黒絹の皇妃   作:朱緒

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第238話

 今回のテロに関する散々な思惑などを聞かされた彼女は、精神的に酷く疲弊し落ち込んだものの、

 

―― そう落ち込んでもいられませんよね

 

 歌劇に音楽、芝居に会話と、貴族の姫君らしいことをして、自分を何とか奮い立たせ、覚悟を決めてロイエンタールに面会を申し込んだ。

 ただ面会は申し込んだが立場の関係から、彼女がロイエンタールの元へ出向くのではなく、ロイエンタールが足を運ぶ必要がある。

 彼女の申し出を断るはずもなく、ロイエンタールからは何時でも会えるとの返事を貰い、丁寧にタックを取った、優しく薄いオレンジ色のS字型ドレスを着て待った。

 

「頼みがあるのです」

 

 彼女はテーブルを挟んで、ロイエンタールの向かい側に座ったのだが、ロイエンタールはすぐに立ち上がり彼女の隣に腰を降ろし、ソファーの背もたれに腕を乗せ、彼女にしてみれば「不必要」なほど顔を近づけて、

 

「俺にできることなら」

 

 彼女にとってこちらも不必要なほど、耳元で穏やかとは言い難いが、優しさは感じられる声で囁いた。

 

「皇族の方々の棺を開ける際、同行してください」

 

 彼女はついに覚悟を決め、グリンメルスハウゼン子爵の遺書にあった皇太子の棺に触れることにした。

 

「それは構わんが」

 

 皇太子の遺体を埋葬する際に近くにいたロイエンタールは、もともと同行するつもりであり、また以前にも同行して欲しいと言われたこともあり、わざわざそれを言うために? と怪訝さを隠さなかった。

 

「ありがとうございます。更に面倒なことをお願いしたいのですが」

「なんだ? 言ってみろ」

「もしも皇太子殿下の棺に、埋葬品ではないなにかが在った場合、ロイエ……オスカー、あなたが安全確認を行って私の元へと届けてください」

 

 棺の中になにかあるのかどうか? それすらもはっきりとは分からないが、なにかが在った場合、棺の中という保管場所ゆえ、そのまま彼女が持ち帰ることはできない。

 細菌や毒物など安全を確認する必要があり、それらの検査を行わなければ、彼らは彼女にそれを渡すことはない。

 

「それも構わんが」

「なんであろうとも、そのままの状態で私の手元に」

 

 彼女もそれらを拒否するつもりはないが ―― グリンメルスハウゼン子爵が、遺書を届けるために、ファーレンハイトではなくケスラーを使い、回りくどいことをした理由を考えると、彼女に近い軍人たちを警戒してとしか考えられなかった。

 そんな理由なのかと彼女は悩んだものの、それ以外思い浮かばず。

 

「俺でいいのか?」

「はい。あれたちは、不適切なものであれば処分してしまうでしょう」

 

 自分が危険から遠ざけられているのは、彼女もよく知っているし、彼らの判断は己が下す判断よりも確かであることも理解している。

 だが、そうであっても自分で確認し、判断したいと考えて、ロイエンタールに依頼をしたのだ。

 

「俺はそうはしないと?」

 

 二人きりで会話をしているとは言っても、護衛は側にはいる。

 ロイエンタールは彼女から少しだけ視線を外し、後ろに立っているキスリングに彼女が見たこともない険しい視線を向けた。視線を向けられた方は、何時もとは変わらぬ護衛らしい態度を崩さず。

 

「ええ」

「奴らに命じれば済む話ではないのか。あいつらはお前の言うことなら聞くだろう、ジークリンデ」

 

 彼女は象牙フレームのチュール製の扇子を開いて口元を優雅に隠し、正直な気持ちを告げた。

 

「命じたくはないのです」

 

 この時の彼女の内心は非常に複雑であった。

 命じれば聞くと信じているが、同じくらい命じても言うことを聞かずに処分してしまうのではないかと。命令に背かれたとしても、許してしまうことも、それに安堵してしまうことも ―― でも、きっと命令を守ってくれるに違いないとも思っている。そんな知れば知るほど分からなくなるに近い状態に陥った。

 ロイエンタールに対する信頼は彼らに対する信頼とは違う。むろん信じているからこそのの依頼だが、根本的な何かが違っていた。

 それは言葉にできないので、出来るだけ短い言葉で語る。

 

「なるほど」

 

 ロイエンタールは彼女の寂しげな瞳に、言いたいことを理解し、軽く笑い”分かった”と頷いた。

 その後、彼女が遺品についてはロイエンタールを責任者とすることを告げ、彼らは黙って従った。

 

―― キスリングから、既に報告はなされていたでしょうけれどね

 

**********

 

 ロイエンタールに依頼をし、遂にその日がやってきた。

 

―― 気が重いわー

 

 襲撃を受けた新無憂宮の被害状況を確認するという名目で、彼女は皇太子の棺を開けることにした。皇族の霊廟となると、身分が低い者だけには任せられない故の立ち会いが必要になる。

 彼女の立場ならば、名目など必要はないのだが ―― この「名目」を最も必要としていたのは彼女。責任を負う者として、避けられないという理由を作り覚悟を決めたのだ。

 シャンパン色で、総レース製のハイネックなAラインドレスに身を包み、同色の帽子を被る。帽子には目元のあたりまでの長さの、ドレスよりもやや色が濃く、金色にちかい色合いのベール。

 プラチナ台に収められたラベンダー翡翠のペンダントを身につけ、天使が描かれたシルクの扇子で口元を隠す。

 

―― きっと大丈夫……大丈……なわけないわよねー。処刑台送りにした元凶ですものー。ご遺体を見たら。ご遺体とかご遺体とか……はあ……

 

 棺を開ける覚悟を決めた彼女だが、何も感じないわけではないので、若干挙動不審になっていた。

 

「ジークリンデ、無理はしなくていいのだぞ。こんなのは、貴婦人の仕事ではない」

 

 厄介事を引き受けたロイエンタールが、化粧をしていても、一目で分かる彼女の顔色の悪さに、ここで引いても恥ずかしいことではないと声を掛ける。

 実際、彼女のような貴婦人がする仕事ではないし、グリンメルスハウゼン子爵の遺言がなければ、彼女とてこのようなことはしない。だが遺言がある以上、果たすべきであろうと ―― 彼女自身に言わせるとなけなしの、他者からみれば溢れんばかりの責任感を持ちこの場へとやってきた。

 

「お優しい言葉、ありがとうございます」

 

 ロイエンタールが苦手なのは変わらない彼女だが、信頼はしている ―― 偶に信頼し過ぎて、深いキスをされてしまったりもしているが。

 

「優しい……か?」

 

 容姿に対しての賞賛は慣れるどころか、最初から何ら思うことのないロイエンタールだが、優しいなどと言われ慣れていなため、少しばかり驚き聞き直す。

 

「ええ、とても」

 

 無邪気にそう言われてしまい、ロイエンタールは滅多に感じることのない気恥ずかしさに自分の首元に手を当てて、軽く何度も頷く。

 

「そうか」

 

 前々からだが、拒否されれば押せるが、近づかれると右往左往するのがロイエンタールの彼女に対する態度である。

 

「その優しさを無下にして悪いのですが」

「分かっている。お前は顔に似合わず強情だからな」

 

―― 顔に似合わずとよく言われますけれど、強情な顔ってどんな顔なんでしょう

 

「あら、私ほど従順な者はおりませんよ」

 

 何時も不思議に感じていることを内心で呟きつつ、彼女は自分は従順ですと答える。

 

「皇帝にはな。だが、無理はするなよ」

「はい。分かっております」

 

 ロイエンタールとそのようなやり取りを終え、彼女は背後に立っていたファーレンハイトに振り返り、

 

「マールバッハも良いと言いましたよ」

 

 許可が下りましたよと、難色を示していたファーレンハイトに、血の気が失せている状態で笑いかける。

 ファーレンハイトはロイエンタールが彼女を止めてくれるのはないかと期待したのだが、帝国一の美丈夫も彼女には嫌われたくはないので、強固に反対意見を述べることはできなかった。

 

「そうですね。たしかに良いと言われましたが……ですが、私どもで確認いたします」

 

 彼女に棺を開ける作業すら見せたくないファーレンハイトは、彼らしからぬほど控え目に、だが必死に引き留める。

 

「……でも……」

 

 だがロイエンタールが言う通り、彼女はかなり強情であった。

 ただ彼女は強情だが精神的に強いわけではない。むしろ体質同様、脆く危なっかしいと言ってもいい。そのことは、限界を超えた彼女に助けを求められることが多いファーレンハイトが、彼女自身よりも理解している。

 

「寝るのが怖いと言っても、私は知りませんよ」

 

 防腐処理が施されているとはいえ、棺に収められた遺体を間近でみたら、間違いなくその日は悪夢に魘されるだろうことだけは予想していた彼女は、ファーレンハイトに添い寝してもらうつもりだったのだが、知らないと言われてしまい愕然とする。

 

「…………」

 

 ”私を捨てるのですか”という眼差しを向けられたファーレンハイトは、

 

「悪夢をどうにかすることは出来ませんという意味です。それ以外のことでしたら、何でも命じてください」

 

 申し訳ございませんと頭を下げた。

 彼女は指を組み、少しばかり顔色を取り戻し、美しくまろやかな曲線が目を引く口元を綻ばせる。

 

「今夜は寝室に来なさい」

 

 彼女の寝室の広さは三十畳以上で、ベッドは成人男性六人程度ならば寝られるほど。

 何ごとかなくても、その広さに漠然とした恐怖を感じることもあるのだ、遺体を見たりしたら、静かな寝室の空気にすら耐えられるかどうか。

 

「御意」

「電気付けたままでいい?」

「もちろんにございます」

 

 これで怖い夢を見ても大丈夫だと、彼女は胸をなで下ろす。

 

―― それにしても、死体を怖がっているのは私だけ……みんな見慣れ……ている社会もどうかと思うのですけれど

 

 彼女以外の者たちは、棺を曝くことにも中の遺体にも、なんら恐怖を感じていなかった。それは彼らの態度にも表れており ―― 少し考えれば分かることだが、職務遂行第一に考える彼らが、死体を怖がるような人間を作業に携わらせるはずがないのだから、怖がるのは遺言のため仕方なくやってきた彼女だけになる。

 

 それに全く気付いていない彼女は、様々な夜の恐怖に対して手を打ち皇族の霊廟へ。

 開ける順番だが、彼女の目的をすぐに達成させるために、最近死亡した者から順にとなっていた。

 皇族の棺の主な色は黒。蓋にはゴールデンバウムの双頭の鷲。

 棺の形は皇帝や皇后、皇子など地位により異なる。

 説明する必要もないことだが、ルドルフの棺は他の皇族の三倍ほどの大きさを誇る ―― 今回の調査でもルドルフ大帝の棺には、手を触れないことになっていた。

 

「お久しぶりです」

 

 まず開かれたのはフリードリヒ四世の棺。

 そこには生前とさほど変わりのない、灰色の治世を敷いた、生気のなかった皇帝が、生前とさほど変わらぬ生気のない顔で眠っていた。

 

―― ベーネミュンデ公爵夫人、再会できたかしら

 

 死後の世界が本当にあるのかどうか? 彼女には分からないが、二人が再会できていたら良いな……と、そんなことをぼんやりと考えながら、棺内部に何かおかしな物はないかの確認をしている兵士を眺めていた。

 次に確認のために開けるのは、フリードリヒ四世の息子、ルートヴィヒ皇太子の棺。

 彼女にとって、ゴールデンバウムの霊廟内で、もっとも暴きたくはない人物。その棺が特殊な工具によって、異音を上げる。

 その音に言いようのない緊張を覚えた彼女は、ファーレンハイトの上着の裾をきゅっと掴む。

 少しだけ開けられた棺の中に、毒ガスなどが発生していないかを調べるために、器具が差し込まれる。開けても問題はないと確認され、兵士たちが丁重に重い棺を、傷つけぬよう慎重に開け ―― 彼らの動きが止まった。

 

「大公妃殿下。皇太子殿下のご遺体がありません」

 

 兵士の言葉を聞いた彼女は、意味を理解するのに少々時間を要し ―― 理解すると驚き目を見開き、小刻みに震え崩れ落ちそうになる。

 ファーレンハイトは彼女を肩に顔が埋まるように抱き上げて、背中をあやすように軽く叩く。

 

「危険物は仕込まれていないか!」

 

 ロイエンタールに言われて、兵士たちは棺の内外を更に調査し「皇太子の遺体が消えただけ」であると報告する。

 

―― 遺体を見るのは嫌でしたけれど、遺体がないのは……

 

 想定外の事態に完全に恐慌状態に陥っていた彼女だが、

 

「いかがなさいます?」

「……ルートヴィヒ殿下の棺だけは確認します。後は……」

 

 尋ねられた彼女は肩から顔を上げ、これだけは確認せねばと弱々しいながらも、決して引かない意思を瞳にたたえて頷く。

 彼女の強い意思を撤回させるのは不可能だと、ファーレンハイトはそれ以上は聞かず壊れ物を扱うかのように優しく、そして注意深く彼女を降ろす。

 降ろされた彼女は、酔ってもいないのに、ふわりとするおぼつかない足取りで、ファーレンハイトに手を引かれ、頭を下げている兵士たちの間を通り抜け棺へと近づき中をのぞき込む。

 兵士たちが言った通り棺は空であった。

 正確に言えば「空ではない」

 棺の中には皇太子であった人物に相応しい副葬品の数々は残されたまま。ただ棺にとってもっとも重要な遺体がなくなっている。

 

「なくなっているものは、ありませんか?」

 

 ともにのぞき込んでいるロイエンタールに、必死の思いで尋ねた。

 

「これから確認するが、俺が見る分には、副葬品はそのままだ。奴らの狙いは、皇太子だった……してやられた」

 

 息苦しくなった彼女は、片手で胸元を掴み、もう片方の手で分厚い棺の縁につかまりさらに声を絞り出す。

 

「それらしい品はありますか?」

 

 グリンメルスハウゼン子爵が潜ませたで品があるかと尋ねる。ロイエンタールは皇太子の頭部があったで”あろう”辺りに手を伸ばし頷く。

 

「ある。後で届ける、お前は帰れ、ジークリンデ」

 

 ロイエンタールは血の気が失せた彼女の頬へと手を伸ばし、棺につかまっている手をゆっくりと剥がして棺から遠ざける。

 今度はキスリングが手を引き、修復の終わったオラニエンブルク邸へと連れていかれた。車中で体が震えだし、邸に到着した時には自分の足で歩けない程になっていた。

 

「失礼いたします」

 

 キスリングが抱き上げ、部屋へと運び、ソファーに降ろす。

 座っていても震えが止まらず。目を閉じれば空の棺が思い出され ――

 

「ジークリンデさま」

 

 俯き震えが止まるよう必死に手を握りしめていた彼女は、呼ばれて顔を上げた。

 

「フェルナー」

 

 彼女は喜び声を上げたつもりだったのだが、それは弱々しく今にも消えてしまいそうなもので、名を呼ばれたフェルナーは眉をひそめる。

 無論すぐに表情を元に戻し、顔を上げるのも辛そうな彼女の前に跪き、不安がらせぬよう笑顔を作り見上げる。

 

「ジークリンデさま、少々よろしいでしょうか?」

「なに……フェルナー」

「此方の書類にサインをお願いします」

 

 フェルナーはサインし易いよう、板に乗せた書類を差し出す。

 彼女はそれを震える手で受け取り、目を通した。ただ心が乱れており、難しい文章ではないのだが頭に入って来ず。

 

「フェルナー。読んでくれる?」

「畏まりました」

 

 読んで貰ってやった理解することができた。

 その内容は、これから皇族の棺を彼女抜きで一斉に開くので、その許可を求めるもの。

 状況から早急さが必要ということで、

 

「分かりました。フェルナー、ペンを」

 

 彼女は書類にサインをする ―― のだが、震えてどうにも上手く書けない。震えを止めようとするのだが、どうしても収まらない。

 

「どうしましょう」

「失礼しますよ」

 

 困り果てていた彼女に、フェルナーは立ち上がって彼女の隣に腰を降ろし、腕を掴んで補助する。

 

「書けますか?」

「大丈夫そう……」

 

 フェルナーに支えられながら、やっとの思いでサインを終えた彼女深いため息を吐き出した。

 書類を伝令に渡したフェルナーは、彼女の隣を辞するために立ち上がり、胸元に手を置いて頭を軽く下げ、殊更明るく話し掛ける。

 

「ジークリンデさま。なにかご希望がありましたらなんでも命じてください。すぐに準備致しますので。もっとも準備にかかる費用はジークリンデさま持ちですが」

 

 彼女の前なので、随分と控え目だが、それでも充分人を食ったような笑みを浮かべて。そのいつも通りの笑みに、彼女はあることを思い出した。

 

「…………そうね。まずは五百帝国マルク、現金で用意してちょうだい」

 

 先ほどよりは声は落ち着いたが、まだ力はない。どうしたものかと彼女は自分の首元を撫で、ふと指先に触れた己の脈に安堵を覚えた。

 

「畏まりました」

 

 予想もしていなかった命令に面食らったものの、そこはフェルナー、彼女にそれらを気取られることなく答え、彼女の命令に沿うべくすぐさま行動に移す。

 

「そうだ、お着替えでもしてお待ちいただけると」

「分かりました」

 

 フェルナーは完全武装させた兵士たちを配置して、彼女の部屋を出て金庫室へと向かった。

 邸内の金を金庫室から取り出す場合、銀行と似たような手順を踏む必要がある。

 通常は当主からの委任状を携えて金庫室管理担当の元へと赴くのだが、フェルナーは特例として、委任状なしでも金庫室から金を出すことができる。

 フェルナーは目の前に並べられた五枚の百帝国マルクを念入りに磨く。造幣局から運ばれてきた、まだ一度も流通していない硬貨だが丹念に磨き上げる。

 そしてダークブルーの天鵞絨を敷き詰めた黒檀製のケースに均等にそしてまっすぐに並べ、彼女の元へと戻る。

 

「ジークリンデさま、お待たせいたしました」

 

 部屋に入ったフェルナーの目に映ったのは、着替えを終えた美しい彼女。

 

「……」

「どうしたの? フェルナー」

 

 部屋へ足を踏み入れて彼女を見て足を止めて立ち尽くし、少しの間を置いて笑い出したフェルナーに彼女は驚く。

 声を掛けられたフェルナーは笑いを収め、彼女は長いエンパイヤドレスの裾をひるがえして駆け寄り、ロングスリーブで覆われている腕を持ち上げ、彼の頬に優しく触れる。

 白みがかったグリーン色のドレスは、とても似合っていた。

 

「本当にどうしたの?」

 

 長い睫に彩られた目元に憂いを浮かべたまま、彼女は再度尋ねた。

 

「お美しいなと、改めて感じまして」

 

 人を惑わすことこの上ない黒髪は解かれた状態で、彼女の美貌に何時も触れているフェルナーですら自失するほど。

 

「……ふふっ、突然なにを言い出すかと思えば。そんなにこのドレス似合ってますか?」

「ええ、とても。ですがお美しいのは、ドレスが似合っているからではなく……何時にも増してお美しいですよ」

 

 フェルナーが思っている億分の一も、自身が美しいとは思っていない彼女を前に、首を少し傾げて苦笑いをする。

 

「そう。一晩中側にいてもらうつもりですから、綺麗に越したことはないわよね」

「あまりにもお美しくて困りますが、ジークリンデさまですから仕方ありません。そうそう、ジークリンデさま。五百帝国マルク持って参りました」

「私だから仕方ないって、どういうことですか……」

「語ってもご理解していただけないので、その辺りはお許しください」

 

―― 私って、そんなに物わかり悪かったかしら……悪いわね。特に察する能力とか

 

 そんなこと……と思ったが、フェルナーが持ってきた五百帝国マルクを見て、納得してしまった。

 彼女はフェルナーに背を向けてソファーへ。

 フェルナーは彼女の隣で深く礼をするようにして、硬貨が乗っている黒檀のケースを差し出す。

 彼女は天鵞絨に包まれ光沢を放つ硬貨に触れることもなく、

 

「フェルナー」

「はい」

「それはあなたの物よ」

「……はい?」

 

 フェルナーに収めるよう命じた。

 言われた方は、心当たりがなく、怪訝さを滲ませた声を漏らした。

 

「覚えていないの?」

 

 彼女にそう言われたフェルナーは、何のことだと自分の記憶を必死に探り ―― さらりと彼女の黒髪が揺れたのを目にして思い出す。

 

「覚え……あ……ああ、はいはい。アレですね」

 

 ”だって、キルヒアイスは黒髪の女は嫌いなのよ”

 彼女とキルヒアイスの好きな人は誰か? について彼女とフェルナーは賭をし、その結果は大分前に出ていた。

 

「忘れていたのですか」

「それは謝ります」

「謝るほどのことではありません、なにより私も忘れていましたから。そういう訳で、それはあなたの物よ」

「分かりました。ありがたくいただきます」

 

 フェルナーはここは、すんなりと受け取ったほうが彼女の気分が良くなることも熟知しているので、下手な気遣いをして何度もやり取りをするようなことはしなかった ―― 固辞し過ぎると、給与に訳の分からぬ手当が非常識なほど上乗せされることを、ファーレンハイトという先達のおかげで、良く知っているということもあるが。

 コインを積み上げてポケットに入れて、召使いにケースを渡す。

 

「ジークリンデさま。他のご希望は?」

「そうね……なにか聴こうかしら」

「では早急に、オーケストラを用意いたしますね」

 


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