黒絹の皇妃   作:朱緒

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第220話

「ジークリンデさま、私、産婦人科医になります! 失敗を償わせてください」

 

 何一つ失敗などしていないマリーカだが、失敗していないなどと言っても、最早通じず ―― だがマリーカが理由はどうあれ、向学心に燃えて進学を目指すことは、彼女としても嬉しいことである。

 とくにマリーカは実家は裕福で、学費や生活費の心配もなく、主家のマリーンドルフ伯は娘の進学を許可するほど、女性教育には寛容。

 またマリーカの実家も、娘の失敗をこれで挽回させようと ―― 失敗などしていないので、謝罪は不要とは言い渡しているが、どうにも通じず彼女は少々困っていたのだが、それがマリーカの進学で無事に解決することに。

 

「合格したら会ってくださいますか?」

「何時でも会うわよ」

 

 大学入学を目指すということで、マリーカは彼女の侍女をやめ、故郷に帰り試験勉強に専念することになった。

 その決意は固く、合格するまで会わない ―― 結局マリーカが大学に合格する前に、彼女は居なくなってしまったので、再会は叶わなかった。

 

**********

 

―― 同盟を併合したら、後々帝国が負けるとか思っていた時期もありました

 

 彼女は自分が新帝国成立後、生きるか死んでいるかも分からなくなったので ―― とりあえず生き残った場合のことも考え始めた。

 新帝国はどのようになるのか? 新帝国において旧帝国の臣民が”教育が行き届いている旧同盟市民”に負けぬようにするためにはどうするべきかなど。

 まずは敵情視察とばかりに、捕虜の学歴を求め ―― 末端まで大学卒業が大勢いることに驚く。

 

―― さすが民主主義。全ての国民に教育を……ですね

 

 限られた者しか大学進学ができない帝国とは違い、多くの者のが大学に進学している状況に、やはり人材資源の差が……と考えた彼女だったのだが、フェルナーがそっと差し出したメモ用紙に書かれていた数式に愕然とする。

 

「10+12×5……70でしょう? これがどうしたの、フェルナー」

「とある叛徒の大学の入試問題の中で、もっとも正答率が低かったものです」

「………………え?」

 

 たしかに大卒者は多かったのだが、その大学に問題があった。大学の名を冠するに値しない大学が、無数にあるのだ。

 

「叛徒の大学は、約八億校ほどあります」

「八億ですか。八千ではなくて?」

「残念ながら八億で間違いはありません」

 

 理念として全ての国民に平等な教育。人口百五十億人すべてに学舎を提供するとなると、桁違いの数が必要となる ―― 同盟ではこれでも少ないと、教育を行き渡らせるべく活動している市民団体が、更なる増設を望んでもいる。

 

「教育にかける税金は足りているのかしら?」

 

 彼女の記憶では、教育費が削られ戦争に関係のない学部が閉鎖されていたので、この大学の数は予想外であった。

 

「国の補助金は減っています。その分、学生の授業料で補っているようですよ。なんでも銀行で学費ローンが組め……ジークリンデさま、学費ローンというのはですね……」

 

―― 学費ローンくらい知っています……たしかに、私が知っていたらおかしいでしょうけれど

 

 内心では「知っています」な彼女だが、帝国には学費ローンなど存在しないので、言うわけにもいかず、黙って分かりやすいフェルナーからの説明を聞く。

 

「同盟は大学を卒業していないと、就職が難しいそうです。どれほど優秀でも採用試験すら受けられないそうです」

 

 帝国は平等な教育は存在しないが、逆に学校を出ていなくとも、試験を受けることはでき、優秀であれば”使える”として採用される。

 大学が採用条件にないのは、門閥貴族は大学などに通わず、家庭教師をつけて学んだだけで、軍官僚になったりするので、条件とはならないのだ。

 もちろん採用も公平ではないが ―― 縁故採用は、そもそも試験など受けないので、ほとんど関係しない。

 

「……なるほど。でも、こんな問題すらロクに解けない人に採用資格があり、解けるけれども大学に通えなかった人には採用資格がないんて」

「そうですね。その結果、叛徒の軍には、末端にも大学卒業者がごろごろいるわけです」

 

 同盟は一部の優秀な大学卒業者以外は、国が認定している資格を多く取得しているかで、就職できるかどうかが決まる。

 とりあえず大学を出たは良いが、彼らが受けた大学入試よりも遙かに難しい資格を取得することは難しく、特に資格を必要としない軍へ ―― こうして帝国ではありえない、大卒二等兵が同盟では毎年多数誕生していた。

 

 対する帝国だが、大学は全土で三十校しか存在しない。

 人口二百五十億に対し三十校は、少なく感じられるが、大学は門閥貴族の子弟が通う学校。その対象は約四千家、うち半数の女性は、ほとんど進学はしない。

 帝国騎士も通うことを許されているが、やはり女子はほぼ進学しないので大学の数はこれで充分であった。

 人口が減ろうが増えようが、貴族の数はほぼ変動がないので数が増えることはない。

 最近は平民にも門戸を開いてはいるが、基本的には貴族のもの。

 この三十校はそれなりに順位付けされており、特に優秀な四つの大学 ―― その一つは通称・士官学校。正式名称、帝国軍事大学が該当する。

 特権をまったく持たない平民階級出で入学、卒業を果たしたフェルナーやミュラーやケスラー、キスリングなどは、怖ろしいまでの頭脳を持っている。

 

 話を戻すが、同盟と帝国の教育状況を比較した彼女は、人的資源で一方的に負けることがないことを確信した。

 続いて工業製品についてだが、原作にもあった通り ―― イゼルローン要塞を奪取し、そこに住み着いたヤン艦隊。備品は手に入らないので、使用していないスペースから取り外し手に入れていた。フェザーンを通じて逆輸入するとキャゼルヌは言っていた ―― 帝国と同盟では商品の規格が違う。

 食料品に関しても、使用して良い薬品などの規格が異なる。

 

 この辺りは、彼女も自領の商品をフェザーンに卸しているので知っていた。

 同盟の観光客がお土産として購入する。その際、同盟領に持ち帰れるようにするために、帝国国内では使用していない保存料を使用したり、帝国では使用しているが同盟では許可されていない着色料などを排除したりしていた。

 

―― 国家規模で行うと、同盟は大打撃ですね

 

 よって勝者が誕生した時、敗者側の規格は撤廃され、全て帝国スタンダードとなるため、問題視する必要はなかった。

 帝国が同盟に敗北した場合は、同じような目に遭うわけだが、帝国の勝利に関しては、彼女は心配していない。

 

―― 半身不随になったようですから、もう退役するでしょう

 

 彼女の元にヤンが事故で半身不随になったことが届いていた。

 ヤンがその状態で軍に在籍するとは、彼女は考えなかったので ―― マスコミからの好奇の視線や、政界からの誘いを断るために、ヤンは軍に在籍し続けるのだが、この時点では彼女には分からなかった。

 例えヤンが半身不随になっていなくとも、キルヒアイスがいるラインハルトならば、負けるはずがないと、絶大な信頼を寄せている。

 

 他にも統一された場合、言語は当然帝国語が公用語となり、全ての場面で帝国語が使用されることになる。

 日常生活から同盟語を奪いきれるかどうかは不明だが、公的な書類や採用試験、学問や研究などは帝国語で行われることになり、同盟人はここでもかなり不利になる。

 また教育も、公用語を用いて行われることになるので ―― 日本語で微分積分を習っていたのに、ある日突然、教師の拙く間違いだらけのドイツ語で微分積分を学ばなければならなくなるようなもの ―― 同盟には教えることができる教師はほとんどいなくなる。

 

 こういったことは歴史的にも珍しいことではなく、侵略や統一などがなくとも、国の成り立ちや世界情勢により、日常使っている言語と、学習に使用される国の公用語が違い、勉学についていけない子供が多数出ることも、ままある。

 それどころか、大学だけは世界で使用される公用語が用いられ、更に学問が困難になることがある。

 

 

 自分たちが日常使用している、世界の公用語でもなんでもない言語で、最高学府で世界最先端の学問を学べるというのは、かなり希有なことである ―― とは彼女の記憶。

 

 

 同盟の教育に関しては、頭が痛いところだが、帝国の人的資源と、統一された際の帝国領民の生活に関し、さほど心配する必要がないことが分かった彼女は、同盟を滅ぼすための軍事費の補強に関する書類に、国務尚書としてサインをした。

 

―― えーと、この費用は、おそらく神々の黄昏に使用されるのよね……それにしても、なぜ作戦名が神々の黄昏だったかしら? 理由とか書かれなかったような。私が覚えてないだけ……の可能性が高いわね。ところで、宣戦布告はどうやって行うのかしら。たしか神々の黄昏は、エルウィン・ヨーゼフ二世誘拐から端を発するわけで……アルフレットはカザリンを誘拐しようなどとはしていませんし……ケスラーを呼んで、聞いてみましょう。答えてくれるかどうかは分かりませんけれど

 

 詳しい年代や日付を覚えていない彼女だが、さすがにこの辺りは覚えていた ―― もっとも、かなり怪しいのもいつも通りだが。

 

 彼女は思い立ったが吉日とばかりに、すぐにケスラーに邸に来るよう連絡する。

 カストラートに読書の邪魔にならぬ程度の歌を歌わせ、ソファーに腰をかけ詩集を嗜み到着を待つ。

 

「お待たせいたしました、お嬢さま」

 

 呼ばれてすぐにやってきたケスラーに、彼女は”まあ座りなさい”と言い、自身は詩集を置きソファーから立ち上がり、召使いを呼び茶器を用意させ、

 

「忙しいでしょうけれど、付き合ってちょうだい、ウルリッヒ」

 

 自らの手で紅茶を淹れ、キスリングはカストラートたちを下がらせる。

 白に近い水色のレースのテーガウンに、同色の指先だけがないレースの手袋。

 爪は光沢のあるアイボリー色。

 

「喜んで」

 

 彼女が淹れた紅茶を受け取り一礼してから、ケスラーは口へと運ぶ。

 

―― そんなに貴方たち、私と同じテーブルにつくのは嫌ですか。これが身分社会というものですけれど

 

 ケスラーは当然のように立ったまま。テーブルに着いているのは彼女だけ。

 彼女は自分用にいれた紅茶の、琥珀色の水面をしばし見つめてから、呼びだした理由でもある、フェザーン経由で怪しい動きをしている者はいないかを尋ねた。

 

―― 漠然とし過ぎていたようですね。まあ……大勢いて当然かしら

 

 尋ねられたケスラーは”はて”と首を傾げる。

 

「私の親しい知り合いに、接触しているような人物はいるかしら?」

「親しいとは?」

「そうね……これでも結構知り合いが多いから……例えばランズベルク伯とか」

「ランズベルク伯ですか?」

「ええ。彼は俗世のことには疎くて、前の良人もその善良さにいつか傷ついてしまうのではないかと、とても心配していました。だから、こうして定期的に確認したくなるのです」

 

 ケスラーはランズベルク伯のことは、さほど注意を払ってはいないが、少し調べてみると彼女に確約する。

 

「仕事を増やしてしまったようね」

「気になさる必要はありませんよ、お嬢さま」

「……そうね。定期的に報告しに、私のところへいらっしゃい。特別に許してあげるわ。もちろん、報告してすぐに帰るのは許さないわよ。お茶に付き合ってもらいますし、新しいドレスを試着して感想を言ってもらったり、散歩にも付き合ってもらったりもするわ」

「光栄にございます」

 

―― あまりこれに拘っていても、不審がられるでしょうから……次は神々の黄昏についてでも聞きましょう

 

 彼女はまだ作戦名がついていない、次回の軍事行動について、当たり障りなく尋ねる。

 

「詳しいことは、まだ分かりません。公か伯に直接尋ねられた方がよろしいかと。お嬢さまは大元帥代理、作戦について詳しくしる権利も義務もおありでしょう」

 

―― 公はラインハルトよね、伯って…………ああ! キルヒアイスのこと!

 

 養子となりグリューネワルト伯爵を継いだことを、すっかりと忘れていた彼女は、当初ケスラーが誰のことを言っているのか理解できなかった。

 

「大元帥代理……無骨な肩書きですわ」

「お嬢さまには似つかわしくない肩書きですな」

「そう言えば、ウルリッヒは大将にならないの?」

「色々と柵がありまして」

「推薦してもいい? 嫌なら推薦しませんけれど」

 

 皇帝にもっとも近い位置にいる彼女が命じれば、ケスラー程度の昇進は容易いのだが、彼らには矜持というものがあり、好き勝手に階級を上げてやれば良いというものでもない。

 

「とても嬉しいのですが」

「分かりました。今回は人事にはなにも言いません。ですが私からみて相応しい功績を挙げた際には、容赦なく階級を引き上げますからね。覚悟しておきなさい、ウルリッヒ」

「はい、お嬢さま」

「ところでウルリッヒ、次の戦いのとき、あなたも提督として艦隊を率いて戦いたいわよね?」

 

 その才能から帝都防衛司令官と憲兵総監を兼任することになり、内戦終了後は地上勤務が続き、そのことをぼやいていた記憶のある彼女は、ケスラーに希望通りに提督業をさせてあげようと考えた。

 

「その気持ちはありますが、帝都防衛は重要な任務ですので」

 

 彼女は星の海を駆け抜けたいのだろうと思っているのだが、彼女の前にいるケスラーは、遠征時には彼女がオーディンに残るので、帝都防衛にあたれる事に満足していた。

 

「気にせずに行きなさい。その際には、私が進言してあげるわ」

「は、はあ……」

「帝都防衛司令官と帝国軍憲兵総監の任ですけれど、一時的に私に預けて」

「はい?」

「私が就くわけじゃないから安心なさい。憲兵総監代理にはフェルナーを、帝都防衛司令官代理はキスリングに任せますから。あなたはオーディンのことなど、心配せずに遠征に行くといいわ」

 

 ”なにを唐突におっしゃって……”

 

 部屋に控えていたキスリングは、そのやり取りにかなり焦ったが、無表情が売りの彼らしく、黙ってその会話をやり過ごす。

 

「いえいえ、お嬢さま直属の部下の方々に、そのようなご迷惑をおかけするわけには」

「両役職は、なし崩し的に取り上げたりはしませんよ。ちゃんと返します、オラニエンブルクの名にかけて」

「そのようなことは心配しておりません」

「ではどうして? 宇宙に出たいのでしょう?」

 

 彼女は陶器のカップを両手で包み込むように持ち、小首を傾げる。小さく可憐な桜色の唇に疑問を乗せ、透き通るような瞳でケスラーを見つめる。

 

「私としては、手柄を上げるよりは、お嬢さまをお守りすることが」

 

 彼女はカップをソーサーに置き、ケスラーに手招きし、近づいてきた彼にカップを置くよう指示し、無手となった男らしい大きな手を、先ほどのカップを持っていたときと同じく両手でそっと包んだ。

 

「私のことはいいの。あなたは、あなたの地歩をしっかりと固めなさい。私のことは、キスリングが守ってくれますから、気にしなくていいわ」

 

 言われたキスリングは、表情は一切変えず、だが握り拳を作り小さくガッツポーズをする。彼が職務中にこんな行動を取るのは稀である。

 ギュンター・キスリング大佐 二十七歳。彼女の身辺警護に関し、ナイトハルト・ミュラーに続き、ウルリッヒ・ケスラーにも勝利する。

 

 本部に戻ったケスラーは、机に肘をつけ頭を抱えため息を吐き出した。彼はこの時、艦隊の譲渡をかなり本気で考えていた。

 ただそれは実行に移されることなく ―― 帝国歴四八九年 ”神々の黄昏”作戦が発動し、ケスラーは彼女に従って進軍することになる。

 

**********

 

―― あなたを信頼しているからこそ、私が全てを賭した理由を託すのです。信頼に応えてくれるわね、ウルリッヒ ――

 

 新帝国歴一年七月八日。ケスラーは彼女からの最後の命を果たす。

 ノイエ=シュタウフェン公爵領の中心ともいえる惑星、その本城の前庭で、ケスラーの到着を待っていた、城の主に頭を下げる。

 

「ご確認をお願いいたします」

 

 引き渡し先のカタリナに確認を依頼する。

 カタリナはなにも言わずにただ頷き ―― 一人懐かしく、それ以上に腹立たしい男の腹部に拳を入れる。

 殴られた男は痛くはなかったのだが、腹を押さえてどうしようもない笑顔を浮かべた。

 

「カタリナさん変わっていなくて、安心した」

「あの子たちを連れて邸に入ってなさい。私はこの男に話があるから」

 

 殴ったカタリナは再会の言葉をやり過ごし、閉じた扇子で口元を隠しケスラーを見つめる、その瞳には色も輝きも感情もない。

 

「分かった。最後に、ケスラー大将。いや、もう上級大将か……ここまで送ってきてくれて、ありがとう。命令だからということは分かっているけれど、本当にありがとう……」

 

 男はケスラーに礼を言い、離れたところで待っている少年少女たちの元へと急いだ。男を含めた四人が、ノイエ=シュタウフェン領の本城へと消えるのを見届け、

 

「それで、あなたどうするつもり? 新帝国の重鎮さん」

 

 カタリナが心底馬鹿にした口調で”新帝国の重鎮さん”と語りかけると、ケスラーは目を閉じて苦笑いともつかぬ表情を口元に浮かべて、力なく首を振り否定する。

 

「さきに行ってお嬢さまを待とうと思っております。あの世での再会を許してくださいましたので」

 

 彼女は自分に殉じて死ぬ者がいるとは、あまり考えなかった。

 

「ジークリンデはあなたは生き抜き、新帝国の発展に貢献した後に、くることを想定して言ったはずよ」

 

 皇帝に即位したものの、先々代のフリードリヒ四世が死去した際に、殉死した者は一人もおらず ―― 過去には存在したが、そのほとんどが強制であったことも知っている。

 

「そうかも知れませんが……」

 

 彼女は死を強要などはしない。そのかわり、人々が死を望むことに対して鈍感であった。

 実際彼女は、最後の目的地へと向かっている戦艦内で、殉死希望者に頭を悩ませてすらいた。

 

「私はあなたがどうなろうが、どうでも良いけど。でもあなた、正式な殉死にはならないわよ。ジークリンデはまだ生きているのだから」

 

 彼女が最初から連れてゆこうとしていたのはファーレンハイトだけ。

 そのファーレンハイトも、拒否すれば「今までありがとう」の言葉とともに、シャトルに乗せて送り出すつもりであった ―― それを告げた所、断固拒否されたが。

 同乗しているフェルナーにも「あなたも、本当に付いてくるつもりなの」と、真顔で聞き返し「相変わらずお姫さまは酷いお人です」と言われて、渋々連れてゆくことにしたりと ―― せっかく楽しく、才能が発揮できる世界が始まるのだから、過去の遺物である自分に付き従う必要はないと説得しても、あまり聞き入れてはもらえず、かなり困っていた。

 

「分かっております」

 

 自分に長年仕えた直属の部下に対してもこうなのだから、ラインハルトの部下 ―― 皇帝即位から退位までの短い期間は彼女の部下だったが ―― が、自分の死に付き従うなど思いもしない。

 

「あなたが先に死を選んだこと、ジークリンデの耳には入らないわよ。あいつらは、絶対に報告なんてしないから」

 

 彼女は戦艦に乗ったその時から、外部との接触を一切絶っている【とされている】

 また外部の情報をも絶っているため、ケスラーが彼女に殉じ、やや早めに死を選んだとしても、その報告が届くことはない。

 

「それが望みです。お嬢さまが知る必要などございません」

 

 ただそれは、必要のない心配でもあった。

 彼女に残された日数は少なく、ケスラーの死亡報告が届く頃には ――

 

「そう。ナイトハルト・ミュラーに連絡はつけたのね?」

「はい。後はミュラー提督が」

「あの中尉も、憐れなものね。隣をゆく艦に愛しい女が乗っているのに、どうすることもできないなんて。まあ、あと私からは話はないわ。さっさと帰って。我が公爵家の領内では死なないでね」

 

 カタリナはそう言い、踵をかえしケスラーに背を向けて一歩踏み出す。ケスラーは頭を下げ ―― カタリナは足を止めた。

 

「あなた、生きていたところで、皇帝に進言することもできず、皇帝が間違ったことをしたとしても、止めることもできず、ただ皇帝の意見に唯々諾々と従うだけ。新帝国にいたところで、なんの役にも立たないでしょうから、死んだほうが良いわね」

 

 その言葉に、ケスラーの肩が揺れることはなかったが、大きく重厚な扉が主が戻ったため、閉じられた音を聞いてもしばらくはそのままの体勢を取り続けた。

 ケスラーを残して城に戻った彼女は、入り口のホールで待っていた四人の顔を一瞥し、亜麻色の髪の少年に声をかけた。

 

「お前がユリアン・ミンツ?」

「はい、そうでございます、公爵夫人」

「亡き陛下から、お前は紅茶を淹れるのが得意だと聞いたが、本当に得意なのか?」

「……」

「どうした、何故驚いている?」

「得意とは申しませんが、亡父は茶道楽で、たしかに随分と茶を淹れました。ですが……なぜそれを陛下がご存じなのか」

 

 カタリナは扇子を開き口元を隠し、

 

「ゴールデンバウムの皇帝ですもの」

 

 答えにならぬ答えを返した。

 城の奥から聞こえてくる、変わった音。音はユリアンたちに近づいてきて ―― 三輪車に乗った幼児と、それを押す男と、並んで歩いている金髪の男。幼児はさておき、男二名は、誰がどう見ても帝国人ではなかった。特に三輪車を押している方は。

 

「女王さま、そいつがユリアン・ミンツですか」

「そうよ、撃墜王ども」

 

 三輪車に乗っているのが、先々代皇帝であることに気付いた少年少女の保護者を務めている男は、急いで膝を折る。

 

「ペクニッツ公爵夫人。初めてお目に掛かります、臣は ――」

 

 

 

 新帝国歴一年七月十日、公爵領から出て連絡などの雑事を終えたウルリッヒ・ケスラーは、自らの手で人生の幕をおろした。

 


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