黒絹の皇妃   作:朱緒

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第229話

 兵士たちの士気を上げることに成功した彼女だったが、

 

―― 暇です。途轍もなく暇です

 

 その後は暇だった。

 彼女は動揺など微塵も感じさせず、玉座にあるかの如く座っていた。支配者然として提督席にいるのが彼女にできる唯一の仕事だと ―― 彼女自身理解してはいるが暇なのだ。

 座っているだけで誰もが納得するほどに充分な仕事を果たしているのだが、どうしても暇なのだ。

 

―― さて、どうしますか

 

 軍の士気は上がったが、これを持続するためには、他にも手を打たなくてはならない。それも時間をかけて考えているような余裕はない。

 彼女はファーレンハイトに命じ、国家の一ヶ月のスケジュール表を出させ眺める。

 そして大まかな方針を決め ―― まずは居場所が知られてしまったので、停泊地点を移動するように命じた。

 それも、フェザーンが建てた通信基地でも補足できる場所に移動するように指示を出す。

 命じられたファーレンハイトは、彼女の身の安全を考えて、それは了承できませぬと当然のことながら拒否の姿勢をとったのだが、結局は彼女の命令に従うことになる。

 

「知られたところで問題はなかろう、アーダルベルト」

 

 現在帝国領内を航行している艦隊の中で、もっとも数が揃っているのは、言うまでもなく彼女が率いている艦隊 ―― 彼女にしてみれば率いているのはファーレンハイトであって、自分ではないと言うところだが。

 他にも彼女の領内の治安維持のための艦隊が三つ。

 それ以外に帝国領内を航行している武装した艦隊は、キルヒアイスが率いているものだけで、航行計画書からその艦隊はすでにオーディン近く。彼女がいる空間とは遠く離れている。

 

「御身の安全が第一です」

 

 彼女はこのキルヒアイス艦隊を何ら問題視していなかったが、彼女の身を守る側は、完全に味方ではないこのキルヒアイス艦隊を警戒し、彼女が知らぬ間に手を打っていた。

 

「守ってくれるのであろう?」

 

 彼女が見たロイエンタールの画像。彼女はあの画像を自分の艦隊のどれかが望遠レンズにより捉えたと思い込んでいるのだが、あれはオーディン近く ―― キルヒアイスの艦隊に命じて撮影させ、転送させたものである。

 あれほど鮮明な画像は、彼女が停泊していた宙域からは撮影できない。

 キルヒアイス艦隊が撮影したものを、そのまま転送させ調査していたのだ。

 では何故キルヒアイス艦隊に撮影させたか?

 新無憂宮を上空から撮影するという法律違反を犯させ、こちら側に巻き込むため。彼らだけ無傷にしておく義理はない。

 彼らをも引きずり込み、彼女の血筋を生かし、彼らに重罪を押しつけようかと ―― ヘルベルト大公の敗戦の責任を押しつけられたインゴルシュタットのように。

 命令を受けたキルヒアイスは、オーベルシュタインの意図は分かったが、その任を引き受けた。

 彼女が皇族として命を出した以上、帝国軍の一兵士 ―― 宇宙艦隊副司令官ではあるが ―― キルヒアイスには拒否することはできない。

 平素の彼ならば拒否しないまでも、もう少し上手く立ち回ったかもしれないが、彼はつい一ヶ月前に彼女に忠誠を誓っていた。

 彼女が全く信用しなかったキルヒアイスの誓い。それは誠心誠意の宣誓であったのだが、彼女の心に届かなかった。

 キルヒアイスは信用されていないことを理解していたが、それ以上なにも言うことはできなかった。

 あの時の彼には証明する手立てがなかった。

 だからこそいま、彼女の危険極まりない命令に従う。

 あれは嘘ではなかったのだと証明するために、こうして全ての罪を着せられて、もしかしたら処刑されるかもしれない役を仰せつかったのだ。

 

「臣の全てを持って、お守りさせていただく所存です。故に移動はできませぬ」

 

 暴力からだけではなく、政治的にも彼女を守るべく手を打っている彼ら。その一人であるファーレンハイトが、ご理解いただきたいと懇願するがと、彼女は笑ってそれをかわす。

 

「ならばよい」

「何がよろしいのですか? 殿下」

「お前が死力を尽くして守ってくれるのであれば、死んでも良いということだ」

「殿下」

「艦隊戦で死ぬのであれば、共に宇宙に消えようぞ。艦が襲撃されたとしたら、敵の刃にかかる前にお前たちの手で私を殺せ、そして私のあとを追え。それが私の意思だ。艦隊を移動させよ、アーダルベルト」

 

 お前もろとも死んでやると言われては、拒否できるはずもなく、最終的には彼女の希望に従った。

 

「御意」

 

 移動している間、彼女は再びスケジュール表に目を通す。

 そこには華やかな行事の他に、帝国を維持するために必要な納税の期日や、公共料金の支払日等、細々としたものが記載されている。

 

―― えーと、次は……

 

 彼女はオーベルシュタインを側へと呼んだ。

 

「パウル」

 

 背後に控えていたオーベルシュタインは、名を呼ばれて彼女の前へと移動して膝を折る。

 

「ここに」

「フェザーンの株価を調査せよ」

 

 相手はオーベルシュタイン、なんの為に調査するのか、どのように調査するのかなどは言わずとも理解する。

 

「相応の餌が必要にまりますが、いかがなさいますか?」

 

 氷入りの水を持ってきたエミールが、一礼してからトレイを差し出す。

 彼女はグラスを受け取り、半分ほど飲み、戻してエミールを下がらせる。

 

「陛下を発見した者たちが、私から報奨金を与えられることを流せ。百万帝国マルクに食いついてくる者たちの情報がどれほどのものかは、私は分からぬが。足りぬのであれば、如何様に交渉しても構わぬ」

 

 彼女は何時ものごとく気前よく、まさに金に糸目をつけない ―― だがオーベルシュタインが欲しかったのは、そこではない。続く「足りぬのであれば……」を欲していた。彼は彼女のこの言質を元に、フェザーンに利権をちらつかせ情報収集にあたる。

 金銭の場合は、彼女の性格上、自分が罪に問われ財産を没収される前に支払いを済ませるよう命じる。これではフェザーン商人はなんの役にも立たないが、利権をちらつかせた場合、彼女が罪に問われ地位を追われてしまえば、得られなくなってしまう。

 せっかくの利権を手放さないためには ―― 彼女が失脚しなければよい。それどころか、失脚から救い恩を売ることもできる。

 なにも実際そうしなくとも良いのだ、そう思わせるだけで彼らは動く。

 

「御意」

 

 オーベルシュタインは一層頭を下げて、彼女の前を辞した。

 

 移動が完了し、周囲の安全が確認されてから、彼女は堂々とオーディンへと連絡を入れた。

 近くにはフェザーンの通信基地があるので、傍受されていることを理解した上での行動。

 盗み聞きしたいのであれば、好きなだけ盗み聞きするがいい ――

 

―― フェルナー、大丈夫かしら……

 

 フェルナーが無事かどうか? もっとも気がかりなのだが、提督の椅子に、公人として座っているこの状況ではそれを尋ねるわけにもいかない。

 通信が繋がると、彼女は侍従武官長の代理を務めていたシュトライトに、新無憂宮の状況を直接聞く。

 

『殿下のご無事なお姿を拝見でき、本当に嬉しゅうございます』

 

 シュトライトは彼女に挨拶をし ―― モルトが殺害されたことは、この時、報告しなかった。

 モルトだけではなく、他にも大勢の死者が出ているのだが、それを彼女が知るのはオーディンに帰国した後になる。

 何故報告しなかったのかだが、現時点では誰がどの勢力に殺害されたのか? このテロに関係しているのか? が、はっきりとしていないため、迂闊に誰が殺された、犯人はいまだ不明などとは報告できなかったのだ。

 

「私もお前が無事で嬉しく思う」

 

 国璽を預けていようがいまいが、彼女はフェルナーの事が気になる。

 もちろん、シュトライトのこともシューマッハのことも心配していた。ただ彼女が向ける彼らへの心配は、世間では無用のもの。

 彼らは死亡しても、彼女の心に影は落ちるが、世界の大勢にはなんら変化はない。心配されるべきは彼女であり、簡単に死亡してはいけないのも彼女であった。

 

『ありがたいお言葉』

「他の者たちも無事か?」

『はい。使用人たちは、皆壮健にございます』

「してシュトライト。なにか報告があると」

『はい』

 

 シュトライトからの報告は、カタリナをローエングラム邸のほうに匿ったというもの。それにより、安全を確保すべく邸の警備を増強したいと申し出てきた。

 誰が指揮を執るのかと聞くとフェルナー中将という答えが返ってきたので ―― 無事なことに安堵し、人員を増やすことを許可する。

 

「ノイエ=シュタウフェンには、行動以外は不自由のない生活を送らせるように」

 

 カタリナはほぼ単独で保護されたと聞き、彼女とその近くにいる者たちは、フェルデベルトが何らかの命令を受けて離れたのだと ―― 皇帝の身の安全を図るため ―― 確信する。

 

『御意にございます』

 

 その後、彼女が何を目的にわざわざ居場所を晒してまで連絡を入れたのかを理解している聡いシュトライトが、自分はその時、新無憂宮にいなかったので状況は分からないと報告する。

 それを聞いた時の彼女の気持ちは複雑であった。

 新無憂宮の状況が分からないという残念な気持ちと、危険な場所にシュトライトがいなくて良かったという思いなどが入り交じり、本当に何とも言い表しがたい感情、それらは全部飲み込み通信を切った。

 

 画面が消え眼前に広がる宇宙空間を眺め、彼女はオーディンに早く帰りたいと願うも、

 

―― 安全が確保される前に、帰ったら邪魔になるだけなのよねー

 

 帰りたくとも、帰る手段はあれども、帰ることができない状況に僅かばかり肩を落とす。

 

 会話が終わってから、暗号でフェルナーの状況についてやり取りしますかと尋ねられたが、万全を期するために彼女は首を振って拒否した。

 

―― そんなことをして、国璽にたどり着かれたら困ります。国璽捨てて逃げて良いと通信を送っても、絶対逃げないでしょうし……本当に逃げていいのよ、フェルナー

 

 最近彼女は、割とフェルナーを信頼している。

 

『大公妃殿下』

「メルカッツ」

 

 シュトライトとの会話からしばらく時を置き、避けては通れない相手メルカッツとの通信回線が開かれた。

 帝国の防衛に関してなど、彼女の知るところではないのだが、帝国を預かる身として話し合わなくてはならない。

 

―― そういう器ではないのですよ。そういうのは、そっちで好き勝手にやって欲しいわ……駄目なのは分かってますけれど

 

 自分が対応できるのは、門閥貴族のいざこざだけだと信じている彼女は、防衛や対応の策など聞かされても理解できませんよと。実際彼女は聞かされても、何がなんだか、よく分からない。

 

『自由惑星同盟と名乗る叛徒に対する手をも打たねばなりませぬ』

 

 帝国を守る軍人、メルカッツが言うことは、まことに尤もなことである。同盟は最早攻め込む余力はないが、帝国にとって残念なことに、まだヤン・ウェンリーは生きている。

 彼が生きている限り、彼女としても、なんの策も講じないという考えはない。

 多少体が不自由で、部下が失われているので”これが魔術師か!”と茫然自失に陥らされることはないであろうが、それでも間違いなく脅威である。

 

「策はあるのか、メルカッツ」

 

 彼女は当然のことながら帝国の宿将であるメルカッツに、防衛に際しなにか策はあるかと尋ねた。メルカッツはその外連味のない用兵と同じく、標準的な対策を提案する。

 

『国境に艦隊を派遣するしか、思いつきませぬ』

 

 メルカッツは提督であり軍務尚書だが、彼は宇宙艦隊司令長官ではないので、艦隊を自由には動かせない。

 それが出来るのはラインハルトなのだが、そのラインハルトであろうとも、勝手に艦隊を出撃させるわけにはいかない。

 彼らは皇帝より軍を預かっているだけであり、皇帝の許可なしには動かすことはできないのだ。

 皇帝の所在が不明な現在、その許可を出せるのは彼女だけ。

 ゆえにメルカッツは彼女に指示を仰がなくてはならない。

 

「そうか」

 

 彼女は隣に立つファーレンハイトに視線を移し ―― 彼も頷いたので、基本的にはそうなのだろうなと納得し、艦隊を派遣する許可を与えた。

 外敵への対処策を講じたのち、オーディンの情報を聞き、彼女は表情に感情を乗せぬようにするのに苦労するはめになった。

 カザリンの救出に関してだが、彼女が指揮を執ると既にメルカッツには既に伝えられている。メルカッツも作戦が外部に漏れないようにするためには聞かぬのが一番だと、何かすることがあったらなんでも命じて欲しいと言うに留めた。―― この時点でメルカッツは、皇帝の生存をほぼ絶望視していたこともあり、後継者である彼女の意見を最上のものとしていた。

 

 メルカッツ通話が終わり画面が消えてから、ファーレンハイトが彼女に本心を尋ねる。

 

「殿下はどのようにお考えで?」

「なにがだ?」

「叛徒に対しての策です」

 

 ファーレンハイトに尋ねられた彼女は、血が流れない方法を提示した。

 

「フェザーン銀行から預金を全額引き出し、企業投資を引き上げると自治領主を脅す」

 

 およそ帝国において、彼女ほどの金持ちはいない。

 富める階級の最上位に位置する彼女はフェザーン銀行に、多額の金を預けている。

 またフェザーンの企業にも莫大な投資をしていた。

 彼女が企業投資を引き上げると、フェザーン経済を直撃し不況に陥る可能性が極めて高い。

 

「私の個人資産を引き上げるだけだ。もちろん、全額ではない極々一部。そうだな、二千万の将兵を一年間叛徒の領土に出兵させることが出来る程度に収めておくか。別にフェザーンが憎いわけではないからな。経済大国ゆえ、その程度では揺らがぬかもしれぬが……まあ、それでも一度に引き上げれば少しは堪えるであろう」

「殿下もお人が悪い」

 

 彼女の資産状況も、出兵にかかる費用も知っているファーレンハイトは「それは……」と、片側の口の端を上げ、笑いとも困惑ともつかない表情を浮かべて言葉を濁す。

 

「叛徒は経済状態が悪く、やつらの通貨たるディナールの価値は、日に日に下がり、フェザーンマルクの価値が上がっているそうではないか。金を持つ叛徒は、自らの資産をフェザーンに移すのに余念がないと。そこにフェザーンマルクが大打撃を食らったら、どうなる?」

 

 彼女が言っている叛徒の金持ちとは、説明する必要もなく政治家のこと。彼らは自らの資産を守るためならば出兵案など、議会にかけるはずもない ―― ヤン・ウェンリーの出番はない。

 

「フェザーンとて、フェザーンマルクの価値は下げたくはなかろう。となれば、奴らは自分たちが何をするべきかを理解し、実行するであろう。……と、考えた。だがこれは最終手段だ。自治領主は狡猾で賢い男であり、フェザーンの権利が損なわれることを嫌う男だ。こちらが言わずとも、叛徒を掣肘するであろうよ」

 

―― 預金や投資を引き上げるというのは簡単ですが、その額を動かす手続きをすることになるキャゼルヌとか、オーベルシュタインとか、シルヴァーベルヒとか大変でしょうからねえ

 

 言うのは容易いが、実際手続きをする方の身を考えると、実行する気はなかった。

 

 そして再び手持ち無沙汰となった彼女は、ロイエンタールが映っている新無憂宮の画像が見たいと希望する。

 

「新しいのはないのか?」

 

 他の画像はないのかと尋ねると、ファーレンハイトから他の画像は届いて居ませんと ―― ここで初めてキルヒアイスの艦隊が撮影に携わっていることを知る。

 

「これは、オーディン近くに停泊しているグリューネワルト伯の艦よりもたらされたものです。ここまで鮮明な画像は、オーディンに接近していなければ撮影できません」

「……そうか。ではグリューネワルト艦隊はオーディン付近にいるのだな」

「はい。あの一帯の航行処理を依頼しております」

「夕食に付き合え、アーダルベルト」

 

 そろそろお部屋に戻られては ―― 言われそうだったので、彼女は先手を打ちファーレンハイトに従えと命じた。

 そこで部下に艦橋を預ける手配をし、少しばかり彼女に遅れて部屋へと向かった。

 

「…………馬鹿だと思ったでしょ」

 

 ”失礼いたします”と彼女に頭を下げると、唐突にそのように言われたのだが、ファーレンハイトには心当たりはない。

 

「なにがでしょうか?」

「新無憂宮の詳細な画像について」

「ああ、それですか」

 

 ファーレンハイトが面を上げると、彼女の顔は桜色に染まり、横を向いていた。

 

「馬鹿だと思ったでしょう」

「いいえ」

「…………怒ってない?」

「説明していただけませんでしょうか? ジークリンデさま」

 

 彼女は腕を組み横を向いたまま、一昨日から怒っているファーレンハイトが悪い、わたしは理由が分からないと、やや頬を膨らませて告げた。

 しばし部屋が静まり、

 

「怒らせるようなことをしたのなら、謝ります……」

 

 彼女は組んでいた腕を解きファーレンハイトに向き直り、正面からそう告げた。

 

「失礼いたしました。怒っていたのはジークリンデさまに対してではなく……」

 

 逆に今度はファーレンハイトが腕を組み、これは困ったと苦笑いをし、彼女から顔を背けて、理由を説明した。

 ファーレンハイトは彼女に対して怒っていたわけではなく、彼女を守り切れるかどうか分からない自分の不甲斐なさに腹を立てていたこと。先ほどの映像の件に関しては、

 

「この私でも、まだお役に立てることがあったのだと、安堵して思わず表情が緩んでしまったためです」

 

 ただそれだけであった。

 

「…………やっぱり、言わないと分からないものね。食事が運ばれてきたわ、まずは食べましょう」

 


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