナー」

「エルンスト・フォン・アイゼナッハとカール・ロベルト・シュタインメッツ。両者とも少将で実力は申し分なし」

 ファーレンハイトも二人の名は何度か聞いたことがあった。

「それは中将になっていてもおかしくないのに、出世していないという意味での”実力は申し分なし”か?」

「うん。あとさ、過去の実績からミュラーに連絡取ったんだ。でも……」

 もう一人、ミュラーにもフェルナーは声をかけたのだが”遅かった”

「でも?」

「絶望的な顔した」

「なぜだ?」

「エッシェンバッハ伯の麾下に入るんだって。この戦いには間に合わなかったけど、手続きはほぼ終わったみたい」

 フェルナーにとって遅かったわけではなく、ミュラーにとって”遅かった”

「絶望的なあ」

 なぜもう少し早く、連絡を取ってくれなかったのかと……。だが、これに関してはフェルナーの知ったことではない。

「五倍の兵力に囲まれた時でも、あんな表情しないんじゃないかな? とおもうくらいに絶望的」

「来たら加えてやったのに」

「本当にねー。でもさあ、ジークリンデさまの夫の麾下じゃない。今更断るに断れないらしい。まあ、エッシェンバッハ伯ってフレーゲル男爵と違って妻に軍を見せるような人じゃないから、なかなか会えないだろうね」

 フレーゲル男爵は美しい自分の妻を見たら士気も上がるだろうと、彼女によく私軍の見学をさせた ―― 結果、士気は上がったが、同時にブラウンシュヴァイク公私軍の独身率も跳ね上がった。それに関してフレーゲル男爵は「当然だろう」と自慢気で……それはそれとして、うまく動いていた。そして今でも彼女は良人に従ってくれていた、ブラウンシュヴァイク公の私軍の様子を見にやってくる。

 ラインハルトはまともな職業軍人なので、彼女の訪問など考えもしないし、彼女自身そんなことはしようとも思わない。

「そうだろうな。ミュラーは仕方ない……で、俺が二人と面接するのか?」

「当然でしょう。そうそう、アイゼナッハ提督は喋らないで有名だよ」

「どうやって面接しろってんだ」

「頑張って、提督」

「分かった、肉体言語で面接する」

「わー。止めないけど、ジークリンデさまは暴力嫌いだよ」

「善処する」

 彼女がフレーゲル男爵の部下たちと親しくしたのは、良人が最後に撃たれて死んでしまうような人生を送らせないため、彼らとの信頼関係を築くためにしたこと。―― 戦争の天才相手に自分ができることなどない。彼女は弁えていた。 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告