黒絹の皇妃   作:朱緒

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第222話

 ベネディクトは当初、行方不明だとは解らなかった。

 

 前日に夫と言い争いをしていたこともあり、フランツィスカは夫が自らの意思で姿を消したと考えた。

 夫に逃げられたなどフランツィスカにとっては耐えがたい屈辱であり、詳らかにできない恥であった

 そこで「病気療養のため」と、近衛を統括している宮内省の尚書たる彼女に、虚偽の報告を行ったのだ。

 フランツィスカはこの時点では彼女を欺し続けるつもりはなく、早急に夫であるベネディクトを探し出して、相応の対処をすることを考えていた。

 いきなりのベネディクトの病に驚いた彼女だったが、特に慰留する理由もなければ、特段得がたい存在でもなく ―― 何らかの事件に関わっていそうではあるが、下手に慰留しては疑われると考えて離職届を受理した。

 

 その後、私的な見舞いを希望したものの、ベネディクトが弱っている姿を彼女には見せたくないので、恐れ多いが断ってくれと言っていたと言われてしまえば、それ以上強く言うこともできず。

 フランツィスカに労いの言葉をかけ、ベネディクトには離職届は受理するが、回復後は身分に相応しい役職を用意しておくので、焦る必要はない、ゆっくりと療養することを言伝る。

 

 フランツィスカが去った後、彼女はとりあえずベネディクトに関して調査を命じた。

 その結果だが、ベネディクトは顔と喉に大火傷を負い、邸で療養している”らしい”という報告がもたらされる。

 ”らしい”というのは、特徴である顔や声が潰れ、目を引く赤毛もなくなっており、近衛の特徴でもある長身もベッドに横たわっているため、はっきりと判断がつかない。

 だが、誰かが確かに負傷し、邸で療養していた。

 邸の使用人によると、火傷を負ったのはベネディクトで、夫婦喧嘩の末に、フランツィスカが硫酸を浴びせかけた。

 

―― 邸に硫酸ってあるものなの?

 

 彼女は邸に硫酸など、そうそうあるものなのか? と、不思議に思ったが、銀器を磨く際に、薄めて使用したりすることもあるので、このような事件が起こっても ――

 

「最初からかけるつもりで用意していた……としか考えられませんが、伯爵夫人は当主ですから、薬品くらい自由にできるでしょう」

 

 貴族邸には銀細工の調度品は必需品。

 硫酸があっても、おかしくはなかった。

 夫婦喧嘩についてだが、ベネディクトの態度の悪さや借金から、伯爵夫人の行動も頷けるというものが多く、また邸の使用人たちは当主である伯爵夫人の味方であったこともあり、負傷した人物はベネディクトなのだろうということで落ち着いた。

 

 だがこの硫酸を浴びて顔が焼け、声を失った人物は、実はベネディクトに骨董品を売りつけていたフェザーン商人であった。

 商人を身代わりにし、フランツィスカはベネディクトを内密に捜すよう命じた。だがベネディクトと接触ができなくなったことで、手がかりはエリスに言い寄っていた商人しかないと考えた彼女は、同時期に姿を消した商人を探し出すよう命じた。

 これにより、フランツィスカが商人の顔を焼くよう指示を出したこと、ベネディクトが行方不明であることが判明する。

 

 貴族の特権により、フランツィスカはフェザーン商人に硫酸をかけるよう指示したことは、なんら罪に問われなかったものの、ヒエロニムス・フォン・キューネルトの計画に荷担したとして、逮捕され処罰されることとなる ―― これらが全て明るみにでるのは、彼女が演習に向かってからのため、もう少し先の話。

 

**********

 

 ハートのエースことポプランが新無憂宮で女帝カザリンのお相手を務めているころ、クラブのエースであるコーネフはクロスワード……ではなく、帝国軍の整備士とともに、スパルタニアンの調整を行っていた。

 彼女が「演習のとき、同盟の二人の戦いぶりを見てみたい」と言ったのが、原因である。

 彼女の希望に沿うのが彼らである。

 二人に武装解除したスパルタニアンで、彼女にドッグファイトを見せるよう命じた。”さすがゴールデンバウムの皇族、なんでも出来るんだな”と二人は、やや呆れ気味に驚いたものの、宇宙に出て、スパルタニアンを駆れるというのは魅力的だったので引き受けた ―― 帝国において「引き受けない」という選択肢は存在しないのだが、二人の中では納得して引き受けたということになっている。

 

 呆れはしたが、彼女に見たいと言われたことに関しては、悪い気はしなかった。

 

 二人をスパルタニアンに乗せることに関して「逃走するのではないか」と反対する意見もあったが、彼女がそんな心配は無意味だと一顧だにする。

 

「帰りたいのならば、帰してあげるわよ。なにを驚いているの? 私は銀河帝国における外交の責任者よ」

 

 同盟を国と認めておらず、フェザーンは自治領ゆえ、外務を担当する単独省庁はなく、それらは国務省が担っている。よって、彼女が帰すと言えば、即帰国することが可能。

 当人に、大公妃の名にかけて、確実に帰国させてやるので選ぶと良いと言ったところ、

 

―― 面白いからまだ帰らないって……陛下の三輪車を押すの、そんなに楽しいのかしら。コーネフは「こいつが残るってなら、こいつだけ残しておくと、ロクなことにならないんで」精神で残るようですが

 

 二人はまだ帰らないと即答した。

 

 同盟の戦闘艇を飛ばすのであれば、同盟の戦艦も用意するか ―― 命じられたことだけではなく、それ以上のことをするのが、家臣の務めと、鹵獲した同盟軍の戦艦を幾つも用意し、疑似前線を楽しんでいただこうと。

 それを聞いた彼女は、大喜びする。

 また兵士たちにも、好意的に取られた。

 これが門閥貴族の男性将官であれば、前線に出てこない腰抜けなど、兵士たちが面白くなく感じるが、今回の総司令官は彼女である。

 軍人になりたくもないのになり、その務めを必死に果たしている。忙しいなか、努力なさっている ―― 女性が前線に立つことがない帝国軍において、前線がどのようなものか知りたいとなれば、このような方法しかないであろう。

 まして高貴な身分のお方。そしてなにより美しい ―― 

 

 この演習、彼女に従う提督だが、最後のイゼルローン攻防戦の際の捕虜は、全てファーレンハイトが管理しており、演習にはその捕虜も参加させるので、管理権限上からファーレンハイトが担当することになった。

 

 彼女はファーレンハイト以外が、付き従うなどとは考えておらず、水面下で色々あったことなど知らない。

 

**********

 

 王立植物園 ――

 本日財務省主催で開かれるパーティーの会場。

 地球時代から変わらぬ、透明なドーム状で、骨組みは帝国らしく繊細な幾何学模様を描いている。

 背の高い木々、低い位置には色鮮やかで、目を引く花々。

 省庁主催のパーティーは、個人の邸ではなく、公共の施設を使うことのほうが多い ―― 自分の邸の使用人を「外部のスタッフ」として計上し、手当などを国に請求し、その分を全額自分の懐に収めるなど、巧妙に立ち回らずとも金が手に入る。

 彼女は自分の懐を潤わせる必要は無いのだが、だからといって彼女が邸で省庁主催のパーティーを開く訳にはいかない。

 いまだ国の中枢にいるのは貴族であり、古き伝統と格式を重んじ、変化を嫌う彼らを従わせるには、慣習を踏襲するのがもっとも無難であり、確実な方法。

 良くない慣習を変えるには良い機会かもしれないが、彼女は悪しき慣習側の立場の人間であり、それらを変えるのはラインハルトの仕事だと割り切っているので、そういったことには無関係を貫いていた。

 

 

―― 勝手に期待し過ぎていただけなんですけれど……

 

 彼女はパーティー会場で、キルヒアイスを眺めていた。

 財務省主催のパーティーで、その準備を受け負ったのは、キルヒアイスなのだが ―― 思ったほど、ぱっとしなかった。

 

―― 慣れていないからなんでしょうね……

 

 帝国上層階級のパーティーと言えば彼女。

 幼少期から回数をこなし、パーティーに必要なことは積極的、かつ貪欲に学び、とにかく精力を注ぎ、努力した。おそらくラインハルトやキルヒアイスが、簒奪のためにした努力と同程度の努力を、己のパーティー開催能力開発に費やした。

 バストに関しては努力しても人並み少し上程度で、努力が実ったか実らなかったか怪しいところだが、パーティーに関しては努力は確実に実を結んだ。

 そんな彼女から見ると、キルヒアイスが準備したであろうパーティーは、おかしなところはないが、物足りなさを随所に感じる出来であった。

 来客者に失礼はなく、料理も悪くはないのだが ―― どことなく、素人らしさがあった。

 もちろんキルヒアイスは、これらのプロではなく、ラインハルトもそこまでは求めていない。

 これが他の人ならば彼女も「完璧超人だと思ってたけど、親しみが沸いた」なのだが、キルヒアイスとなると、親しみなど沸かず。むしろ、しっかりしてくれと言いたくなる。原因は彼女が「キルヒアイスが生きていたら」という、ある種万能の呪文とも言える単語を知っていたため、キルヒアイスが超一流以外のことをすると、何とも言えない気持ちになってしまうのだ。

 

 むろん、キルヒアイスの采配には失敗はなく、完璧に限りなく近く、誰も文句をつけることはできない ―― が、彼にはその上を求めたくなってしまう。

 

「大公妃殿下」

 

 会場入りしたときには挨拶を交わし、その後は仕事に関連する人々と話をしていたキルヒアイス。やっとその任から解放された彼が、彼女に声をかけてきた。

 シャンパングラスを持って立っていた彼女は、

 

「叔母さまでよくてよ、伯爵」

 

 家族だとは思っていなくとも、親族だとは思って頂戴との想いを込めて、叔母と呼ぶように告げたのだが ―― キルヒアイスはあきらかに困ったといった表情を浮かべる。

 

「叔母さまは嫌?」

「ええ」

「残念だわ」

 

―― 叔母さまと呼ばれる日が来ればいいなと思っていたのですが……来ませんでしたね。だからせめてキルヒアイス……まあ、いいわ

 

 彼女は呼び方に関してはそれ以上触れず、近況について話に花を咲かせた。

 しばらく話していると、キルヒアイスが植物園内を見て回りませんかと彼女を誘う。

 まだ冬なので外には出られないが、温かな植物園内ならば体調を崩す心配もないだろうと、彼女は同意し、キスリングに少し離れてついてくるよう指示をして ―― キルヒアイスは強いから、大丈夫でしょうとの判断 ―― 散策しながら話を続ける。

 木々の間に設置された暖色系の明かりが照らす通路を、彼女とキルヒアイスは並んで歩く。

 キルヒアイスはいつも通りの軍服。

 彼女は鮮やかで澄んだレモンイエローのAラインドレス。上半身は刺繍がびっしりと施され、ドレス部分は生地は高級シルクで、裾部分に同色で蔦模様がぐるりと回されている。

 首元はサファイアがメインで、ダイヤモンドが散らされているネックレスで飾り、白いレースの手袋で隠れている指先はパール色に塗られていた。

 

「あら、また出かけるのですか?」

 

 ほっそりとした手に持っているのは、ドレスと同色の扇子。

 足が止まったキルヒアイスの隣に立ち、口元をその扇子で隠す。

 

「はい」

「仕事とは言え、アンネローゼさまと一緒にいる時間が取れなくて、残念ですね」

 

 キルヒアイスはほとんどオーディンには居らず、治安維持のために星系を転々としていた。

 

―― ちょっと疲れているみたいですね。帝国の運営って大変よね……でも自分たちが希望したことですから、頑張ってくださいね

 

「大公妃殿下」

 

 キルヒアイスに声をかけられた彼女は、扇子を閉じ笑顔でその問いに答える。

 

「なにかしら? 伯爵」

 

―― え……? あら、私、立ちくらみ……かしら

 

 答えた彼女は、いつのまにか馴染みのない腕に自分が抱かれている ―― それに気付くのに少し時間がかかり、キルヒアイスに抱きしめられていることを理解し、自分が知らぬまに目眩でも起こして倒れかけ、キルヒアイスが抱き留めてくれたのだろうと解釈する。

 そこで降りたままだった腕を、キルヒアイスの背中へと回して、

 

「もう、離してくださって結構よ、伯爵」

 

 立ちくらみは治ったから、解放してと。

 だがキルヒアイスは彼女を解放せず、それどころか腕が頭の辺りに。三つ編みを回した髪型にしていた彼女。その黒髪にキルヒアイスの指が差し込まれ、優しいがやや乱暴に ―― 男が女を抱こうとする時のように、彼女の頭髪を撫で、そして梳く。

 彼女は背中に回していた手を、自分とキルヒアイスの体の間に入れて、必死に押すが、非力な彼女がそんなことをしたところで、キルヒアイスが動くはずもない。

 

―― ど、どうして……なにこれ? え、欲求不満?

 

 万感を込めて抱きしめたキルヒアイスが、致命傷を食らうであろうことしか思いつかなかった彼女。だが、このまま襲われてはいけないと、

 

―― キスリングを呼んで……大丈夫なのかしら?

 

 ”助けて、キスリング”と言おうとしたのだが、自分を離そうとしない赤毛の男が、シェーンコップ並に強いことを思い出し、呼んだキスリングが大けがを負ったら、どうしようと ―― 護衛の身の安全を考えて呼ばないという、護衛にとってもっとも取って欲しくない行動に出た。

 そんな逡巡していた彼女だが、体に軽い衝撃を感じ ―― キルヒアイスが誰かに殴られ、彼女から手を離す。

 

「大丈夫か? ジークリンデ」

「ロ……ロイエンタール」

 

 彼女が感じた衝撃は、キルヒアイスがロイエンタールに殴られた衝撃。体が密着していたので、彼女はその振動を肌で感じた。

 殴られた音に気付いたキスリングが、通常の警護位置へ。

 そこで、殴られたキルヒアイスと、何が起こったのかまったく理解できぬまま、きょろきょろとしている彼女と、何事もないと言った表情のロイエンタールが目に飛び込んできた。

 

 理解できていない彼女の頭上で、三人の視線が交錯し、

 

「申し訳ございませんでした、大公妃殿下」

 

 キルヒアイスが謝罪する。

 だが言われた彼女は、状況について行くことができず、ロイエンタールが後日、謝罪しに来こと、あと会場に戻るように言う。

 キスリングは今日のことは報告します、とだけ言い、キルヒアイスが会場に戻るのを止めなかった。

 取り残され、呆然としている彼女。

 

「あの……あの……」

 

 纏めていた黒髪が解れる、少し解れた黒髪は、香り立つような色気となり、状況が解らずやや怯えている潤んだ瞳は、いつも以上に扇情的で、劣情を誘う。

 

「落ち着け」

 

 ロイエンタールは彼女にそう言ったが、自分に言い聞かせたものでもあった。

 肩に手を置き、腰をかがめて彼女に視線を合わせ、落ち着くよう言ってくるロイエンタールに、彼女は思わず尋ねた。

 

「もしかして私、結構殿方にもてる方ですか?」

「……今頃気付いたのか、ジークリンデ」

 

 金銀妖瞳が大きく見開かれる。さすがのロイエンタールも「まさか理解していなかったのか」と、驚愕を隠すことができなかった。


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