黒絹の皇妃   作:朱緒

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第240話

 ロイエンタールが届けてくれたグリンメルスハウゼン子爵が遺したもの。

 分厚く年を経たものであることが一目で分かる黒い革張りの手帳。ゴールデンバウムの証とも言える双頭の鷲が銀で箔押しされている。

 テーブルに置かれたそれを彼女は見つめる。

 運良く残った品。手にとって開かねばなにも分からないが、知ってしまったらどうなるのか?

 分厚い革表紙と遊び紙の間に、これもまた見覚えあるグリンメルスハウゼン子爵家の用箋が挟まれていた。

 ロイエンタールが見つけ、彼も読むことができた、彼女宛のメモである。手帳の中程に挟まっていたものだが、ロイエンタールは本来挟まっていたページには付箋を貼り、それを表紙の次へと移動させ渡した。

 広い部屋で一人きりになり、しばし黒い表紙を見つめていた彼女だが ―― このままではなにも始まらないと、手袋をはめた手でページをゆっくりとめくった。

 書き出しは、

 

『ヴィルフリート殿の血を色濃く受け継いだ伯爵令嬢へ』

 

「ヴィルフリート……ああ……あの」

 

 血が繋がっているヴィルフリートと言われて、彼女がまず思い浮かべるのは兄のローデリヒ・ツェーザル・ヴィルフリート。だが彼女と兄は血を分けた兄妹であり、兄の血を色濃く受け継いでなどはいない。

 彼女の名ジークリンデ・ツィタ・フェオドラから、ツィタやフェオドラが存在したことが分かるように、兄の名前から、兄妹の祖先にヴィルフリートなる人物がいるのは、容易に推察することはできる。

 

「祖父のことでしょうね」

 

 彼女の家は学者が多く、祖父のヴィルフリートは言語学者として有名であった。特に歴史言語学を得意としていたと ―― 当時の彼女は生き残ることに必死で、死んだ祖先にはさほど興味はなかったので、軽く流していた。

 

**********

 

ヴィルフリート殿の血を色濃く受け継いだ伯爵令嬢へ

あなたは公爵夫人ではなく皇后陛下となっているであろう

美しく優しく、それでいて聡明で慈悲深いあなたには相応しい地位だと

儂は思うておるし、マーカスの常連だったお方もそのように考えておられる

それゆえに、あなたには知っておいて欲しいことがある

 

銀河帝国の全てをとは言わないが、大切な一部分を

 

これは皇后教育を施された人物しか読めぬ言語で書かれている

あなたは皇后に教育を施せるようになるために努力なさっていたようだが

あなたを皇后にするために教育を施したのだ

あなたは全く気付いていなかったようだが

 

このノートについてだが、あなたに一任する

必要がないと思うのであれば処分してもよし

誰かに伝えてもよし

好きになされよ ―― R.V.G

 

**********

 

―― グリンメルスハウゼン子爵は、私の言語能力を祖父譲りと……そう思われても問題はありませんけど……フリードリヒ四世から漏れたんでしょうね。それにしても、まさかここでマーカスですか。子爵らしいとも言えますけれど

 

 マーカスとはフリードリヒ四世が大公時代に借金し、返せなくなって頭を下げて、許してもらった酒場の名。

 彼女は酔ったフリードリヒ四世から、昔話として酔っ払っている皇帝から聞かされ ―― その時彼女は非常に曖昧に笑うことしかできなかった。

 

 彼女はグリンメルスハウゼン子爵のメモを脇に寄せ、息をゆっくりと吐き出してページをめくる。その書き出しは、

 

 

【マドレーヌ・サン=テグジュペリは、先天的な障害者であった】

 

 

 彼女が考えてもいなかった人物の名と、その暴露から始まった。

 

―― マグダレーナが?

 

 マドレーヌ・サン=テグジュペリは、ルドルフの寵姫マグダレーナの名。マグダレーナはゲルマン風に改名する前はマドレーヌという名であった。

 無論当時は、マドレーヌという名の女性は大勢いた。サン=テグジュペリも多数いたが、ゴールデンバウムの歴史に良くも悪くも名を刻まれているマドレーヌ・サン=テグジュペリは寵姫マグダレーナ以外には存在しない。

 

 一ページ目に書かれていたのはそれだけ。彼女のページをめくる手は、この一ページ目で随分と止まった。

 閉じてしまったほうが良いのではないかと。

 

―― マグダレーナが先天的な障害を持っていたとしたら、責任をなすりつけるもなにも……

 

 マグダレーナが産んだ男児が「一目で分かる先天性の障害」を持っていたことは、誰もが知るところであり、マグダレーナとその一族は責任を負わされて処刑されたとされている。

 

―― 違うの?

 

 彼女はこの先を読み進めてしまえば、引き返すことはできないと ―― 思いはしたが覚悟を決めて次のページを開いた。

 続く内容だが、彼女は出来れば二度と読みたくはないと思わせるものであり、手帳を投げ捨ててしまいたい衝動に何度も駆られるも、それらを必死に堪え、何とか一章を読み終えた。

 

「男児を処分した他の理由は第五章……ですか」

 

 一度そう締められたあと、五行分ほどの空白。そして追記がされていた。

 追記は読ませるものというよりは、書き手が感情の赴くままに綴られているように彼女は感じられた。

 それらの追記が終わると「ヴィクトルが書き忘れたようだが……」と、追記とは別人と思しき人物が、さらに補足を書き足していた。

 

「ヴィクトル…………」

 

 その名を目にしたとき、書き出しから追記までを認めた人物が誰なのかはおおよそ想像がついた。

 そして追記の人物も。

 なんにせよ、一人のなんの罪もない娘が背負わされた、後味の悪い話であった。そして――

 

「それにしてもこれ、何章あるのかしら」

 

 一章で既に負の感情が飽和してしまった、彼女は目を閉じる。

 

―― 三番目の補足を書いた人物は、内容からしてグリンメルスハウゼン子爵でしょう。最初の記述はおそらくルドルフの義父のヴィクトル。追記は……マグダレーナに対し憎しみがあふれ出しているところをみると、おそらく皇后エリザベートよね。四人の皇女は……多分違うと

 

 書かれている内容を反芻し、誰が書いたのかを予測する。

 それを知ったところで、なにがある訳でもないのだが、とにかく彼女は考え続けた。

 

―― 私にはこれ、全部同じに見えますけれど……文字に特徴とかあるのかしら?

 

 彼女はその特殊な認識能力から、文字は全て同じにしか見えないが、文に書き手の特徴があるのではないかと考えて、華奢な一本足のテーブルに乗せられている呼び鈴をつまみ左右に二度ほど振り鳴らす。

 呼び鈴は鳴らす回数で呼ぶ人が違う。

 一度は部屋に控えている護衛に、もっと近くに寄るように促すもの。

 二度は彼女の側近だと思われている人物を呼ぶもの。これはファーレンハイトやフェルナー、シューマッハやシュトライト、キスリングなどが該当する。

 彼女は彼らを側近だと思ったことはないが、周りがそのように認識していた。

 彼らに順列はないので、呼び鈴が鳴らされた際、この中でもっとも彼女のいる場所に近い人物に連絡が行く。

 

「あ、はいはい。分かりました。行かせませんから……なんだ? ジークリンデさまがお呼び? 分かった。聞こえましたね」

 

 お呼びだと伝えられたフェルナーは、ファーレンハイトとの通信を即座に切って彼女の元へとはせ参じた。

 

「ジークリンデさま、お待たせいたしました」

「待ってたわ、フェルナー」

 

 彼女が呼び鈴を鳴らしてから、既に二十分ほどが経過しているが、それは邸の規模を考えれば仕方の無いこと。

 その間彼女は侍女にカップやポットを用意させ、フェルナーとは違い、すぐに対応できるよう隣室に控えているカストラートに歌わせながら、優雅に到着を待っていた。

 

「遅くなって済みません。実は珍しく真面目に仕事をしていたもので」

 

 カストラートはすぐに歌うのを止め、礼をして部屋を下がり、入れ替わるように入ってきた侍女が紅茶を淹れるのに丁度良い温度の湯を渡し、早々に下がる。

 

「なにを言っているのですか、あなたは何時も真面目に仕事をしているでしょう」

 

 彼女は紅茶を淹れ、自分は腰を降ろし、フェルナーは立ったままお茶を楽しんでから、

 

「フェルナー。教えて欲しいのですけれど」

 

 彼女はカップをテーブルに置いて、呼んだ理由を語る。

 

「お答えできることでしたら、なんでも」

「この文章、こことここ、別人が書いてるような痕跡はありますか?」

 

 手帳を開き本文と追記の部分を指さして、フェルナーに尋ねた。

 

「この部分とそれ以降が別人の手によるものですね」

 

 彼女以外の者であれば、簡単に見分けられるほどの違い。

 

「やはりそうですか。では、ここと、ここも」

 

 グリンメルスハウゼン子爵が書いたものだろうと、彼女は考えている部分を指さす。

 

「仰る通り、違いますね。最初の方とも違います」

 

 文字を全く見分けられないことを知っているフェルナーは、彼女が的確に境を示すので、唯でさえ気になっている内容が更に気になった。

 

「やはりそうでしたか。ありがとう……どうしたの?」

 

 自分の予想通りだったことを確かめることができたので、彼女は手帳を閉じようとしたのだが、フェルナーは手帳に手のひらを置いたまま、退けようとはしなかった。

 彼女はやや上目がちにフェルナーを見つめて、退かない理由を問う ―― 無論彼女としても、聞かなくても分かってはいた。

 この手帳の内容を彼らが知りたがっている。それは秘密を知りたいという欲求よりも、彼女に読ませて良い内容なのかどうかを確認したいという、使命感に似たもの。

 

「たまには言葉以外のご褒美をいただきたいなと」

 

 フェルナーは何時ものように彼女の額にキスをするように近づき、ぎりぎりのところで止まり、無理を承知で頼んできた。

 

「あら、珍しいわね。いいわよ。言ってちょうだい」

「その内容、教えていただけませんか? 全部でなくてもいいので」

 

 彼女の額に軽く触れて離れる。

 

「知りたい?」

「興味はありますね」

「…………」

 

 彼女はフェルナーから視薄い水色地に青い小さな花柄模様の壁のほうへと視線を逸らし、しばらく考える。

 

「そんなに悩まれるのでしたら」

 

 彼女を悩ませるのは本意ではないので、フェルナーは手帳から手を退け”申し訳ございません”と告げようとしたのだが、彼女は首を振って否定し、フェルナーが手を退けた箇所をそっと撫でる。

 

「この部分なら教えられるわ」

「よろしいのですか?」

「ええ。それに、この部分なら私が言ったことが正しいかどうか、おぼろげでも判断つくでしょう」

 

 彼女がなぞり「判断できるでしょう」と言ったのは、章の最後。グリンメルスハウゼン子爵の手だと予想した部分。

 

「この数字が重要な意味を?」

「重要ね。それでね、フェルナー。頼みがあるのですけれど」

「なんですか、ジークリンデさま」

「ファーレンハイトの所に行きたいの」

「それは構いませんよ」

 

 先ほど「ジークリンデさまのことだ。任務を途中で放棄するのは本意ではないと、こちらに来ようとするかも知れぬが…………とい理由だ。間違っても連れてこないように」そう強く言われていたフェルナーだが、彼女が行きたいとなれば、そんな連絡など受けていなかったとばかりに、即座に[ja]と答える ―― この時は、急いで連絡を入れて、邪魔なものを片付けてもらおうとは考えていたのだが、

 

「いきなり行って驚かせたいなって」

 

 彼女は部下の心など知らず。

 

「それは……」

 

 難色を示すフェルナーに彼女は、訪問の理由を語る。

 

「昨日は任務を放棄して帰ってきてしまったでしょう」

 

 ここまでは彼らも分かってはいた。

 

「無理を押して、また倒れられると、色々と困るかなあと」

 

 まだ棺を全て調べているわけではないが、またどこかの棺に防腐処理が施されていない死体が紛れ込んで、悲惨な状態となっていたりすると、彼女の精神が弱るので、フェルナーは引き留める。

 

「行きません。私も迷惑をかけるのは嫌です。あの時、死体がなくて驚いて震えていたの私だけでしたし……」

「人には得て不得手というものがありますから。それでどうして、抜き打ちで訪問を?」

「結果的に、ファーレンハイトに全部任せることになってしまったでしょう」

「ええ。適材適所といいますか、ジークリンデさまよりは、余程適切といいますか」

「そうよね。それでね、ファーレンハイトのことだから、きっと食事を取らないで仕事をしていると思うの」

「あー。多分そうでしょうね」

「食事を取りなさいと画面越しに命じても”取っております”か”これから取ります”と返すだけで……信用できないってことね。ですから、突然訪れて一緒に食事しましょうと誘うつもりです。事前に連絡を入れると”もう食べました”とか言われそうですもの」

「…………分かりました。ちなみにファーレンハイトは、いまパウルさんとも一緒にいますけど」

「では二人と一緒に。フェルナーは?」

「私はいいですよ。では準備しましょうか」

 

 彼女はふわりと椅子から立ち上がり、フェルナーは軽く礼をする ―― 埋葬品窃盗犯の処刑が終了していることを願いながら。

 


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