―― サビーネはもう生きてはいないのかしら……
霊廟に本人の遺体はなかったものの、一向に見つからず、情報すら手に入らないことで、諦めはしないが覚悟は決めておくべきなのだろうか? そんなことを考えていると、ルパート・ケッセルリンクの死刑が執行されたという報告書が、彼女の手元に届いた。実際は死刑ではなく、自白剤の過剰投与による心臓麻痺だが、彼女がそんなことを知る必要はない。
―― これで全部終わったのかしら……違うわよね。全員逮捕には至っていませんし
報告書に目を通し終えた彼女は外へと視線を向ける。窓越しに見える、春めいてきた景色を見ても、彼女はあまり心が弾まなかった。
―― 悪いことばかり考えていては駄目。前向きに前向きに……
暗く重苦しく、誰にも語れぬ手帳の内容など、希望ある未来に胸を高鳴らせようなことは何もなかったが、とにかく悪いことは考えないようにと。
だが、彼女の懸念は現実のものとなり ―― 最後の仕掛けが発動する。
皇帝の親権代行人として、また尚書として復興関連の書類にサインをする日々。そんな中、凶報がもたらされたのは、ケッセルリンクの死亡報告書に目を通してから三日目のこと。
「ジークリンデさま。ご報告が」
サインをしていた手を止め顔を上げてオーベルシュタインに視線を向ける。
彼女はオーベルシュタインの言動から、報告を先読みするようなことはできない。
凶事か慶事かを見分けることすら難しい。
「なんですか? オーベルシュタイン」
「グリューネワルト伯爵のご両親が、事故で亡くなりました。いかが致しましょう」
オーベルシュタインは彼らしく、淡々と報告する。
報告を聞いた彼女は手に持っていた万年筆を机に置き、しばしオーベルシュタインを見つめた。
―― あれ? ラインハルトの両親って、とうの昔に亡くなって……じゃない! キルヒアイス!
グリューネワルト伯爵と聞き、まっさきにアンネローゼを思い浮かべた彼女は、最初なにを言われたのか分からず。誰が死亡したのか? やっと正しく理解した彼女は、遅れてきた驚きに目を見開く。
何故、どうしてキルヒアイスの両親が死亡したのか? 彼女はオーベルシュタインに詳しく聞こうと、机から離れて応接ソファーに移動し腰を下ろす。
オーベルシュタインにも座るよう命じたのだが ―― 床に膝を折った体勢を取られただけであった。
―― まあ、こうなることは知ってましたよ……知って……
人臣の位を極め至尊の座に近づいてしまった彼女は、誰か向かい側に座って話してくれないかなと、少し寂しく思いつつ、同時にロイエンタールやシェーンコップなどが思い浮かび「あの人たちじゃなくて、ああいう人じゃなくて」と内心で必死に否定する。
そんな内心のやり取りを終えてから、オーベルシュタインから詳しい報告を聞いた。
それによると、キルヒアイスの両親は退職後に旅行に旅立ったのだが、帰国予定日にオーディンであの内乱が起き、オーディンに帰国することもできなければ、他の惑星へ行くこともできなくなり ―― 軍の施設にそれら民間人を収容して無料で衣食住を提供し、混乱終了後に帰国するための宇宙船も用意した。
このことについては、彼女も聞いていた。
「仕事や、急いで帰国しなくてはならない事情がある者たちを優先しておりました」
首都の混乱の原因がウィルスだったこともあり、足止めされている彼らの身体検査等を入念に行い、ワクチン接種なども無料で行ったのだが、人数が多かったことと、帝国ではもともとワクチンがさほど製造されていないという状況などから、接種には優先順位が設けられ ―― 退職し、再就職予定のないキルヒアイスの両親は最後に回された。
帰国が随分遅くなったのは、前述の通りワクチンの製造に時間が掛かったためであるが。
そのことに関して、キルヒアイスの両親が文句を言うことはなかった ―― 専制君主国家の一臣民が、国家の決定に不満を漏らすことなどできはしないが。
ともかくこうして所定の手はずを終え、随分と遅れて帰国の途についたキルヒアイスの両親だったが、帰国途中で宇宙船の事故により命を落とした。
「原因は?」
「まだ調査中ですが、機体の残骸を見たファーレンハイト提督によりますと、動力炉がなんらかの理由で暴走した結果の爆発であろうとのこと」
キルヒアイスの両親は借り上げた民間船での帰国中、それらの事故に遭遇することに。
「そうですか」
―― やりきれない事故です……
残念なことに、宇宙船の事故というものは珍しくはなく、このようなことは、帝国領内でも日に二十件以上は確認されている。
「エッシェンバッハ公が事故調査と事後処理を担当したいとの申し出が。いかがなさいますか?」
偶々搭乗していたのがキルヒアイスの両親だった。ただそれだけのこと ―― そう解釈されてもおかしくはない。
「許可します。委細は全てあちらに任せ、報告書はあなたが目を通して、おかしな事がなければ代理採決なさい」
「事後補償関連の書類はいかがなさいますか?」
彼女は書類に目を通し、
「事故に巻き込まれて死亡したのは全員平民ですか。エッシェンバッハ公は己の基盤たる彼らを手厚く保護するでしょうから、私が一々目を通す必要はないでしょうね」
ラインハルトのお株を奪う必要はないだろうと、彼に一任することにした。
「畏まりました」
キルヒアイスの両親が死亡したことに関して、彼女は人並みの悲しみを感じたが、それ以上はなかった。
交流があったわけでもなければ、思い入れがあるわけでもない。
事故に巻き込まれた事に関して、可哀想にと思うことはあれど、それは他の乗客たちと同じ程度のこと。
民間人の帰国という案件が終わった ―― 尚書としての彼女の任は、事故はあったがこれで終わりである。
「弔問をしたいので、向こうの予定を聞いて」
あとは私人として続柄としては近しいが、全く血のつながりのない義理の甥に、お悔やみを述べに行く。
「畏まりました」
キルヒアイスの両親の死から続く一連の事件についてだが、ケッセルリンクは「知らなかった」とされている。
彼の口を割らせるために、大量の自白剤を投与され結果、心臓麻痺で死亡するにいたる。
死ぬまでの間に、これらに関して語らなかったので知らなかった ―― 本当は知っていたが、語る前に死んでしまったのかもしれないが、明かされぬ秘密などなかったに等しいので、誰もそこまで追求することはしなかった。
**********
両親がいなくなった実家を、キルヒアイスは処分することにした。
彼は非常に忙しかったこともあり、大切なものの選別などを含め、業者に一任しようとしたのだが、アンネローゼがキルヒアイスの実家に同行し、一緒に思い出の品の選別をしようと申し出た。
最初は恐縮していたキルヒアイスだが、アンネローゼに言われ、時間を作り実家へ。
アンネローゼは寵姫となってから初めて、自分の人生において少しの間だけ過ごした下町へキルヒアイスと共に足を運ぶ。
二人は十一年前を思い出しながら、キルヒアイス邸のドアを開け ―― 庭の蘭の温室が爆発し辺り一帯が吹き飛んだ。
爆発に巻き込まれたキルヒアイスは危篤状態に。
最初下町で爆破が起きたと聞いた時、彼女はこの二人が爆心地にいるなどとは考えもしなかった。
―― またテロですか! やだ、もう………………現実逃避はこの位にして、対処に全力を尽くしましょう
下町で爆発が起き、まだ断定はできないがテロの可能性が高いと聞かされた彼女。惨劇に心を痛めているだけでは済まない立場ゆえに、自らを奮い立たせて被害状況を尋ねた。
被害と救助状況をまでは、自分を落ち着かせて聞いていたが、キルヒアイスとアンネローゼが巻き込まれたらしいと聞かされ、思わず椅子から立ち上がる。
驚き弾かれたように立った彼女、それを見ていたエミールは「あのお方は、驚き立ち上がる姿も、普通の人とは違い優雅で可憐だった」と友人にこぼした。それほどに、彼女の立ち上がる姿は、心が乱れていても美しかった。
その美しさを讃えられた彼女だが、当人としてはどうでもよく、二人が病院に運ばれたと聞き、彼女は顔色を失い、運ばれた病院へと急ぎ向かう。
キルヒアイスが運ばれた軍病院は、大規模な爆破が発生した割には落ち着いていた。
その理由は、軍病院に運ばれてきたのは軍人のみで、爆破に巻き込まれた一般人は、運ばれることがなかったためである。
本来であれば軍病院にも運ばれるところだが、つい先日、軍病院に運ばれた民間人がウィルスに感染、被害が拡大した事例があったため、今回は軍と民間がはっきりと分けられた。
病院には彼女より先にファーレンハイトが到着しており、将官が入院する階のホールで、なにやら医師と深刻そうに話をしていた。
到着した彼女を前に、ファーレンハイトは視線を逸らし、明らかに「なにか」に触れて欲しくないという表情を浮かべる。彼女はそれを二人の容態だと受け取り ―― 実際は全く違うのだが ―― 話をしている相手に尋ねた。
「グリューネワルト伯爵は重体です」
キルヒアイスが危篤だと聞き、彼女は倒れそうになり、ファーレンハイトの軍服の袖を掴んで耐えようとする。
ファーレンハイトは彼女の背に手を回し、彼女を気遣った。
「あとは私が処理いたしますので。ジークリンデさまは、エッシェンバッハ公のところへ」
ファーレンハイトの気遣いは、別の理由。それは彼女に言うことができない類いのもの。
―― そういえば、ラインハルトがいませんね。アンネローゼの所へ行ったのでしょう
「あなたに任せてばかりとは行かないわ。グリューネワルトとは、縁があって身内になったのですから」
彼女は首を振り、血の繋がりはないが、親族としてできる限りのことはするつもりで。
「……場所を移動しましょう、ジークリンデさま」
医師に先導され、ファーレンハイトを伴い、護衛のキスリングをも引き連れ、彼女は何時もながら病院とは思えぬ、贅を凝らしたシャンデリア、色鮮やかな壁紙、重厚なテーブル、座り心地のよい革張りの一人がけソファー、毛足の長い絨毯など、貴族をもてなすためだけに作られた部屋へと通される。
ファーレンハイトは一人がけのソファーを謁見の間と同じ位置に移動させ、彼女に「どうぞ」と席を勧める。
彼女はその椅子に腰を下ろし、ファーレンハイトは彼女の背後に、キスリングは斜め前に。そして先ほどまでファーレンハイトと話をしていた軍病院の責任者である、大将であり医師でもある人物は跪く。
「アンネローゼさまも一緒にいたはずでは」
彼女はまず、事件に巻き込まれたもう一人、アンネローゼの安否を確認する。
「即死でした」
彼女の問いに対し、医師はいとも簡単に、アンネローゼの死を告げた。
彼女は足下から世界が壊れるかのような感覚に捕らわれ、肘掛けに乗せていた手に力を込め、振り返りファーレンハイトを見上げたものの ―― ファーレンハイトの表情は、何一つ変わってはおらず、衝撃など何一つ感じていないのが、彼女にもはっきりと分かった。
ラインハルトの部下ならばアンネローゼの死は一大事なのだが、そうではない者にとってアンネローゼの死は、尚書、あるいは宇宙艦隊司令長官の姉が死んだだけのこと。アンネローゼはもはや寵姫でもなんでもない、ただの女 ―― 例え寵姫であったとしても、下々の者にはあまり関わり合いのないこと。
またラインハルトがアンネローゼを何よりも大切にしていたことは、多くの者が知っているが、知っているもの全てが好意的に受け取っているわけでもない。
ファーレンハイトがその姉弟をどう思っていたかなど ―― 最早語る必要もなく。彼女の斜め前に立っているキスリングの背中からも、驚きの欠片も微塵の動揺も感じることはできなかった。
「エッシェンバッハ公はご存じで?」
「はい」
アンネローゼは軍人ではないので一般病院へと運ばれた ―― 運ばれる前に、既に事切れていたが、爆破の一報を聞き駆けつけたラインハルトが、発見されたアンネローゼの遺体を病院に運べと言い張り、未だに病院でアンネローゼの死を認められず、大騒ぎしている。
それを聞かされた彼女は、自分が軍病院に呼ばれた理由を理解した。
「殿下。伯爵の治療についてなのですが」
この時点で、キルヒアイスの治療や手術についての承諾ができるのは【身内】である彼女だけ。
そしてキルヒアイスの治療に使われることになった医療機器は、約一年ほど前に彼女にも使用されたもの。
重篤な状態であるキルヒアイスの治療。
生命を優先した場合の副作用などについて手短に説明を受け ―― 生殖機能が著しく低下してしまうことを、彼女はこの時初めて知った。
「…………生命を第一に。アンネローゼさまを失い、この上、グリューネワルトまで失っては」
アンネローゼが失われたいま、ラインハルトを立ち直らせるためには、キルヒアイスがどうしても必要。よって、彼女は治療を優先させた。
「して、私は邸に戻ったほうが良いかな?」
治療が終わるまで、意識が戻るまで付き添いたいという気持ちはあったのだが、安全が最優先される立場故に、我が儘も言えず、彼女は帰途につく。
ファーレンハイトを連れてキスリングが運転する地上車に乗り、アンネローゼが運ばれた病院へと向かう。その車中で、彼女は尋ねた。
「正直に答えなさい。私の症状は、あのグリューネワルトより悪かったのか?」
ホールでファーレンハイトが医師と会話をしていたのは、キルヒアイスについてではあったが、治療の説明を彼女にした場合、今まで隠してきたことが知られてしまうので、自分に権限を与えるように ―― 隠し通すためのものであった。
そうでなければ、ファーレンハイトはわざわざ彼女よりも先に病院へと足を運び、キルヒアイスの症状を聞き、治療方法を尋ねたりなどしない。
「グリューネワルトよりも悪い状況でした」
「そうですか」
彼女は頷き、向かい側に座っているファーレンハイトへと手を伸ばし、頭を撫でる。
―― 何か言えばいいのでしょうけれど、言葉が浮かばないわ
生命のみを優先した判断に対し怒りはない。いままで真実を告げられていなかったことについても不満はないが、それを上手に告げる言葉が思い浮かばなかった。
優しく撫でられている方は、言葉もなければどんな表情をしていいのか ―― 自分がどんな表情をしているのかさえも分からなかった。
彼女はほっそりとした指をファーレンハイトの前髪に指を絡め、そして放す。
あとは病院に到着するまで無言のまま ―― アンネローゼが収容された病院に到着すると、職員と共にミュラーが彼女を出迎えた。
「エッシェンバッハ公は」
彼女はまずラインハルトに会おうとしたのだが、全員から止められる。
ラインハルトはアンネローゼが収められた棺から離れようとせず、人が近づくのも嫌がり、極度の興奮状態で他害の恐れがあると告げられた。
それを裏付けるように、ミュラーの左側の目の下から頬にかけて、殴られた痕らしきものがあった。
「これはエッシェンバッハ公の仕業ですか?」
彼女の問いにミュラーは答えなかったが、彼女はそれを許さなかった。
「この痕がエッシェンバッハ公によるものでないのならば、他害は杞憂と見なして会いますよ」
「閣下によるものです。ですが、閣下は殴ろうとしたのではなく」
アンネローゼを治療しろと医師に詰め寄るラインハルトを羽交い締めにしようとした際に、もみ合いになり負った傷である。
「分かっています。でも傷つけた、それは事実です」
彼女は胸の前で手を交差させて、ミュラーに頭を下げて、夫の蛮行を詫びた。
「頭をお上げ下さい」
彼女の光沢のある黒髪と、白い肌に柔らかな頬。
首筋から鎖骨にいたる、美しいライン。
「許してくださる?」
「許すも何も……」
彼女は顔を上げて、再びミュラーの傷に手を伸ばす。むろん、痛みを警戒し、触れはしないが、そのすぐ側まで。
「痛い?」
「大丈夫でございます」
ミュラーはその手を取り、自分の目元近くに押しつけた。
薄いレース製の手袋は、互いの体温をすぐに伝え合う。
「熱を持っているわ。冷やしたほうがいいのでは?」
ミュラーは彼女の華奢な手のひらを握り締める。
「ジークリンデさまに触れられ、体温が上がっただけですので」
「そう……」
彼女がそう言うと、ミュラーは彼女の手に口づけ、緩やかな束縛を解いた。
ラインハルトに会わなければならないという気持ちはあるのだが、彼女は自らの身の安全を第一にしなくてはならない。
なによりラインハルトがこのような状況では、彼女は負傷するわけにも、倒れるわけにもいかない。
そうしていると彼女の元に、今回の爆破に関して最初の報告がなされ ――
「爆弾が仕掛けられていたのはグリューネワルトの実家だと判明したとのこと。軍病院の警備を更に厳重に。それと、この民間の病院が狙われてはいけませんので、エッシェンバッハ公と姉君の遺体を、運び出しなさい」
悲しみに沈む時間は与えるが、周囲に被害が及ぶことは避けたいので、彼女が所持している周囲に建物のない、郊外の邸へ移動するようミュラーに指示する。
「任せましたよ」
彼女はそのまま、ファーレンハイトを伴い帰宅の途につく。
邸が見えてきたところで、警備が物々しくなっていることに気付き、
「警備を増やしたのですか、ファーレンハイト」
「はい」
車中での会話はこれだけであった。
いつも通り玄関前で地上車は停まり、衛兵たちが両側に立っている間を抜けて、彼女は邸へと戻る。
邸内で出迎えたフェルナーに、彼女は今日は食欲はないと告げた。
「夕食は要りません。入浴の準備を」
「畏まりました」
普段は食事を取らないと告げると、あの手この手で食べさせようとするフェルナーが、あっさりと引き下がり、おまけに用意されていた浴槽の湯温は彼女好みの高温。
テロがあったばかりだというのに、広い浴室内には誰もおらず、
「私が知ったことを知ってのことでしょうね……」
白や薄いピンク、紫色などのストックが散らされた湯船に身を沈め、立ち上る湯気をぼんやりと見つめる。
アンネローゼが死亡したのは悲しい、キルヒアイスの容態は気になる。だがそれ以上に、臣民が気になった。
この不安定な社会情勢の中、指導者が悲しみに暮れる時間などない。
ラインハルトは一秒でも早く立ち直り、彼が着手した様々な社会改革を進め、治安の回復を図らなくてはならない立場にある。
誰もが早く回復を願うが、なにもできない。
彼女も同じだが、他者と違うのは、立ち直る間の時間を稼げること ―― ラインハルトの仕事の代理を務めることができるのは彼女だけ。
「どうしましょうかね…………なにも思いつきませんけれど」
何かをせねばと思えど、なにも出来ぬと苦笑し ―― 花々の下に広がるクリアブルーの湯に浸かっている自分の体を撫で、下腹部に手を重ねる。
―― ……ファーレンハイトとフェルナー、キスリングは確実に私の体のこと知ってるわよね。あとはラインハルトも知ってたのかしら……
彼女は、涙がこみ上げてきた自分に驚き、湯を手で掬って顔を洗う。
浴室には誰もいないので焦る必要などなく、思う存分泣けば良いのだが、どうしても泣きたくはなかった。
その感情がなんなのかは分からないのだが ――
欺されていたとは思わない。
これは強がりでもなんでもなく、心からそう思っている。
仕方の無いことだとも分かっている。彼らには感謝の気持ちしかないのだが、どうしようもなく虚しかった。
浴槽の縁に頭を乗せて目を閉じる。
誰も何も間違っていないのに、自分は彼らに感謝しているのに、どうしてこんなにも苦しいのか? 彼女には分からなかった。
現状では自分の体の異変など些細なことで、事件の真相解明や被害者に対する保障、治安の回復などに集中しなくてはならないと、彼女も分かってはいるのだが ―― 分かっていても、感情がどうしてもついていかなかった。
ただぼんやりと、なにを考えるわけでもなく、浴室のモザイクを見つめる。
温かい湯に浸かっているのに、どこか冷たく。なにを食べているわけでもないのに、味がしない ―― 空虚と孤独にのし掛かられ、時間がもたらす解決は死しかないのではないかという絶望さえ抱えて、彼女は目を閉じた。
「ジークリンデさま」
「なに、フェルナー」
彼女の入浴時間が長すぎ、心配したフェルナーが、意を決して様子を見にやってきた。
彼女は極力いつもと変わらぬよう返事をする。
「そろそろ上がられたほうが」
「……」
どんな表情で彼らに話し掛ければいいのか、彼女は考える。
―― 貴族の子女たるもの、いかなる時も微笑めと。あれほど言いつけられたではありませんか。私は門閥貴族の令嬢、男爵夫人で公爵家の女当主。大公妃。感情は表に出すものではない、笑いなさい、笑いなさい笑いなさい! 上品に、微笑めと、あれほど言われていたではありませんか。笑え、笑え、笑え…………笑えと言っているのです、ジークリンデ!
「ジークリンデさま」
自分の名を呼ぶ声に含まれている、真摯な気遣いが含まれている。それに応えるには、やはり彼女は微笑むしかない。
「無視しているわけじゃないのよフェルナー」
彼女は首にまとわりついている濡れた黒髪を指で梳き、ゆっくりと長い睫で彩られている目蓋を開けて微笑んだ。