黒絹の皇妃   作:朱緒

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第210話

 彼女は雷が苦手である。

 特にオーディンの雷は音が大きく、規模も大きく、無意味だと分かっていても、机の下に隠れたい衝動に駆られ、実際に行動にも移す。

 

 リンダウ夫妻が帰国した日、風呂に入り髪を乾かし、桜色のシフォンのネグリジェを着て、窓の外へと視線を向ける。まだカーテンが引かれていない大きな窓から望める庭の樹木。

 それらの枝が大きく揺れ、嵐がやって来ていることを伝える。

 

―― 寝ているのを起こされるのは最悪。……まあ、起きていると寝られなくなるのですが

 

 ヘッドフォンやアイマスクなどを装着しても、音と光が分からないだけで、肌を突き刺すような振動は防ぐことはできない。

 早く雷を伴う嵐が過ぎ去ることを願いつつ、カモミールティーを飲んでいると、避けられない稲光が部屋を照らす。

 それを合図に光りと音が交互に降り注ぎ出した。

 彼女のカップを持つ手が、光る度に止まり、轟音が響く度に震える。

 光はカーテンを閉めればやり過ごせるが、音はそうもいかない。

 

「怖いわけではないのよ。音が大きいのが苦手なのよ」

 

 彼女は強がってみせるものの、まったく無意味な強がりであった。

 

「はい」

 

 キスリングは雷がなり出した際には、胸を貸し、場合によっては添い寝するように厳命されているので、それに従い、

 

「……どういたしますか?」

 

 ”抱きついてもいいですよ”と、声をかけた。

 

「キスリングがいいのなら」

 

 彼女はすぐに隣に座ってと、キスリングの裾の長い上着を引っ張る。

 その間にも轟音は鳴り響き、彼女は悲鳴こそ上げなかったが、怖くて仕方ないのだろうとすぐに分かる態度で、腰を下ろしたキスリングに抱きついた。

 ”震えてるな”

 二十過ぎて雷が怖いとはなかなか言えず、だが震えるほど怖い。

 

「でも、一緒にいると、平気なの……」

 

 キスリングの胸に額を押しつけ、しばらくすると、震えは収まった。

 胸を貸せと命じられ、実際貸している状態のキスリングは、安心させるために彼女の肩に手を置き、解かれている髪をそっと撫でる。

 ソファーに腰を下ろししっかりと座ったまま抱き合っている体勢は辛いだろうと、キスリングは姿勢を崩し、彼女が寄りかかれるようにする。

 

「ジークリンデさま。よろしかったら、教えていただきたいのですが……」

 

 何故胸を貸し、添い寝までするように命じられたのか? 指示されたのは、つい先ほどで、詳しい理由を聞く余裕がなかったこともあるが、ここは無駄な会話でもして、少しでも気分転換ができたらと ―― 聞かれた彼女は、一瞬肩を”びくっ”とさせてから、顔を上げる。

 

「嫁いだばかりのころ……今日のような天気で、レオンハルトが大学で実験が長引き、帰ってこられなくなって、一人きりで過ごすことになったんですけれど……きゃっ!」

 

 話している最中に、雷が落ちた音が轟き、彼女は両手で耳を塞ぐ。

 

「……音が嫌いなだけですから。それで……この邸の地下の金庫なら、音は聞こえない筈だと考えて、忍び込んで……あとは言わなくても分かるでしょう」

 

 ”地下金庫……なるほどなあ。俺もジークリンデさまの年の頃なら、知らないでそういうことになるかもな”

 なぜ全員に、雷が鳴ったら彼女から離れないように厳命されたのかを理解したキスリングは、ご安心下さいという思いを込めて背中を軽くさする。

 

「なるほど。雷に対して私は無力ですが、こうしてお側にいることはできます」

「ありがとう。ねえ、キスリング。贅沢言っても良いかしら」

「なんでしょう」

「制服少し硬いから、脱いでもらえると嬉しい」

 

 ”悪魔だ、悪魔がいる。もちろんご命令には従います”

 厚みのある軍服を脱ぎ、薄手のシャツ姿になり、

 

「これは、触り心地いいのよね」

「それは……よろしゅうございます」

 

 雷が遠ざかり彼女が眠りに落ちるのを、ひたすら待った。

 その後、嵐は遠ざかり、彼女は上着をかけられ、キスリングの体の上に乗った形で眠りに落ちる。

 タイミングを見計らい、彼女をベッドへと連れて行き寝かせ、寝室隣の部屋へと戻り ――

 

「……とお聞きしたのですが、色々抜けてますよね」

 

 彼女の様子を見にやってきた、フェルナーとファーレンハイトを捕まえてキスリングは、本当のことを教えろと詰め寄った。

 

 

―― この邸の地下の金庫なら、音は聞こえない筈だと考えて、忍び込んで……あとは言わなくても分かるでしょう ――

 

 

 男爵夫人が寝室を抜け出して地下金庫に潜り込むなど、普通に考えればあり得ない。そして彼女は、自分の失態は包み隠さず語るが、部下の失態は決して語らない。

 嫁いですぐと言えば、ファーレンハイトが警護していた頃。金庫に忍び込み、死にかけた原因の一端は、彼にあるのはキスリングにも推察できる。

 

「そうだな」

 

 マントを脱いでソファーに座り、当時のことを思い出し、自分の不甲斐なさを思い出し、片手を額に乗せてやや俯き加減になるファーレンハイト。

 

「怖いから一緒に居てと言われたのに、断って寝室から出ていった冷酷非情な警護がいたそうで」

 

 事情を知っているフェルナーは、肩をすくめて首を振る。

 

「本当に冷酷非道だな」

「あんただろ。雷が怖くて仕方なかったジークリンデさまは、一人寝室に取り残され、机もないので隠れる場所もなく、ブランケットを被って泣きながら地下金庫へ。ブラウンシュヴァイク公は結婚祝いにと、この邸の地下金庫を解錠できるようジークリンデさまを登録していたので、簡単に中へ入ることができて大騒ぎ」

 

 金庫内部の酸素は少なく設定されている。

 扉を開く手続きを取ると、必要な酸素が供給され ―― 金庫で物を出し入れする際、扉は開けたままで行われ、扉が閉められると酸素が減ってゆき、人間が即座に意識を失うような濃度にまで落ちる。

 そんなことを知らなかった彼女は、金庫内部に入り込み扉を閉める ―― 扉を閉じないのが一般的だが、間違って閉じ込められた場合、金庫内部から開閉できる機能は付いている。

 酸素が薄くなるなど知らなかった彼女は、雷の音が聞こえなくなったことに安堵し、金庫の隅でブランケットに包まり目を閉じて ―― 翌日、医師に囲まれた状態で目を覚ました。

 

「まさか、あんな行動に出るとは思わなかった」

 

 彼女がこんな行動に出るなどとは、護衛になったばかりのファーレンハイトは予想もできなかった。

 

「間抜けな警護ですよね。主が寝室から抜け出して、地下金庫に走ったことに気付いていなかったんですから」

 

 その頃彼女は、赤孔雀邸ではなく、当時のブラウンシュヴァイク邸 ―― 現在彼女が住んでいるこの邸でも寝泊まりしていた。

 夜遅くまで学業があったり、付き合いのあるフレーゲル男爵と、まだ子供な彼女。この当時、フレーゲル男爵は彼女のことを、七、八歳の子供ではないかと疑っていたことや、ファーレンハイトも特に信頼されていなかったので、一人で留守番させるのは心配だったため、男爵の帰宅が遅くなる際には、ブラウンシュヴァイク邸に厄介になっていた。

 

「それに関しては、なにも言わん」

 

 また部屋の配置なのだが、フレーゲル男爵が妻の身の安全を考えて、通路に重厚な扉がある部屋を希望し、その希望に合うのが、地下金庫にもっとも近い部屋で、彼女が休んだ後は、通路に通じる扉を閉じるようにしていた。

 

「それで、どうしてジークリンデさまを見逃したんですか?」

 

 もちろんファーレンハイトは扉を閉じて、彼女の寝室の扉が見える位置に待機していたのだが ―― その日、通信が入った。

 

「ブラウンシュヴァイク公夫妻の一人娘、エリザベートさまは、ジークリンデさまと違って雷が大好きでな。雷がよく見える場所を求めて寝室から抜け出していた。それに気付いた警備に捜すのを手伝ってくれと頼まれてな。ジークリンデさまは、怖がっているから部屋から出ないだろうし、ブラウンシュヴァイクの姫を捜すのを手伝ったほうがいいだろうと考えた結果、危うく自殺させてしまうところだった」

 

 怖くて駄目ですファーレンハイト……と寝室から出てきた彼女は、廊下に誰もいないことを知り、室内を暴力的に照らす閃光と、肌に突き刺さるような轟音から逃れるために地下金庫へと走ったのだ。

 

「そこまで怖がるのには、なにか理由があるのでは? 催眠療法などで探ってみては?」

「泣いて全身で拒否された」

「そんなことをされるくらいなら、死ぬと大騒ぎだった」

 

 病的に近いほど怖がっている。彼らの共通の認識で、この苦痛を排除するために、過去の封じられた記憶を探る治療はどうだと提案したのだが、様々な記憶を抱えている彼女は、それを断固拒否した。

 この世界のことを知っているのもそうだが、とどろく雷鳴を恐怖する理由 ―― 彼女自身は覚えていないことでありながら、覚えていること。その閃光は彼女が死ぬ直前に見た光景に酷似していた。

 

**********

 

―― 昨日の嵐は最悪でしたが……キスリング、ありがとう。褒美はなにが良いかしら? キスリングは要らないとは言っていますけれど、抱きしめていてもらったのですから、褒美の一つも渡さないと

 

 明らかに”それ”自体、褒美なのだが、彼女はそうは捉えないので ―― 部下があまり褒美を欲しがらなくて困るわーと呟くことになる。

 

「大公妃殿下。ノイエ=シュタウフェン公爵夫人からお手紙です」

 

 国務尚書として仕事をしていた彼女の元に、カタリナから手紙が届いた。

 エミールが差し出したそれを彼女は手に取り、すぐにペーパーナイフで封を開ける。届けたエミールは「午前中、新無憂宮でお会いしていたのに」と、少々不思議には思ったが、大貴族のお付き合いとはそのようなものなのだろうと、すぐに考えを改めた。

 手紙を読んだ彼女は、その内容に、どのように対処すべきかを考えていると、オーベルシュタインが来客を告げた。

 

「ジークリンデさま、ボルテック駐在弁務官ですが」

「ああ、もうそんな時間でしたか。通してもいいわよ、オーベルシュタイン」

 

 彼女は手紙を折り、封筒に戻して文鎮を乗せ、やって来たボルテックに視線を向ける。ボルテックは少々度が過ぎるのではないかと言いたくなるほど、恭しく彼女に挨拶をする。対する彼女は素っ気なくその挨拶を流し、訪問理由を尋ねた。

 

「できれば人払いをお願いしたいのですが」

 

 するとボルテックは、二人きりで話しをしたいと言い出す。執務室にはオーベルシュタインとエミールとキスリング。護衛まで下げろといっているのか、オーベルシュタインだけ下げろと言っているのか、彼女には判断が付かなかった。

 

「人払い……か」

 

―― ルビンスキーの使い走りといっても、あのルビンスキーの使い走りですからね。私とは頭の出来が違うでしょうし、ルビンスキーを売るくらいの度胸はある人ですから

 

 自分の能力をさほど高く見ていない彼女は、ボルテック相手でも警戒の度合いを下げることはない。

 

―― 二人きりで話すと言っても、キスリングは部屋に残すわけですか…………雷の後にボルテック? あれ……

 

 記憶が怪しい彼女ではあったが、昨晩の雷とボルテックが脳内で結びつき「同盟への侵略、帝国統一についてのお手伝い」などという話しになることに気付いた。

 

―― 陛下は誘拐されていませんし、陛下の誘拐を見過ごすつもりはありません。……話さないほうが得策ね

 

 自分の直感も記憶もさほど信じていない彼女だが、たまには信じてみようと ―― 万が一のことを考えて、ボルテックと話さないことに決めた。下手に話して丸め込まれて大侵攻と、自治領主の地位を与えると確約してしまっては元も子もない。

 

「ボルテック」

「はっ」

「我が忠実なる家臣を下げるほどの価値がある情報なのか? その価値がないものであれば、どうなるかは分かっているな」

 

―― なにも、するつもりはありませんけれどね

 

 ボルテックは彼女のはっきりとした口調に、やや呑まれた。

 

「大公妃殿下にとって、忠臣を下げるに値する情報とは、どのようなものでしょうか」

「シリウス戦役の際に行方不明になった資金のありか。レオポルド・ラープの資金源。どうだ? お前がいま私に語ろうとしている情報は、これ以上か?」

 

 地球教に触れそうな内容だが、ボルテックは地球教については詳しくなかったことだけは覚えていたので、彼女の知識ぎりぎりのところで揺さぶる。

 実際ボルテックは、いきなりフェザーン建国についての秘密を知っていると言われて、驚き瞬きの回数が増えた。

 

「ユリウス一世の死後、曾孫のカールではなくブローネのジギスムントが継いだ真なる理由か? ああ、これはフェザーンはまだ胎児にもなっておらんなんだな。ワレンコフの死の真相程度ならば要らぬぞ」

 

 四代目自治領主ワレンコフのことは覚えていたが、ブローネ侯爵ジギスムント、後のジギスムント二世については、先日宮内尚書として、機密文書に目を通した際に、徐々に記憶が蘇ってきた。

 それに関しても惜しみなく、知られたところで”どう”ということはないので、知りたかったら教えるぞとばかりに語る。

 

―― あともう少しで、引き下がってくれそう……よし、嘘をつきましょう!

 

 後一押しという手応えを感じた彼女は、自信満々に言い放つ。

 

「それともあのルドルフか? あのルドルフのことについてか? それならば、人払いせねばなるまい。我が忠実なる家臣たちの身を守るために。お前の身を守るためにもな。それで、これらに匹敵する情報か? ボルテック。私の部下を遠ざけるということは、そういうことぞ」

 

―― 別にルドルフ大帝のことではありませんよ。彼のことは知りませんので、うん。ルドルフで、仰々しいことを言えば、勝手に大帝と勘違いしてくれることでしょう

 

 彼女の予想は的中し、ボルテックは自分の情報は、それに匹敵するものではないと認めて謝罪をする。

 

「そうか。興ざめとは言わぬが、その域に到達していないのであれば、私が聞く必要はない。オーベルシュタイン、聞いてやりなさい。下がっていいぞ、ボルテック。そうだ、ボルテック、世間話をする時間くらいは作ってやろう。まめに私の元へと足を運ぶがよい」

「大公妃殿下のご慈悲に、このボルテック、言葉もございません」

 

 こうして彼女はボルテックからの情報は聞かず ―― ボルテックが持ってきた情報とは、彼女の領地で起きた感染症。その兵器化された菌は、同盟から持ち込まれたという証拠を携えていた。

 彼女の予想通り、これを理由に同盟に宣戦布告をしてはどうかというもの。

 情報は軍務省へと届いたが、軍部は当然ながら、フェザーンに乗せられるのは良しとはしなかった。開戦派は一人もいなかったのである。

 

 だが同盟には、開戦派を彼女が押しとどめたと ―― これは嘘であり、事実でもあった。

 

「ゼッレ。手紙を書きますので、用意を」

 

 ボルテックが下がり、オーベルシュタインが退出した後、彼女はカタリナへと手紙をしたためる。先ほどカタリナから届いた手紙と、彼女がカタリナに書いた手紙が、開戦に関係してくる。

 

「はい、大公妃殿下」

 

 エミールは彼女の前へ、便箋や万年筆を置き、蝋封の用意をする。

 

「ところでゼッレ」

 

 万年筆を手に取った彼女は、注意を促した。

 

「はい」

「先ほどの私の話ですが」

「誰にも言いません!」

「それは疑っていませんよ。ただ、あなたも忘れなさい。覚えていても良いことは、何一つありません」

 

 口から出任せを言っていたので、記憶から消してもらわねば困ると、それらしい台詞で誤魔化した。

 

「御意にございます!」

 

―― 可愛いものです。私もこの位の時は、こんなに可愛かった……かどうか……

 

 その後彼女はエミールに、手紙をカタリナの元へ届けるよう命じた。

 

―― ファーレンハイトは命じればやってくれますが、地位が地位なだけにちょっと洒落になりません。ロイエンタールですと尚書という身分が公人として問題なりそうですし、ラングが足を引っ張り兼ねません。でもこれをすると、謹慎処分ですよね……カタリナにビッテンフェルトを説得してもらうことになりますが、彼の経歴に傷が

 

 彼女とカタリナは、ある情報を手に入れており、それを確認するために、開戦を声高に叫ぶ軍人が、先走って艦隊を動かすという状況へと持って行く必要があった。

 


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