その日彼女は、髪を編み込み纏め、バッスルスタイルドレスのドレスに身を包んでいた。ドレスの色は”悲しんでいるフリくらいしますよ”と、ややヤケになって紫色を選ぶ。そのドレスの襟や袖口を飾るレースは黒、手袋も同じく黒のレース製。
モーニングジュエリーはさすがに避け、真珠で統一したアクセサリーを身につけた。
招待された邸は、金が掛かっている派手な壁紙 ―― それを全て隠してしまうかのごとく、豪華な縁で飾られた大きな鏡や、目を引く額縁におさめられた絵画が所狭しとかけられていた。
いかにも貴族らしい邸。彼女は慣れているので気にすることはなかった。
召使いたちがずらりと並び、一様に頭を下げている廊下を、案内されるがままに付いてゆき”こちらです”と言われた部屋に足を踏み入れる。
すると喉の奥からなんともぬるぬるとした、嫌な感触がせり上がってきた。
―― 何かしら?
口元に手をやった彼女は黒レースの手袋の隙間から見える肌が、赤く染まっているのに気付く。
廊下側を向き、鏡で自分の姿を確認すると、薄いベージュの口紅を塗っていた筈の唇が赤く染まっているのが見えた。
―― 止めなければ!
何故自分が血を吐いているのかは分からない彼女は、焦ってせり上がってくる血を飲み込もうとするのだが、上手くいかず咳き込む。
咳き込むと余計血が口からあふれ出し、
―― 血を吐いているからかしら……なんか足下が
足下がふらついてきたので、しゃがもうとしたのだが既に遅く、体勢を崩していた。衝撃がなかったのは ―― この状況で倒れたら、床に体を打ちつけても痛いと感じることはないが ―― 後ろに立っていたリンツが支えたためである。
廊下ではあったが、リンツはそのまま彼女を横にするため膝を折った。
焦点が合わぬ瞳と、口から流れ出る血。
救護班を呼ぶキスリングの冷静な声や、先に部屋に入っていた貴族や霊媒師などの慌てふためく声などは、彼女の耳には届かなかった。
「しっかりしてください、オラニエンブルク」
そしてリンツの声も届きはしなかった。
現状を理解できない彼女は焦りようはないが、リンツは焦った。
瞳孔が開き、目の縁に赤い線がにじみ、そして血が涙のようにあふれ出してきたのだから、滅多なことでは動じない男でも、焦燥感を覚えて当然のこと。
腕にもたれ掛かっていた彼女の上半身が、急に重くなる。
ただの重さだけで言えば、リンツにとって、彼女の体など腕一本で支えるどころか、抱え上げることも可能だが、いま彼が腕に感じている重みは、それとは違う。
目から光りが消えてゆく彼女を間近にしているリンツは、
「しっかりしろ、ジーク!」
意識を保て、耐えろとばかりに大声で叫ぶ。
その声がかろうじて耳の届き、このままでは行けないと理解した彼女は、自力で上半身を起こそうとする。
体は重く ―― 彼女は自分の体が重いことにも気付いていないが ―― 起こすことができず、首を捩るだけになった。するとその視線の先には、漆喰にガラスを埋めたモザイクで飾られている、楕円形の鏡。
その鏡の中にいる自分と目が合った
―― …………きゃああああ! 私の価値が!
顔のありとあらゆるところから血を流している自分を見た彼女は、容姿だけが取り柄なのに……と、そちらの方で意識が遠のき、もう駄目だとばかりに気を失った。
「しっかりしろ! 眠るな、ジーク! 目を開けろ」
持ち上げていた首から力が抜け、頭ががくりと落ちる。その頭を支えて、リンツは声をかけ ――
**********
彼女の喀血の原因は、降霊会に用いられていた香。
この香に薬物が混ぜられていた。他の香りの強いものと一緒に焚き、煙を吸い込ませ薬物によって引き起こされる幻覚や幻聴などの軽い意識障害を「神秘体験」だと吹聴していたのだ。
その混ぜられていた薬物はサイオキシン麻薬。
気管支が弱く、ゼッフル粒子など化学物質を吸い込むと、極度のアレルギー反応を示す彼女は、サイオキシン麻薬の強い毒性にも体がすぐに過剰反応を示し、気管支や肺から出血したのだ。
結果論になるが、倒れた彼女をあの場から動かさなかったことが、症状を悪化させることになった。
あの時彼らは、彼女の出血が香によるものだとはまったく思わず、脳のあたりの血管が切れるかどうかしたのではないかと考え、極力動かさないようにした。
部屋にいた貴族の女性や霊媒師、一緒に部屋に入ったリンツが出血しなかったのだから、当然とも言える。
だがそのため、救護班が到着するまで、原因である香を吸い込み続けることになり ―― 白目の充血具合は、彼女が自分の顔から引くほどになってしまった。
彼女に麻薬を吸わせる原因を作った霊媒師と名乗っていた人物は、憲兵隊に捕らえられ、麻薬の購入ルートを調査が始まった。
彼女はかなりの出血だったものの、呼吸が落ち着くまで補助機器を使い、安静にするだけで良いと診断される。
通常であれば入院ということだが、邸の医療設備でも充分ということで、医師と看護師を増員し、自室での加療となった。
呼吸そのものは、すぐに安定を取り戻したのだが、彼女の精神の安定はなかなか訪れなかった。
意識を取り戻した彼女。
一番に気付いたのは、彼女自身でなければ、看護師でもない。ずっと様子をうかがっていたフェルナーである。
すぐに医師を呼び、その後、不本意ながら仕事をしている各位に、彼女の意識が戻ったことを連絡する。その間も、彼女から目を離しはしない。
「ジークリンデさま。なにかご要望はありますか?」
医師の健診が終わると、フェルナーは彼女になにか欲しいものがあるかを尋ねた。
事前に与えてはいけないものはあるのか? などを医師から聞いているので、対処は万全である。
「手鏡を」
長年仕えているフェルナーですら、想定できなかったものを彼女は希望した。
”お風呂には入れますか”と聞かれるのではないかと考えていたフェルナーは、想定外の希望に彼は少々面食らったものの、すぐに用意いたしますと ―― 彼女が所持している数十種類の手鏡の中からプラチナ製の丸い手鏡を選んだ。
気が利く彼は、顔を拭くための蒸しタオル、リップクリームに化粧水に化粧下地にもなる保湿クリーム。寝化粧用のフェイスパウダーにヘアブラシに櫛に大理石製の卓上鏡を長方形の銀製トレイに乗せ、彼女の元へと戻ってきた。
「どうぞ、ジークリンデさま」
彼女はトレイから手鏡を取り、自分の姿を映す。そこには充血という言葉が生ぬるいくらいに、真っ赤に白目が染まった彼女が映っていた。
―― ストレートの黒髪が、ホラー感を倍増させてます……それにしても酷いわ……私の唯一の取柄が……
「ジークリンデさま。今日は入浴はできませんので、これでお顔を」
手鏡をのぞきこみ呆然としている彼女の側で、蒸しタオルをたたみ直し差し出す。
彼女はフェルナーのほうを見ないようにして手鏡を渡し、湯気がゆらめいているタオルを受け取り顔にあてる。やや熱めのタオルを目蓋の上から押し当てた。
じんわりと広がる熱が緊張をほぐし ―― タオルで目元を隠しながら、トレイに乗っている品を確認した。
―― 痒いところに手が届くとは、まさにこのことです……けれど、今の私に必要なのはそれではありません
必要なものは全て整っていたが、いま彼女が欲しいのは、充血しきった目を隠すもの。
「フェルナー」
「はい」
「メッシュで目も隠れる、仮面舞踏会用のマスクを持ってきて」
眼帯では片目しか隠れず、サングラスはドレスには合わないで彼女は持っていない。そこで思いついたのが、仮面舞踏会用のベネチアンマスク。彼女はこれも、それこそ数えられないほど持っている。
その中に目元もメッシュで隠れるものが幾つかあった。
「仮面舞踏会を開かれるんですか?」
言われたフェルナーは、彼らしからぬ察しの悪さで、マスクの使用方法を尋ねた。
「いいえ」
彼女が仮面舞踏会を開かないのであれば、出席するつもりなのか? ―― 彼女に送られる手紙の全てに目を通し、パーティーの日時や会場をリスト化する役割を任されているフェルナーには、心辺りがなかった。
「仮面舞踏会の招待状は来ていませんよ」
事故で記憶が混乱しているのかも知れないと、フェルナーは優しくゆっくりと言い聞かせるように話し掛ける ―― 彼女の意図を理解できなかった。
それというのも、彼女の目に”彼女”は「どう見ても幽霊です……ホラーです」と映るのだが、それ以外の人たちには、そうは映っていない。
彼らには痛々しいとは感じるがそれだけで、美しさが損なわれているようには感じられない。
「知っています。でもヴェネチアンマスクが欲しいの」
「理由をお聞かせ願いますか?」
「分かるでしょう」
「いいえ。本当に分かりません、ジークリンデさま」
「からかっているでしょう? フェルナー」
「病み上がりの主人をからかうようなフェルナーではありません。私はジークリンデさまに、そう思われているのですか?」
よって、このような齟齬が生じたのだ。
―― 本当に分からないのかしら……
彼女はすっかりと冷えてしまったタオルでまだ目元を隠しながら、フェルナーに白目が赤く染まっているのを見られるのが嫌なので、治るまでベネチアンマスクで隠して過ごしたいと告げた。
理由を聞かされたフェルナーは、
「医師や看護師以外は近づけませんので、隠す必要はありませんよ」
召使いたちに見られたくないのだろうと解釈し、身の回りの世話は自分がするのでご安心を ―― と。
胸元に手を置き、彼女以外の人は見たことがない、フェルナーの誠実な笑顔で、 ―― 性格と顔の作りから、あまり誠実そうには見えないが、彼にとってはこれ以上誠実さを表すことは不可能 ―― 彼女に心配はありませんと言うのだが、
―― いえいえ! 召使いもそうですけれど、貴方たちに見られたくないのですよー
彼女としては、フェルナーたちに見られるほうが困る。自分は容姿が最大の武器であり、存在意義だと考えているので、衰えた部分を見せたくはないのだ。
「……」
「どうなさいました?」
普段は怖ろしいほどに察しがよく、気の利くフェルナーが、まったく自分の意図を理解してくれないので、これはしっかりと言わねばならないと、タオルをトレイに乗せて俯いたまま本音を述べる。
「医師や看護師や召使いより、貴方たちにこんな姿を見せたくはありません」
「あ……ああ。それは」
「気持ち悪いでしょう……こんな姿、貴方たちには見せたくないのです」
彼女の気持ちをやっと理解したフェルナーは「全然気になりません」「気持ち悪いだなんて、思いもしません」「そのままで」と ―― その後、ファーレンハイトやキスリング、シュトライトやシューマッハなども参戦し、天岩戸よろしく、ぴっちりと天蓋を閉じて籠もってしまった彼女を必死に説得し、充血した白目が元に戻るまで、彼ら以外近づけないことで納得してもらった。
**********
彼女を「ジーク」呼ばわりしたリンツだが、混乱した現場で”こいつが関わっている可能性もある”とされ親衛隊 ―― キスリングを隊長とする、彼女の専属警護部隊の俗称 ―― に彼女の邸の牢に放り込まれた。
理不尽な投獄だが、リンツにはどうすることもできない。
そんな牢には何故か先客がいた。
「これはこれは、ローゼンリッターの副隊長殿。どうなさったのですかな?」
似合わない貴族服を着たポプランが、恭しくリンツを出迎える。
「なんで、お前がここにいるんだ、ポプラン」
「不敬罪で放り込まれた」
この短期間で、邸の牢の主になりそうなポプランと、久しぶりに再会することになった。
ポプランと向かい合うよう壁に背を預けて床に腰を下ろす。
どうして放り込まれたのか聞かれたリンツは、彼女が倒れた現場に居合わせ、犯人、もしくはその関係者の恐れがあるので、放り込まれたのだと説明した。
「お姫さまは大丈夫なのか?」
「分からん」
リンツは先ほどまで彼女を支えていた自分の腕を見て、あの時感じた重みを思い返し、無事であることを祈る。
「洋服についている血は、お姫さまのものか?」
ポプランに言われ、リンツは着せられた、茶色のアビ・ア・ラ・フランセーズの上着に目を落とす。
白糸で縁に施されている刺繍が所々、血特有の黒さに染まっているのに気付いた。
「そうだ。ところで、ポプラン、お前はどうしてここに?
リンツの問いに、ポプランは両手を広げ肩をすくめて、悪びれることなく飄々と ――
「よくできたな! と、頭を撫でたら不敬罪だとさ」
不敬罪という単語が出てきた時点で、誰が相手なのか? 彼女か皇帝、二人に一人しかいないので、消去法でリンツにも想像ができた ―― その消去法だが、彼女の頭を撫でていたら、その場で先ほどリンツを牢に放り込んだ親衛隊に撃ち殺されているだろういう類いの消去法だが。
「……誰の頭を撫でたのだ?」
それでも一応聞いておこうと、彼女の血がついた上着を脱ぎ畳み、抱きしめるようにして抱えて尋ねた。
「カザリン・ケートヘン」
「よく、殺されなかったな」
「陛下に気に入られているからな。色男は辛いんだぜ」
「そうか」
リンツは彼女の容態が気になったものの、誰も教えてはくれず、三日後には牢から出され、旧グリンメルスハウゼン邸へと送り届けられた。
リンツは彼女の容態を非常に心配するも、彼女が会いたいと思わねば会えるはずもなく ―― そして彼女はリンツに会おうとはしなかった。
理由はフェルナーたちと同じ。
あの場面で、間近で自分の充血した目と、血の涙を流している姿を見られたので、会うのは恥ずかしいと言うことで、リンツは彼女に再会できる日を心待ちにするしかできなかった。
彼女を「ジーク」と呼び捨てた件に関しては、二ヶ月間生活費が止められるだけで済んだ ―― 二ヶ月後、リンツに会った彼女は、随分と彼が痩せているのが気になり、理由を尋ねた。
彼から返ってきた返事は、
「オラニエンブルク大公妃のことが心配で、食事が喉を通りませんでした」
嘘はつかなかった。真実も言ってはいないが。
彼女はその返事を聞き、自分はもう回復しているので、気にせず食事を取るよう言いつけ ―― 生活費の凍結は解除された。