黒絹の皇妃   作:朱緒

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第200話

 入浴中に闖入者。

 彼女の視点では紛れもなく、突如浴室に現れた人物だが ――

 闖入者の准将の名はゾンバルト。

 何故彼が、いきなり浴室にやってきたのか? それは給湯温度がやたらと高かったためである。

 彼は浴室設置・管理の担当責任者。

 浴室はその性質上、通常使用される、監視機材を設置するわけにはいかないので、湯温などの異常が確認されると、責任者が足を運ぶ必要がある。

 本日、元帥が外出しているにもかかわらず(ラインハルトの外出は、元々決まっていた)浴室で、突然高温の湯が流れていることを知り、状況を確認するためにやってきた。

 ラインハルトが不在ゆえ、正面から入るわけにはいかないので、裏口から ―― ラインハルトが出かけているので、彼女がいるなどとは思っていなかった彼は、硬直し、そしてキスリングに殴り倒された。

 彼は彼女とキスリング同様、完全なる被害者であった。

 

 三人の被害者のうちの一人である、元帥杖でゾンバルトを殴り倒したキスリング。

 彼が元帥杖をなぜ持っているのか? 事情を知っている人は知っているが、彼女は知らない。

 真実を言うわけにはいかないキスリングは「昨晩自宅で酒を飲み、二日酔いになり、警棒と間違って元帥杖を持ってきてしまった」と彼女に告げた。

 部下を疑わない彼女は、キスリングの言葉を信じ、キスリングの体調を気遣い、また、ファーレンハイトにしっかりと元帥杖を管理なさいと注意する。

 元帥杖についてはこれで終わりになるが、彼はラインハルトの元帥府の警備担当者に「何故、もう一つ出入り口があることを教えなかったのだ!」と詰め寄る。

 彼とて連絡をもらっていれば、もう少し手加減して殴った ―― 責任者だろうが、許可なく浴室に侵入し、彼女が叫んだらば排除するのは、彼の職務であり使命である。

 

 そんな彼に詰め寄られたのは、原作では警備体制の穴をつかれて、皇帝と皇妃と大公妃と皇太子の命を危険に晒した実績のあるケスラー。

 こんなところで原作の実績を積まずとも良さそうなものだが、ここでも……。

 この事態の責任は、全てケスラーにあると言っても良い。

 ただ少しだけ弁護すると、彼は憲兵隊を新しくすべく努力している最中で、改築関連に関し手が回らず、連絡をするのが遅れた。

 部下が上手く動けば良かったのだが、新組織はケスラーに依存している状態で、彼が細部にわたるまで指示を出さなければ、動けない状況になっている。

 そうは言っても失態は失態であり、ラインハルトはケスラーを減給六ヶ月に処した。

 

「閣下。もっと厳しい処罰をお願いいたします」

 

 仕事をしていて殴られたゾンバルトもそうだが、入浴している彼女に怖ろしい思いをさせてしまったと、ケスラーは解職に相当すると申し出たものの、ラインハルトの部下のなかで、数少ない軍官僚の手腕を持っている男を解任されることはなかった。

 

「あの浴室に入ってきたのは、何者だったのですか? キスリング」

「こちらに情報が来ていなかったため、賊として排除しましたが、実際は管理者でした」

 

 湯温が高すぎて、異常かと思って確認しにきた……ことについては、全員が口を噤む。

 

「え……怪我の程は? お見舞いに行きたいのですけれど」

 

 改築の報告をしていなかったケスラーが悪いのは当然だが、彼女が高温の風呂を好まなければ ―― もしかしたら……。

 

「畏まりました」

 

 ゾンバルトのほうは、浴室に湯気が充満し、あまりはっきりと見えなかったということで、不問に処された ―― ラインハルトは当初、失態をおかしたケスラーよりも、彼女の裸を見たゾンバルトのほうに怒りが向いていた。

 浮気を容認しているのに、それは許せないのか? 状態だが、その辺りはラインハルトの感情なので、問いただしたところで無駄である。

 そのゾンバルトのほうに向いていた怒りを宥めたのは、キルヒアイスではなくミュラー。

 彼など問題にならないような行動をしでかしておきながら、彼女と顔見知りであること、彼女の記憶にあったことなどから、穏便に済まされたミュラーが、必死になってゾンバルトを擁護する。その熱く真摯な弁護は、キルヒアイスですら口を挟めないほどで「私には言うことはありません。ミュラー提督が仰ったことが全てです」状態に。

 

「ご寛恕の程を!」

 

 ミュラーが熱くなればなるほど、ラインハルトは落ち着きを取り戻して、最終的に、全責任はケスラーであると収まりがついた。

 その後のゾンバルトだが、殴られたショックなのかどうかは不明だが、以降彼は身の程を弁え、大言壮語を吐くこともなく、堅実に慎ましやかに軍人人生を送ることになる ―― 名はあるが限りなくモブに近かった男の死亡フラグは、キスリングの華麗なる杖さばきにより、頭蓋骨ごとへし折られた。

 

**********

 

―― 何でこの人、イゼルローンにいるのかしら?

 

 彼女はその日、予想もしていなかった人物と面会していた。

 

―― バグダッシュは、救国軍事会議が送り込んだ、刺客ですよね

 

 面会人はバグダッシュ。

 彼女から邸の調査を言いつかったシェーンコップが、調査が得意なのを一人連れてきたいと希望を出した。その人物がバグダッシュで、帝国側は身辺調査を行い ―― 諜報部員という経歴上、オーディンに下ろしては情報を抜かれるのではないかと警戒する者も多く、最終決断を彼女に下してもらおうとなり、こうして面会することになった。

 誰も責任を取りたくなかった、あるいは丸投げだが、彼女としては自分から持ちかけた事案なので、その程度の責任は取るつもりはあるので、バグダッシュに会って決めることにし、下準備としてルッツに火薬銃に細工をさせ、謁見の間に持ち込んだ。

 そのバグダッシュは、シェーンコップの部下として、彼に伴われ彼女の前に現れた。

 

―― 普通に配属された……そういう感じはしませんね。救国軍事会議ではないとすると、あとはトリューニヒトくらいかしら

 

 彼女は謁見の間で跪いているバグダッシュを、当主の座から見下ろすようにしばし眺める。

 

「立ちなさい」

 

 彼女に言われたバグダッシュは、彼らしくもなく丁寧にあまり音を立てぬよう気遣いつつ立ち上がり、背筋を伸ばす。

 

「暗殺もできる諜報部員。それとも暗殺が専門の諜報部員?」

 

 彼女のあどけない可憐な唇が語るに相応しくない単語が、こぼれ落ちる。

 

「どのようなご報告を受けているのかは存じませんが……」

 

 図太さが売りの男らしく、彼女にそう言われても動揺の欠片も見せなかったバグダッシュだが、

 

「ヤン・ウェンリー暗殺を企てるも当人に知られて失敗、それに自分を売り込みイゼルローン要塞に居残り。自分を殺そうとした相手を部下にする、寛大な指揮官で良かったなあ。軍隊として正しいかどうかは知らんが、叛徒どもの集まりともなれば、そのようなものか」

 

 要塞に駐留していた、上層部しか知らないはずのことを話し出したことで、彼の口は開いたまま固まる。

 

「冗談だ」

「冗談で、ございますか」

 

 苦しげなバグダッシュの声に、ヤン暗殺を一度は企てたのだと確信した彼女。

 

―― 理由は分かりませんけれど、そこであなたが暗殺してくれていたら、こっちとしては楽だったんですけれどねえ。なんで失敗したんですか! シェーンコップですよね、シェーンコップのせいですよねえ

 

 バグダッシュの隣に立っている、余裕の態度を崩さないシェーンコップをちらりと見てから、火薬銃が入っている箱を開けさせ、それを手に取る。

 火薬銃など見たことのないシェーンコップとバグダッシュは何が起こるのか分からず、火薬銃がどのようなものか知っているキスリングは、彼女が何をしようとしているのか分からないが、本能的に彼は特別に携帯を許されているブラスターに手を掛けた。

 

「これは火薬銃。ブラスターの原形といえば分かるか」

 

 彼女はそう言うと、バグダッシュの足下めがけて銃を滑らせるように放り投げた。

 

―― 上手くいきました!

 

 銃は彼女が内心でガッツポーズを取りたくなるほど完璧に、バグダッシュの靴に当たり止まる。

 

「帝国で単身、皇族を撃ち殺せば、故国では英雄になれるやもしれんぞ」

 

 彼女は身を乗り出したキスリングをおさえるようにして、バグダッシュを挑発する。

 

「悪名でも名が残る……だったか? 遊びで人に銃口を向けてはならぬ……であったか? なあ、シェーンコップ。そなたは何時でも本気だそうだなあ。どうした? バグダッシュ、銃を取らぬのか? ゴールデンバウムの一員を葬ることができる千載一遇の好機だぞ。命中させるのには、少々コツが必要だそうだが」

 

 彼女は指を組み膝に手を置き、シェーンコップとバグダッシュを交互に見て、声を出さずに笑う。

 

「手に取る度胸もないのか。それとも私に服従したのか。まあどちらでも良い。ときにワルター」

 

 彼女は完全にバグダッシュから興味を失ったかのように視線を外し、シェーンコップの方だけを見る。

 シェーンコップはバグダッシュの前にある、銃と言われなければそうだとは分からない、宝飾品のような白銀の銃を足で踏みつけて、朗々とし張りのある声で答えた。

 

「なんでございましょう。大公妃殿下」

 

 彼女は先日、新たに届いたフレデリカの手紙の内容を思い出し、それから派生し、常々不思議に思っていたことを尋ねる。

 

「民主主義国家の軍隊というものは、軍曹が中尉に命令できるのか?」

 

 シェーンコップの娘カリンが、ユリアンに放った言葉。

 そんなことはシェーンコップは知らないし、なによりまだ言ってもいない台詞。

 言われた側は首を少しばかり傾げ、

 

「いいえ、そのようなことはございません。帝国であれ同盟であれ、軍は階級を尊びます。もしも、そのようなことが起こるのであれば、それは民主主義の軍隊よりも、帝国の軍隊のほうでしょうな」

 

 軍人としての階級以外にも、貴族という階級が存在する帝国である。

 

「そうか。分かった。バグダッシュ、結果を楽しみにまっておる。それでは両名、下がれ」

 

 両名を下げてから、彼女は控えているオーベルシュタインに、バグダッシュをも任せた。

 

「オーベルシュタイン、あなたの仕事をまた増やしてしまいますけれど、いいですか?」

「そのようなこと、お気になさる必要はございません」

「ではあの叛徒の管理、お願いね。あんな抜け目なさそうな、底が知れない男なんて、怖くて」

 

 ”その銃で撃てるのもなら撃ってみるがいい”と言い放った女が言って良い台詞かどうかは不明だが。

 

 オーベルシュタインが退出したあと、しばらく彼女は謁見を受ける椅子に座ったまま、カリンの有名な、「民主主義ってステキね。だって伍長が中尉さんに命令できるのだから。専制政治だったら、こうはいかないわ」なる台詞を反芻する。

 

―― 帝国ではごくごく普通にあることですけれどね

 

 恋人同士の睦言と好意的に解釈するには、少々面倒な主義思想が見え隠れしている、何とも言い難い台詞でもある。

 

―― 専制政治の社会でも、私がファーレンハイトに、そう、上級大将が元帥さんに命令できるわよ……それにしても”伍長が中尉さん”は可愛らしいですが”上級大将が元帥さん”は、微塵も可愛らしさがありません。ユリアンやカリンがどんな容姿かは分かりませんけれど、少なくとも私やファーレンハイトよりは可愛いでしょう……あ、なんかダメージが

 

 彼女の心の声が漏れたら「いや、ジークリンデさま、上級大将以前に大公妃ですから。皇位継承者ですから。あと可愛いですから」と、冷静に突っ込まれること請け合いである。

 

 彼女がそんなことをつらつらと考えていると、

 

「ジークリンデさま、銃を回収してもよろしいでしょうか?」

 

 いつ暴発するかもわからない銃を、彼女の前に放置しておくわけにはいかないと、キスリングが許可を求めた。

 

「ええ。緊張させてしまいましたね、キスリング」

 

 キスリングは早足で銃に近づき、手早く箱の中へと戻す。

 

「あの輩は何をするか分かりませんので、できればこのようなことは」

「絶対にしないと断言しませんけれど、もうしないつもりです。それでね、キスリング、その銃なんですけれど……」

 

 彼女は普通に整備した銃を、バグダッシュの足下に放り投げたわけではない。

 

「暴発?」

「ええ。銃身に細工をさせたの」

 

 彼女はルッツに、もしも引き金を引いたら、その人物が負傷するように細工するよう命じた。命じられたルッツは、使用の目的を尋ね ―― 当初は止めたが、頼まれてしまえば断ることもできず。わざわざ火薬銃に細工したのは、使い慣れているブラスターの場合、細工を見破られる恐れがあるのではと考えてのこと。

 

「前もって言ってくだされば」

 

―― 前もって言ったら、止められるからですよー。ヤン風の態度を取らないと、言うこと聞かないと思いましてね……そう言えたらいんですけれど、言えないのが辛いわ

 

「”私の専任護衛はとても優秀よ。賊が身の程を弁えず銃を握ったら、引き金を引く前に私の前にいるわ。もしかしたら、賊が引き金を引く前に、銃を打ち落としているかもしれないわね”そう言ったら、ルッツは細工を引き受けたわ」

 

 銃を収めた箱を小脇に抱えたキスリングは、身を守るものとして当然のことを述べる。

 

「ご信頼いいただけるのは嬉しいのですが、危険な真似はお止めください」

 

 彼としてもそう言ってもらえるのは嬉しいのだが、それとこれは違う。

 

「とても反省しているわ。本当にあなたが私の前に出て、その身を盾にしてしまいそうでしたから」

「それはまあ……」

 

 銃はルッツの元へと運ばれ、手入れされて戻ってくることになる。


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