黒絹の皇妃   作:朱緒

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第226話

 演習中の彼女は、何時ものことだが素直であった。

 例えば演習は当たり前のことだが実戦形式なので、夕方になったから終わって、次は翌朝八時から……などということはない。

 

「総指揮官として、徹夜するのですね」

 

 兵士が仕事をしているのだから、自分も夜を徹して演習を見守る! と、宣言するも、

 

『お志は貴いのですが、休養を取るのも総指揮官の務めです』

 

 総指揮官代理であるファーレンハイトに、眠ってくださいと言われてしまう。

 納得はできなかったのだが「提督は艦隊戦の専門家ですから」と、周囲に説得され、なんだか釈然とはしないが、専門家の助言は聞き入れるべきだろうと ―― 彼女は二十二時に眠り六時に起きるという、まれに見る健康的な生活を送ることになった。

 あまりにも健康的な生活に、自分が何をしにきたのか、一瞬忘れかけた彼女だが、体内時計が狂うと、元に戻すのが大変なので、狂わないようにするためですと言われて、それならばと、やはり素直に聞き入れた。

 

 他に彼女が演習でしたことは、演習で成績が良かったものには、賞金を支払ったことくらい。

 

「幾らを想定しておいでで?」

 

 アースグリムの艦橋で、彼女からの思いつき通信を聞かされたファーレンハイトは、支払うのは良いのですが、常識の範囲内でと ――

 

『十万帝国マルクくらいでどう?』

「もう少し、下げてください」

 

 金銭感覚に関しては大富豪門閥貴族の姫君と元極貧貴族の間に広がる、永遠に埋まらぬ溝である。

 ファーレンハイトが必死に交渉し、結局三万帝国マルクで落ち着いた。脇でやり取りを聞いていたザンデルスは”普通妥協案んって、半額じゃないか。いや、三万帝国マルクでも多すぎるとは思いますが……”などと考えていた。

 ちなみにこのやり取りを彼女側で聞いていたキスリングも同じことを思ったが”ザンデルスが言っている通りの提督なら、当然か”と、納得した。

 

『これには、税金などかからないように手配させるわ』

「まことに……」

 

 演習は恙なく執り行われたのだが、一部混乱もあった。

 その一部とは、彼女が希望したポプランとコーネフの近接戦闘観覧 ―― それに使用されるスパルタニアン。

 同盟の単座式戦闘艇は、帝国の物とは形状が随分と異なり、出撃姿勢も当然のごとく違う。

 帝国の戦艦から出撃させることは不可能ではないが、より前線に近い形で「楽しんいただく」ためには、同盟の戦艦から出撃させたほうが良かろうと、同盟軍の戦艦五隻と、それを操縦する人員を捕虜から一名引っ張ってきた。

 その一名はラオ中佐。

 彼に武装解除されている戦艦 ―― それを戦艦と呼んでいいものかどうかは不明だが ―― を操縦させ、ポプランとコーネフがこれまた戦闘艇と言っていいのかどうか? 武装解除されたスパルタニアンで出撃するという形を取った。

 彼女は操縦を担当するラオ中佐のことを珍しく記憶しており、演習前に顔を見せるように命じた。

 連れて来られたラオ中佐は、彼女と対面してからすぐに操縦することになり、心ここに在らず状態で、自動操縦を失敗し、同盟軍の戦艦二隻を衝突させて失うという失態をおかした。

 その様を眼前の大型スクリーンで見ていた彼女は、呆気にとられたのだが、周囲や回線を開いている友軍艦から、歓声と拍手が届き、

 

―― 私以外の軍人は、あれが敵の艦であることを、認識しているのですね

 

 演習でも歓喜が上がるほど、戦争を繰り返していることを実感した。

 

 想定外の事態はこのくらい。

 

 演習終了後、優秀な成績を収めた者たち、上位二十名ほどをパーツィバルに呼び、その中でもっとも優秀であった将校に労いの言葉と賞金を授け、全員と共にテーブルを囲んで食事を取るなどした。

 

 彼女は艦橋にいても彼女のまま。

 誰もが穏やかで、猛々しいことなど無縁な、大貴族のお姫さまという認識を持った。

「しっかり者が好み」「気が強い女が好き」などという者からすると、非常に頼りなく映ったものの、それ自体が魅力であることは、上記の好みの者たちも重々理解している。

 

 誰もが想像する姫君。そんな彼女はなんの憂いもなく帰途に就いた。

 

 帰国したら、あれをしよう、これをしよう、フェルナーが用意してくれる菓子はなんだろう等と考えながら ―― 艦隊は順調に進んでいたのだが、突如ファーレンハイトが停止を命じ、シャトルで彼女が搭乗しているパーツィバルへとやってきた。

 

「どうしたの? ファーレンハイト」

 

 唐突にそちらに伺いたいと言われ許可を出し、提督席に座って待っていた彼女は、彼女の目の前で膝をついたファーレンハイトに声をかけた。

 

―― あまり良いことではないわよね……艦隊を止めて、直接言いに来るくらいですから……聞きたくないわー

 

 表情には出さなかったが、彼女は内心で「聞きたくない、聞きたくない」を繰り返していた。ただ、何が起こったのかについては、何一つ思いつかなかったこともあり、聞きたくない反面、知りたいという気持ちもあった。

 

―― 大体、想像力ありませんし

 

 ファーレンハイトの口から語られたのは、カザリンが行方不明であるということ。またオーディンで大規模なバイオテロが発生したので、後継者である彼女はオーディンの安全が確保できるまで、このまま待機して欲しいとのこと。

 想像力がさほどではない彼女には、全く予測できないことであった。

 

「…………」

 

 話を聞かされた彼女は絶句するしかできなかった。

 皇帝の安否が分からぬ以上、彼女の身の安全を最優先にしなくてはならない。それは彼女自身、理解しており、このような状況下では臣民を安心させるためにも、平素と変わらぬ態度を取るべきことは分かっている。

 また彼女はそのような態度を取ることはでき、実際に驚き、困惑、恐れなどを表情に一切出さずに聞き終えたが、誰かに抱きつき大泣きしたいほどに、恐怖と混乱が心で暴れている。

 ファーレンハイトは万全を期するために、彼女の旗艦に同乗し、ここで指揮を執りたいと申し出てきた。

 彼女には断る理由はなく、側にいてくれたほうが安心できるので許可を与えた。ファーレンハイトは普段であれば、彼女に部屋に戻って落ち着くまでゆっくりと過ごして下さい、あとはお任せください ―― そうするところなのだが、彼はこれからオーディンのメルカッツ、ラインハルトと対策を協議せねばならぬため、総指揮官である彼女には、この場に残ってもらう必要があった。

 彼女は早くに戻ってきてという気持ちを込めて、水色のマントの裾を控え目に軽く引いてから、その指を放し頷く。

 そして彼女は宇宙空間が映し出されている前方の巨大スクリーンを眺める。

 彼女にできるのは、それだけ ―― それだけの筈であった。

 

 彼女のことをキスリングに任せ、オーベルシュタインと共に別室へとやって来たファーレンハイトは、オーディン側から事情を聞き、あとはオーベルシュタインに任せた。事前に「こうして欲しい」と告げられていたオーベルシュタインは、メルカッツが苦手な謀略部分について予測し、対処方法を告げてゆく。

 

「この計画は、一年ほど前に起こった内乱とよく似ております。計画を立てたのは同一人物の可能性が極めて高い」

 

「首謀者は存じませんが、首謀者に仕立て上げられる人物は分かります。エッシェンバッハ公。宇宙艦隊司令長官閣下、あなたです」

 

「あの時も、今回も、あなたに利がある。皇帝が殺害されたら、あなたは実質皇帝となる。閣下、あなたの激怒に付き合っている時間はない」

 

「宇宙艦隊司令長官閣下は動いてはいけません。閣下の部下が新無憂宮に入ったという事実があるだけで、カザリン・ケートヘン一世を殺害したのは閣下ということになります」

 

「幼児を殺すような真似はしないと言われましても、皇帝を殺害して利益が生じるのはあなただけです、閣下。ええ、部下も派遣してはいけません。あなたの部下が、あなたの命を受けて皇帝を殺害したと言われることになりますから」

 

「閣下の部下の人となりなど、この際どうでも良いのです。少し説明いたしますと、閣下の部下は閣下に忠実であり、閣下の登極を望んでいることは、誰もが知るところです。そんな部下たちを放ったらどうなるか。確かに彼らは通常であれば皇帝の殺害はしないでしょうが……閣下、姉上の身の安全を天秤にかけられたらいかがなさいますか? 皇帝を殺害せねば、姉君を害すると言われたら。その激昂が答えです。あなたは一歳の幼児をも殺害できる男です、そのことを自覚してください。閣下以外の者は、誰もが知っていることです」

 

「無能の謗りと幼児殺害。後者の風評の方がよろしいのであれば、どうぞ。…………それで結構。閣下は姉君の安全に十全を期すればよいのです。閣下は姉君さえいらっしゃれば、いくらでも再起できますでしょう」

 

 治安回復に関し、メルカッツとその部下たちに任せることで、まずは協議を終えた。

 画面が暗転するとすぐに彼らは部屋を出て、彼女のいる艦橋へと引き返す。

 

「エッシェンバッハ公を消す好機でしたが」

 

 ファーレンハイトはオーベルシュタインに、ラインハルトを助けるよう指示を出して欲しいと頼んだ。

 

「……皇帝は生きていると思うか?」

「余程の無能者が襲撃したのでもない限り、もう生きてはいないでしょう」

「俺は、ジークリンデさまに皇帝の死を伝える勇気はない」

 

 カザリンが死んだと聞かされたら、彼女は泣き崩れる。だが、襲撃犯の用意周到さから、皇帝の命はほぼない物と ―― メルカッツですら、そう考えていた。

 

「ああ、夫に任せるのですね」

「パウルが告げてくれるのならば、公に任せてもいいのだが」

「謹んでお断りさせていただきます……エッシェンバッハ公の死を伝えるのも……」

「公には何がなんでも生き延びてもらわねばな。まあ、姉が弱点だが、それを補って有り余る才能がある。どうとでもできるだろう……が、それでもな」

 

 そんな会話をしつつ艦橋に戻ってきた二人は、駆け寄ってきたエミールに、

 

「大公妃殿下がお呼びです」

 

 ”此方へ”と案内された。

 別にエミールに案内されずとも、二人とも彼女の元へ向かうのだが。ともかく彼らは彼女の側へ。

 提督席に座っている姿勢は、彼らが去った時と全く変わらず、表情も変わっていないのだが、

 

「殿下、お呼びと」

 

 ファーレンハイトですら名を呼ぶのが憚られる、まさに不可侵なる空気を纏っていた。

 彼女はファーレンハイトを見るでもなく、右手で前方を指さし、

 

「この艦の望遠で、ここからオーディンの撮影は可能か?」

「可能です」

「オーディンを映せ」

「御意」

 

 オーディンの状況を映し出せと命じた。

 画面に映し出されたオーディンだが、彼女が欲している場所ではなかった。

 

「私が直接指示を出す。全艦に繋げ」

「ジークリンデさま」

「繋げと私は言った。聞こえなかったか」

 

 ”何をなさるおつもりですか”と喉まで出かかったが、彼女は助言を求めているわけでもなければ、意見を欲しているわけでもない。

 

 全艦に指示を出すから、そうしろと命じている ――

 

 ファーレンハイトが通信兵に指示を出し、全艦に彼女の声が届くよう回線を開かせる。

 

「全ての責任は私が負う。聞こえたか? 理解したか? 覚えたか? もう一度言おう、全ての責任は私が負う。では命令だ、新無憂宮を映し出せ。全てを、隈無く」

 

 新無憂宮を上空から撮影することは、固く禁じられており、この五世紀の間、行った者はいない。

 

「新無憂宮に賊が侵入した。陛下の安否が分からぬ。新無憂宮は広く、オーディンでは誰が敵か分からぬ始末。だがこの艦にいる者たちは違う。誰もが忠実なる臣民である。そのお前たちを私は信じて命じる。新無憂宮を撮影し、陛下を探し出せ。全ての責任は私が負う。さあ!」

 

 彼女が全ての責任を負うので、新無憂宮を上空から撮影し、皇帝を捜せと命じたのだが、動きは非常に鈍かった。

 ざわつく声はなく、まさに水を打ったように静まり返り、各艦の望遠レンズの操作を担当している監視担当兵は硬直。

 彼女は自分の艦の通信兵たちすら停止しているのを見て、更に言葉を重ねる。

 

「陛下を見つけた者には、報奨金を与えよう。本来であれば十億帝国マルクでも安いが……お前たちの表情を見るに、それは現実味がない金額のようだな。なにを驚く? 門閥貴族の富とは、陛下の御身を守るためにあるものだ。門閥貴族の特権とは、陛下の御身を守るために与えられたものだ。仕方ない、百万帝国マルクだ。これ以下では、陛下に失礼だ。さあ探せ! 私のために」

 

 彼女の声はいつも通り鈴を転がすようであり、声量があるわけでもない。

 ただ提督席に深々と座り、正面を見据えたまま、一切の動揺を見せず、はっきりとそう言い切っただけ。

 何処が変わったのかと問われれば答えられないが、全てが変わったと言われれば誰もが納得する。

 

 そして誰が最初に動いたのかは不明だが、各艦に新無憂宮を上空から撮影した映像が次々と表示される。

 彼女はその映像を満足げに眺めつつ、釘を刺す。

 

「ファーレンハイト」

「ここに」

「余計なことを考えぬように」

 

 緊急事態とは言え、新無憂宮を撮影を命じたなど、到底許されるものではない。彼女は皇族ゆえ、処刑されることはないが、下手をすれば一生幽閉もあり得る ―― 彼女としては、その人生は非常に魅力的だが、部下が彼女を罪人として幽閉されるという事実に耐えられるか? となると、そうではない。

 

「……」

 

 三長官全員の首を飛ばすわけにはいかないが、辞任だけではなく、生命をもかければ、彼女が罪に問われずに済む ―― 等と考えている者が、彼女の隣におり、それをひしひしと感じていた。

 だが彼女は自分が取った行動の責任を、誰かに替わってもらうつもりなどない。

 

「アーダルベルト。おまえが何を考えようとも、行動に移そうとも無駄だ。人臣たるおまえにこれ以上はない。だが私にはあと一つ上がある。おまえが私の意にそぐわぬ行動を取るならば、私はおまえを従わせるために至尊の座を奪う」

 

 勝手に責任を負おうとするのならば、それらを全て無に返す地位に就くまでのことと、彼女は言い切った。

 

「ジークリンデさま! それ以上は」

「私に不敬の罪を負わせたのはおまえだ。余計なことは考えるな。そして絶望せよ、アーダルベルト。私は自分の罪を無きものにするために、皇帝の座に就くようなことはせぬ。死出の旅路に供を選んで良いと言われたら、おまえを選ぶやも知れぬ」

「身に余る光栄です」

 


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