彼女が精神的な疲れからやっと眠りに落ち ――
『ジークリンデさまは、お休みになられたか』
ファーレンハイトからの連絡を受けたフェルナーは、
「ええ。やっと眠ってくださいました。それで……なんで、そんなに疲れた顔してるんですか?」
事情を聞く前に、やたらと疲弊した表情が気になりまずは尋ねた ―― 大体理由は分かっているのだが、聞かずにはいられないのがフェルナーである。
『少々カタリナさまとお会いして、話をだな……』
「あなたが危険を恐れない指揮官なのは知っていますが、勇気と無謀と蛮行と馬鹿は違いますよ」
想像通りの答えに軽口を叩くが、察しの良いフェルナーは、ファーレンハイトがカタリナの元を訪れた理由が、何となくだが分かった。それについては、追々説明はあるだろうとも。
『俺とて用がなければ、カタリナさまにお会いしていただく……それはいい。まず報告だ。皇太子の遺体は見つかった』
「そうですか。それは良かった。これでジークリンデさまもご安心……なんです? その表情」
『皇太子の遺体だけならば良かったのだが、リッテンハイム侯爵夫人の変死体も見つかってな。今、検死中だ』
「そうでしたか……それにしても元皇女さまのご遺体、あちらこちらで発見されますね」
『その辺りは、はっきりとはしていなかったからな。マールバッハが侯爵夫人だと言っている。間違いはないだろう』
「フィーネ・フランケンシュタインは本当にフィーネ・フランケンシュタインだったわけですね」
”フィーネ・フランケンシュタイン”
身元不明で病死した女性に付けられる名だが、この二人が言っているのは、彼女の領地で見つかったバイオテロの元凶となったとされる女性のことである。
このフィーネが見つかった川で、クリスティーネの持ち物ではないかとされる、ペンダントトップが見つかったのだが ―― この遺体の身元は判明することはなかった。
「ああ」
「そうなると、ご令嬢もどこぞの棺を、間借りしている可能性が出てきますね」
ファーレンハイトが渋い表情をしたのは、サビーネもどこかに押し込められている可能性が出てきたため。サビーネについては、彼女が相当気に掛けていることもあり、彼らとしては気が重かった。
『ああ。だから全ての棺の調査が終わってから報告に上がる。経過報告をして、下手に気を揉ませたくはない』
死体が見つかれば、確かに楽にはなれるが、同じほどの悲しさが襲ってもくる。
「一層、侯爵夫人も侯爵令嬢もいなかったことにしてしまえば? いままで見つからなくても困っていなかったんです、この先も見つからなくても困らないでしょう」
死亡した侯爵夫人にできる悪さといえば、精々誰かがその名を騙って皇族詐欺を働くことくらい。
娘のサビーネも同様 ―― 程度に彼らは考えていた。
『それも一理あるな』
「……で、そんな忙しい最中、なんでカタリナさまと面会を?」
フェルナーに問われたファーレンハイトは、画面に変わった文字の綴りを映し出した。
λ ζ ξ ς ψ など、フェルナーも普通に生きていれば、まず見ることはなかった文章。
「それ、もしかしてグリンメルスハウゼン子爵が、ジークリンデさまに遺した物ですか?」
『そうだ』
「なんでカタリナさまの所にお邪魔したのか分かりました。それで、内容は?」
『それなのだが……』
**********
皇太子の棺が空だったことが判明したことで、彼らは他の棺の調査を迅速に行うべく、作業にあたる兵士を増やすことにした。
それらの手配をファーレンハイトが行っている間、ロイエンタールが皇太子の棺にあった黒革の手帳を取り出し、自ら立ち会いの元で検査を行った。
細菌や毒物検査などを行った結果、手帳にはなんら危険性はないものと判明する。
「しかし、これはなんだ?」
検査員から返された手帳を、ロイエンタールはページをぱらぱらと繰る。
それは黒革でゴールデンバウムの証しが銀で箔押しされた分厚い物。
作りは本なのだが、至るところに斜線や書き込み、また細かく文字が書かれている別の紙が挟み込まれるなど ―― 本というよりは、手帳と評したくなるものであった。
「あの老人が遺したもので、間違いないようだな」
手帳の間に挟まっていた一枚のメモ用紙。それは現代の帝国語で書かれたもので、ロイエンタールにも読むことができた。
「なんとも……」
作業が再開されると聞き、ロイエンタールはその手帳を持ったまま霊廟へと向かい、その場から動かず辺りを見ていたファーレンハイトに、開いた状態で遺品を差し出した。
「分かるか」
彼女にそのまま渡すと言ったロイエンタールだが、内容を確かめずに渡すとは言っていない。
「良いことを教えてさしあげましょうか、マールバッハ伯」
古びてはいるが上質な厚みのある紙に書かれている文字の羅列を見て、ファーレンハイトは”ああ。そういうことか”と ―― 分かりはしたが、彼も内容は分からない。だが内容は知りたい。だから、ロイエンタールを巻き込むことにした。
「なんだ?」
「俺には読めんが、カタリナさまならば読めるであろう」
「カタリナ以外には?」
ロイエンタールの視線が少しばかり泳ぐも、すぐに気を取り直し、他の心当たりはないのかと尋ねたのだが、
「ジークリンデさまの前の女官長テレージアならば読めたであろうが、退官しオーディンを離れているからな」
他に心当たりがあるなら、ファーレンハイトは先にその名を挙げる。
しばし二人が睨みあい ―― 本人同士は、情けない表情で”カタリナ(さま)のところに行きたくないが、内容は知りたい” と無言で語り合っていたわけだが、とある皇族の棺の蓋が少し開いた時、辺りがざわつきだした。
「どうした?」
二人は手帳を閉じ、ざわつきが上がった棺へと近づく ―― その理由はすぐに分かった。
冷たく古びた空気が充満している霊廟内を浸食する、蓋の隙間から漏れ出す腐臭。鼻腔から侵入するその臭いは警告で、蓋を開けるのをためらわせるもの ―― 人間が腐った時のそれであった。
ファーレンハイトが指示を出し、ロイエンタールは控えているベルゲングリューンに手帳を預け、
「それに腐臭がつかぬ距離で待機していろ」
「御意」
更に棺へと近づく。
腐敗している死体は、気圧の変化で爆破したり、毒ガスを含んでいることもある。故に作業は慎重に行われ ―― 他の棺よりも時間を掛けて開かれた。
棺の中には収められている防腐処理が施された高価な衣類を身につけている棺の主と、棺の主にも負けず劣らず豪華な衣類を身につけている腐乱死体。
「……マールバッハ伯。これは」
「俺も卿と同じ意見だ」
作業にあたる兵士たちは直接見たことはないが、この二人は直接見たことがあった。顔の肉は崩れ落ちているが、骨格からクリスティーネ・フォン・リッテンハイムの面影があると判断する。
「死体を検死に回す」
「わざわざ命じるほどではないが、口外は禁止だ」
ファーレンハイトは霊廟の調査続行に立ち会い、ロイエンタールは遺体と共に検死局へ。死因の特定よりもなによりも、まずは身元判明を急がせ、それが分かるまで控え室で待機し、読めぬ遺品の手帳を開いて眺めていた。
「閣下。ファーレンハイト元帥より連絡が」
ベルゲングリューンから受け取った端末からもたらされたのは、
「分かった。なにがあった元帥」
『皇太子が見つかった』
手放しでは喜べぬ報告であった。
皇太子の遺体発見後、ファーレンハイトは作業を一旦中止し、霊廟の警備を強化して、ロイエンタールと共にカタリナの元へと向かった。
かつてのヘルクスハイマー邸は、大規模な改装がされたわけではないのだが、すっかりとその面影はなくなり、カタリナの邸に様変わりしている。
邸の主とはそういうものなのだろうと ―― 出迎えの執事に案内され、二人は応接室に通された。
「お待ちください」
執事はそう言い退室し、ロイエンタールはソファーに腰を降ろ足を組み、ファーレンハイトはソファーの後ろに立ったまま。
「座らんのか?」
「俺は一使用人だ。公爵夫人たるカタリナさまの前に座るなど、とてもとても」
「三長官の一人、統帥本部総長だというのにか?」
「統帥本部総長如き、が正しいな」
そんなやり取りをしていると、着飾ったカタリナがやってきた。
「出かける予定だったのか?」
深みのある紅色が基調で、黒レースと錦糸がアクセントになっている、パニエがふんだんに使われているゴシック調のドレス。
栗色の髪を飾るのは、まろやかな光沢を放つ大ぶりの真珠と白い羽で飾られた、ドレスと同色のヘッドドレス。
「まさか。あんた達が来るって言うから、正装して待ってやったのよ。一応あんた達、尚書と統帥本部総長ですもの。敬意ってやつ?」
首元を飾るネックレスはフリンジタイプで、宝石は存在感のあるピンクトパーズ。イヤリングやブレスレットも同じ石、同じデザインで、とにかく人目を引く品。
「本気で言っているのか」
貴婦人の必須アイテムである扇子は、一見すると地味な深みのあるシャンパン色一色だが、開くとそれは精巧な総レース製。それが添えられると、艶やかで蠱惑的な造詣のカタリナの表情が引き立つ。
「まさか。ただあんた達が厄介事を持ってくるのは分かっていたから、すぐに次に行動に移せるためにしっかりとした格好してるだけよ。それで、なによ」
カタリナはロイエンタールの向かい側のソファーに腰を降ろして、彼らの訪問理由に耳を傾けた。
「なんか酷いことになってるわね」
検死の結果、腐乱死体は彼らの予想通りクリスティーネであった。詳しい死因などについては、未だ調査中である。
「ジークリンデさまにご報告するのは、全ての棺の中身を調べてからにしたいので、特別許可をいただけませんでしょうか」
ファーレンハイトがそう言い差し出したのは、クリスティーネが入っていた棺の取り替えと、遺体の掃除など。皇族の死体の処理となると、宮内尚書の許可が必要になる項目なのだが、彼らとしてはこの時点で報告は上げたくない。かといって、全てが済むまで放置するのは ―― 腐乱死体からしみ出した液体で汚れた棺や、着衣をそのままにしておくのは、後々彼女が死ったら悲しむだろうということで、絶対君主を擁する女官長に許可を貰うことにした。
ちなみに彼女がこれらに関し、心を痛めるような性格でなければ、彼らはそのまま見なかったことにして処理した。それは冷たさなどではなく、死体に対しての認識がまるで違うためであり、多くは彼らと同じ傾向が強い。
彼女は過去、自分が生きてきた世界の慣習を引きずっているので、やはり認識が異なるのだ。
「分かったわ。好きになさい。副葬品も新しいのにしましょうか。私が見立ててあげる」
かかる費用等の事務的なものは、宮内次官のハルテンベルク伯が処理できるが、許可を出せる人物はそれほどいない。
「ありがとうございます」
ファーレンハイトが深々と頭を下げる。
「それで、他にはなに?」
カタリナから促された二人は、グリンメルスハウゼン子爵の遺品である手帳を差し、内容を知りたいと告げたのだが、
「あ……これね。私には無理よ。ファーレンハイト、あんた、私が読めると思ったんでしょうけれど、これ似てはいるけれど違うのよ」
カタリナは手帳を閉じて、彼らに突き返した。
「似ているが違うとは?」
「私が読めるのはギリシャ語。これは門閥貴族貴族令嬢が淑女教育の際に受けるもの。この手帳で使われているのは古代ギリシャ語。似てはいるし無理をすれば読めなくもないけれど、正確に読み取れるかと聞かれたら、全く自信はないわ。まあ、あんた達には残念だけれど、今の帝国でこれを正確に読めるのは、私が知っている中ではジークリンデ唯一人よ」
カタリナが形のよい唇の両端を”くいっ”と上げて笑う。
「古代ギリシャ語な。ジークリンデは確実に読めるのか?」
「それはそうよ、古代ギリシャ語は皇后教育の一つで、必須科目よ。ジークリンデは将来の皇后の教育のためにって名目でテレージアから仕込まれてたわ。テレージアもそれは褒めていたわよね、ファーレンハイト」
「はい」
彼女がそれらを教えられていた頃の護衛はファーレンハイト。
「難しいような、難しくないような、どことなく覚えているような」そんなことを言いながら、自習していた姿を彼はよく覚えている。
「私はギリシャ語は分かるけど、皇后なんかなる気もなければ、なれもしないから、古代ギリシャ語なんて触りもしなかったわ」
「そうか」
「内容は分からないけど、それ、最終的にジークリンデが読むんでしょ。でもその前にあんた達は内容を知りたい。そうねえ、私の邸に馬鹿面下げて来るってことは、あんた達知らないんでしょうから、教えてあげるわ。その古代ギリシャ語ってねえ、銀河帝国建国以来の門閥貴族の中でも、完璧に使えたのは一家だけ。ブライトクロイツ家よ」
「初代皇后の生家か」
「そう。あんたが手を乗せてる手帳、もう一回開いて、マールバッハ。最初の方でいいのよ」
「なんだ?」
ロイエンタールは手帳をカタリナの方へと向け、言われた通りにページを開く。カタリナはΕλισάβετと書かれている部分を指さし、
「これはおそらくエリザベートのこと。大帝の妃エリザベートの昔の名前は……はい、ファーレンハイト答えて」
次にいきなりファーレンハイトに答えるよう要求する。
「エリサヴェトだと、ジークリンデさまに教えていただきました」
「はい、よくできたわね。エリザベートのギリシャ読みはエリサヴェト。覚えておきなさい、マールバッハ」
ロイエンタールはその部分を眺め、
「たしかにエリサヴェトと言われれば、そう読める気もするが」
自分を納得させるように独りごちる。
「ブライトクロイツ公爵家には読める人、いるかもしれないけれど、私が知る分では期待はできないわね。最近の当主は愚鈍だし、間抜けだし、思考力皆無だし。ブライトクロイツ公爵一門や縁者ならいるけれど。ジークリンデとかテレージアとか」
「なるほど。どうしても、そこに戻るわけか」
「カタリナさま」
「なにかしら? ファーレンハイト」
「テレージア殿に取り次いではもらえないでしょうか」
「下級貴族風情が良く啼きおる……まあ、良いわよ。特別に取り次ぎしてあげるわ。ジークリンデによく仕えているご褒美よ」
カタリナは楽しげに笑い声を上げて立ち上がり、応接室を出て行き ――
**********
「先の女官長殿はどうでした?」
『読めはするが、意味は分からないそうだ。古代で使われていたものゆえ、現状を指し示す際に使える単語が少なく、一つのものを示すのに様々な技巧を凝らしていると』
西暦よりも前に存在した言語で、宇宙に出た後の世界を書いているのだから、当然語彙が足りない。それを代用するために、様々な隠喩や比喩などが散りばめられている。
「ああ。なるほど」
『語学の天才でもない限り、これは解読できないだろうと言っていたのだが』
「ジークリンデさま、読めちゃうんでしょうねえ」
『だろうな。……古代ギリシャ語が読める学者も、捜せばいるのだろうが、内容が不特定多数の目にさらすわけにはいかない可能性もある』
彼らはカタリナことは苦手だが、絶対の信頼も寄せていたこともあり、真先に持ち込んだ。
「でも、どうして皇太子の棺にそれを忍ばせたんでしょうね」
『カタリナさまが仰るには、そこが一番安全だから……だそうだ』
元の女官長に取り次いで貰う便宜を払ってもらったこともあり、手帳がどのような性質のものなのか、カタリナに包み隠さず説明をした。
それを聞いたカタリナは、皇太子の棺に隠されていた理由を”こう”推測した ――
「安全と言えば安全でしょうが」
『帝国で絶対に皇后教育を受けない階級。それが皇女なのだそうだ。理由は聞けば当然だが、皇太子は絶対に次の皇帝になる前提ゆえ、皇女たちには皇后教育は施されない』
「姉妹に皇后教育は、近親婚になってしいますね」
皇太子と血がつながっている以上、皇女は皇后にはなりえない。例え皇太子が死亡したとしても、皇女は皇女である故に、皇后教育は受けない。
『帝国で絶対にそれを読むことができない存在が皇女。そして皇太子の棺を開けることができるのは、皇帝か皇太子の親族のみ。ルートヴィヒ殿下は結婚しておらず、母親である皇后もすでに亡く、父である皇帝はまあ……あんな感じだからまず開けまい。棺を開けるとしたら姉妹のアマーリエ皇女かクリスティーネ皇女のみ。どちらかが曝いたとしても、読むことはできず。だがそれが皇太子、ひいては皇帝の妻には必要なことが書かれていることは分かっているので、副葬品としか思われないため、隠し場所には最適だと。また万が一見られたとしても、妃を得られなかった皇太子への餞と解釈されるだろうとのお見立てだ』
「そう言われれば、そんな気がしてしまいます。こと、これらに関して、私は全く経験がないので」
これらの解釈や、物の考え方などは、優れた頭脳などではどうすることもできない。こればかりは経験であり、その階級に生まれたものでしか分からない。
『それは俺も同じだ……』
「……ま、読めないものは仕方ありませんよね」
『そうだな』
「マールバッハ伯は、いつジークリンデさまにお届けに上がるつもりで?」
『明日にでも届けるそうだ。そちらに気を取られている隙に、霊廟のほうを片付ける』
「そうですか……ジークリンデさま、読めなかったらいいんですがね」
『そんな期待をしてどうする』
読むことはできない彼らだが、墓所に保管されるようなものの内容が、心弾む陽気な物語だとは到底思えないので ――
「期待くらいしても良いじゃないですか」
『そこは同意してやるが……俺はジークリンデさまが、それらの言語教育を受けている時、側にいたから分かるのだが…………テレージアが冷や汗をかき、瞳孔が開くほど驚くくらい凄かった。すらすらと読んでいた』
だが読めないという希望は捨てるしかなかった。