黒絹の皇妃   作:朱緒

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第196話

―― 体温計はファーレンハイトではなく、セルシウスにするべきよ、ファーレンハイト

 

 熱にうなされながら、そんな意味のないことを考えていた彼女は、寝込んで三日目の明け方近くに、ふと目を覚ました。

 

―― 喉が渇き……枕元に、飲み物があるはず

 

 喉を潤そうと、彼女は身を捩り起き上がる。

 ずっと寝ていたこともあり、上体を起こしただけで目眩を覚え、瑪瑙とサファイアが埋め込まれているベッドの天板に手をつき目を閉じ、こめかみを押さえる。

 目眩特有の感覚が収まってから、彼女はゆっくりと目蓋を開き、枕元のトレイに乗っている、保温製に優れているボトルを手に取り、蓋を開け白湯を飲む。

 気付いていなかった喉の違和感に、まだ発熱が続くことを覚悟し、蓋を閉めてトレイにそっと置き直す。

 

―― 疲れているようね

 

 熱を出し寝込んでいる彼女の側に、誰も控えていないはずはない。

 体調を崩す原因になってしまったフェルナーが控えていたのだが、立ち膝状態で彼女のベッドに頭だけを乗せるようにして、居眠りをしていた。

 

―― だから、あれほど椅子に座りなさいと……い、痛い

 

 彼女は熱で痛む体を動かし、天板に掛かっていた彼女のナイトガウンをたぐり寄せ、フェルナーに気付かれないように近づいて肩にそのナイトガウンを掛ける。

 

―― 風邪がうつったら、どうするのですか

 

 彼女は俯せている状態のフェルナーの頭頂部の髪を指で梳くようにして撫で、癖のある柔らかな灰色の髪に軽くキスをしてから、再びベッドの中へ潜り込み目を閉じた。

 彼女はフェルナーを起こさぬよう、注意深く動いたつもりではあったが「体痛い」とぎこちなく、ベッドの上で動いていれば、無理な体勢で体を預け、浅い眠りだったフェルナーが気付かぬはずもない。

 居眠りしていた自分の不甲斐なさと、彼女が掛けてくれたガウンに感謝し ―― 頭髪越しの彼女の唇の感触に、

 

 ”姫さま、それは不意打ちです”

 

 年甲斐もなければ、彼らしくもなく照れ、彼女のやや浅い、苦しげな寝息が聞こえてくるまで、動くに動けなかった。そして彼女の体調が回復するまで、フェルナーが付き添いを務めた。

 

 ちなみに彼女が発熱する原因となった元恋人は「恥ずかしい勘違いをしていました」とメールしてから、オーディンを出ていった。

 

**********

 

―― ミュラーに罰を与えるのですよ!

 

 体調が戻った彼女は、同じく体調が落ち着いたミュラーに罰を与えるためにデートをすることに。

 なぜ罰がデートなのか? そもそも、罰とはなんなのか?

 

 罰だが、先日彼女のドレスを握りしめ、皺と汗染みをつけてしまったミュラー。

 彼が意識を失っている間に、副官のドレウェンツが、どうにかしなくてはと奔走する。まずは軍内のクリーニングに持ち込むも「そんな高級品は取り扱えない」と、当然拒否される。

 続いて、金さえ出せばなんでもすると帝国人に思われているフェザーンの業者に持ち込んだが「本物の帝国門閥貴族のドレスのクリーニングは、フェザーンでは扱っておりません」と。フェザーン人も下手なクリーニングで布地を傷め、損害賠償を求められたら、破産どころか一族郎党首を括るしかないので、絶対に引き受けない。

 必死に伝を頼り ―― 最終的にローエングラム邸のクリーニングへ。

 要するに、そのまま返したということに。

 彼女はいつも通り、なにも気にしていないのだが、周囲はそうもいかず。まだ骨折が完治していないミュラーが、小康状態の彼女の元へ見舞いと謝罪にやってきた。

 

「気にしてはいないわ」

「そうは言わずに」

「本当になにも……」

「なにとぞ! このナイトハルト・ミュラーに罰をお与えください!」

「……」

 

 罰を与えない限り引かないのは、部下たちで経験済みなので、彼女は仕方なしに罰を与えることにした。

 彼女が考える罰というのは、前もって予定も聞かず、調整する間も与えずにデートをする。平日の日中、自分と腕を組んで歩かなくてはならないことや、デート費用は全てミュラー持ちであること等。これが罰なら、何度でも喜んでという男性は大勢いるだろうが、彼女にとっては考えに考え抜いた罰であった。

 

 考えていたときまだ38.0℃ほど熱があったので、ろくなことが思いつかなかった……のかもしれないが。

 

「なにが罰なのか、さっぱり分かりません」

 

 そんな部下たちの釈然としない気持ちなど知らぬまま、彼女は体調が戻るとすぐにミュラーに、このことを通知する。

 

 罰が彼女とのデートと聞かされ、彼女の部下たちと同じく、

 

「なにが罰なのだろう」

 

 そう考えたミュラーだが、参謀長のオルラウに、

 

「他の男性から嫉妬されるのが罰なのでしょう」

 

 言われて納得しかけたものの、そんなのは些細な問題にすらならないと、はっきり言い切った。

 ”閣下がそう仰るのは、分かっておりました”オルラウもそれ以上なにも言わず。

 ただミュラーは一つだけ、心配があった。

 彼女が自分と歩いているのを見られるのは、良くないのではないかというもの。平民出の大将と大公妃殿下では、身分が違うどころではない。

 彼女の名誉のためにも、彼女には変装してもらった方がいいのではないか? ミュラーはそのように考えて、ファーレンハイトの元までやってきて告げる。

 雰囲気だけは侯爵といわれることもあるファーレンハイトは、にこやかにミュラーの話を聞き、椅子から立ち上がり彼に近づく。

 ザンデルスは”あの表情は、実力行使だな”殴りつけるときの表情だと分かったが、注意を促すこともなく、黙って殴られるのを見ていることにしたのだが ―― ミュラーは殴られはしなかった。だが蹴られはした。それも、副官のザンデルスですら予測していなかったハイキックで。

 

「貴様は何を言っているのだ」

 

 ザンデルスは顔を蹴られ体勢を崩しただけなのに、肋骨を押さえているミュラーの心配はせず、ハイキックをした上官の体の心配をする。

 ”無理しなさんな提督。提督、もう三十路なんですから”

 蹴られたほうは骨折しているとは言え、まだ二十代なので良いだろうと放置。

 

「何を……とは?」

 

 固定はされているが痛む部分に手を当てて、体勢を直したミュラーは、自分がなにか、おかしなことを言ったのでしょうかと尋ねる。

 

「ジークリンデさまは、変装などできん。あのお方は、変装しようとも美しさや気品は、隠しきれんのだ。そもそも、変装した程度でジークリンデさまだと分からず外出できるのであれば、俺たちがとうの昔に変装させている」

「……ああ……」

「門閥貴族らしからぬ格好をしようとも、あの上品な空気と優雅な物腰は、何を着せようとも、どのような化粧を施そうとも、隠し果せるものではない。あのお美しい顔、艶やかな髪、鈴を転がすような声を隠しても、あのお方は、纏う空気そのものが違うのだ。はっきりと言おう、無駄だ」

 

 注意されたミュラーは、それはそうだ、考えが及ばず申し訳ありませんでしたと詫びて、元帥府を後にする。

 

「変装ごときでジークリンデさまだとばれぬのであれば、俺たちは苦労せん」

 

 ファーレンハイトは今までの出来事を思い出し、頭を振った。

 

”提督、腰を押さえているが……大丈夫ですかって聞いたら、査定下がるかなー……下がるな。見なかったことにしておこう”

 

「そうですね」

 

 ザンデルスはこのことについて、何も触れなかったし、言うこともなかった。

 

**********

 

 ミュラーの罰が彼女とのデートと聞き、ロイエンタールが、

 

「俺がドレスを汚したら、デートしてくれるのか」

 

 口説きに来たものの、彼女は”ぽかん”とした表情で、

 

「オスカーなら、ドレスを汚したら、新しいのを買って下さるでしょう。いくら私でも、オスカーが弁償できないようなドレスは持っていませんわ」

 

―― この人、何を言ってらっしゃるのー

 

 大金持ちの門閥貴族の当主に、体で支払わせるような真似はしませんと返した。

 言われたほうは、そういうつもりではなかったが、

 

「では新しいドレスを一着贈らせてもらおうか」

 

 それでもめげずに申し出たものの、彼女にやんわりと拒否された。

 

「大金持ちで羨ましい限りだ。なあ、キスリング大佐」

「そうですね、パウルさん」

「……」

 

 ロイエンタールが帰る際、彼女に見送るよう言いつけられたオーベルシュタインとキスリングは、誰とは名を言わず、そんなことを小声で言い合っていた。

 もちろん、羨ましいなどとは微塵も思っていない。

 

 彼女が想定していなかった幾つかのことが起こり、彼女が知らぬ間に解決し、デート当日となった。

 カザリンのご機嫌伺いと、リュッケの三輪車押しの技術を褒めてから ―― 正午の少し前に、水族館前で待ち合わせることに。

 登庁してから連絡を受けたミュラーは、その時点で休暇を取り、準備のために自宅官舎へと戻った。

 デートの際にどのような会話をするか? どこに立ち寄るか? 定休日ではないかなどを再確認し、最後にどちらのコートを着て行くべきかを悩む。

 一つは軍の支給品で、もう一つは六年前に彼女に買ってもらったビキューナ地のステンカラーコート。

 

”一生物らしいわよ。私が贈ったコートが、ずっとミュラー中尉の側にいられるなんて、嬉しいわ。これに袖を通すとき、少しでもいいから私のこと思い出して。ジークリンデという貴族の娘がいたということを、あなたが忘れないでいてくれたら、私は宇宙で誰よりも幸せでいられるわ”

 ミュラーがビキューナのコートを見る度に思い出すのは、その時の彼女の言葉。一文字たりとも忘れてはいない。

 そして悩みに悩み ――

 

 水族館にはミュラーが先に到着し、それから少し遅れて、五台ほどの車に囲まれた、彼女を乗せた高級車が水族館前に停車した。

 ミュラーは駆け寄り、しばらく待つ。

 ドアのロックが解除され、ドアが少しだけ開く。ミュラーはそのドアに手を掛けてから、辺りを見回しおかしな動きをしている者がいないことを確認してから、大きく息を吸い込み、そして吐き出してからドアを開いた。

 

「待ったかしら、ミュラー」

「ジークリンデさま、お待ちしておりました」

 

 ミュラーが差し出した手を取った彼女は、

 

「そのコート、もしかしてあの時の?」

「はい」

 

 彼が着用しているのが、六年前にフェザーンで買ったコートだと気付き大喜びし、体を軽くぶつけるようにして腕を組み笑いかけ、そして腕を引くようにして水族館へ。

 突然現れた皇族を前にした受付は硬直し、彼女とミュラー、そして護衛たちが通り過ぎたところで、緊急ボタンを押して館内に「緊急事態」が発生したことを伝えたが ―― 彼女はそんなことは知らぬまま、館内を観て回る。

 館長が出ていたため、副館長が案内のためにやってきたが「本日はプライベートなので」とキスリングが阻止した。

 

「水槽の中を泳いでみたいわ」

 

 彼女は無数の魚がいる水槽内の細かい所を掃除している職員を見つけて、自分も泳ぎたいと言いだす。

 

「泳がれたことは、ないのですか? 私はてっきり、帝国でも泳がれたことがあるのだとばかり」

 

 無意識に押しつけられる、胸の柔らかな感触に胸をときめかせつつ”二度目はない”と自分に言い聞かせながら、ミュラーは意外でしたとばかりに返した。

 彼女はフェザーンで、水族館を貸し切りスキューバダイビングを楽しんでおり、その人魚と見まがうような彼女を鑑賞しつつ、ルビンスキーたちフェザーンの要人と、彼女の夫と、引き連れていった政府高官たちが話し合いをしていた ―― 長い黒髪を解き、フィンを足に付け華麗に泳ぐ彼女は、甚だ会議を妨害し、最終的には話し合いを止めさせるに至ったほど。

 ミュラーはその際に、水槽の外側から彼女に異変がないかどうかを確認することを任されたが”控え目”に言ってもまったく役には立っていなかった。

 

「領内の水族館では何度か。前にも言った通り、本当は海に潜りたいのですけれど、誰も許してくれないのよ。小さめな水槽を作り、魚を放してくれはしましたが、私は雄大な海中の景色を楽しみたいのであって、邸に小さめな水槽を作って欲しかったわけでは……もちろん、魚と泳げる水槽は、とっても嬉しかったのですけれど」

「は、はあ。そうですね。その水槽を造られたのは、フレーゲル男爵閣下で?」

「そうよ。誕生日プレゼントだと。伯父さまは邸のプールで我慢しなさいでしたし。確かに飛び込み台のあるプールですから、深さもありますけれど、それは味気なさ過ぎます」

 

 自宅に飛び込み台付きのプールがあったり、領内の水族館を自由に使えたり、彼女は”小さめ”と言っているが、平民から見たら間違いなく大きな水槽をプレゼントされたり ―― 話を聞いた彼らは、水槽をプレゼントされた時の彼女よりも、驚きはしなかった。

 彼らにとって門閥貴族とはそういう存在であり、彼女はそれらの贅沢をして当然の人間だとしか思えなかった。

 

「海は色々と危険ですからね」

「ミュラーもみんなと、同じこと言うのね」

 

 彼女は軽く頬を膨らませ、反対側を向く。

 

「面白みのない男で申し訳ございません。ですが……やはり、ジークリンデさまには、あまり危険なことはして欲しくはありません」

 

 彼女はくすりと笑い、

 

「そこまで真剣にならなくても良いわ。私も分かってはいますよ」

「潜水艇で海中の散策は……」

「したことありますわ。あれも安全性を考慮して、気密服を着用させられるので、あまり。……あとで、カタリナに聞いたら、そんな格好で潜水するのは、私くらいだと言われましたけれど。あれって、別に気密服を着用しなくても、大丈夫なのよね」

 

 彼女は深海=未知の世界という認識があったため、言われた通りに気密服を着たのだが、簡単に宇宙に出ることができ、ワープまで存在するような科学力を持つ現在、

 

「水深一万メートル程度でしたら、特に問題はないはず」

 

 そこまで注意して潜水する方が珍しかった。

 

「そうよね」

「ですが私は深海は専門ではありませんので、後で調べて報告させていただきます」

「いいえ、別にそこまでしてくれなくても」

 


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