黒絹の皇妃   作:朱緒

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第217話

 彼女のため息で統帥本部総長就任を拒み、彼女の一言で統帥本部総長就任を受けた上官。そんな上官が辞任届けを出すとなれば、理由はただ一つ ――

 

「ザンデルス中佐」

「なんだ?」

 

 急いで彼女の元へと向かおうとしたザンデルスの元に、軍務省人事局からさらなる報告が届く。

 

「アントン・フェルナー中将の退役届が」

 

 フェルナーは便宜上、ファーレンハイトの元帥府に所属しているので、本来ならば元帥府を通して軍務省の人事局に退役届を上げなくてはならないのだが ―― 直接提出したのだ。届を受け取った職員が、上司に報告し、フェルナーの直属の上司であるファーレンハイトに連絡を……所属が一本化されていない、帝国らしい状況。

 

 だがファーレンハイトは外出中、それも「ジークリンデさまのこと以外、取り次ぐな」と厳命されているため、残っていた副官のザンデルスに届いたのだ。

 

 聞けばあの人を食ったとしか表現のしようのない腹立たしい笑顔(彼女は見たことがない)で人事局に退役届を提出。

 その時の台詞が「小官ほどの才能があれば、軍を辞めても食うには困らない」と ―― その状況を見てもいないのに、脳裏にありありと描けてしまったザンデルス。

 

「差し止めろ!」

 

 中佐が中将の退役届を止めろと命じる、なんとも異様な光景。

 取り急ぎ元帥府を出ようとしたザンデルスに、再度シュナイダーから連絡が入る。

 

「なんだよ! シュナイダー」

『大公妃殿下が流産なさったとは本当か?』

 

 彼女の体に関する事情を知っているザンデルスは、その質問を聞いて、

 

「はあ? ……ああ、でもなんか分かったような気がする」

 

 大雑把ながら状況を理解した。ちなみに彼の上官の不在理由は、ベーネミュンデ公爵夫人からの呼び出し ―― 呼びだされた理由を上官は語らなかったが、流産に関して呼びだされたのであれば、副官を伴わずに訪問している理由も分かるというもの。

 

『それが本当だとしたら退任なさりたい気持ちも分かるが、あえて留任の説得を頼みたい』

 

 彼女のことを支えたいのだろうと ―― 本来支えるべき夫からは、退任届は出ていない。当たり前と言えば当たり前だが。

 

「分かっている」

 

 ただラインハルトも心配はしており、現在彼女の邸に、件の薔薇の花束を持って見舞い中。そしてベッドの上で抱きしめ中。

 ザンデルスが彼女の邸に到着したころにはラインハルトは元帥府へと向かっており、薔薇の香りが充満している寝室で、休んでいた彼女にどうにか面会することができた。

 事情を聞いた彼女は、二人の取った行動が、キスリングに対して自分が放った言葉が原因だとすぐに気付いたが、続くザンデルスの「提督はベーネミュンデ公爵夫人に……」と聞き、最早訂正のしようがないことに愕然とする。

 だが愕然としていてもどうしようもないと、考えを改めて ―― 

 

「退役届と退任届ですか……私の体調不備が原因ね。二人は必ず説得するので、軍務尚書に伝えて……待って、手紙をしたためます。それを届けてちょうだい」

 

 ザンデルスは二人の保留確定を勝ち取った。

 まだ彼女は説得していないが、彼女が望めば、彼の上官と、上官の部下というか同士というか、等しく彼女の僕であるフェルナーは、その意向に必ず添うことを、ザンデルスは知っている。

 彼自身、彼女の意向に背くような行為はしようとは決して思わず、添うことに無上の喜びを感じるので。

 

―― いや、確かに側にいてくれると嬉しいですよ。それはもう、お願いしたいくらいに嬉しいのですが……帝国には、有能な人を遊ばせておく余裕はないのよ。私が尚書を三つも兼任しなくてはならないほど、人材枯渇している社会で、それは許されないわー。出てこい人材……とはいっても、主要面子すら覚えていない私には……

 

 彼女の説得で、二人とも退役届を引っ込め、退任届を下げた。前者フェルナーは直属の上司がファーレンハイトなので、特に問題はなかったが、

 

「流産なさった大公妃殿下に、あまり気苦労をかけるな。むろん、お側にいたいという気持ちも分かるが」

「反省しております」

 

 ファーレンハイトはメルカッツに前置きされつつ、注意された。これで騒ぎは収まったものの、ファーレンハイトとフェルナーの行動が最後の一押しとなり、彼女は完全に流産し、悲しみにくれている大公妃になってしまった。

 

「二度と、あんなことしません」

 

 彼女は遠い目をした ―― 自分の軽率な行動により起こった、数々の出来事を前にして。

 

**********

 

 時間は少々遡り ――

 

「おつとめが終わる時に、ご慈悲をいただけるよう祈ってあげるって、皆さんに言われました」

 

 演習を終えたキスリングの元へ向かった彼女、それに同行していた従卒エミール。

 彼がオーディンに帰還し、キャゼルヌ家の団らんに、ファーレンハイトの従卒と共に混じり、夕食を取っている際に「どんなことがあった?」と聞かれ、色々と答えた中の一つが上記である。

 

 キスリングを慰労するために多種多様な菓子を持って施設に向かった彼女。そこに思いの外、大勢の女性がいたので(十割娼婦)持参した菓子を配るようエミールに命じた。彼女からの命令を喜んで実行しているエミールに、世の酸いも甘いも噛み分けている女性たちが興味を持った。

 いままで接したことのない、化粧が濃く胸元が大きく開き、丈の短いドレスを着用している女性たちに、顔を近づけられ話し掛けられて、エーミルは赤面するも、育ちの良さを遺憾なく発揮し、一つ一つ誠実に答える。

 

「はい。エミール・フォン・ゼッレと申します」(名前は? と、彼の母親と同年代のブルネットの女性に聞かれて)

 

「はい。幼年学校に在籍している四年生です」(学生さんなの? と、彼女と同年代の金髪の女性に聞かれて)

 

「はい。十四歳です」(幾つなの? と、これまた彼の母親と同年代の栗毛の女性に聞かれて)

 

「はい。二等上等兵です」(階級は? と、彼の母親よりも年上ながら、室内でもっとも美しかった女性に聞かれて)

 

「はい。将来は軍人ではなく、医師を目指しております」(将来はなんになるの? と、彼女よりも若くエミールよりも年上の女性に聞かれて)

 

 そのあまりの誠実さに、世に言うお姉さま方は楽しくなってきて、そして ――

 

「好きな子はいるの?」

 

 よくある質問の一つだが、しっかりと答えていたエミールの顔はすぐさま赤くなり、少し時間をおいてから、先ほどまでとは打って変わり、声は小さめ、そして早口、だが幸せそうに、

 

「います。黒髪で年上の女性です」

 

 その態度に、お姉さま方どころか、軍人の皆さんも、エミールの思い人が誰であるのか正確に当てた。

 ”大公妃殿下か……可哀想に”

 普通の女性に恋をしているのならからかうところだが、彼女ではからかうわけにもいかず ―― むしろこの見るからに女性経験のない若者が不憫だなと。

 

「おつとめが終わる時、ご慈悲がいただけるよう、祈ってあげるわ」

 

 そう口々に言われた ―― のだ。

 

 話し終え ”ご慈悲って、なんだろうな” ”なんでももらえたら嬉しいよ” ”なにかもらえるの? エミールお兄ちゃん” ”おつとめってなに? エミールお兄ちゃん”と、言い合っている子供らを前にして、キャゼルヌは無言でいるしかなかった。

 

「……」

 

 女性たちがエミールに語った”ご慈悲”とは、彼女に女を教えてもらうということ。

 何も知らない若い少年に、教えるのを趣味とする女性がいるのも確かだが、彼女にはそんな趣味はない。

 

「オラニエンブルク殿下に、その話はしたの?」

 

 キャゼルヌ夫人が、デザートを並べながら、エミールに尋ねると「はい!」と ―― 元気のよい返事が返ってきた。

 ”ありがとうございます”と言いデザートを受け取ったエミールは、帰りの船内で、どんな会話をしたのか聞かれ、包み隠さず語ったと笑顔で答えた。

 それを聞いたキャゼルヌは、実際にそうなったわけではないが、軽い目眩を覚えた。”あいつらの前で、それを言ったのか”と。

 極刑を良く免れたな……と口の中で呟いたキャゼルヌだが、なんとなく刑を回避できた理由に思い当たり ―― 軽い目眩に続き、軽い頭痛も覚えた。

 キャゼルヌのその予想は当たっていた。エミールから話を聞いた彼女は、当然のことながら”自分が与えるご慈悲”とはなんなのか? 皆目見当が付かず、更にエミールが語った女性が誰なのか? にも”心当たりなし”という始末。

 

「ゼッレの初恋にして今の思い人って、誰なのかしらね。貴方たち、心当たりある?」

 

 戦艦の私室に戻ってから、彼女は純真極まりない笑顔でフェルナーやファーレンハイト、キスリングに本気で尋ねた。彼らは笑って誤魔化し、そしてまったく相手にされていないエミールに、彼ららしからぬ僅かな憐憫を持ち許した。

 

 従卒任務終了後の”ご慈悲”に関して、彼らは説明するつもりは一切ない。

 もっとも説明されたところで彼女は「そういうのは、大事な人とにしなさい」と、エミールに立ち直ることができない、致命傷を与えるであろう一言と共に拒否するのも明白。そういう意味では、彼らはここでも、らしからぬ優しさを見せていた。

 

―― 初めての男は、ラインハルトだけで充分です

 

 彼女の偽らざる気持ちでもある。

 

**********

 

―― 転んでもただでは起きません! ……大惨事になっていますが、この状況を上手く使って……使わないと、私の心が立ち直れない

 

 早期流産した悲しみを抱えつつ、仕事に復帰した大公妃殿下 ―― 現在彼女が置かれている状況である。

 多くの人が彼女の身を案じ、励ましの声をかけてくれた。

 それが彼女の心に突き刺さり ―― かといって、最早「違うんです。椅子を振り回して腰を打っただけなんです」と言ったところで、誰が信用してくれようか? いや、誰も信用はしない状態。

 

―― しばらく引きこもって、誰にも会いたくありません

 

 そう呟きたかったものの、言ったが最後、本当に外に出られなくなりそうなので、その言葉も飲み込む。

 鬱々とした気持ちを抱えていた彼女の元に、降霊術の誘いがあった。

 流産した我が子と対面し、話せば楽になれると ―― 誘われたとき、流産していない上に、降霊術などまったく信用していない彼女は断るつもりだったのだが、誘った人から降霊方法を聞き、詐欺師の手法そのものそれに逆に興味を持ち、一度だけという条件で降霊術に望むことにした。

 

 もちろんフェルナーたちは難色を示したが、彼女が「からかうだけよ」と、まるっきり信じていないのを知り、それならばと……なったのだが、降霊術を行うネクロマンサーから「降霊中は、護衛の方は外で待機してください」と連絡が届き、彼女の身辺警護を担当している彼らから、参加させることはできないと言われた。

 

「霊の存在を信じている人物なら良いそうよ」

 

 彼女もキスリングやオーベルシュタインと引き離されてまで降霊術に参加するつもりはなかった ―― キスリングは護衛、オーベルシュタインは詐欺の証拠を掴むつもりで、冷静沈着で洞察力があり、生身の眼球に作用する薬物などに惑わされない義眼の持ち主なので伴う予定であった。

 護衛を遠ざけなくてはならないのであれば、辞退させていただくと彼女が伝えたところ、向こう側が譲歩の姿勢を見せた。

 

「私、かなり信じていますよ」

 

 フェルナーが笑いながら彼女に言うも、誰がどう見ても信じていない。

 

「もう、嘘ばっかり」

「ジークリンデさまが、降霊術に参加する条件とあらば、信じてみせますとも」

「私のために信じてくれるのは……でも相手は、きっとこちらの事、調べているわよね」

「そうでしょうね」

 

 偽物の降霊術師や占い師などは、事前調査が必要。彼女の周囲にいる護衛を務めることができる軍人は、大小なりともその人となりを調べられている ―― 信じていると言い彼女に付き従ったところで、途中で部屋から出されてしまうのがオチ。本物であれば尚のこと。

 

―― 護衛ができて、短期間で身辺調査ができず、洞察力があり、できれば…………秩序!

 

 彼女は一人の人物に思い当たった。その人物は白兵戦に強く、生まれは同盟なので、調査には帝国人よりも時間がかかる。絵を描くので、ある程度の洞察力も備わっている……に違いない。

 

「小官……ですか?」

「そうよ」

 

 彼女が降霊術会の護衛と調査を任せようとした人物とは、カスパー・リンツ。

 

「拒否権は?」

「あると思っているの逆臣。あったとして、使うつもりなの? 忘恩の徒」

「いいえ」

 

 次のローゼンリッター隊長予定であったリンツを、連れてゆくことにした。

 むろん彼女の正式な護衛たちは難色を示したが、シェーンコップを人質に取ることで行動を制御することが可能ということで、納得させた。

 部屋の前まで付き従うキスリングと、降霊会を行う室内まで付いて行くリンツということで、なんとか参加体勢が整った。

 

「オラニエンブルク大公妃」

「なに?」

「一つお聞きしたいのですが、なぜ小官が絵を描くことをご存じなのでしょう?」

 

 キスリングたちも、それは気になっていた。

 リンツが絵を描いていることは、日常生活を監視している彼らは知ってるのだが、そのことを彼女に報告した者はいない ―― だが彼女は知っていた。

 

―― ……クロスワードの時も失敗したとは思いましたが……聞かないで!

 

 彼女はイワン・コーネフにクロスワードパズルを与えるよう指示し、与えられた方は「なんで俺の趣味をご存じなのだ」と驚いた。与えた帝国側も、まさか趣味だとは思っておらず、イワン・コーネフ以上に驚いた。ちなみに与えられたクロスワードは帝国のものなので、単語は全て帝国語。後日イワン・コーネフは辞書を希望し、それを引きながらちまちまとマスを埋めている。

 

「私がいつ質問してもいいと言った? 叛徒」

 

 聞かれた彼女は、答えられないので、帝国皇族らしく質問を拒絶する。

 

「失礼いたしました」

 

 リンツはその態度に腹を立てることもなく詫び、命令に従うことを約束した。そんな彼を伴い降霊会が行われる邸へと赴いた彼女は ――

 

「しっかりしてください、オラニエンブルク……しっかりしろ、ジーク!」

 

―― 意識はしっかりしているわよ、リンツ。ちょっと足下はふらつくだけで、血のせいで話しづらい……

 

 足を踏み入れてすぐに、血を吐きながらリンツの腕に抱かれるはめになった。


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