黒絹の皇妃   作:朱緒

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第21話

 ラインハルトに思うことは色々とあれども、全面的に協力したくなるときもある。

 

「双璧さんの片割れが言ってたもんな……宮廷というのは、醜聞を好むって。不名誉な噂ほど……どうしよう」

 

 ラインハルトは元帥の地位につき、エッシェンバッハ伯爵位を授与された。

 ”エッシェンバッハ伯とか慣れない”と彼女は思ったが、エッシェンバッハ伯爵位はローエングラム伯爵位と共にラインハルトに授けられる爵位の候補の一つであった。

 

 先に彼女がローエングラム伯爵夫人の位を賜ったので、ラインハルトにはそれ以外のものが下賜されたということだ ―― 彼女はもちろん記憶になどない。

 

 さて、元々敵が多いラインハルト。伯爵位を授かったことで、貴族たちの怒りが爆発した。

 その爆発は陰湿であり、致命傷ともなり得るもの。さすが長きにわたり新憂無宮にはびこっていただけのことはある。

「グリューネワルト伯爵夫人のお耳に入らないように……でも……」

―― でも耳に入れて、皇帝に取りなして貰わないと厄介というか。どうする?

 

「悪趣味な噂ですね、大伯父上」

 悩んだ結果、既に噂を聞いているであろうリヒテンラーデ侯の元を訪れ”どうしましょうか?”と尋ねることにした。

 これらのことに関して、リヒテンラーデ侯の右に出る者はいない。

 彼女がもたらした情報は、老獪なる政治家も聞いていた。

「お前もそう思うか、ジークリンデ」

「はい。ミューゼ……エッシェンバッハ伯はそのような趣味ではないと思います」

「同感だ。だが、それが真実であろうが、なかろうがどうでも良いのが宮廷だ」

「分かってはおりますが」

 ジークリンデや国務尚書の耳に入った噂とは、ラインハルトが同性愛者であるというもの。お相手は言わずもがなキルヒアイスである。

 元帥となり伯爵ともなったラインハルトは、下宿先を引き払い、伯爵に相応しい家とは言えないが、一軒家に引っ越した ―― キルヒアイスと共に。他人が私生活に踏み込んで来ることを嫌うラインハルトの希望で、キルヒアイスだけを連れて。

 職場でも自宅でも、四六時中一緒にいるキルヒアイスとラインハルト。両者とも美しく、とくに後者は稀代の美形。

 ラインハルトの栄達に怒りを感じた貴族たちは、もっとも不名誉で、帝国において致命傷となる噂を流し ――

「グリューネワルト伯爵夫人のお耳に入れるべきでしょうか?」

「……入れるべきであろうな。私のほうから説明しよう」

「良いのですか?」

「お前はこれらの下らぬ噂には一切付き合うな」

「付き合えと言われてもお断りします」

「そう言ってられぬかも知れぬがな」

「?」

 ついにアンネローゼの耳に届くことになる。

 普段はけっして何も望まない、己のお願いの怖ろしさを知っているアンネローゼだが、弟とキルヒアイスの噂に心を痛めると同時に、皇帝に「そんなことはない」と涙ながらに訴えた。

 こればかりは訴えねば弟とキルヒアイスの前途はない。

 アンネローゼの訴えは皇帝に届いたので、ラインハルトたちが罰せられることはないが、この噂をどうにかせねば ―― 悪意に満ち、引きずり落とすことを目的としたこの噂は、七十五日で終息するような類のものではなかった。

 

 その噂を終息させたのは、皇帝のお声掛かりによるラインハルトの結婚。その相手こそ ――

 

**********

 

「フレーゲル男爵夫人ジークリンデか」

 変わった部屋があるとの報告を受けた魔術師が足を運んだ先にあったものは、黒地に金獅子を刺繍した旗とグランドピアノ。

 手入れされていたらしいラベンダー。

 前線基地に相応しくないドレスと宝飾品の数々。そして ―― 彼女の写真。

「本当にこんな人間がいるのでしょうかね。美し過ぎると言いますか」

「これがいるんだよ。シトレ元帥の親戚がフェザーンで拝見したそうだ」

「それはそれは、随分と変わったところに足を運ぶ御方ですな」

「そうだね。隣席だったけれども、嫌がるような素振りもなく……サプライズにも参加してくださったとか」

「帝国有数の貴族とは思えませんな。彼らは白人しかいない保養地で休暇を過ごすものだとばかり。人種が雑多に入り交じった都市部を嫌うのが普通だと……祖父母が言っておりました。亡命した当初、祖父母は雑多な人種に困惑していた記憶があります」

 

**********

 

 ラインハルトの騒動が終息しないまま、イゼルローン要塞が落とされた。

 

 帝国を騒然とさせたその報告を聞き、敵にヤン・ウェンリーがいることを確信したジークリンデだが、それ以上はどうすることもできなかった。

 彼女は帝国で唯一の佐官位を持つ女性だが、それは遊びのようなものであり、また彼女自身前線に出て出世しようなどとは思ってもいない。

 ラインハルトの栄達を阻むのは彼女の本意ではないし、なにより作戦などほとんど覚えていない。覚えていたのはヤン・ウェンリーがローゼンリッターを使いイゼルローン要塞を落とすくらい ―― それは既に終わってしまったので、もはや無用の知識である。

 

 ただイゼルローン要塞が陥落したということは、オーベルシュタインが逃げて罪に問われ、自身を助けるべくラインハルトの所に駆け込む ―― 分かってはいるのだが、彼女はこれを阻止する方法はない……はずであった。

 

―― お返しするために帰ってきた ――

 

「軍法会議所ですか? かしこまりました」

 現在責任の所在について、罪のなすりつけ合いが続いている軍法会議所。

 彼女が呼ばれるような場所ではないのだが、リヒテンラーデ侯に呼ばれたからには、足を運ばなくてはならない。

 キスリングに地上車を運転させ、新無憂宮からほど近い、軍務省の一画にある軍法会議所へと急いだ。指定された八番会議室でリヒテンラーデ侯と軍務尚書が、完璧なまでの「難しい顔」で彼女を待っていた。

「大伯父上。参りました。軍務尚書閣下も、お久しぶりにございます」

「来たか、ジークリンデ」

 部屋には同じく呼び出されたファーレンハイトとフェルナーも控えていた。

「何ごとですか?」

「お前にどうしても会いたいという男がおってな。会ってやってくれぬか?」

「大伯父上さまが珍しいですね」

 リヒテンラーデ侯が彼女を呼び出してまで、男に会えというのは珍しい。前回はフレーゲル男爵との結婚。

「まあな」

「もしかして、私の再婚相手……」

 色事に興味のないリヒテンラーデ侯ならば、再婚ということでこのような場所を選ぶことも……彼女の考えをすぐに感じ取った痩せぎすな侯は首を振る。

「さすがの私でも、見合い場所に軍法会議所を選んだりはしないわい。連れてこい」

「かしこまりました」

 ファーレンハイトが連れてきたのは、背が高く痩せて血色が悪く、だが貴族の雰囲気を漂わせている ―― ファーレンハイトに対する表現がそのままそっくり当てはまるのだが、全く種類の違う容姿の大佐。手錠で拘束されており、罪に問われているのが一目で分かる状態。

「……」

「パウル・フォン・オーベルシュタインという男だ」

 状況が良く解らない彼女だが、目の前にいる男の見た目といい、名前といい、軍法会議にかけられている時期といい、あのオーベルシュタインに間違いはないと判断し ――

「パウル・フォン・オーベルシュタイン」

 悪魔を従わせる呪文と噂される、美しい声でその名を呼ぶ。

 名を呼ばれたオーベルシュタインは彼女がいままで見たこともないほどに平伏 ―― 土下座と表現するしかない程に平伏し、

「思い残すことはございません。極刑なり、なんなり」

 あっさりと全てを受け入れた。

 一人話が分からない彼女はリヒテンラーデ侯と、軍務尚書を交互に見て事情説明を無言で求める。

「ジークリンデ。この男、お前に預けたいのだが」

「どういった経緯で?」

 いくら必要としていたとは言え、理由を聞かずに引き取れるような存在ではない。

 そもそも、この状況はなんなのか? と。

 事情を求めた彼女は軍務尚書から、なんとなく覚えていたオーベルシュタインの罪に関しての説明を聞き、そして――

「この男が逃亡した理由というのが」

「その義眼なのだ」

「義眼ですか?」

 手渡された書類にはオーベルシュタインが義眼使用者であることが記載されていた。

 なぜ義眼で命令違反をしたのか? 彼女にはさっぱり分からない。あまりに分からないので、オーベルシュタインを部下にするのは避けるべきなのだろうか? と、悩むほど。だが他者にとって、それは単純であった。

「その義眼の番号」

 義眼のシリアル番号を見るように言われて、彼女は目を通して、

「4670721……?」

 まったく分からないという気持ちを隠さず読み上げる。

 書類から目を上げると、ファーレンハイトやフェルナーが「まだ分かりませんか。分かりませんね。ジークリンデさまですものね」と……原作で盟主(ブラウンシュヴァイク公)に、ぬけぬけとお前じゃ勝てないから暗殺しよう! と進言したり、俺は貴様の部下じゃねえ! 立場は同格だ、ぼけ! 誰が貴様の無能策に従うか! こっちは専門だ!(要約)と怒鳴りつける男たちにしては穏やかだが、当人たちらしさが滲み出ていることも事実。

―― 数字はあまり得意じゃないから……

 書類を憂い顔で眺めている彼女に、やれやれと、リヒテンラーデ侯が頭を振って、わざと大きな溜息を吐き出す。

「お前は総じて聡いが、たまに考えられんほど鈍くなる。帝国歴467年7月21日、ジークリンデ皇后記念病院で生まれた伯爵令嬢」

「私のことですね……」

 リヒテンラーデ侯が語った通り、ジークリンデは帝国歴467年7月21日生まれ。

 彼女はあの有名なジークリンデ皇后没後六十周年に建てられた記念病院で生まれた。

 ジークリンデ皇后の夫はマクシミリアン・ヨーゼフ二世。視力を失いながらも帝国を治め、歴代ゴールデンバウム王朝において、もっとも優れていると言われた、晴眼帝とも呼ばれる皇帝。

 両親は娘に夫を支えるよき女性となるよう願いを込め、記念病院の名を拝借し、彼女にジークリンデと名付けた。

 

 こうして彼女はある意味、帝国でもっとも視力に関係が深い名を持ち生きることになる。

 

 彼女が物心つくか、つかぬかの頃、彼女の母親は早くに亡くなり ―― 大量のお悔やみの状の中に、ジークリンデ記念病院基金と書かれたものを発見した。

 自分の名と同じということで父に尋ねると、伯爵家は娘を無事に取り上げてくれたことに対しての感謝を込めて、病院のほうに毎年寄付していた。

 母親の死後も寄付は続き、そして彼女は結婚して家を出て男爵夫人となり、両親にならってどこぞに寄付でもしてみようか……と、アンスバッハに”どうかしら”と尋ねたところ、義眼の開発機関を提案された。

 ジークリンデという名を最大限に輝かせる寄付先であると ―― アンスバッハの意見に納得し、フレーゲル男爵の許可も取り、そして未だ見ぬオーベルシュタインの為にと、彼女は義眼開発関係機関に定期的にかなりの額を寄付し、その結果、帝国の義眼は随分と進化した。

 彼女は基本、貴婦人である姿勢を崩さず、人前にもあまり出ることはない。寄付とて夫との連名であったが、故人となったフレーゲル男爵は、この美しい妻を飾るのは、もはや栄誉しかのこっていない ―― という信念の持ち主であったので、事あるごとに、この寄付は自分ではなく、妻のものだと公言していた。

 寄付が彼女のものであることは、非常に有名であった ―― 彼女以外には。

 

 やや乱暴にファーレンハイトがオーベルシュタインを立たせ手錠を外す。進化した結果、彼女の前にいるオーベルシュタインの義眼に点滅はない。

 

「フレーゲル男爵夫人の誕生日番号が入った義眼です」

 そう言い取り外された義眼の側面には、小さく、だが確り4670721と刻まれていた

「……」

「あなたが私に与えてくださった義眼。この身は帝国のものであろうとも、この義眼だけは違う。あなたにお返しするために帰ってまいりました」

 抑揚のない声。動かないと錯覚させる表情 ――

 ラインハルトに興味を持っていないオーベルシュタインを突き動かした理由。

―― ほぼ初対面の相手にルドルフ云々いう理由よりは、よほどしっくり来るけれども、どうしたらいいの……理由があまりにもあまり。アルフレットさまなみに恥ずかしいポエムなオーベルシュタインとか、これが私の罪……かどうか、よく解らないけれど、早々に引き取らせてもらおう

「分かりました。大伯父上、この者を引き取ります」

「そうか。軍務尚書」

 軍務尚書は片眼鏡を取り外し、ポケットから取り出した布で軽く拭いてから、

「分かった、国務尚書。だがさすがに処分なしとはできぬゆえ、一階級降格とする」

 それだけ言い、片眼鏡を装着し、国務尚書と互いに挨拶を交わして去っていった。

 

 軍務尚書が去ってから、リヒテンラーデ侯はジークリンデに今回の事情の裏を説明した。

「その男の敵前逃亡とその理由、陛下のお耳に届いてしまってな。それで、陛下が”そこまで言うのであれば、ジークリンデに会わせてやれ。ジークリンデが許したらそのままくれてやるがいい”とおっしゃってだな」

―― 義眼の三十過ぎた男を陛下から下賜されるって……嬉しいには嬉しいですけどね。捜していたオーベルシュタインなので。……多分、義眼ですからゴールデンバウム王朝を恨んでいると看過してのことでしょうが

「陛下にお礼を申し上げる際、大伯父上も同行してくださいませぬか」

「むろんじゃ。……そうだお前と大将に、マリードルフ伯爵令嬢とマクシミリアンの結婚式の招待状が届いておる。取りに来るように」

「休暇申請のほど、よろしくお願いしますよ、大伯父上」

「分かった。それではな、ジークリンデ」

 

 こうしてリヒテンラーデ侯が去ったあと、軍法会議所の会議室に、

「本当によろしいのですか?」

 一階級降格された中佐のオーベルシュタインと、

「ええ」

「初めましてオーベルシュタインさん」

「……」

 フェルナーと、

「カストロプ公領までお供させていただきます」

 ファーレンハイト。そしてキスリングが残された。

「ジークリンデさま。これから如何なさいますか? 新無憂宮に戻っても、もう遅いようですが」

 今後について尋ねる。

「そうですね……少し早いですが、退出しましょうか。キスリング、車を」

「回しますので、正面玄関でお待ちください」

 キスリングが素早く身を翻し走り出す。彼の特徴である、あの足音がしない足運びで。

「それでは正面玄関までお送りいたします、ジークリンデさま」

「オーベルシュタインさんもどうぞ」

「はい」

 

 フェルナーの言葉に大人しく従うオーベルシュタインに、少々どころではなく違和感を覚えたものの、そんな違和感を覚えるのは原作知識がある彼女だけで、

「卿が無罪放免になったことを祝おうではないか。卿の奢りで」

「初対面の人間でも、容赦しない。さすがファーレンハイト提督。あー気にしないでください、この人、こういう人なので。今日は阻止できても、いずれは奢ることになりますけれど」

 彼女の頭上を、なんとも奇妙な会話が行き交う。

「卿らの都合さえよければ、我が家にご招待させていただくが」

「……!」

 オーベルシュタインの口から出るとは到底思えない台詞に、彼女は思わず足を止めて見上げる。

「いかがなさいまし……」

「やだなー。心配しないでくださいよ、ジークリンデさま。しっかりと節度を持って、ほどほどの所で、私がファーレンハイト提督を自宅に連れて帰りますから」

 彼女の眼差しの意味を当然ながら取り違えたフェルナーが”正しく”フォローする。それを聞きながら、肉のつきが薄い顔に微かだが、たしかに冷笑ではない笑みを浮かべるオーベルシュタイン。

 

―― そう言えば中佐に降格したから……フェルナーの部下?

 

 彼女の混乱を知らぬ彼らは、正面玄関で待っていたキスリングも誘い、

「ジークリンデさまをご自宅にお送りしてから、お伺いさせていただきます」

 軍用端末で住所と地図を交換しあう。

 絶対零度が絶対零度ではない状況に彼女は、

―― ファーレンハイト度で絶対零度っていくつだったかしら……

 無意味なことを考えるしかできなかった。

 

 三人に見送られ、キスリングの運転で自宅へと戻り、

「キスリング。地上車を使いなさい。それと……」

 黒ビールを二ケースと、ワインを何本か持たせてやることにした。

―― せっかく仲良くなれそうなんだから、410年もののワインを数本に、そんなに私の誕生年月日に拘ってくれるのなら467年もの……若すぎるかな。人間ならもう成熟してるんだけど、ワインは若いよね。でも、持たせよう。それと446年ものの白ワインも数本。大伯父上にもらったブランデーも持たせよう。そうだ華氏の絶対零度は−459.67だった。459年もののワイン……これは私が飲もう。持たせても意味わからないだろうし

 

 大貴族の酒宴なみの酒を持たされ、キスリングはオーベルシュタインの自宅へと向かい ――

 

 

「けっきょく、全員でパウルの自宅に泊まってしまいました」

「パ、パウル? ですか? フェルナー」

「はい。パウルってオーベルシュタインさんの名前ですよ」

「もちろん覚えているわ」

 彼女には分からないところで、彼らは親睦を深めたようで、職務中でも彼・オーベルシュタインだけは、

「パウルさん。書類です」

「たしかに受け取りました、シューマッハ大佐」

 何故か名前で呼ばれるようになっていた。

 彼女は軍服を着ていないときだけは名で呼ぶというフレーゲル男爵が定めたルールを持っていたので、オーベルシュタイン呼びすることができた。

「フレーゲル男爵閣下の遺言は大切ですからね」

 

―― ありがとう、レオンハルト

 

 このオーベルシュタインが、あのオーベルシュタインなのか? 彼女には自信がなかったが……

 


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