黒絹の皇妃   作:朱緒

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第202話

 ファーレンハイトの元帥府に、彼女が火だるまになったとの一報が入った時、ザンデルスはその報告を上官である元帥に届けていいものかどうか悩んだ。

 悩む類いのものではなく、すぐに報告すべき事柄なのだが、伝えるのには随分と勇気が必要であった。

 

「提督」

「どうした? ザンデルス」

 

 本日最後の会議中であったファーレンハイトは、中断するほどのことかと顔を上げる。

 

 彼は元帥の通常業務の他に、彼女の領地の航行の保全やら、領地の治安維持など大量の仕事を前にし、本日は元帥府に泊まり込み、それらの仕事を全て終える予定であった。

 だがその予定は、ザンデルスの報告で、即刻白紙となる。

 

「ジークリンデさまが、ご自宅で大火傷を負われたとのことです」

「なに?」

 

 報告を受けたファーレンハイトは、あとをザンデルスに任せ元帥府をすぐに出て、ローエングラム邸へと急いだ。

 車中から邸に連絡し、大火傷を負っているのであれば、軍病院に運ぶよう対応に出たシューマッハに伝えたところ、彼女は火傷を一切負っていないと言われ ―― 安堵のため息を吐き出す。

 

『負傷は打ち身だ』

 

 無傷ではなかったことを知り、安堵のため息を吐いたことを後悔し、目を閉じて眉間を軽くつまむ。

 邸に到着した地上車から、元帥らしからぬ余裕の一つもない態度で飛び降りて、邸に駆け込んだ。

 待機していたシュトライトから、事情とどうしてそのような状態になったのか?

 

「ジークリンデさまは、大火傷を負ったフェルナー中将が、炎にトラウマがあるのではないかと考え、火に近づけないようにするために、ご自分で火かき棒を手に取り煖炉に近づいたものの、薪がはねて火の粉に驚かれて床に倒れた。打ち身はその時に負われたもので、脇の下から腰まで。軽いもので三日もすれば、良くなるとの診断だ。そして倒れた際に、ドレスの裾を蹴り上げてしまい、煖炉に。そして燃えてしまった」

 

 彼女が火かき棒を持ったのも、煖炉の火にまかれ、転がったのも初めてのことで、そんな有様など見たことないファーレンハイトだが、何故かありありと脳裏に描くことができてしまい ―― 大人しそうな顔をし、普段は文句なく大人しいのだが、偶に稀に、だがよく転がるのが彼女である。

 

「呼び鈴は遠かったのか?」

 

 姫君というものは、自分で何かしてはいけない生き物であり、なにかして欲しければ、すぐに人を呼ぶべき存在である。

 

「すぐ近くにあったのだが、呼び鈴を鳴らすと、入り口にいるフェルナー中将がやってきてしまうと考えられたそうだ。トラウマを負っているかもしれない中将に、こんなショッキングな場面を見せるわけにはいかないので、自分でどうにかしようと、クッションで火を消そうとしたのだが、クッションには香油がしみこんでいてな」

 

 クッションの片面に僅かだが香油が塗られ、その塗られた面は背もたれに側を向いていた。彼女が黙ってそのクッションにもたれ掛かっている分には、なんら問題はなかったのだが、持ち上げて叩きつけたことで ―― 彼女のドレスはますます燃えることになる。

 

「ではジークリンデさまは、フェルナーが炎にトラウマがあるかもしれないと考えて、ご自分で煖炉に近づき、言葉にするのもおぞましいが、火だるまになりかけた……ということか? シュトライト」

「ジークリンデさまからお聞きした話と、状況を組み合わせると、そうなるな。そうそう、ジークリンデさまからのご命令なのだが、中将のトラウマを心配していたということは、フェルナー中将当人には教えないで欲しいとのことだ」

 

 自分の失態がフェルナーのせいなどとは、口が裂けても言えないというのが彼女の気持ちであり、ファーレンハイトやシュトライトは、彼女に忠誠を誓っているので、それを違えることはない ―― が、彼らが話している場所は、召使いが粗相をした際に放り込まれる独房。

 

「なるほど。俺はお伝えはせんよ」

 

 鉄格子の向こう側には、この度の失態により収監されたフェルナー。

 むろん話の内容は全部聞こえており、彼女が火だるまになった事情を知って、癖のある灰色の髪を、かきむしるようにして頭を抱えている。

 

「ジークリンデさまは?」

 

 落ち込むなど生やさしい状況ではなく、自害しそうなうめき声をあげているフェルナーを無視し、ファーレンハイトは彼女がどうしているかを尋ねた。

 

「お休みになられた。今はシューマッハが付き添っている」

 

 直接彼女の部屋へ向かわなかったのは、事情をしっかりと知らないと、怒鳴りつけてしまいそうであったからである。

 家臣であり、立場を考えれば怒鳴りつけるなど出来はしないのだが ―― そんなことをしたら、フェルナー同様、独房おくりになるわけだが、分かっていても我慢ができないので、

 

「そうか……フェルナー! おまえ、異変に気付かなかったのか!」

 

 思う存分、元凶であるフェルナーを怒鳴りつけ、怒りを発散してからお姿を拝見させていただこうと。

 

「気付きませんでしたよ!」

「お茶をお持ちするタイミングが悪い! お前は何年ジークリンデさまに仕えているんだ! タイミングくらい分かっているだろうが」

 

 鉄格子を挟み両者が睨み怒鳴り合う。

 

「言われてなくても分かってます……ちなみにお仕えしてから、六年です」

「知ってる……見事にトラウマになったようだな」

 

 フェルナーの憔悴した表情に、もっと後悔しろと。

 

「部屋に参じたら、ジークリンデさまが火に包まれている姿を見たら、あなただってトラウマになりますよ」

 

 大人しく刺繍をしていると思ったら、火だるまになって転がっているのを目の当たりにしただけでもショックなのに、その原因が自分を思ってと知り ―― そんなこと、考えなくていいんです! と。だがこれは、矛盾している感情であることも分かっていた。

 彼女が平民は門閥貴族に奉仕して当然と考え、犯罪じみた無理難題を押しつけて、生殺与奪を弄ぶような貴族であれば、フェルナーはここまで付いてきたりはしない。

 そんな門閥貴族ではないからこそ、彼女に仕えているのだが、その尊大ではない態度と、誰に対しても向ける優しさが、時に酷く彼を困らせる ―― 今回のように。

 それがなければ、ここまで側にいようとは思わず、だがそんなに心を砕いてくれなくてもいい。 

 

「そんなもの見るくらいなら、核融合炉に飛び込んだほうがマシだ! アースグリムの核融合炉に飛び込んでやる」

「ええ、私だって見たくありませんでしたよ。核融合炉に飛び込んだほうがマシですよ! 分かりますか? 私にも核融合炉内に立ち入るキー寄こせぇ! 今すぐ飛び込む」

 

 ”ジークリンデさまのためなら戦艦の核融合炉くらい、私でも飛び込める”留まるところを知らぬ怒鳴り合いを、シュトライトがある程度のところで仲裁し、そろそろ自分の持ち場に戻るべきだと促す。

 普通の神経の持ち主ならば、相手が顔色を失うほどに怒鳴り合っていた二人は、肩で息をして怒りを収める。

 

「今夜一晩、牢で頭を冷やしていろ。俺が寝ずの番につく」

「一晩と言わず、一週間くらい私のこと放置しておいてください」

 

 この独房は、入れられると食事抜きは当然、水もろくに与えられず、一週間放置しておくと、人によっては死亡することもある。

 

「おまえが独房で後ろ向きになっている間、ジークリンデさまが何をしでかされるのやら」

「やめろー! あんた、しっかりとお側で仕えろよ!」

「言われんでも、お側にいる」

 

 牢の前でフェルナーに対しての事情説明を終えて、ファーレンハイトとシュトライトはその場を後にする。

 階段を昇りながら、ファーレンハイトはここで初めて彼女の様子を聞いた。

 

「ジークリンデさまは?」

「睡眠薬が効いてお休みになられている」

「そうか。打ち身だけで、火傷はされていないのだな」

「医師の診断では。カルテはシューマッハが持っている」

 

 敬礼する衛兵が守っている出入り口の扉を抜け、ファーレンハイトは大きなベッドだけが置かれている広々とした彼女の寝室へと入った。

 

「ああ、来たか」

 

 部屋の隅にある、柔らかで微かな明かりを灯すルームランプの明かりに照らされたファーレンハイトに、彼女の眠りを守っていたシューマッハが、声をひそめて声をかける。

 

「ご様子は?」

 

 シューマッハは医師のカルテが入った端末を渡す。

 

「私は警備に戻る」

 

 医師が診察の際に撮影した手足などの映像などに目を通し、どこにも火傷がないことを確認してから、フェルナーの端末に情報を送ってから、情報を消去した。

 

**********

 

 彼女は非常に重たい空気のなか、目を覚ました。

 日差しは冬らしく白く冷たさを感じさせているものの、重たさとは無縁。寝室にも変わったところはない。

 

―― どうして天蓋が開いているのでしょう。フェルナーが……あ……

 

 フェルナーがいつの間にか天蓋を開けたのかなあと、ぼんやりと考えていた彼女だが、徐々に意識が覚醒し、昨晩、自分が大迷惑の元凶になったことを思い出し恐る恐る天蓋から、外へと視線をずらす。

 

―― この空気の重さって、きっと……ああああ! ファーレンハイトが、怒ってる!

 

 彼女の予想通り、視線を向けた先にいたファーレンハイトは、長年の付き合いがあろうがなかろうが、怒っていると一目で分かる状態。

 表情に怒気はまったくないのだが、その涼しげな目元が、怒りをたたえている。

 

―― 気付かれないように、気付かれないように……

 

 合わせる顔がないとばかりに、カシミアのシーツとブランケットの隙間に、完全に入り込み、体を丸めて”どうしよう”かと考えるも、なにも思いつきはしない。

 この状況ですぐに解決策が思い浮かぶような彼女であれば、昨晩のような大失態はおかさない。

 そうこうしていると、足音がベッドに近づく。

 

「ジークリンデさま」

「……あ……おはよう、ファーレンハイト」

 

 せっかく気付かれぬ”よう”潜り込んだのだが、すぐにもそもそと顔を出し、挨拶をする。

 

「お体の調子はいかがですか?」

「えっと……」

「体を強く打たれたとのことですが」

 

―― そう言われると、そう言えば……

 

「少し痛いような気がします」

「医師の診断によれば、三日は安静にしたほうが良いとのこと」

 

 ”そんなに痛くはないから、大丈夫。仕事には行けます”と言いたかったのだが、

 

「……」

 

 そんなことを言わせてくれない表情と、冬の朝よりも冷たさを感じる空気。自分の失敗を思い出し、

 

「ご無理をなさらないでくださると嬉しいのですが」

 

 ここは言うことを聞いたほうが、ファーレンハイトの怒りも収まるだろうと考えて、ベッドから身を少し起こして頷く。

 

「え……あ、そうね。ゆっくり休みたいわ」

「ありがとうございます」

「あの、ファーレンハイト」

「なんでございましょう」

「ジンジャエールと、フルーツサラダが食べたいのですが……」

「すぐに運ばせます」

 

 ファーレンハイトは天板にクッションを建てかけ、彼女はそれに背を預ける。

 注文した品が運ばれて来るまでの間、寝室のカーテンを開く。爽やかな朝の日差しに目を細め ―― 昨晩しでかしたことを思い出し、恥ずかしくなり手で顔を覆い俯く。

 

「どうなさいました」

「なんでもありません」

 

 エミールが軽食を寝室入り口まで運び、そこでファーレンハイトが受け取り、彼女が座っているベッドにトレイを運ぶ。

 彼女は背が高く、底が厚い筒状のグラスに注がれているジンジャエールを二口ほど飲み、

 

「フェルナーは怒っていない?」

 

 昨晩の出来事を思い出して、怖々と尋ねた。

 

「あれが怒る理由などありませんが」

 

 彼女が火だるまになる前に、フェルナーが気付くべきだったのだから、怒る筋合いのものではないと、そのようなことで悩む必要などございませんと、子供に優しく言い聞かせるように語りかける。

 

「本当に?」

 

 口調と態度が何時ものものに戻ったことを感じた彼女だが、笑みを浮かべるようなことはなく、まだ硬い表情で重ねて尋ねる。

 

「本当でございます」

「そう。今フェルナーはどこに?」

「罰として独房におりますが」

 

―― 私が自爆したのに、なぜフェルナーが独房おくりに……ま、まあ。誰かに責任を取らせないといけない……ような事態を招いたのは私の軽率さが招いたことなのに

 

「えーと。私が直接罰を与えるから、牢から出してくれる?」

「罰の内容をお聞きしてからでないと、出せません」

 

 未遂犯のミュラーに対してあの程度の罰しか思いつかない彼女である。それよりも軽微というか、自爆に自爆を重ねた結果のとばっちりなのだから、重い罰など思いつく筈もない。

 だが、なにをしようとしているかを聞いたファーレンハイトは、それで良いのではと判断し ――

 

「驚かせ、心配をかけてしまいましたね」

 

 彼女の希望に添うためにフェルナーを牢から出し、簡単に説明して仕事へと戻った。

 牢から出されたフェルナーは、手早く、だが失礼なく身だしなみを整え、彼女の元へと急ぐ。

 フェルナーの顔を見た彼女は、昨晩自分の元に駆け寄ってきたフェルナーの表情を思い出して、心配をかけたことを詫びた。

 

「ご無事でなによりです」

 

 あの状況に遭遇したフェルナーとしては、驚愕のち絶望とはこういうものかと ―― 心配という言葉などでは言い表すことのできない、気持ちを味わうはめになった。

 

―― ものすごく悪いことした気分です。実際悪いことしたんですけれど

 

「それでね、フェルナー。私、打ち身で動き辛いから、三日間私の側にいて、小間使いのように働き、護衛のように守って、時には話し相手を務めてちょうだい。ダンスのパートナーも務めて欲しいし……」

 

 相変わらず、どこが罰なのか分からない ―― のは、何時ものこと。

 

「本当にそれで宜しいのですか?」

「ええ。フェルナーには興味のない、演劇とか宝石とかドレスの話に付き合わせたりしますからね」

 


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