黒絹の皇妃   作:朱緒

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第209話

―― はっきりとしたことは分かりませんけど、バイオテロだとしたら、怖いわ……あら? あれ? フェルナー?

 

 リンダーホーフ侯爵家に連なるマルガレータ皇女の副葬品盗難疑惑と、バイオテロ疑惑。

 どう考えても後者のほうが重要なので、彼女はそちらを優先することに決めた。

 バイオテロの可能性もある事件など、当然彼女の手には負えないので、相応の能力を持つ彼らに任せ「はやく、結果を知りたいわ」と一息ついたところで、あることを思い出す。

 そこで確認すべくフェルナーに、生クリームとベリーソース、そして各種ベリー類で飾られたベイクドチーズケーキと、モカコーヒーを持ってくるように告げる。

 指名されたフェルナーは、ただいまお持ちいたしますと ―― まずはコーヒーを淹れるのに必要な道具と、バリスタを連れて部屋へとやってきた。

 コーヒーが淹れ終わる頃合いを見計らい、エミールにベイクドチーズケーキを運ばせ、それを受け取って彼女の前へと置く。

 彼女はコーヒーを一口飲み頷き、

 

「次はトアルコトラジャ。用意して待っていなさい」

 

 何時飲むとは言っていないが、今回の味は満足だったので、次も任せると言い、バリスタを下がらせる。

 白地に金縁の皿に、綺麗に盛りつけられたベイクドチーズケーキと、皿と揃いのカップを運んできたエミールも既に下がっている。

 彼女はコーヒーカップを置き、銀のスプーンでまずは生クリームを軽くすくい、少量を口へ。それからチーズケーキに ―― 

 

「ねえ、フェルナー」

「なんですか? ジークリンデさま」

 

 彼女は持っていたフォークを置き、再びカップへ手を伸ばしながら、呼んだ理由を語り出す。

 

「ふと思ったんですけれど、あなたどうしてフェザーンで感染症に罹ったの? 軍人なんですから、ワクチン接種していますよね」

 

 ”召使い風情の病歴なんて、ご記憶なさらなくていいんですよ”

 まさか今になって、そのことについて触れられるなど、思ってもみなかったフェルナーは、悪気なくただ純粋に、やや表情を強ばらせ、心から心配しているのが分かる、翡翠の瞳の揺らめきを前に、気付かれぬよう奥歯を噛みしめてから、

 

「……フェザーンに向かう直前でしたので、叛徒側の感染症対策が疎かだったんです。ほら、私は国内だけで仕事をしていましたから。ファーレンハイトのように、捕虜と接する機会などない職務ばかりでしたから」

 

 過去に何度も「ジークリンデさまには、嘘ついたことありませんよ」と語った口で、嘘をつく。

 

「そうだったの。急がせた弊害だったのですね」

 

 当然フェルナーの口調や表情、身振りから見極めることが出来ない彼女は、素直にそれを信じ ―― そんな簡単に私のことを信用しないで下さいと、フェルナーは彼らしからぬ居心地の悪さを感じつつ、無意味にトレイを抱え直す。

 

「まあ、気付かなかった私自身が悪かったんですよ。そのくらい、気付いて当たり前。自分が接種していないワクチンと、フェザーン社会の構成を考えたら、自分から接種を申し出るべきでした」

「そう……ところで、あの時の感染症って、なんだったの? あの頃は”ジークリンデにはまだ早い”と教えてもらえなかったんですけれど。もう、いいでしょう?」

「実は今回ジークリンデさまの化粧領で猛威を振るった、天然痘でした」

「そうなの?」

「あれは、発症するとかなり見た目が……なので。ほら、ジークリンデさま、病名知ったら調べようとするでしょう?」

「間違いなく調べたわ。そう……私のことを気遣ってくれたのね。病に罹っていたあなたに、心配をかけるなんて」

 

 カップもフォークも置き、指を組んで彼女はフェルナーを見つめる。

 

「いえいえ。全然。ありがたい限りで。気に病んだりしないでくださいね。いや、本当に」

 

 裏表のない幼児が同じようにしても、何の感情もわき起こらないフェルナーだが、彼女の仕草と眼差しには ―― 守らなければ欺されてしまうに違いないと、当人が欺しながら守らねばという決意を新たにする。

 

「え、ええ。……そういえば、叛徒ってワクチン接種しないの?」

 

 フェルナーが感染したウィルスは同盟から持ち込まれたもの ―― 軍人は主要な感染症のワクチンは接種し、軍務についていない門閥貴族なども同じく接種する。フェザーンは貿易を生業としている国家の性質上、全員がワクチンを接種している。

 よってフェルナーがその時、フェザーンで感染したのは、旅行に来ていた同盟市民が持ち込んだもの ―― そう考えるのは当然。

 ただ彼女はこの時まで、同盟は全市民がワクチン接種をしているものだと考えていた。

 

「しませんよ。おそらく私の感染源になったのは、叛徒の民間人でしょう。聞いたところによりますと、叛徒はワクチンの接種を好まないそうですし、旅行に行く際も必須ではないそうです。なんでしたっけ……ああ”ワクチン接種の自由”です。接種をするのも、しないのも自分たちの意思であり、政府がそれを強要するのは自由を奪うことであり、断固反対すると。さすがに叛徒軍に属する者たちは、ワクチン接種していますがね」

 

 だが自由を求める彼らは、それに関しても、彼女とは異なる見解を持っていた。

 

「あー。自由ね、なるほどね」

 

―― そう言えば、どこぞの国で銃犯罪発生→銃規制が叫ばれる→銃を所持する自由が奪われるという理由でデモ→銃を作っている会社が……という、お決まり様式美がありましたわ。銃で身を守る自由が奪われると……うん、自由って難しいわー

 

「私もその頃は叛徒の民間人については、あまり知りませんでしたので。まさかワクチン接種しないで、星間旅行するなんて考えもしませんでしたから。今はもう、大丈夫ですけれどね」

「全部接種しているのよね」

「もちろん。全て接種しているので、ご安心ください」

 

 彼女はフェルナーの言葉に安心し、カップに指を通してコーヒーを飲む。

 

「よかった……ねえ、フェルナー」

「なんです?」

「領民全員にワクチン接種させるというのは、どうかしら?」

 

 ”相変わらず、ジークリンデさまの良いこと思いついたは……怖ろしいのは、実行できる資金を持っていることですが”

 

「女性に接種させるということですか?」

 

 男性は徴兵の際に接種するが、女性は金持ちでもない限り接種することはない。先日のフィーネ・フランケンシュタイン事件も、発生源が女性だったため、誰も下層階級の出であるとは疑わず ―― 発生源が男性であった場合は、年代にもよるが、成人であれば徴兵による接種をまず考慮するため、死体が見つかった時点で、もう少し突っ込んだ調査が行われていたであろう。

 

「ええ。そうすれば、被害を最小限に抑えられます」

「それはジークリンデさまの領民ですので、ジークリンデさまの好きなようになさって結構ですとも……ですが、一度にはできませんよ。ワクチンの年間生産量は決まってますから」

 

 上記の通り、ワクチンは徴兵された軍人と、上流階級のみで、年間の生産量はずっと一定を保っている。

 

「あーそうでした」

「まあ、ジークリンデさまが、グートシュタイン公爵に頼めば幾らかは融通してもらえるとは思いますが」

 

 帝国で製薬事業を一手に握っているグートシュタイン公爵家が、ワクチンの製造も独占している。

 

「バルタザールおじさまに、ワクチンをお願い……ドレスや楽器や宝石なら頼みやすいのですが、ワクチンとなると……」

 

 頼めばもらえるのは確実だが、貴婦人としては頼みづらい品である。

 

「そうですねえ。ジークリンデさま、コーヒーが冷めてしまったのでは? 新しいのを、淹れさせます」

「いいの。こうしてゆっくりとあなたの顔を見ながら飲めるのなら、冷えてしまおうが構わないわ」

「……あのですね、ジークリンデさま……いや、いいです」

 

**********

 

 彼女の領地で発生したパンデミックだが、同盟でも同じようなことが発生していた。

 ハイネセンから地方の惑星で、感染症が広まる。

 同盟は軍人でもないかぎり、ワクチン接種を行っているものがおらず ―― 結果、彼女の領地よりも早く感染が拡大する。

 初期の封じ込めに失敗した行政機関は、ハイネセンの議会に軍の出動を要請。議会も速やかにこれを承認し、防疫を専門とする部隊を派遣した。

 隊は罹患者とそうではないものを分けて隔離し……など、これで収まる筈だったのだが、派遣された部隊の隊員までもが感染し、被害が惑星のみならず、軍内部にも広まった。

 ”どういうことだ?”と対策委員会が立ち上げられ、なぜこのような事態になったのかを調査が開始される。彼らはこの時点では、未知のウィルス、または ――

 

「バイオテロの可能性も考慮するべきである」

 

 何者かによる本国への攻撃だと考えた。

 有効な意見が出ぬまま、無駄に長引く会議。

 未知のウィルスの発生により、封じ込めのために物流が停滞する。物資が滞れば、政治に興味はない市民でも、なにが起こったのかは知りたがる。

 情報を統制しても、制御しきれず ―― 事実を知った市民は恐怖に怯え、さらに物流が停滞し、政府が頭を抱えているところに、ヘンスロー高等弁務官から「あと一歩で宣戦布告」についての報告がなされる。

 

「新兵が接種したワクチンが不良品だった……だと」

 

 水を打ったように静まり返った議場で、ジョアン・レベロが絞り出すように、ヘンスローの報告を復唱する。

 アムリッツア会戦で失われた兵が補充されたが ―― 失われた人的資源は大きく、ワクチン製造にもそれが及び、培養細胞の生成方法を間違い、通常の五分の一程度の効果しか望めないワクチンを新兵たちは接種していた。

 イゼルローンに駐留していたヤン艦隊。彼らは原作と同じく、攻防戦が起こる前に熟練兵を引き抜かれ、新兵が補充された。

 彼らは攻防戦の際に捉えられ、そのまま帝国へと連行され、同盟の兵士がいままでそうであった通りに収容所に入れられる。

 いずれ同盟政府が交渉してくるか、同盟が滅びるか ―― それより前に、収容所内で疫病が発生し、帝国側が感染源、新兵が僅かな抗体、または抗体を持たないことを特定する。

 帝国側でもまさか不良品を接種しているなどとは、考えもしなかった。

 帝国が同盟新兵にワクチン接種をしてやる義務もなければ、そんなつもりもないので、病原菌の温床となる、ワクチン未接種の兵士たちを送り返してきた。

 重ね重ね言うが、未接種の兵士は新人。彼らままだ未熟で、単独での艦運用はできない。そこで帝国は、彼らを送り返すのにフェザーン人を雇った(そうでなかったとしても、帝国内を彼らに自由に移動させるわけにはいかないが)

 途中で逃げ出さないように、監視の艦隊をつけて、彼らを同盟に引き取るよう ―― ヘンスロー高等弁務官に連絡が届いたのは、フェザーン領に入ってから。

 連絡を受けたヘンスローが、確認を取っている間にも新兵を乗せた、武力を封じられた戦艦はフェザーン領に到着する。

 彼らが何故ここに運ばれたのか、自治領主であるルビンスキーは理解しており、また彼らが逃げぬよう、一時的に帝国軍に監視を依頼する。

 

 世界はありとあらゆる場所に権利が発生し、金がかかる。いまフェザーン領に連れてこられ、本国の指示を待っている同盟戦艦は、一日一隻一万フェザーンマルクで停泊していた。これは宇宙空間の使用料と、食費などが込みになった金額である。また新兵たちをここまで連れてきた雇われたフェザーン人たちへの支払いも、同盟政府がしなくてはならない。

 帝国領内を移動している際は、帝国側の援助があったが、フェザーンに入ればそれもなくなる。これに関しては、同盟の誰もが納得してはいたが、

 

「どうして、もっと早くに……」

 

 連絡の遅さに、議員の一人が悲鳴に似た呟きを漏らす。これから政府は金を用意し、軍はフェザーンまで新兵たちを引き取る部隊を編成し、派遣する。―― 滞在費用が、尋常ではなくかさむのだ。

 

「滞在期間が長ければ長いほど、フェザーンは儲かるからな」

 

 ホアン・ルイは、飄々と言いながら予定の航行日数からかかる費用を計算した。国家としては出せぬ金額ではないが、現在の同盟の財政状況では負担にはなる。

 

「ところで、ヘンスロー高等弁務官。君はさきほど、宣戦布告がなされる寸前であったと言ったが。それは、どのような理由でだね」

 

 ヨブ・トリューニヒトの問いかけに、ヘンスローは彼女の領地でも感染症が発生し、かなりの被害にあったのだと伝えた。

 原因は不明だが、同盟の新兵がワクチン未接種だと知れた時点で、帝国側は同盟が生物兵器を兵士に仕込んでいたのではないかと疑い ―― これを攻撃と見なした者が多数おり、同盟に侵攻すべきだと。

 

「我々がそのようなことをするものか!」

「そんなことをするのは、帝国のほうだろう!」

 

 人権を大切にしている民主主義国家の議員数名は、怒りの声を上げたが、

 

「だが私も、ワクチン未接種の新兵を送り込まれたら、そう考えるな」

 

 ホアン・ルイは言える立場ではないだろうと、頬杖をつき、拳を振り上げていた彼らに冷ややかな視線を向けた。

 いきり立った議員たちはその言葉に冷静になり、辺りを見回し ―― 状況を理解して、大人しく座った。

 彼らが座ったのを確認して、ジョアン・レベロが告げ、

 

「いきり立つのは構わないが、早くに行動にうつさねば、滞在費用がかさむだけだ」

 

 トリューニヒトは頷いてから、もっとも重要なことを尋ねた。

 

「ヘンスロー高等弁務官。結果的に帝国は宣戦布告をしないことに決めたようだが、それはどうしてだね?」

『オラニエンブルク大公妃が開戦派を説得したそうです。被害にあった領地が、オラニエンブルク大公妃領、すなわちゴールデンバウム王家直轄領ではなく、ローエングラム公爵領の一部、臣下としての領地ゆえに、宣戦布告とはなり得ぬとのこと』

 

 皇帝にもっとも近い人物が、そう言ったからには、出兵はないと、議員たちは胸をなで下ろした。だが、同時に直轄領であった場合は、容赦はしないとも取れる。

 そして ――

 

『フェザーンは一本たりとも、同盟にはワクチンを売らないそうです。どれほどの値を付けられても』

 

 ヘンスローの報告を信じるのならば、現在同盟のワクチン製造ラインは、使い物にならない。当座を凌ぐためにはフェザーンで購入するしかない。

 そのワクチンが、人体実験を行っている帝国製であっても。

 

「帝国からの指示かね?」

『はい。そうです、議長。こちらも、オラニエンブルク大公妃の名で、大々的に発布されました』

 

 もしも一本でも売ろうものならば、同盟の新兵たちが逃げぬよう、見張っているシュタインメッツ艦隊にフェザーンを制圧するよう、すでに命令を出し、その命令を出した映像はルビンスキーにも届いている。

 

『同盟に売れば、二度とフェザーンにはワクチンは売らないとのこと。貿易国家のフェザーンにとっては、死活問題』

「ワクチンが作れなくて、困り果てている我々に売って、安定供給の道を閉ざすような、アドリアン・ルビンスキー自治領主ではないだろうな。とにかくワクチンが不良品かどうかを確認して、国内生産を安定させるべきだろう」

 

 やれやれと、ホアン・ルイは眉間に皺を寄せて首を振った。

 

「フェザーンを通さずに密輸は」

「イルガゼイム製薬に直接交渉はできないのか」

「滅多なことを言うな」

 

 藁にも縋りたい気持ちの議員が、議場であるまじきことを口走るも、ヘンスローに「オラニエンブルク大公妃はイルガゼイム製薬の株の二十パーセントを所持しています」と言われたら、彼らも諦めるしかできなかった。

 

**********

 

 彼女が同盟にワクチンを売るなといった理由は、ただひたすらに”栄誉”のためである。

 

「こちらに責任を押しつけられては困ります。自分たちの失敗を隠すために、冤罪を着せられるわけにはいきません」

 

 同盟国内でパンデミックが発生しておらず、新兵が不良品を接種し、抗体がなかっただけならば、フェザーンの販売に口を出しはしなかったのだが、この状態で、帝国のワクチンを売ったら「帝国の自作自演」と言われかねないと考えたためである。

 同盟政府はこの責任から目をそらすために、何らかに責任を押しつける。その可能性を考慮して、フェザーンにきつく命じた。

 その”かわり”に、新兵たちの到着報告を遅らせた。これにより、フェザーンに入る金が必然的に増える。それで我慢しろということである。

 

―― バイオテロを行って懐を暖めていると言われるよりならば、バイオテロを行った極悪非道な帝国と言われていたほうが、まだマシです。ああ、ロイエンタールが反逆した気持ちが、少しだけ分かったような。まあ、私たちはバイオテロなんて、していないんですけれど。証明のしようもありませんし

 


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