黒絹の皇妃   作:朱緒

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第20話

 キスリングが彼女の警備に付けられた背景には、ファーレンハイトとフェルナーの昇進があった。

 ブラウンシュヴァイク公が私軍の維持管理を任せるためにファーレンハイトを、自らの元帥府の大将に昇進させ ―― なんの功績も収めていない状況での昇進なので、実力派将校からはやや白い目で見られたが、当のファーレンハイトは何処吹く風。

「くれるというもならば、もらっておく」

 他者がどう見ているかなど、ファーレンハイトには関係はなかった。ただ困ったのは、階位があがると同時に職務が増え、結果、ジークリンデの側に要られる時間が少なくなってしまったのだ。

 そして同じく階級を上げたフェルナー。こちらは艦隊戦など、分かり易い方法で出世している訳ではないので、准将になってもそこまで目立ちはしなかった。だが目立たずとも階位はあがり職務が増える。そこで新しい護衛を用意することになり ――

 

「ギュンター・キスリング准佐です」

 

 白兵戦が優秀で、運転技術も優れている若い准佐キスリングを新たな警備につけた。

 もっと上の階級でも用意できるのだが、彼らは総じて厳つかった。キスリングは新無憂宮の西苑に出入りする警備。ここに一目でオフレッサーの部下と分かるような風体の者は眉を顰められる ―― 建国理念からすると、オフレッサーやその部下のほうが理にかなっているのだが、現在は新無憂宮に合った警備というものが求められている。

 世の中にはあまり強そうには見えず、だが強い ―― というのは珍しくはない。ただあまりに弱そうに見えるのも困る。若き日のラインハルトのように喧嘩して勝てると見下され、頻繁に喧嘩を売られては騒ぎが大きくなってしまうためだ。

 

 才能は充分。見た目は侮られず、されど恐怖されず ―― これらの条件を満たすことができたのは極僅かで、その中の一人がキスリングであった。

 

 ギュンター・キスリングについて彼女は会ってはいないが”もちろん”覚えていた。

 彼がなにをしたか? と問われると、それほど答えられないのだが、ラインハルトの親衛隊長であったことと、ヒルダの親戚キュンメル男爵事件でなんか活躍(具体的なことは覚えていない)していたような気がすること。それとトパーズ色の瞳の持ち主だということを覚えていた

 直接会う前にフェルナーから履歴書を見せられ、しっかりとなでつけている髪と、健康的な顔とトパーズ色の瞳を確認して……彼なのだろうと確信し、彼に警備を任せることを承認した。

―― 名前、ギュンターなんだ

 名前を覚えていなかったことは、言うまでもない。

 そんなことはおくびにも出さず、少々緊張した面持ちで現れたキスリングの名を呼ぶ。

「ギュンター・キスリング」

「……」

 心地良い音色を思わせる優しげな声に、キスリングは言われた通り気負わず、すんなりと彼女の美しさに陥落した。

 

 昨晩彼はビッテンフェルトやオフレッサーに散々言われたのだ。

 絶対に好きになってはいけないと考えるな――と。あの美しさにひれ伏してしまえ、無駄な抵抗などするなと。

 一切抵抗せず、美しさを前にして忠誠を誓う。

 楽なほうに逃げたといわれればそれまでだが、

「ファーレンハイト、フェルナー。時間はありますか?」

「あります」

「ジークリンデさまのご命令とあらば」

 無意味な抵抗を続け、より深い奈落に落ちるよりならば、早々の降伏は建設的ですらある。

 

 

 五つのカップを用意させ、彼女はお茶を淹れる。

「明日、お二人にお茶を振る舞うの。その練習台になりなさい」

 彼女は女官長になる際に、一つくらいはそれらしい仕事ができたほうがいいだろうと考え、お茶を淹れる技術を身に付けた。細く長い指先が優美に茶器を操り、爽やかな香りと透き通る水色がカップを満たす。

 彼女が淹れるお茶は寵姫の二人にも好評で、

「また侯爵夫人が陛下にお願いしたんですね」

「伯爵夫人かも知れんぞ、フェルナー」

 皇帝に頼んでお茶会を開くことも珍しくはなかった。

「どうなんです? ジークリンデさま」

「どうでしょうね。グリューネワルト伯爵夫人はケーキを二種類作ってくださるそうですし、ベーネミュンデ侯爵夫人は詩を朗読してくださるそうですよ。キスリング、少しは期待してもよろしいですよ。グリューネワルト伯爵夫人のケーキはおいしいですし、ベーネミュンデ侯爵夫人の朗読は素晴らしいものですから」

 

 ”あしたカプチェランカにいきたいな”とキスリングが思ったとしても、責められはしないであろう。

 

 五つのカップのうち、一つはフレーゲル男爵の席に置かれ、それに誰も触れることなく茶を飲み、フェルナーとファーレンハイトは退出した。

 彼女は茶器を下げさせ、キスリングにいつも自分が持ち歩く最低限の物を見せた。

 何故そのようなことをするのか? キスリングには分からなかったのだが、

「フェルナーが、持ち物は全部把握していないと困るのでと言っていましたから」

 彼女はフェルナーがそう言ったので、そういうものなのだろうと疑っていなかった。フェルナーは最初、ただの好奇心で言っただけなのだが、彼女にとってフェルナーという男は、警備とか暗殺とか調査などが得意な男だという先入観があったので、疑わずに素直に受け取った。

 貴族の女性は普通は自分で荷物を持ち歩きはしない。小さなバッグは持つが、そこには僅かな物しか入っていない。

 扇子、レースのハンカチとあと少々 ―― 彼女のあと少々は貴族女性のそれとは少し違っていた。

「これはワセリン。これはガム」

 伯爵夫人の持ち物らしからぬ品。むろんワセリンは小さな化粧ケースに移し替えられ、ガムもそれ専用と思しきシックな箱に移されているのだが、

「ワセリンとガムですか? よろしかったら、使用目的をお聞かせ願いたいのですが」

 どう考えても、彼女が使うものには見えず、キスリングの感覚は正しかった。

「ワセリンはファーレンハイトの唇が荒れたときの為に。ファーレンハイトはそういったところが無頓着なので私が」

「あ、はい」

 なぜファーレンハイトの唇の荒れを彼女が気にするのか? 理解に苦しむキスリングに、

「荒れている唇で手に口づけられると、私の手が痛くて困るの」

 彼女はそのほっそりとした手を差し出して見せる。

 彼女が恥ずかしいので、滅多に手の甲にキスをさせたりはしないのだが、偶にすると唇が荒れていて肌に僅かな刺激を感じることがある。絹の手袋越しのときなど、荒れた部分が引っかかり毛羽立ってしまったこともあった。

「そういうことで」

 無論ファーレンハイトの唇は、人に不快感を与える程ではなく、気にしない男性ならば普通のことなのだが、繊細な彼女の手に触れるには適切ではなかった。

 なので彼女が持ち歩き、気付いた時には”塗りなさい”と言いつける。かしこまりました ―― ファーレンハイトは自分の唇に薄く塗る。

 以前、本人に持ち歩かせたこともあったのだが、基本、言われないと塗りはしないし、塗ったとしても”あの”貧乏性から、あまりにも薄く塗りすぎて意味がないので、彼女が責任を持つことにした。そもそも、唇が荒れて困るのは、指先にキスを受ける彼女だけなので。

 それとワセリンなのは、最初は少々値の張る男性用化粧品を用意したのだが、あまり高価なものを用意してもらうのは悪いと言い張ったので、妥協案としてワセリンとあいなった。

「キスリングの唇はどうかしら?」

 ゆったりと彼女は右手を伸ばし、キスリングの前へと持ってゆく。

「あのっ……」

「挨拶よ。口づけなさい」

 彼女自身苦手なのだが、部下が咄嗟の時にできなければ困ると ―― 結局キスリングは、かつてのミュラーと同じく手を両手で取って、触れるか触れないかの口づけをしたのだが、その姿はやや不格好であった。

「平民は苦手なようね」

「申し訳ございません」

「謝る必要はないけれど、西苑で寵姫の皆様の手に挨拶をする栄誉を賜る可能性もありますから、私の手で練習なさい」

 そう言い微笑んだ彼女を前に、

 

”ジークリンデさまに悪気はないからな”

”ジークリンデさまは、好意はなくとも優しくしてくださるからな。覚えておけ”

”ご自分のお美しさを正確に認識していない”

”厄介なことに、ここ数ヶ月でさらにお美しくなった”

 

 フェルナーとファーレンハイトからの注意を思い出し、どうにかして自宅で練習する決意をした。残念ながらキスリングにはこの手の挨拶の練習に付き合ってくれる彼女はいないのだが ――

 

 ワセリンの説明の次はガム。

「ガムは香り玉の代わりです。フェルナーは香り玉の味が苦手で……香り玉をここに」

 宮廷作法など知る由もないキスリングは、香り玉と聞いてもピンとこなかった。彼女もかつての自分のことを思い出し、召使いに現物を持ってこさせた。

 それは名の通り香り付きの玉状のもので、口に含むもの。

「宮中の女官は吐息にも注意を払う必要があるから必須なの。男性は絶対ではないけれど、やはり西苑に出入りするなら含んでいたほうが良いとされています。ファーレンハイトは平気でしたけれど、フェルナーが苦手でね。それでガムで代用することになったの。キスリングはどちらが良いかしら?」

 香り玉が苦手なのは仕方なく ―― 香り玉に慣れるために飴で練習することもあるので、その飴を使わせたのだが、フェルナーは飴は舐めずに噛み砕くタイプであったため、結構な場面で飴を噛み砕き異音を上げる。あのリヒテンラーデ侯の前でも平気で悪びれず噛むような男なので、飴よりは静かなガムとなった。

「香り玉でも平気かと……」

 キスリングは口に入れた当初は違和感があったが、すぐになれた。

「香り玉でも平気です。これラベンダーですか?」

「ええ、私のお気に入りで、今も含んでいるわ。同じ香りね」

 微笑んで微かに吐息を頬にかけられ ―― 気恥ずかしくなり、別の香りの物を用意してくれるよう頼むにいたった。

 

 

 そして翌日、寵姫二名と皇帝と彼女のお茶会を、キスリングは少し離れたところから警護することになる。三人とも美女と表現するに相応しく、ただキスリングには彼女が一番美しく見えた。

 しばしば華やかな笑い声がキスリングの耳にも届き、三人が仲良さそうにしているのを見守り ―― 警備としては些か頼りない雰囲気で。

 フリードリヒ四世が昼寝をすると、ベーネミュンデ侯爵夫人はすかさず彼女に茶器を下げるよう命じた。

 彼女のことを気に入っているので、そのようなことをさせることは”滅多”になく、

「キスリング。ご挨拶なさい」

 なにをしたいのか? 過去の経験から彼女もすぐに分かったので、離れたところで警護していたキスリングを呼び席を外した。

 膝をついて頭を下げて挨拶したキスリングに、

「立て」

 先程まで詩を吟じていた声よりも少し低めの声で命じた。

 立ち上がったキスリングをベーネミュンデ侯爵夫人が値踏みするように、グリューネワルト伯爵夫人は侯爵夫人ほど露骨ではないが、やはりなにかを探るように。

 皇帝の寵姫二人に凝視されるという、僥倖というべきか否か? どうであれ、キスリングには何も言うことなどできず、ひたすら時が過ぎるのを待った。

「どちらが選んだとおもう? アンネローゼ」

「前任のフェルナー准将ではないでしょうか? シュザンナさま」

「だが、決定権はファーレンハイトのほうにありそうじゃからのう……じゃが、どちらにしても、ジークリンデの好みをよう分かっておらぬのう」

「シュザンナさま」

 

 当初はなにを言われているのかさっぱり解らなかったキスリングだが、会話を聞いていてなんとなく見えてきた ―― キスリングの見た目は前任の二人と方向性がまるで違う。前任の二人も違う方向だが、キスリングに比べると同じカテゴリーにギリギリ入る。

 

「もう少し、痩せた男のほうが好みじゃろうに」

 二人とも初見が”痩せている”ように見えるのだ。キスリングは軍人の標準 ――

「偶々連れているのが痩せているだけだと言っておりましたが」

「近くにいる男を思い出してみい。ジークリンデをおいて逝ったフレーゲルの愚かものに、リヒテンラーデ、そしてファーレンハイトにフェルナーと、どれも痩せておる。あれは無意識のうちに痩せた男が好きなのじゃ」

「確かに痩せておりますね。あと……少し、しっかりし過ぎかと」

「やはりアンネローゼはよく分かっておる。フレーゲルも、こればかりは我が儘を聞くべきではなかった」

 容姿から徐々にまた話題が変わり、見えなくなったところで、

「ベーネミュンデ侯爵夫人、グリューネワルト伯爵夫人。片付け終わりました……キスリング、失礼なことはしていませんね」

 彼女が戻ってきて、キスリングは解放された。

 寵姫二人は昼寝をしているフリードリヒ四世の元へ。そして ――

「痩せている……ですか」

 なにを話していたのかを聞き、寵姫の二人に訂正するのは既に諦めている ―― 二代目になるフェルナーを連れていった時に、散々言われた ―― が、キスリングには訂正しておくことにした。

「はい」

「私は痩せている男性が好きなわけではありませんよ。それにファーレンハイトもフェルナーも、痩せて見えるだけですからね」

「はい」

「他になにかありましたか?」

「小官のことをしっかりしていると……どうしてかは分かりませんが」

「私にも分かりませんが、褒められたのですから喜んでおきなさい」

「はい。……以上です」

 ”我が儘を聞くべきではなかった”に関しては、キスリングは口を噤んだ。勘が働いたというよりは、話していた二人の表情が悲しげであったことから、話してはならないものだろうと判断したのだ。

「そうですか」

 

**********

 

 自分が臆病であることを、彼女は自覚している。

 

 ある日、実家から連絡があり彼女は帰宅する。この頃、父親の体調が優れないので、その看病という名目で、公爵邸内の男爵邸を出て、自宅に帰ろうと彼女は考えていた。

 キスリングが運転する車で自宅へと戻る途中、

「メルカッツ提督のご自宅の側なんですね」

「え?」

 彼から意外なことを聞かされた。

「メルカッツ提督というのは」

「知ってます。ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ上級大将閣下ですよね」

 実家の近くにそんな有名な提督が住んでいたことを知らなかったことに驚いた彼女だが ――

「伯爵夫人がご結婚なされてから越してきたはずです」

「そうなの」

 彼が家族と共に、閑静な住宅地に越してきたのは、彼女が嫁いでから六年後のこと。

 社交性があまりない帝国の宿将は、華やかな門閥貴族将校に嫁いだ彼女の実家に近づくことはなかった。

「提督にはたしか、お嬢様がいらっしゃいましたよね……どうしました? キスリング」

 キスリングがあまりにも”えっ”という表情をしたので、彼女は思わず尋ねてしまった。表情を崩してしまったこと、それを見咎められたキスリングは急いで質問に答える。

「いいえ、済みません。メルカッツ提督のお嬢様、正確な年齢は存じませんが二十代後半で、お名前はたしかベルタ嬢とおっしゃったはずです」

 キスリングは濁したものの、ベルタの正確な年齢も知っている。ベルタは二十八歳で独身 ―― 二十歳の彼女が”お嬢様”というには些かおかしく、思わず表情に出てしまったのだ。キスリングが何故年齢などを詳しく知っているのかというと、軍もやはり上司の娘を貰って出世する……というのがある。

 だからメルカッツの娘に関しても、それなりの情報は出回っている。

 真面目で誠実過ぎるメルカッツだが、彼の娘と縁を結び、あわよくば……考える者はいるのだ。

 最近、メルカッツの幕僚長にミュラーが就任し、年の頃も近いので、紹介してもらったらどうだ? と周囲にはやし立てられ、拒否している最中に口を滑らせて ―― 中尉時代の失恋話を語るはめになった。

「教えてくれてありがとう」

「いいえ」

 メルカッツが貴族連合の将となった理由でもある妻子。それが実家近くに住んでいる。

―― 現在のブラウンシュヴァイク公は盟主になることはないから、リッテンハイム侯側がメルカッツを……私が保護するというのもおかしいし、私にそんな余裕もないし

 妻子の安全について考えれば考えるほど、どうして良いのか分からず ―― 彼女には難し過ぎた。

 

 こうしてメルカッツ邸を通り過ぎ、

「ラルフ。地上車を。キスリングは一緒に」

 伯爵邸へと戻り、地上車を運転手のラルフに預け、キスリングを連れて邸へと入った。彼を父と兄へ紹介するために ――

 

「エルフリーデ・フォン・コールラウシュです」

「初めまして。ジークリンデ・フォン・ローエングラムと申します」

 キスリングを紹介した後、まさかのエルフリーデの登場に彼女は焦った。何度経験しても「登場人物との邂逅」は焦るもので、先を読もうと必死に記憶を探る ―― とは言っても、記憶はすでに二十年も前のもので、よほど大きな事件でもない限り覚えてはいない。

 エルフリーデの存在は二十年経っても消えないもので、思わず自分の兄の双眸をまじまじと見て、両眼がたしかに青色であることを確認し ―― 兄は決してオスカーではなく、ロイエンタール家からの養子でもないので、エルフリーデが幸せになれることを心から喜ぶことにした。

 実は兄とエルフリーデの婚約は、随分と前に決まっていたのだが、彼女の夫フレーゲル男爵が死亡したため告げるのを先送りにして、

「そろそろ告げても……いいかと」

「もっと早くに教えてくださっても」

 完全にタイミングを逸してしまい、とうとう告げないとマズイような段階になって ――

「兄のこと、よろしくお願いします。おねえさま」

「私こそよろしく」

 やっと紹介にいたったのだ。

 

 エルフリーデは彼女と同じリヒテンラーデ侯の一族で、彼女よりも四つ年上。兄より二つ年上となる。彼女とエルフリーデが出会わなかった最大の理由は、エルフリーデの両親はリヒテンラーデ侯の甥と姪だが爵位を持っておらず、リヒテンラーデ侯領の一つを任された地方領主であり、オーディンに出てくる機会がなかったこと。

 その後エルフリーデは十三歳で両親を失い、一族の庇護のもと生きることとなる。苦労とは無縁の生活を送り、二十歳のときに兄と出会い三年の付き合いを経て正式に婚約が整った。

 両親を早くに亡くした彼女は、家族ができることをとても喜んでおり ―― 彼女は新たなる家族の出現に、なんとしてでも一族を救わねばという決意を新たにした。

 

 少し体調が良さそうな父と話し、仮縫い中のドレスを着用した姿を見せてもらったりして、夜更けとなり ―― 引き留められたが彼女は男爵邸へと帰ることにした。

 本当は男爵邸を引き払い、自宅に帰ってくるつもりであったが、兄が妻を迎えるとなれば別。

―― 考えてみたら、兄もそろそろ結婚しておかしくない年だもんね……小姑が出戻ったら夫婦仲に亀裂が……それだけは避けたい

 どこかに邸を構えて一人暮らし……そのように考えた時、彼女はひどく心細くなった。世の中には一人暮らしの女性など大勢いるし、生前の彼女も一人暮らしを経験していた。

 この世界での一人暮らしというのは、一人きりではなく召使いも雇うので、本当に一人きりではない。

 

 意味が違うのだ。

 

 男爵邸へと戻り寝る用意を調えベッドに入り、目を閉じるが暗がりが怖ろしくなり、すぐに目蓋を開き、ナイトライトを灯して枕を抱きしめる。

―― ……ロイエンタールの母親が浮気した気持ちが少しだけ分かる……気がする

 一人きりのベッドで、これから訪れるであろう死について考えると、ひどく人肌が恋しかった。それも頼りない同性の肌ではなく、逞しい男の体。

 だがそれ以上に欲しかったのは、諦めてしまったもの ――

「子供……ほし……」

 それは自分の子。

 フレーゲル男爵は彼女の願いならば、なんでも叶えた。彼女が十年間は二人きりで過ごしたい、二人きりがいいと言った時も、男爵は聞き入れてくれた。

―― ジークリンデは私の側にいるときは、まるで子供のようだな。それもまあ、良いのだが。他に欲しいものはあるか? ん、なんでも言ってみろ ――

 ベーネミュンデ侯爵夫人が「言うことを聞くべきではなかった」と漏らした理由。自分の子が望めぬ侯爵夫人は彼女の子をとても期待していた

 その純粋な期待と、心よりしてくれるであろう祝福。

 だが二十歳から二十一歳にかけて訪れる嵐を、無傷で乗り切れる自信がなかった彼女は、子供を作ることを避けた。もしも何もかもなくしてしまった時、子供を一人で育てる自信は、彼女にはなかった。また難局を無事に乗り切れたとしても、どのような生活が待っているのかも分からない。

「きっと……でも」

 決断を間違ってはいないと言い切れるのだが、子供がいてくれたらこれ程寂しくはなかっただろうと後悔もしていた。

 フレーゲル男爵は二人きりがいいと言った彼女の頭を撫でて、何度も子供だなと繰り返した。生前の記憶がある彼女は、頭を撫でる男の手の下で”年齢合算すると、実は年上なんですよ”と思っていたが、そうではなかったのだと。

 

―― 私は本当に子供だったんだと思う。そして今も

 

 その夜彼女は少しだけ、ラインハルトがいなければ良かったのに……と思った。


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