黒絹の皇妃   作:朱緒

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第201話

 彼女の尚書としての仕事の大部分は、部下から報告を聞くこと ―― オーベルシュタインから報告を聞きながら、門閥貴族たちに「困ったことはないか」かを遠回しに尋ねる文面の手紙をしたためていた。

 

―― ラインハルトが来ると言っていましたが、なんでしょう……キルヒアイスのことかしら

 

 昨晩、ラインハルトから面会したいと連絡があり、もうじきその約束の時間でもあった。

 ミュラーが骨折の痛みに耐えかねて倒れたパーティー以来、何度も時間を作って、キルヒアイスやアンネローゼの将来について話し合った結果が出るのだろうかと、彼女はその訪問を緊張半分、楽しみ半分で待っていた。

 

「最後に。これは本来であれば、尚書殿下にご報告する類いのものではありませんが。ジークフリード・キルヒアイスの父親が司法省を辞するそうです」

 

 彼女は手を止め、万年筆を文箱に戻して顔を上げる。

 

「体調でも崩したのですか?」

 

 夫の半身で身内 ―― 世間的には、ラインハルトの寵臣であるキルヒアイス。ともかく、その彼の親が退職したとなれば、妻として贈り物を携えて挨拶に出向くことくらいしなくてはならない。

 

「いいえ。一身上の都合……ですが、上司に辞職を勧められたようです。省内での風当たりも強くなっていたようですので」

「キルヒアイスが原因ですか?」

 

 エミールに机の上を片付けさせ、彼女にしては珍しく背もたれに体を預けて、オーベルシュタインの話に耳を傾ける。

 

「息子が改革の旗手の寵臣というのが、原因のようです」

 

 現体制下で苦労しつつも、生活基盤を整えて慎ましやかに暮らしている人々 ―― 例えば下級官吏などには、オフレッサーと似たような考えをし変化を嫌う。

 そのような者たちは、ラインハルトが考えているよりずっと多く、そんな彼らがこの帝国を支えているのも事実であった。

 ラインハルトの改革を喜ぶ下級官吏もいるにはいるが、多くの者たちは、改革後、自分たちが割を食うのは分かっていた。

 

 残念なことなのだが、ラインハルトを熱狂的に支持する平民は、分類すると安定職に就いていない者や学識が低い者が多い。彼らは自分たちの生活が向上することを喜ぶ ―― これ以上低くなることがないので、安易に改革を受け入れることができるのだ。

 

 平民の無能さ……と言えば語弊はあるが、原作のラインハルトの新王朝の文官尚書は、貴族のみ。平民を基盤にしている彼ならば、平民に相応しい人物がいるのであれば、尚書に就任させたであろうことから、平民にそれに該当する人物がいなかったことがうかがえる。

 マリーンドルフ伯親子に配慮した……ということは、ラインハルトの性格や、オーベルシュタインの性質からまず考えられない。

 

 門閥貴族には見るべき人物はいないと言っていたラインハルトだが、彼が言っていたのは軍において。

 優秀な平民の多くは士官学校を目指すので、それは当然のことと言える。よってラインハルトの周囲には優秀な軍人はいるが、優秀な文官平民はいない ―― ほとんど、存在しない。政となると、門閥貴族の知識や学識、経験が必要になってくる。

 

「大公妃殿下。エッシェンバッハ公が到着なさいました」

「そう。通しなさい。ゼッレ、お茶の用意を」

 

 オーベルシュタインは一礼し、壁側に下がり、彼女は頬杖をついて天井のシャンデリアを、ぼうっと見つめる。

 

―― 働く気があるのなら、私のほうの省に……別の省の尚書が口を出すものでもありませんし、私から依頼があったら、断れないという可能性も……危ない危ない。越権行為をしないように、相手に強制しないように、しっかりと自分を律しなくては

 

**********

 

 キルヒアイス家に、滅多に連絡を寄こさない息子から、珍しくヴィジフォンが入った。

 

「父さん久しぶり」

『久しぶりだな。お前ときたら、オーディンにいるのにまったく帰ってこなくて。母さんがたまには顔を見せろと、いつもぼやいていて、困ってるよ』

 

 キルヒアイスは久しぶりに見た父親が、記憶よりも年を取っていることに、歳月をひしひしと感じた。

 

「ごめん……退職するんだってね」

『ああ、そうだ』

「……」

『お前が気にする必要はない。体もまだまだ動くから奮発して母さんと、少し豪華な星間旅行に行って来るよ』

「あの、父さん。実は……」

 

**********

 

―― どうして……

 

「どうして、こうなった……の……」

 

 ラインハルトが去ったあと、彼女は書類を前に一人頭を抱え、内心の呟きが口をついた。

 彼女の目の前に広げられている書類は、キルヒアイスとアンネローゼが”家族になるためのもの”

 

 彼女はラインハルト当人に「ラインハルトが早世した場合、アンネローゼが被るであろう被害」を滔々と解いた。

 ラインハルトはもしも自分がそのようなことになった場合、新王朝の後継者は実力のある者が跡を継げば良いと ―― それを聞いた時、彼女は「ラインハルトですねえ」と思ったが、この台詞は、たしかにラインハルトらしいが、同時に彼女にはまだ誰も言っていない”彼女の体の変調”があるため、彼としてはこうとしか言えなかったのだ。

 ラインハルトの苦悩はともかく、ラインハルトの跡を継ぐ実力者。だが、実力だけでは”王朝”の後継者となることはできない。

 その際に使われるのがアンネローゼであることを、誤魔化すことなく、またラインハルトの怒りに臆することなく説いた。

 ラインハルトの遺言通り、後継者に相応しい人物がアンネローゼを妻に迎えて、王朝なりその立場を継ぐ。

 その相手がアンネローゼを大切にするかどうか不明であり、アンネローゼの気持ちなど考慮しない。それを阻止できるラインハルトの部下がいるか? もっとも実力ある者が跡を継いでいるのだから、それはあり得ない。

 ラインハルトもそのことには気付いていたが、目を背けていた。それを指摘し、もう誤魔化しで済ませておける状況ではないと。最後にはラインハルトも認めた。

 彼は潜在的に自分がアンネローゼよりも先に死亡することを望んでいるので ―― 姉の死に耐えられる自信がない ―― 自らが夭折するという仮定については、怒りを覚えることはなかった。

 アンネローゼを守ろうとするのであれば、帝国では成人した男性の庇護が必要になる。それはラインハルト一人では足りず、キルヒアイスは彼らの姉弟にとっては身内だが、法律上では赤の他人であり、後見人になるにしても身分が足りない。

 

 ラインハルトが支配する新王朝になった場合は変わるかもしれないが、これほど世界が変わってしまった現在では、彼の王朝が確実に興るとも限らないので、対処方法として、彼らに法律上「身内」になることを、彼女は強く勧めた。

 そのためには、協力するとも。

 彼女の思い描いた協力は、伯爵夫人と平民の結婚について ―― キルヒアイスを帝国騎士にしなかったのは、帝国騎士に叙したところで、伯爵夫人の夫に相応しいとは言えない。むろん他の思惑もあったが、キルヒアイスは平民のまま栄達し、伯爵夫人の夫になるべきだと。

 

 だが、彼女が予想もしていない形が提示されたのだ。

 

「私に年上の甥っ子ができるのですか」

 

 事もあろうにあの三人は「キルヒアイスをアンネローゼの養子にする」ことで、親族になる道を選んだ。

 その方法を提示された彼女は、驚きのあまりまさに声もでぬ状態。

 養子を帝国の後継者に定めるというのは、古来からあること。彼らはそれに倣おうとしたものの、養子を取るためには、養父母はそのどちらかが、養子よりも年上である必要がある(条件が片方だけなのは、夫婦の年齢差を考慮してのこと)

 だが、ラインハルトはキルヒアイスより二ヶ月ばかり年下。ラインハルトの妻である彼女はラインハルトよりも更に四ヶ月遅く生まれている。そのため、この夫妻の養子に迎えることはできない。

 

―― だからと言ってアンネローゼの養子はないでしょう

 

「レコーダをお持ちしました」

「再生して」

 

 ラインハルトは養子になるのに必要な書類の他に「姉上からあなた宛の手紙を預かってきた」と、一通のホログラフレターを置いていった。

 彼女は応接ソファーの肘掛け部分にもたれ掛かるようにして、オーベルシュタインが再生してくれた手紙を聞く。

 ホログラフのアンネローゼは、西苑にいた時と同じく悲しげで、未来を見ることなく過去に生きていた。

 

『……私は臆病な女です。弟とジークの関係が変わること、そして私とジークの関係が変わることが怖くて仕方ないのです』

 

 彼女は一度手紙を再生しただけで、すぐに消去するよう命じ、養子の書類を手に取る。

 彼らは十一年前のあの日から、一歩も踏み出すことなく、そのまま生きて行くことを選んだ。

 

「関係が壊れる……か」

 

 彼らにとって、この関係が崩れることが、どれほど怖ろしいことなのか? 部外者である彼女には分からない。

 

「なんでも恋愛に結び付けるのは良くありませんね」

 

 彼女はその道を指し示したが、当事者がその道を選ばなかった。恋愛感情などよりも、更に深い部分で繋がっているのだとしたら ―― もはや彼女の出る幕ではない。

 

「それにしてもジークフリード・フォン・グリューネワルトですか」

 

―― キルヒアイスがキルヒアイスじゃなくなって……ジークフリード・キルヒアイス・フォン・グリューネワルトと名乗ってくれないかしら

 

 彼女はその後、彼らの希望通りに手はずを整えた。

 地位や名誉などを好まぬアンネローゼは、グリューネワルト伯爵夫人の地位をキルヒアイスに譲渡する。

 こうしてキルヒアイスはグリューネワルト伯爵となる。

 だが彼は伯爵となってもキルヒアイスと呼ばれ、彼女もしっくりしないので”キルヒアイスと呼んでいいか?”と ―― 彼女がローエングラム大公妃と呼ばれるように、キルヒアイスはキルヒアイスのままであった。

 

**********

 

 歴史あるグリューネワルト伯爵位を平民に継がせるなどと、門閥貴族は大きな不満を持ったが、それらはオーベルシュタインが収めた。

 当初は彼女が説得に当たる予定だったのだが、そのようなことをする必要はございませんと、自分が説得しますと申し出てきた。

 

―― 部下ではないからNo.2不要論を唱えることもないでしょうし

 

 彼女は自分よりもオーベルシュタインのほうが優れていることを理解しているので、彼に任せたのだが、彼はラインハルトやキルヒアイスに良くしてやるという考えは、一切持っていない。彼は全てに対し、ラインハルトのキルヒアイスに対する贔屓を冷静に、それによって彼らが平民から不信感を向けられることを、淡々と説明し納得させた。

 

 この時期の授爵は、イゼルローン攻防戦の戦功と見なされる。戦果の質については、ラインハルトの部下たちや、艦隊戦にまともな見識を持っている者以外は重要視はしない。

 多くの者が重要視するのは、戦功が平等であるかどうか。とくにそれが目立つのは、主将と副将。主将であるキルヒアイスが伯爵となり、副将のミュラーはそのまま。

 ラインハルトの感情が人事に現れていると受け取る者がいるのは、ごく当然のこと。

 またラインハルトの部下は、完全に武人で ―― オーベルシュタインのように、かかる不利益だとか、個人的な感情で部下を重用してはならないだとか、指摘する者はいない。

 それら嫌われる役は、全てオーベルシュタインが請け負っており、現在その役を請け負うものはいないのだ。

 

 むろんキルヒアイスは、そのように受け取られることは分かっていたが、彼らにとってはアンネローゼの身の安全を優先せざるを得ないので、不平等と取られても致し方ないと、行動に出た。―― 地球教の残党は、さらに過激な集団と化し、身辺警護には充分な注意が必要な状態となっていた。

 

 彼女は養子の手配を任せてから、キルヒアイスの実家へと足を運び、会話を交わし、父親の自慢でもある蘭の温室を見せてもらった。

 父親は最初は ―― 大公妃殿下にお見せするようなものではございません ―― 辞退したが、彼女がどうしてもと頼み込み、彼女は雪を被っている小さな温室に足を踏み入れた。

 中々に立派な蘭の鉢植えを眺め ―― 彼女は蘭よりも気になる鉢があった。陶器製で、高価ではないが、かなり良いものに見えたので、尋ねてみたところ、

 

「息子からです」

 

 キルヒアイスからのプレゼントだと、父親は嬉しそうに彼女に説明をした。

 彼女はキルヒアイスの家を出て、隣の現ベックマン家、かつてのミューゼル家を少しだけ眺め、地上車へと乗り込み、下町を後にする。

 

―― 別のところに住まわせたほうが良いような気もするのですが……そこは賢い息子さんがどうにかするか。私が気を回す必要などないわよね

 

**********

 

 帝国の家にはよく煖炉が設置されており、冬になると煖炉は赤々と燃える炎で暖を取る。むろんそれ以外の暖房設備も整っているが、煖炉の炎はまたそれとは別に、人間に温かさを与える。

 彼女が住んでいる邸にも、大きな煖炉があり、彼女はその薪に香木の類いを僅かに混ぜて、香りを楽しんでいた。

 その日彼女は、煖炉近くに椅子を置き一人きりで刺繍に没頭していた。部屋の作りが出入り口が一つだけで、窓側は四方を邸に囲まれた中庭に面している作りのため、一人きりでも大丈夫だということで、部屋に本当に只一人であった。

 ふと手元の影が小さくなったので、顔を上げると、煖炉の炎が随分と小さくなっているのに気付く。

 刺繍をテーブルに置き、立ち上がって背伸びをする。

 炎というのはかき混ぜて、空気を入れる必要があり、煖炉脇には火かき棒が置かれているもの。当たり前だが何時もはこの火かき棒で、炎をかき混ぜるのは彼女が自らすることではない。ドアの外に立っている護衛にやってもらおうと、彼女はテーブルの呼び鈴に手を伸ばしたが、

 

―― そう言えば、今日の護衛はフェルナーでしたね

 

 ドアの外側に待機しているのがフェルナーだったことを思い出し、手を止めた。大火傷を負ったフェルナーを、火に近づけるのは避けたほうが良いのではないかと考えてのこと ―― フェルナーに言わせれば、これ以上ないほど要らぬ気遣いではあるが、彼女は善意と、自分で出来ます精神で煖炉脇へと近づく。

 

「…………意外と重い」

 

 自分で火かき棒で混ぜようとし、持ち上げようとしたのだが、想像よりも随分と重く驚く。

 

―― フェルナーもファーレンハイトも、軽々と片手で持ってたから、軽いものだとばかり

 

 だが彼女はその重さにめげずに、火かき棒を両手で掴み、なんとか煖炉前まで運び、いつも彼らがしているように煖炉に突き刺し、そして火かき棒が置かれている反対側に積まれている薪を三本ほど抱きかかえるようにして持ち、そろそろと煖炉にくべてから、火かき棒を必死に回した。

 

「空気が入ると、火が回るの……!」

 

 ”簡単なことです”とばかりに火かき棒を動かしていた彼女の目の前で、薪が爆ぜて火の粉が大量に舞い、くべたばかりの薪がはじけ飛んできて、彼女は小さな悲鳴を上げて床に崩れ落ちる。

 

―― びっくりした……びっくり……あああああ!

 

 怖ろしく不吉で、早く気付かなければ危険な熱さを感じ身を起こすと、ドレスの裾が燃えていた。

 

「きゃあ! フェル……」

 

 フェルナーを呼んで火を消してもらわねばと、テーブルにしがみつくようにして立ち上がった彼女だが、自分の軽率さによる失態なので、自分でどうにかせねばと思い直し、椅子に置かれていたクッションを掴み、全力でドレスの裾を叩く。

 

―― 消えて! 消えてー!

 

 声にならない声を上げて、彼女はクッションで炎と戦うのだが、勇戦むなしくクッションにまで火が燃え移り、手の施しようがない状態に。

 まだ救われているのは、ドレスの下にパニエを身につけているので、脚が焼けてはいないということ。逆に言うと、全身大量の布を纏っているので、炎が燃えるには事欠かない。

 

―― いやー! 焼け死んでしまいます。人体自然発火……あああ! フライリヒラート一族は全員焼死と決まっているのですか

 

 彼女が完全にパニックになった所に、彼女の忠実な僕であり、絶妙なタイミングで菓子や飲み物を差し入れるフェルナーが現れ、

 

「ジークリンデさま、失礼いた……なっ!」

 

 火だるまになりかかっている彼女を発見し、無事救出することに成功した。

 


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