フレーゲル男爵の妻ジークリンデは「存在したかもしれない介入者」である。
ジークリンデ・フォン・フライリヒラート。
彼女はフライリヒラート伯爵家の長女として生まれた。
誕生した当初は当然のことながら記憶などなく、五歳を超えた辺りから「覚えがあるような気がする」とは思っていたが、誰かに語ることはなかった。この時点では夢でも見ているのだろうと考えたのだ。
夢と考えたのには理由がある。
裕福でそれなりに地位のある貴族の家に生まれ、優しい両親と兄に囲まれ、ジークリンデ自身も才能や容姿に恵まれ ―― まさに夢のような状況であった。
だが四歳になったあたりで、これは物語と同じような世界であり、逃れられない現実であることを知る ―― 母親の死によって。
母親が死なないように必死で祈るも、願いは通じることはなく。後味の悪い夢だと目覚めを望んだが叶わず、ジークリンデは自分がこの世界で生きていることをはっきりと自覚する。
そして十歳のときに将来が判明した。
十五歳の下級貴族の娘、アンネローゼがフリードリヒ四世の寵姫となった。この事件はジークリンデもしっかりと覚えていた。
アンネローゼという絶世の美女に、ラインハルトという姉に勝るとも劣らない美貌の弟がおり、彼は姉を奪った皇帝を倒し、貴族たちをも排除しようとしていることを。
ただ残念なことに、ジークリンデは生前……かどうかは神のみぞ知るのだが、ともかく彼女は銀河英雄伝説を読みはしたが、マニアというほどではなかったので、登場人物を全て網羅しているわけでも、会戦の名前や作戦などを全て正確に覚えているわけでもない。その辺りは読み流した程度。書かれている艦隊の動きが今ひとつ分からなかった ―― のが原因。
前世のジークリンデにとっては人間関係と、キルヒアイスとラインハルトの仲がこじれて取り返しがつかないことになったり、太股を撃ち抜かれてヤン・ウェンリーが死亡したりなど、鮮やかに描かれた登場人物が不合理な死を迎えるところに興味を引かれた読み物であった ―― それでも面白かったので、彼女にしては随分と記憶に残っているほうである。
ともかくアンネローゼの出現により、ある程度現在の時間と残された時間を把握した彼女は、物語には存在しなかった自分が生きる道を模索しなくてはならなかった。
まず彼女が知ったのはフライリヒラート伯爵家はどこに属しているかということ。これは簡単に判明した。フライリヒラート伯爵家は国務尚書リヒテンラーデ侯の係累。
この立場の女性、本編においてリヒテンラーデ侯がキルヒアイス謀殺の罪に問われて失脚、処刑されると同時に辺境へと送られる。
だが彼女はそのことをはっきりと覚えてはおらず、貴族のほとんどはフレーゲル男爵が戦死したリップシュタット盟約後に死ぬと判断した。
むろんリップシュタットなど固有名詞は覚えてはいない。「童貞(ラインハルト)がヴェ……なんとか(ヴェスターラント)に核攻撃した(誤)結果、貴族たちは負けた(正)」程度にしか記憶していない。
本編に沿えば、その時期になにもかも失うので遠からずも……といったところではあるが。
夢と間違うほどのよい生活を手放す気にはなれない彼女は、ラインハルトが台頭しても生き延びられる道を考えて、オーディン帝国大学を目指すことにした。
その大学には将来ラインハルトの皇妃となるヒルデガルト・フォン・マリーンドルフ、通称ヒルダ ―― 通称にしてしまうのならば、最初からヒルダでも…… ―― が入学する。そのヒルダと親交を深め、寵姫であるアンネローゼの懐にはいり、助命嘆願してもらおうと考えた。
それともう一つ、ヒルダの親戚、マクシミリアン・フォン・カストロプと会い、彼を若干まともな貴族にして、門閥貴族の指揮官にしたいとも考えた。
マクシミリアンは社会人としてはまるで駄目な男、銀河帝国のちょっと凶暴なマダオなわけだが、彼には軍事的才能があるとはっきりと書かれていた。そのことを覚えていた彼女は、マダオ(凶)を軍人にしたて、敵となるであろうラインハルトの忠実な部下キルヒアイスを、カストロプ動乱に葬ってもらおうと ―― 取り入るのと排除、両方から攻める手段をとったのだが、世界はジークリンデが想像していなかった方へと進む。
まずオーディン帝国大学を目指すために、詳細を確認する。だがここでヒルダが何学部に通っていたのか? 彼女には全く覚えがなかった。
原作に書かれていなかったのでは? と思うほど、なにも思いつかなかった。経済学部か法学部だろうとは思ったものの、どちらなのか? 決め手がない。
ゆえに”そこ”は保留した。
さてジークリンデ、彼女は生前ピアノに親しんでいた。彼女の趣味であり、かなりの腕前であった。残念ながら生前(?)はピアニストになるには少々どころではなく資産が足りなく、多くの者と同じようにピアニストの道は諦めた。
だが今は資産ある貴族の娘として生まれ、父親は彼女のピアノの才能を喜び ―― 彼女に音楽の教師をつけてくれた。
「ジークリンデさまは、古典音楽がお好きだとか」
「はい……」
銀河英雄伝説本編とはちがい、音楽は鮮烈な記憶があり、楽譜を見ずとも弾くことができる……知らない古典音楽を弾きこなすのは危険だと考えて、古典音楽の楽譜を手に入れ、それを元にピアノを弾いていた。
新しい楽譜も良かったのだが、古典音楽は彼女にとって特別であった。
父であるフライリヒラート伯は、娘が古典音楽をこよなく愛していることを知己に語ったところ、彼の妻が古典音楽を教えていると知り ―― 娘の家庭教師を依頼した。
その家庭教師、マリーンドルフ伯爵夫人。ヒルデガルトの母親である。
伯爵夫人に古典音楽を習いながら、彼女はヒルダの情報を集めた。彼女が記憶しているのと同じくヒルダは活発で、
「楽器には興味を持ちませんわ」
「そうなのですか」
楽器の類には近づかない。音楽を聴くことはあるが、自ら奏でる趣味はない。貴族の男子よりも活発で、野山を駆け巡っているような少女であると。
「伯爵夫人のご令嬢に、いつかお会いしたいです」
―― むしろ今すぐ会いたい。お近づきになりたい!
思ったものの、なかなかそう上手くはいかなかった。
それというのも伯爵夫人が病を患ったため、家庭教師を辞すことになったためだ。伯爵夫人は後継の家庭教師を紹介する代わりに、友人の男爵夫人と彼女を引き合わせた。
その男爵夫人、マグダレーナ・フォン・ヴェストパーレ。アンネローゼの数少ない貴族の友人であり、ヒルダの知り合いでもある。
こうしてピアノの練習を続け、男爵夫人と交友関係を結び、芸術大学でも目指そうかと考えていた矢先、伯爵夫人が病死した知らせを受け取った。
このときジークリンデ、十一歳。
人脈の切欠を作ってくれた恩人の葬儀に是非とも ―― 願ったが、それは叶わなかった。
「結婚ですか?」
彼女に突如結婚が持ち上がったのだ。
相手はあのラインハルト・フォン・ローエングラムを金髪の孺子と蔑み、愚劣な門閥貴族の代名詞のような男フレーゲル男爵十九歳。
士官学校を貴族の名で卒業し、すでに少佐にまで階位を進めている ―― ラインハルトが二十歳元帥なのに比べると、涙が出て来そうだが、十九歳で少佐は充分過ぎる階位である ―― 将来有望な貴族青年である。
リヒテンラーデ侯とブラウンシュヴァイク公の間で決められ、準備期間もなく、式を挙げることもなく結婚という事実のみを求められた結婚。
ジークリンデ・フォン・フライリヒラートはフレーゲル男爵夫人となり新憂無宮へ。
銀河英雄伝説という物語の世界に生を受けたが、物語には一切登場しなかった。だが存在したかもしれない。その彼女が歴史に介入し ―― その結果、夫であるフレーゲル男爵の爆死。