黒絹の皇妃   作:朱緒

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第199話

 ミッターマイヤーに完膚なきまでに叩きのめされた彼女だが、不機嫌になることもなく、

 

―― シミュレーションとは言え、ミッターマイヤーと対戦できました!

 

 むしろ記念になると、大喜びであった。

 だが自分は良いが、わざわざ時間を割いて、編成をしてもらったのにも関わらず、利点を生かす以前の問題で負けてしまったことに対し、協力してくれた者たちには悪いことをしたと。

 フェルナーと共に編成を手伝ってくれたファーレンハイトに、見事な艦隊編成してもらいながら、何も出来なかったことを詫びた。

 詫びられた方は、気にすることはありませんと ――

 

「対戦データ見ます?」

 

 彼女が去ったあと、同じように詫びられたフェルナーが端末を取り出す。

 

「ああ」

 

 彼女とバイエルライン、そして彼女とミッターマイヤーの対戦記録を再生した。

 

「随分と頑張られたのだな」

 

 まったく実を結んではいないが、努力しているのは分かる動き。だが戦場では努力だけでは無意味。結果を出してこそ価値がある。

 

「ええ、まあ。バイエルラインが四苦八苦するくらいには。でも、これがただの部下なら、あなた、見捨てるんでしょう?」

「見捨てはせん。囮として使うだろうが……まあ、ジークリンデさまの場合は、実戦ならばミッターマイヤーにも勝つだろうがな。人間を従わせる能力が格段に違う」

 

 人は暴力や金銭などで服従するが、それを越えるものが存在する、カリスマである。

 多くの将兵を率いることになる指揮官は、大なり小なりカリスマが必要。どれほど戦略の成績が良くとも、カリスマ性に乏しいと指揮官にはなれない。

 

「ミッターマイヤー提督も、似たようなことを言っていましたよ。実際の人間を指揮するのであれば、生まれながらの支配者である大公妃殿下には到底及ばないとね」

 

 彼女は神の恩寵とも言われるそのカリスマが、抜きん出ている。

 

「生まれながらの支配者か。確かにな」

「ところでファーレンハイト、あなたジークリンデさまにミッターマイヤー提督が”疾風ウォルフ”と呼ばれていることや、その理由などを教えましたか?」

「するわけなかろう。そんな無駄で意味のないこと」

「ですよねー」

 

 フェルナーは、彼女がミッターマイヤーの用兵を対戦前から知っていたことや、彼が”疾風ウォルフ”と呼ばれていることを知っていたことなどを教えた。

 

「どこでそんなことを」

 

 眉をひそめてファーレンハイトは、そんなことは一切語っていないと断言する。

 彼が彼女に話す軍関係のことは、費用や工廠や新造艦について程度で、個々の用兵などを語ることは絶対にない。

 

「あなたではないとは、思っていましたが、念のために」

「エッシェンバッハ公は?」

「エッシェンバッハ公とランチの際に、それに関する話をしていたか、キスリングに聞きましたが、さすがにかの元帥も、そこまで空気が読めないお方ではなかったようで」

 

 ラインハルトは政治や軍事においては豊富な知識を持ち、含蓄のある例えなどを考えつく男だが、ただの男女の会話になると、途端に駄目になる。

 一緒に昼食を取っている時の会話 ―― さすがに戦場の話は食事時に相応しくないのは分かっており、それ以外の無難な話題を捜すも、彼にあと残っているのは政治とアンネローゼとキルヒアイスくらい。

 以前であれば、アンネローゼとキルヒアイスのことを話題にしたのだが、 ―― いままでアンネローゼは弟の夫婦関係に口だしはしなかったが、さすがにこのままでは……と、見かねてアドバイスをし始めた。

 その一つに、自分やキルヒアイスのことばかり話さないようにというものがあり、ラインハルトは敬愛する姉のアドバイスを愚直に守る。アンネローゼはそれ以外にも、菓子や劇、音楽や絵画などを学んで話題にしなさいと教えたのだが、勉強が足りないということで、結果、彼が得意とする政治についてばかりの話に。

 

 彼女はと言えば、相手が何を言っているのか分からなくても、相手が気分よく話せるように話を聞くことの名手ゆえ、ラインハルトの口は滑らかになり、次々と難しい政策を語り出す。

 話が分からなくなればなるほど、難しくなればなるほど、彼女の笑顔は慈悲深く親愛の情に溢れ、話している内容を意味を完全に理解せずとも、聞き漏らさぬようにし、的確な質問をする ―― 返ってきた答えの意味が分かるかどうかは、また別物だが、とにかく彼女の質問は的確で、冴え渡っている。

 

 傍からみていると、とても高尚な会話を楽しんでいる尚書夫妻に見え訳だが。

 

「ジークリンデさまは、聞き上手だからな」

 

 男の自尊心を擽る上手な質問と、会話したくなる態度と笑顔。偶に「分からないので、もう少し詳しく教えてくださいます?」と尋ねるタイミングは絶妙の一言で、相手の気分を良くする。

 

「指示出すのも、上手ですよね。リヒテンラーデ公仕込みとでも言えばいいんですか」

「血筋と育ちの両方が揃っているからな……」

 

 ファーレンハイトとフェルナーの端末が同時に、同じ音を上げる。

 二人とも無言で画面を見て、

 

「キスリングには、湯温を上げるなと命令しているのだがな」

 

 彼女の浴室の湯温が41℃を越えているのを確認し、ファーレンハイトがため息をつく。彼らの端末には、彼女の浴室の湯温が40℃を越えると通達がくるようになっている。

 

「あんたの命令と、ジークリンデさまのお願いなら、比べるまでもありません」

 

 フェルナーは湯上がりに持って行く飲み物の量を増やすべく、厨房に指示を出す。

 

「そんなことは分かっている。お前も散々俺の命令を聞かなかったしな」

 

 キスリングは二人に湯温が届いていることは知っているが、彼女に「内緒よ」と言われて頼まれては、断れるはずもない。

 

「私が来る前に、甘やかせるだけ甘やかしていた人に言われたくないですね」

「俺がジークリンデさまを、甘やかせるだけ甘やかしただと。……そう言われても仕方ないが、後悔はしていない。むしろ、もっと甘やかすべきだと思っている」

「私も同じ意見です」

 

**********

 

 彼女の執務室はどの省も同じ作りで、調度品もほぼ同じ ―― そうは言っても彼女が選ぶ品は一点ものが多いので、同程度の価値のある品を揃えて、差を付けないよう配慮している。

 その日の彼女は宮内尚書として、護衛のキスリングと従卒のエミールを伴い、宮内省内の執務室へと足を運んだ。

 ドアの両側の衛士の敬礼を受け、執務室へと入ると、室内で待機していたオーベルシュタインが頭を下げる。

 彼女は挨拶に軽く応えてから、執務机へと近づく。

 机上には、数枚の書類と、その隣に十五㎝四方のラッピングされた箱が置かれていた。

 形状といい厚みといい、

 

―― 私の経験からするとネックレス。チョーカーほど首にぴったりではなく、鎖骨に掛かる程度の

 

 宝飾類なのは間違いないだろうと予想する。

 エミールが椅子を引き、彼女は腰を下ろして、まずざっと書類に目を通してから、箱についてオーベルシュタインに尋ねる。

 

「ジークリンデさまへの贈り物です。ペクニッツ公から」

 

―― 間違いなく、アクセサリーですね

 

 彼女はエミールに開けるよう指示する。

 

「彼が使って良い範囲内ですか?」

 

 以前の借金を自力で借金を返済していない彼は、また債務者になる可能性が極めて高く、収支には注意するよう、特に後払いなどは絶対にさせぬよう、彼女は指示を出していた。

 

「範囲内ですので、ご安心ください」

 

 急いでラッピングをはぎ取り、ケースを開けたエミールは彼女の前へと差し出す。

 中身は彼女が予想した通り、ネックレスだったのだが、

 

―― あら意外。象牙ではないのですか

 

 プラチナとアメシスト製で作られたもので、象牙は一切使われていなかった。

 彼女はそのネックレスを手に取り、首を傾げる。

 

「範囲内なのは分かるのですが、私はその領収書を見ていませんよ」

 

 上記のような指示を出しているのだから、当然彼が購入した物品の領収書には目を通すと告げていたのだが、このような品を買ったという領収書に彼女は目を通してはいなかった。

 オーベルシュタインは、血色の良くない肉付きの薄い顔に似合わぬ、ほとんどの者が、そんな表情もできるのかと驚くような、穏やかで感情ある表情で、彼女の疑問に答えた。

 

「ジークリンデさまへの贈り物ですから。事前に贈り物の中身がバレては困ると、宮内の次官に泣きつきました。その報告を受けた私が許可を」

「ハルテンベルク伯に泣きついた……ですか」

 

 言葉の綾としての”泣きついた”なのか、本当に涙を流してハルテンベルク伯に頼み込んだのか? 彼女は少し気になったものの、聞いても仕方ない上に、もしも後者であった場合、この先、どんな顔でペクニッツ公爵に会えばいいのか分からなくなるので ―― 知ることはできたが、あえて聞かないで終わらせた。

 次に泣きつかれたハルテンベルク伯を呼び出し、ある程度の買い物は許すが、逸脱しないように見守り、時には指導するよう指示をする。

 

「ときにハルテンベルク。そなたの義弟、あのリヒャルト皇太子の落胤と名乗っている男に付きまとっていると聞いたが」

 

 リューネブルクはハルテンベルク伯の領地で、夫婦仲良く暮らしているものだとばかり思っていた彼女は、旧グリンメルスハウゼン邸に出入りしていると聞かされた時、すぐに「喧嘩しているのでしょう」と ―― この二人が仲良くしている姿は、さすがの彼女でも想像できなかった。

 

―― リューネブルクとシェーンコップって、こう……なんか。どちらかが死ぬまで、収まりがつかないような。近親憎悪なのかもしれませんが

 

 もう彼女の耳に入ったのか! と、ハルテンベルク伯が彼女に弁明しようと口を開くも、それを最後までは言わせず。

 

「咎めておるのではない。むしろ義弟の行動を制するでない」

 

 彼女からの意外な言葉に、ハルテンベルク伯は言葉に詰まる。彼女は上手く口が動かない伯を見つめ、

 

「そなたの義弟にしてやられる程度ならば、それまでの男。帝国を背負える男ではなし。そうであろう? ハルテンベルク」

「……」

 

 言われた方がどう答えれば正解なのだろうかと、悩むようなことを言い出した。

 

「言葉が足りずに、誤解される恐れがあるな。私はそなたの義弟を軽んじているわけではない。むしろ高く評価しておる。だからこそ、そなたにこのような指示を出したのだ。私としては、たとえ、そなたの義弟がワルターを殺害しても構わぬ。だがそなたは、義弟に殺害しろとは命じるなかれ。理解したな、ハルテンベルク」

 

 ハルテンベルク伯は彼女の本心を理解できず、それに焦り目を見開き、額に汗が浮かび、口内が緊張で乾ききった。

 ハルテンベルク伯をまっすぐ見ていた彼女は、顔の位置を動かし、やや斜めから見て、

 

「そなたは、言われたことを理解しておれば良い。私の本心を知ろうとするな。知ればそなたは破滅する。理解したな? ハルテンベルク」

 

 そう告げてから目蓋を閉じた。

 目を閉じて動かぬ彫像のような彼女の横顔に、ハルテンベルク伯は頭を下げる。

 

「御意にございます」

「そうそう、ハルテンベルク。宮内尚書にならぬかえ」

 

 ハルテンベルク伯が予想以上に優秀だったこともあり、彼女は尚書の座を譲っても良いのではないかと考え「どうですか?」と尋ねたのだが、言われた方は先ほどまでの脂汗が一気に引き、背中に冷たいものが走る。

 

「この非才なる身には、次官の責務を果たすのが精一杯にございます」

「そうか。宜しい。ハルテンベルク下がれ。ゼッレ、文箱を」

 

 彼女はペクニッツ公爵に礼状を書くために、ハルテンベルク伯に退出を命じた。伯は彼女が見ていないことを知っていても、深々と礼をし扉の前で再度礼をして、退出する。

 

 彼女は万年筆の手に取り、真っ白な便箋をしばし見つめてから、幾つかの定型文を上手く組み合わせて礼状を書き、

 

―― ……ご招待したいのですが……違うわ。来て下さいのほうが、きっと良いでしょう

 

 最後にお礼にと、新無憂宮内の彼女の邸への招待を認め、便箋の端をしっかりと合わせて丁寧に折り、封筒に入れて蝋封を施した。

 

「ゼッレ、下げなさい」

「はい、大公妃殿下」

 

 エミールが便箋やインクなどを片付けている最中、オーベルシュタインは彼女にハルテンベルク伯の義弟ことリューネブルクをどうするかを尋ねた。

 

「本当になにもせずとも良いのですか」

「ええ。必要はありません。どちらも叛徒の集団の中ではありますが、隊長職までつとめた立派な成人男性。思慮や分別くらいはあるでしょう。なければ死ぬだけ。……ああ、でもオーベルシュタインが考える策にとって、それでは困るというのであれば、何でも言って」

 

 彼女としては三十過ぎた、ちょっと腕力で物事を解決するきらいのある男二人など、喧嘩していようが、言い争っていようが、間を取り持ち仲良くさせる気にはなれないし、

 

―― 出来るはずもないです

 

 調停など自分の手に余ると。

 

「なんら問題はございません」

「そう、良かった」

 

 以降、グリンメルスハウゼン邸で二人が言い争っている姿が、監視の兵士によって頻繁に目撃されている。

 

**********

 

―― キルヒアイスが帰ってきて、ある程度落ち着いたから……なんでしょうね

 

 彼女は宮内省での仕事を終えて、エミールを邸に帰してラインハルトの元帥府へとやってきた。

 従卒を帰した理由は、子供には不適切な状況を見せる訳にはいかないというもの。

 

「待っていた、ジークリンデ」

「お待たせいたしました、ラインハルトさま」

 

 以前よりはずっと自然に彼女を抱きしめるラインハルト。

 その様を見つめるキスリングの心中は、複雑であった。それというのもラインハルト、キルヒアイスがイゼルローン攻防戦に出征している間、彼女との同衾を控えていた。

 理由はと言えば「キルヒアイスが戦いに赴いている間、自分だけが満たされた生活を送るわけにはいかない」というもの。

 今まで共に戦ってきた半身同士が、初めて別々の状況になった結果がこれである。

 ラインハルトに言われた彼女は、

 

―― 半身持ちって大変ね。世のお嬢さんたち、半身持ちとは結婚すべきではありませんわ

 

 原作でキルヒアイスは死んでしまったのに、自分は家庭を持って幸せになっていいのかと悩んでいたような記憶があったので、この発言も分かるとあっさりと受け入れた。

 彼女が受け入れても、脇で聞いている護衛にしてみると「なんだ、それは」状態。もちろん、護衛なので口を挟むような、分を弁えぬ非礼な行動は取らなかったが、間違いなく彼の地雷を踏んでいた。

 

「こちらに来てくれ」

 

 ラインハルトは彼女の手を引き、元帥府で彼が寝泊まりするときに使っている私室の奥へと案内する。

 

―― なにかしらね

 

 彼女は手を引かれるまま、そちらへと進む。

 

「あなたは浴槽につかるのが好きだと、姉上から聞いたので、用意した」

 

 キルヒアイスが帰ってくるまでは、彼女に触れないと誓ったラインハルト ―― キルヒアイスはそんなことをして欲しいと言ったこともなければ、帰還後聞かされて、若干どころではなく頭を抱えた。

 そんなラインハルトだが、時間を無駄に使ったりはしないので、キルヒアイスの帰還後、彼女を元帥府に招いた際、心地良く過ごしてもらおうと、アンネローゼに何を準備したらいいのかを尋ねて、彼女の風呂好きを知り用意することにした。

 

「……あ、鏡のモザイクですわね」

「ああ、特注させた。どうだろう?」

 

 広くないシャワー室が、壁をぶち抜きゆったりとした間取りの浴室に変化していたのだが、浴槽が尋常ではなかった。

 

「浴槽業者に、あなた用だと告げたところ、このデザインを提示された。私は神話にはあまり明るくないので、部下のメックリンガーに聞いた所、これはアフロディーテ誕生のワンシーンを表すものだと教えられたので、このデザインにした」

 

 素材だけで言えば、大理石の浴槽。

 それに外側と”バック”が鏡のモザイクが施され、きらきらと輝いている。

 そしてデザインはというと、

 

―― 大きな貝殻。口を開けたシャコ貝にしか見えない!

 

 ボッティチェッリのアフロディーテ誕生をモチーフとしたらしい、大きな二枚貝デザインの風呂。シャワーフックはエロスの彫刻で飾られている有様。

 

「わざわざ私のために特注までしてくださって、ありがとうございます」

 

 恋愛経験値が限りなく0に近い男に、時間と金を与えて、自分一人で考えさせたところ、このような状況が出来上がった。

 注文を受けた業者もプロなのだからもう少し……言われそうだが、彼らとしてはアポロンと謳われる男に引けを取らない、美しき妻に似合う最高の風呂を用意しろと言われて困りに困り、出来うる最高の技術を持って、最高の素材で夫妻の美しさを際立たせる浴槽を作り上げたのだ。

 ラインハルトに勧められ風呂に入ることになったのだが、浴槽に湯を張っている途中で、

 

「私は用事があるからこれで。ゆっくりと風呂を楽しんでくれ」

 

 仕事があると、彼女を置いて元帥府を去った。

 彼は単純に彼女が浴槽でゆったりするのが好きだと聞いたので、風呂に招いたのだ。

 

―― いえ、まあ……いいんですけれど

 

 湯を張っている最中の豪華な風呂と、”そろそろこの元帥杖をふるうべきなのだろうか”な護衛のキスリングと、残された彼女。

 

「キスリング。湯温高くしてもらっていいかしら?」

 

―― せっかく用意してくれたのですから、入浴して帰りましょう。ちょっと意味不明ですけれど、ラインハルトの努力を無駄にするわけにもいきません

 

「畏まりました」

 

 ラインハルトも一緒に入ることを想定し、湯温を37℃に設定していたのだが、彼が入浴しないのであれば、こんな低い温度の湯に入る必要はない。

 

「113℉(45℃)くらいの湯と合わせると、ちょうど良くなりそうよね」

「そうですね。そのように設定いたします」

 

 こちらもアンネローゼに言われてラインハルトが用意させた女物のドレッサーの引き出しを開け、やはりアンネローゼの指示により用意させた髪をまとめるコームを取り出し、自分で軽く結い上げる。

 

「ごゆっくり」

 

 キスリングに言われ、彼女は浴室へ。浴槽ではない方の貝殻にバスタオルを掛けて、彼女は湯に浸かった。

 

「こんな感じになってるんですかー」

 

 大きい浴室は、出入り口が二つ、三つ付いていることも珍しくない。

 なんの変哲もないシャワー室を改築したこの浴室も、潰された部屋側のドアがまだ生きていた。悪いことなのかどうかは不明だが、ドアは壁と同じ色で、自動ドアの為に取手などの類いがなく、完全に壁と同化しており、彼女は気付かなかった。

 浴室を見たキスリングですら気付かなかったのだから、彼女が気付かないのは当然とも言えるが。その壁にしか見えないドアから、いきなり人が入ってきた。

 

「……え? きゃああああ!」

 

 闖入者に気付いた彼女は、胸を隠して、彼女には珍しく大声を上げることに成功する。

 

「ミュラー!」

 

 叫び声を聞いたキスリングは侵入者 ―― 彼はミュラーだと確信し、元帥杖で殴り掛かった。その動きの速さと、続く音の大きさに、先ほどの侵入者を見つけた時よりも彼女は驚く。

 バスタオルを羽織った彼女は、倒れた侵入者の肩に付いている階級章が、准将を指し示していることに気付いた。

 

「ミュラーじゃありませんよキスリング。……あなたが手に持っているのは元帥杖では。えっと……」

 

 何がどうなったのか? 彼女にはまったく分からない状況だが、

 

―― エミール帰しておいて良かった

 

 子供に見せるものではないから、連れて来なくてよかったと、胸をなで下ろした。


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