黒絹の皇妃   作:朱緒

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第23話

 翌朝 ―― その日、彼女は女官長としての仕事が休みであったため、メルカッツへのお礼と、早々に立ち去ったことに関してリッテンハイム侯へのお詫びなどを手紙に認め、礼儀に則した贈り物と共に届けさせ、あとはのんびりと……するつもりであった。

「大変です! お嬢様」

「シルヴィア、私はお嬢様ではなく」

 母親付きの小間使いで、いまは伯爵邸の女中頭であるシルヴィアが、全身で驚きを露わにしながら部屋へと飛び込んで来た。

「旦那様のお部屋へ。急いでください」

 何ごとかと思いながら父親の部屋と行くと、リヒテンラーデ侯からの通信が届いていた。父親の姿はなく、彼女個人への連絡であることがうかがえた。彼女の部屋にも通信は届くのだが、貴族の女性は男性から直接通信を受け取るのは良くないとされており、リヒテンラーデ侯はそれを守っていた。

「どうしました、大伯父上」

 簡単に挨拶を済ませ、わざわざ実家にまで連絡をいれた理由を彼女が尋ねると、いつも通り難しそうな顔に、更になにかを混ぜたと言いたくなるような難しい表情で、今朝、侯に届いた凶報にも似たことを当事者に告げる。

『ルビンスキーが、お前を買いたいと言ってきた』

「はい?」

 フェザーンの自治領主ルビンスキーが、彼女を帝国の上級大将が指揮する一個艦隊を調達できる金額で買うと持ちかけてきたというのだ。彼女には明確な金額は分からないが、高額であることだけは分かった。

 

―― アンネローゼの支度金よりも多くない? 皇帝の寵姫よりも高額って。それにしてもヒルダの一個艦隊に匹敵する知謀には遙かに劣るのが悲しい。私の場合容色のみ……ん? もしかして敵の懐に飛び込めるチャンス?

「大伯父上。私も帝国貴族のはしくれ、なれど戦うことができぬ女の身。叛徒を討つためならば、この身は惜しくはありません。如何ようにも」

―― 再婚同士で上手くいくかもしれないし。ドミニクと仲良くなれたら、サビーネもエルフリーデにされないで回収できるだろうし。そうしたらロイエンタールが突如現れても、なんとか……

『心意気は受け取るが、お前を売る気はない』

「あーそうですか」

 色々と考えを巡らせていた彼女にとっては魅力的だったが、リヒテンラーデ侯にその気はなかった。侯は彼女を平民になど売るつもりはない。

『私が連絡を入れたのは、身辺に注意を払えと言いたかったからだ。夜の散歩も良いが、もう少し護衛を付けろ。誘拐されたら帝国一個艦隊分の身代金を要求される可能性もあるのだから』

「はい」

『本来の目的だが、明日シャンパンカラーのドレスを着用して出仕するように』

 指定を受けた彼女は色合いに少々首を傾げたものの、洋服の指定は珍しくないので、さほど気にせずに受け入れた。

「お嬢様。先日男爵邸より運び込んだ衣装にありましたよ。シルクタフタのシャンパンゴールドのドレスが。いまのお嬢様ですと、腰の辺りをお直ししないと駄目ですけれど」

 通信が切れてから、シルヴィアがすぐに反応し、彼女はドレスの調整で休日を潰すこととなった。

 

 彼女への通信を終えたリヒテンラーデ侯は、ファーレンハイトへも連絡を入れた。こちらは侯が「来い」と命じれば、彼女に関することだと了承しているのですぐに終わる。

 

 両者に通信を入れ終えたリヒテンラーデ侯は、いつもと変わらぬ眉間に皺を寄せた、人を威嚇するような表情のまま、手元の書類に視線を落とす。

 

「全てはお前にかかっておる、ジークリンデ」

 

**********

 

 高等弁務官を通して彼女を買うとリヒテンラーデ侯に告げたルビンスキーは、彼の愛人であるドミニクと酒杯を傾けながらジークリンデに関して幾つかの事柄を話していた。

「帝国があの美女を、あなたに売るかしらね」

「売らんだろう」

「あら、残念ね。でもいいの? 大主教さまがお望みなんでしょう」

「そうだな」

「どうするの?」

「安すぎると言われたとでもしておくさ。あいつらも最初から買えるとは思ってはいないし、もし万が一買えたとしても、あいつらに渡す義理はない」

「そうなの? じゃあ、彼らはまた誘拐計画でも立ててるの? 懲りないひとたちね。それとも失敗したことを覚えていないのかしら?」

「覚えているさ。だから今回は誘拐前に、いつも誘拐を阻止するやつを殺す計画を立てた」

「あらあら。あの提督さんを殺すの? 彼らに殺せるかしら。いまや大将閣下でしょう」

「オーディンから離れた隙に決行するそうだ。キュンメル男爵とかいう男を使うといっていたな。なんでも男爵の主筋の結婚式に二人が参加するとか。お手並みを拝見させてもらおうじゃないか」

 

**********

 

 地球教徒による、ヒルダとマクシミリアンの結婚式を利用した、ファーレンハイト殺害とジークリンデ誘拐計画。その標的の一人である彼女は当然気付いていない。

 彼女にとってキュンメル事件はラインハルトが即位した後の出来事であり、自分が狙われる事件ではないので ――

 

 彼女は翌日、リヒテンラーデ侯に言われた通り、シャンパンカラーのドレスを着て出仕した。高価な生地で派手ではないが、重みのある光沢を放つそれを上から下まで見て、

「付いてこい、ジークリンデ」

「はい」

 いつも以上に険しい表情を作ったまま、リヒテンラーデ侯は彼女を連れて謁見の間へと向かった。

「ジークリンデ」

「はい、大伯父上」

「……いい」

「はい?」

 なにか言いたげなリヒテンラーデ侯の態度に一抹の不安を感じながら、謁見の間の彼女の定位置に立つ。

 しばらくするとフリードリヒ四世が到着し、億劫そうに玉座に腰を降ろす。

 そしてラインハルトが元帥の正装でやってきた。フリードリヒ四世の前に膝を折り頭を下げる。眩いばかりの黄金色の髪が、灰色の玉座を照らし出す。

「エッシェンバッハ伯。そちに妻を与えよう」

「……ありがたき幸せ」

―― 今のラインハルトの立場と状況じゃあ拒否できないものね。ルートヴィヒ四世、ラインハルトをけしかけるなあ

 いまだ同性愛者という噂は消えず、それどころか拡散しているラインハルトを救う最後の手立てとも言える「妻」

 ”でもラインハルトの妻って大変だよなあ。誰なのかな。ヒルダ以外務まるのかなあ”と全く他人事である彼女だったが、

「ジークリンデ」

 突如フリードリヒ四世に名を呼ばれ、

「はい!」

 いつもよりやや高めな声で返事をする。

「エッシェンバッハの妻となってやれ」

 いきなりのことに彼女は当然驚き、通路を挟んで向かい側に立っているリヒテンラーデ侯を凝視する。するといつもは視線を逸らさない侯が、このときばかりは視線を逸らし ―― そして彼女よりも困惑し、傷ついているかのような瞳のラインハルトと、静かさの中に満ちる驚愕。

―― フリードリヒ四世の冗談か、本気か……

 彼女は静かに進み出て、ラインハルトの半歩後ろで膝を折る。

「陛下。これからこのローエングラム、帝国を守る元帥エッシェンバッハの妻として、夫を影から支えていきます」

 ラインハルトもそうだが、彼女とて皇帝の命令を拒否することはできない。ここで拒否しようものなら、リヒテンラーデ侯もろとも、早くに一族滅亡を迎える恐れすらある。

 

 一族を守るために結婚 ―― 彼女も考えなかったわけではないが、結婚したところでラインハルトが彼らを許してくれるか? と考えると、些か自信がなかった。それに新帝国の皇妃など自分に務まるはずもない ―― なにより、ラインハルトにそれらの感情など欲してはいけないことを知っているので、再婚しようと努力するようなことはしなかった。

 

 

「結婚式……ですか」

 謁見の間を出て、周囲が静かにだが騒然としている中、リヒテンラーデ侯から告げられたのは結婚式について。

「式場の用意はできておる。出席者は私と宮内尚書と司法尚書と軍務尚書。式は典礼尚書が執り行う」

「法律的に完璧ですね。でも即日というのは……」

 参加者の豪華さに眩暈がしそうだった彼女だが、続くリヒテンラーデ侯の台詞に僅かだが本当に世界が回った。

「エッシェンバッハ伯は明日から出征だ」

「え……」

「叛徒共が大軍を率いて領土を侵そうとしている。それに対しての出兵だ」

 ”今日”はアムリッツァ前哨戦の約一ヶ月前に該当し ―― そして戦いが終わったとき皇帝の寿命が費える。

「今日を逃すわけにはいかん」

「……かしこまりました」

 原作の年代や会戦などはほとんど覚えていない彼女だが、このアムリッツァからキルヒアイスが死ぬまでは、大まかな流れだけは覚えていた。

 

 ここが彼女の人生の正念場である ―― 彼女”は”そう考えている。

 

 引き返しようがないほど時間が経過したことに愕然としつつ、彼女は用意されていた控え室に入る。そこにはリヒテンラーデ家伝来のマリアベールが用意されていた。彼女がこれを着用するのは二度目になる。一度目はフレーゲル男爵と結婚した時。

「まさかこれを被って、もう一度結婚することになるとは思いませんでした」

「私もだ。花嫁の父役も用意しておる。軽く化粧を直しベールを被ったら、練習しておくがいい」

 そう言って去っていったリヒテンラーデ侯に聞きたいことが多々あった彼女だが、帝国の重鎮たちが参列する結婚式を遅らせるわけにもいかないと、化粧を直させベールを被って姿見の前に立ち、なんとなく笑ってみた。

 本来であれば花嫁に世辞を言い、気持ちをもり立てるであろう侍女たちだが、即日結婚の彼女に対して言葉をかけ倦ねていた。彼女としても声をかけられても困る ――

 

―― さて、この場合花嫁は笑うべきなのか、無表情でいるべきなのか

 

「失礼します」

 重苦しい空気が垂れ込める部屋に、花束を持ったファーレンハイトがやってきた。

「どうしました? ファーレンハイト」

「花嫁の父の代理役に任命されました。よろしくお願いします、ジークリンデさま」

「……こちらこそ、お願いしますね」

 他に代理を務められそうな男はいなかったのか? 彼女は内心毒づいたが、それ以上の余裕はないし、ここで父親役の代理が嫌だと言いファーレンハイトを困らせることはしたくないので、椅子からゆっくりと立ち上がり手を出し出す。

「それが私のブーケですか?」

「はい」

 ファーレンハイトから手渡されたのはカサブランカと淡オレンジ色のバラで作られたブーケ。

「……」

「どうなさいました? ジークリンデさま」

「私はこのブーケを誰にトスしたらいいのでしょう」

「お持ち帰りになられたらよろしいかと」

「大伯父上の顔に叩き付けてみようかと思いましたけど、ファーレンハイトの提案のほうがよろしいでしょうね」

「それはそれで面白そうな……聞かなかったことにしてください。ジークリンデさま、私は初めての経験なので、練習に付き合ってくださいますか?」

 花嫁の父などそうそう経験するものではないが、

「ええ。将来あなたがシュテファニーの父親役を務める際、完璧にこなせるように私が練習台になりましょう」

 将来、年が離れた妹の挙式の際、父親役を務めるであろうファーレンハイトに彼女は笑顔で答えた。

「妹の練習台にジークリンデさまなど恐れ多い」

 控え室前の廊下を三往復ほどすると、係が二人を呼びにきた。

「行きますか、ジークリンデさま」

 

 会場前にはリヒテンラーデ侯が一人だけおり、

「完璧な花嫁だな。ファーレンハイト提督、花嫁の父の席につけ」

「かしこまりました」

 言うだけ言って、会場へと消えていった。その時彼女は会場の中を僅かに見たのだが、

―― ラインハルト側に誰もいない! なに、これ。新手のいじめなの!

 尚書たちは全て彼女側の席に並んでおり、ラインハルト側にはキルヒアイスすらいなかった。

 扉が開かれ、その先に立っているラインハルトの元へ、彼女は出来る限りゆっくりと近づいてゆく。

 花嫁の父役から手を離し、ラインハルトの手に手を乗せて前進し、結婚に必要な書類にサインをする。

 花嫁は美しく、花婿も美しく。一分の隙もなくその式は執り行われ、誰も祝福せず ―― ただ美しいだけの式は、ものの十五分もしないうちに終わった。

 まず初めに式場を出たラインハルトと彼女は、そのまま係の者に促され地上車が待機している場所へと誘導される。

 驚いた顔をしてやってきたキスリングに彼女は、事情はファーレンハイトに聞くよう告げ、そのまま車上の人となった。

 キスリングは遅れて会場から出てきた面々の中に、彼女が事情を聞くように指示したファーレンハイトを発見して ―― ジークリンデさまはエッシェンバッハ伯と結婚した ―― 事実だが経緯が分からない説明をされ、後で教えると帰された。

 

「ファーレンハイト提督」

 ファーレンハイトは珍しく自分の名を呼ぶリヒテンラーデ侯の後に従い、

「座れ」

「はい」

 執務室で初めて座れと促され、言われるがままに腰を降ろした。

 リヒテンラーデ侯は棚に飾られている酒瓶の一つを手に取り、封を切って二つのグラスに注ぐ。そのうちの一つをファーレンハイトの前に置く。

 自分は向かい側に腰を降ろすとすぐにグラスに口をつけた。

「賭けじゃった」

「なにが、ですか?」

「結婚に関して、昨日のうちにジークリンデに教えなかったこと」

「……」

「拒否して欲しかったのじゃよ」

「……」

「驚いたような顔をするな。……ジークリンデに事情を教えなかった理由はただ一つ。陛下の御前で”いやです”と言わせる最後の手段……私は賭けに破れたのだ」

「ジークリンデさまが罰せられますよ」

「そうじゃ。ジークリンデの今までの貢献と若さ、私の幾ばくかの功績により罪を減じてもらう。減じられたといえどもオーディンからは追い出されるであろう。だから私の領地の一つに住まわせる。そこで好きに暮らせばよい」

「それが閣下の描いたジークリンデさまの未来でしたか」

「そうじゃ。陛下の不興を買った女など、誰も欲するまい……お前は付いて行くだろうが」

「……」

 ファーレンハイトはグラスを手に取り、酒を口に運ぶ。”随分と良い酒だな”と、当たり前のことを半ば現実逃避めいた気持ちで考えながら。

「エッシェンバッハは駄目だ」

「どのような理由で?」

「ゴールデンバウム王朝に仇なす男だ」

「そうかも知れませんね」

 だからフリードリヒ四世が彼女の夫の選んだのだろう ―― 事情を知っているファーレンハイトは思ったが、続く言葉は予想していないものであった。

「だがそれは、ジークリンデには関係のない。直接関係するのは、あの男がジークリンデに指一本触れないということだ」

「……」

「同性愛者だと言っているのではない。あの男は性欲というものがない。過去の天才と呼ばれる種類の者に、極僅かだが見られた傾向だ。あの男もその部類に入る。ジークリンデがどれほど美しかろうと、あの男がジークリンデを感情としてどれほど愛そうとも、性欲には結びつかん。あれとて女だ、夫に拒否されたら自尊心が傷つくであろう」

「閣下……」

「ジークリンデを拒否するな。夫に相手にされないうえに、別の男にも拒否されたら可哀想であろう……酒を飲み終えたら下がれ」

 グラスを空にしてファーレンハイトは立ち上がり、

「そうそう。花嫁の父役、大過なく務めたこと、一応は感謝しておこう」

「ありがとうございます。また機会がありましたら、いつでも代役を務めさせていただきますので」

 一礼して部屋を出る。廊下でマールバッハ伯とすれ違ったが、気にせずそのまま通り過ぎ、外へと出た。”きっと彼女は幸せになる”と、リヒテンラーデ侯の言葉を打ち消すように自分に言い聞かせて。

 

 

 

 

―― やっぱり拒否られた……いや、分かってたんだけど。だってラインハルトだし。でも結構、キツイなあ……ラインハルトの子供は御免だけど、でも……

 

 そして彼女は一人の長い夜を過ごすことになる。結婚当日だけではなく ――


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