黒絹の皇妃   作:朱緒

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第195話

 ファーレンハイトが語った”トニーわたしはわるいおんなです~”とは、フェルナーの別れた彼女から送られてきた文面である。

 態度や雰囲気のせいで、ろくな生い立ちではないと勝手に思われがちなフェルナーだが、両親もいれば姉たちもいる、ごくごく普通の家庭に生まれ育った。

 そして賢い平民男性が選べる中で最高の進学、就職ルートを歩み ―― 性格には似合わないが、割と堅実な人生設計をしていた。

 帝国での堅実な人生設計とは、結婚まで含まれており、彼は二十五歳頃には結婚するつもりで相手もいた。

 同い年の女性で、オーディンで知り合い、結婚についての話も出ていたのだが ―― フェルナーが二十四歳の時に、彼よりも条件のよい男が元恋人の前に現れ、乗り換えられた。

 元恋人が選んだのは、彼女より十歳ほど年上の内務省下級官吏。

 当時フェルナーは諜報部におり、元恋人と頻繁に連絡を取ることもできず、会うこともままならなかった。そんな時に現れた下級官吏だが、彼はすでに徴兵を終えており、この先、出世こそしないが、戦死することはない。就職先も国なので、まず倒産することはない。

 翻ってフェルナーは、職業軍人。後ろ盾は皆無で、いつ前線に送られ、戦死するか分からない平民。

 元恋人は生活が安定する下級官吏を選び、フェルナーを振った。

 別れの理由を聞かされたフェルナーは、それならば仕方ないとすっぱりと別れたのだが、元恋人とその相手は、結婚して頭のねじが緩むかなにかしたのか、挙式当日から、何故かフェルナーに自分たちの画像を送りつけてくるようになった。それ自体は、フェルナーにとってはどうでもよく、気にもならなかったのだが ――

 

 そんな元恋人が結婚したのは、今から六年前で、月はこの時期に結婚したら、幸せになれると言われている六月。

 「六年前の六月」と言えば、フェルナーは諜報部から彼女の元に転属した時期で、急遽フェザーン行きが決まった頃でもある。

 当然のことだが、フェルナーが元恋人に教えていた連絡用アドレスは、私用にのみ使われるもので、また諜報部に属していたこともあり端末も別のもの。

 彼女のお供でフェザーンに行く際、帝国の情報があらぬ所から漏れてはならないと、フェルナーの私用の端末は回収されていた。これに関しては、彼らは当たり前のことだと預けて任務へと向かった。

 そんなこととは知らない元恋人は、フェルナーの私用端末に「私たち幸せです」画像をメッセージ付きで送ってきたのだ。

 端末を預かり、家族からの緊急連絡があった場合に備えて、日に一度確認していたのが、リヒテンラーデ公だとも知らずに。

 

 国家の重鎮が、平民の元恋人の新婚画像を日々確認するという状況。執務室の空気が日増しに冷えたのは、仕方のないこと。

 

 さらに運が悪いことに、フェルナーは諸事情により一人遅れて帰国し ―― 彼が帰国した頃には、この馬鹿映像と頭が沸いたような文章は、フレーゲル男爵やファーレンハイトも知るところとなっていた。

 ただ彼らはフェルナーの帰国と同時に前線へと向かったので、それについて触れたのは随分と後のこと。

 

「国務省書閣下に”今度はもう少しマシな女を選べ”と、蔑みの視線と共に言われた時は……恥ずかしいったら、もう。まさに穴があったら入りたい気分でした。もっとも、あったとしても、入らなかったでしょうが」

 

 直接注意したのはリヒテンラーデ公であった。

 ただこの元恋人と夫に、懲罰等が加えられることはなかった。

 条件の良い相手に乗り換えるのは門閥貴族にもよくあることで、その時の判断そのものは「妥当だ」と誰もが見なし、下級官吏は何事もなく仕事を続けることができた。

 

 このような行動をとる女性と付き合っていた、それはあまりにも恥ずかしい過去なので、彼女にはこのことは告げはしなかった。

 事情を知っている者たちも必要はない判断し、この存在に関しては、一生告げることなく終わる予定だったのだが、人の生とは不確かなもので、安定を求めて官吏を選んだ元恋人だったが、その夫は病気で没する。

 独り身になった元恋人は、生活の安定を求めて方々を見回すと、かつて捨てた男が、内務省の中級・下級官吏のパーティーに出席することを知った。

 それも三十代の若さで、前線で武勲をあげるでもなく中将となり、次期皇帝と目されている大公妃殿下の名代で出席。そしてまだ独身 ――

 

「絶対にその女、あなたがまだ自分のこと好きだと思ってるわよ。自分のことが忘れられなくて独身を貫いていると、間違いなくそう考えて、シュテファニーに接触したのよ」

 

 世の中には一定数、そう考える人間は存在する。そして運悪く、フェルナーの元恋人もそんな人間だった。

 

「そうだとは思います」

 

 元恋人はまずは、この二年ほど使っていなかったアドレスでコンタクトを取ろうとしたのだが、繋がれどフェルナーからの返信はなく ―― とうの昔に他の人と連絡を取るために新しい端末を用意し、日々あまり賢さが感じられない画像が届いていた端末はそのままにしていた。そのどうしようもない端末は、ファーレンハイトが預かっており、先ほど放り投げられた箱の中に保管されていた。

 ファーレンハイトは連絡が来ていることには気付いたが、彼らは相手の行動は愚かだとは思っていたが、不幸せになれとは考えてもいなかったので、普通に幸せな画像 ―― たとえば”我が子を抱いた幸せな”画像が送られてきたのだろうと考え、確認する気になれなかったのだ。

 そうこうしている間に、ファーレンハイトの妹に接触する。

 当たり前に護衛がついている元帥の妹に、寡婦が近づけたのは、妹がファーレンハイトに隠れて留学準備をしていたのが原因であった。

 最初から兄に留学したいと告げれば、簡単に手はずは整うのだが、妹はそれを良しとはせず、できる事は自分でと考えて、隠れて留学コーディネーターと会っていた。

 留学の計画をコーディネーターと話し合う ―― ここで護衛に気付かれてしまいそうだが、そこはカタリナが協力する。

 男性は例外なく(皇帝は除外されると思われる)立ち入り禁止のエステティックサロンに「お使い」なる名目で通わせ、話す場を設けてやった。

 もちろんコーディネーターも女性。

 護衛たちには「公爵夫人の化粧品を受け取るため」と説明して。帝国では女性が護衛職に就くことはないので、護衛たちは大金持ちの女性以外立ち入れないサロンに、踏み込むことはできず、サロン前で待機するしか他はない。

 週に一回、基礎化粧品を? と、思うものもいたが、報告を聞いたファーレンハイトは、基礎化粧品を週一で購入することに驚きもせず、自分の妹なので、サロン内まで心配することはないと。

 あとは、出て来るまで時間が掛かっているので、何をしているのかを尋ねたが「カタリナさまに新しい施術がどんなものか? 効果はどれほどかを、体験してくるように言われている」等と返されてしまえば、

 

「エステ……お前がか……カタリナさまとは、元が違うからな」

「ほっといてよ!」

 

 それ以上、突っ込んで聞くこともできなかった。

 元恋人は、サロンで清掃員として働いており、休憩中、仲間と話をしていて「元帥の妹」「正式には元帥が大公妃の名代」「忙しい時は古参の中将が代理を務める ―― アントン・フェルナー」以上のことを知る。

 こうして警護の目を盗んでいたところに、フェルナーの元恋人が接触を図りる。

 妹はまだ留学の話が煮詰まっていなかったため、兄に報告するのをためらって、カタリナに事情を説明し、この状態になったのだ。

 

「カタリナ……フェルナーの頬を引っ張るのは」

 

 カタリナに意図も害意もないのだが、そこにフェルナーの顔があったので、ヴァンプネイルが鮮やかな、美しい指で容赦なく頬を引っ張っていた。

 通常は両腕を後ろに組み立っているいる筈のフェルナーの顔が、座っている彼女やカタリナの手が届く範囲にあるということは「屈め」と命じられたに他ならないが、そこを言っても始まらない。

 

「あなたも引っ張ってみる? ジークリンデ。触り心地が悪くて、全然面白くないわよ。陛下のぷにっとした頬は、とても楽しいのに」

 

 ”皇帝の頬、引っ張ったんですか。さすが公爵夫人”

 さすがのカタリナでもカザリンの頬は引っ張らないが、キスリングは彼らしくもなく素直に信じた。カタリナはそのくらい、出来そうだと。

 

「カタリナ、放して」

「分かったわ、ジークリンデ。それで、どうするつもりなの?」

 

 カタリナはマニキュアと同系色の、鮮やかで深みのある赤い口紅を塗った唇に笑みを浮かべるも ―― 笑みというよりは、獲物を前にした肉食獣のそれであった。

 

「こちらで対応しますので」

 

 頬が自由になったフェルナーは、屈んだままの状態で、ご迷惑をおかけしましたと言いつつ、構わないで下さいと願い出るも聞いてはもらえず終い。

 

「なにを言っているの、フェルナー。これは、完全に女の領分よ」

「いえ、まあ……」

「その女に完全なる敗北を味わわせない限り、しつこく付きまとわれるわよ。あなただって、嫌でしょうし、仕事の邪魔になるでしょう」

 

 瞳も笑っている。だがその瞳に宿っているのは、純粋な心配だけではなかった。むしろその割合は小さいと言ってもいい。

 

「えー。その」

「あなたたちなら、最終手段なんて簡単に取れるでしょうけれど、一度くらいは生き延びる機会を与えてあげなさいよ」

 

 殺すつもりはないとは言い切れず、彼女の不安げな眼差しを前に ―― 彼らは結局、カタリナの提案通りに動くことになった。

 そのカタリナの提案なのだが「相手に圧倒な差を見せつける」というもの。

 要はフェルナーが独身なのは、昔の女が忘れられないのではなく、主が美しすぎるのが理由なのだと教えてやるのが優しさだと。カタリナから説明を受けた彼女は、

 

―― よ、よく分からないのですけれど、気合いを入れて綺麗な格好をして、相手の女性からフェルナーを奪えばいいのですね……奪う? なんだか、ちょっと違うような気もしますが……やっぱりよく分かりません

 

 あまり理解できぬままに、決行の日を迎えた。

 

 フェルナーが元恋人が会うことになった場所は、貴族街の一角の廃墟。

 人が長いこと住んでいない邸で、失火もあり、建物の四分の一ほどが焼けている。

 ここを選んだ理由だが、会う場所が火災跡と知れば、嫌がるのではないかと、彼らは一縷の望みを賭けたのだ。

 

「何時までも後ろ向きでいるわけにはいきません」

 

 だが立ち止まっていては駄目だと、常々思っていた彼女は、良い機会だと引きはしなかった。

 彼らとしては、彼女の心の傷が癒えていることは喜んだが、状況は喜べない。だが止めようもなく。

 廃墟は宮内省が管理している土地建物なので、フェルナーが出入りしていても、ある程度は誤魔化せる。

 うっすらと積もった雪と、綿のように舞う雪片の中、フェルナーは呼びだした元恋人を拒絶していた。ただ、心はここにあらず。

 彼女がどのタイミングでやってくるのか? なにを言うつもりなのかが気になって、相手に集中できないでいた。

 フェルナーが分かっているのは、彼女は邸の地下金庫から宝石を取り出したこと。この地下金庫で保管されている宝飾品は、高額であったり、歴史があったりするものばかり。

 金額にすると、最低ラインが百万帝国マルクから、上は値段が付けられない。それを聞いたフェルナーは、国宝を身につけてやってこないことを祈りつつ ―― 心はまったくここにあらずが続く。

 かみ合わない会話を続けていると、フェルナーは近づいてきた足音に気付く。歩調と雪を踏む音から、それが彼女であることも分かった。

 彼らの近くまで来たところで、彼女の足音が止まる。

 さすがに元恋人も足音に気付き、二人の会話が止まる。建物の影で、歩みを止めていた彼女は、二人の会話が途切れたので、意を決して物陰から踏み出す。

 

 冬の灰色の空。分厚い雪雲に覆われ、地上に降り注ぐ日の光は白。

 そんな弱々しい光を背に、彼女は二人の前に現れた。

 彼女が好む総レース製のロングスリーブでマーメイドラインのドレス。宙を舞う雪を引き連れてきたのかと思わせるような純白のドレスで、二人に姿を見せた時点で、まだ建物の影に続いている長いマリアベールを被っている。

 額は大きなダイヤモンドと、その周りと飾る真珠で作られた、マリアベールティアラで隠れていた。

 首元はマリアベールティアラとは正反対の、ブリーシングの首飾り。

 そんなドレスやネックレス、ティアラやベール以上に目を引くのが彼女の黒髪。外出する際は、しっかりと纏めている髪が下ろされた状態で、彼女は凍る風にたなびく自分の髪を片手で押さえる。

 舞う長いマリアベールよりも、胸の辺りまでの長さの黒髪のほうが優美であり、目を離すことができない色気があった。

 彼女は舞わぬように黒髪を押さえていた手を放し、フェルナーに手を差し出す。

 

「トニー。付いてきなさい」

「御意」

 

 フェルナーは踵を返し、彼女の手を取りその手に礼をしてから、彼女のベールを掴み付き従った。

 

 地上車に戻ると、すぐにその場を離れる。

 彼女の隣に座ったフェルナーと、そのフェルナーから視線を露骨に逸らす彼女。

 二人の向かい側に座っているキスリングからも、彼女の表情はうかがえない。誰も口を開かず。そのうち彼女が震えだし、

 

「こんな格好で外出したからですよ」

 

 フェルナーが手元にある空調のパネルで温度を上げる。

 彼女はそれでも、なにも言わず、反対側を向いたまま。

 早急に車内の温度を上げるべく、やや強めの温風が吹き出し、彼女の耳元の髪を撫でる。黒髪で隠れていた、彼女の耳朶と首元が、僅かに現れ ―― やや強めの朱に肌が染まっているのがばれてしまう。

 

「大丈夫ですか?」

 

 問われた彼女は頷き、これは寒さではないと返事をするが、その声も少しばかり震えていた。

 いやいや寒さでしょうとフェルナーが、ショールがないかと向かいのキスリングに尋ねるが、持ってきていないと言われたので、自分の上着を脱いで、彼女の肩にかける。

 

「すぐに温かくなりますから。それまで、これを羽織っていてください」

「……寒くはありません。恥ずかしいだけです」

「なにが? でしょうか」

「トニーと呼んだのが……すごく、恥ずかしかったの……」

 

 完全に俯いて、膝に置いていた手をぎゅっと握りしめ、また小さく震える。

 改めて言われたフェルナーは、そう言えばトニーと呼ばれたことを思い出し、彼女のように照れはせず、

 

「ご迷惑をおかけいたしました」

 

 嬉しさを滲ませて感謝を述べた。

 

「それにしてもジークリンデさま、このドレスは、何時着られるおつもりで?」

 

 彼女が着用しているドレスは、誰が見てもウェディングドレス。式場へと向かう花嫁以外には見えない。

 

「棺に入る時に、このドレスを着せて下さいね、フェルナー」

 

 だが彼女は俯いたまま、これは死に装束なのだと告げた。

 死亡した際に着る服などは、用意しておくにこしたことはない。名門貴族に生まれたからには、死に対しての準備も整えておく必要はある。

 

「畏まりました。このフェルナーに、お任せください」

 

 彼女は顔を赤らめたまま、フェルナーのほうを向き、花が綻ぶかのような笑顔を浮かべる。

 そんな彼女にフェルナーは「お任せください」とは言ったが、内心では、さすがの彼女でも百歳を越えたら、このドレスは着られないだろうし、九歳年上の自分のほうが先に死んでいるだろうと、軽い気持ちで引き受けた。

 

 

 彼の予測は当たらず、彼女はこのドレスが似合う年齢で死亡する。”ドレスを着せて”と依頼しておきながら、彼女は自分でドレスに袖を通し、額にかかるマリアベールティアラを身につけ、永遠の眠りにつく。

 いつも額に口づけていた彼だが、マリアベールティアラで額が隠れているので、毒を飲んだ唇に触れるしかなかった。

 

 

「でもどうして、棺に入られる時の格好を?」

「死ぬ気で頑張らなければと思ったので、死んでも良い格好で望んだのです」

「あーご迷惑をおかけいたしました、本当に」

 

 ただ、彼女は寒くはないと言っていたが、彼女が着ていたのは、デザインの美しさ以外は考慮されていない、死に装束として用意されたドレス。

 しっかりと防寒対策をしていても、冷たい空気に当たるとすぐに体調を崩す彼女が、真冬にドレスだけで出歩いたらどうなるか?

 

「……」

「103.64℉です。点滴なさいますか?」

 

 帰宅後、着替えているうちに体がだるくなり、気付けば39.8℃の熱が出て寝込むはめに。

 

「……(要りません)」

 

 喉が腫れて声も出なくなり、彼女は痛む頭を振って何とか意思表示をする。

 

「104℉になりましたら、点滴は避けられませんので」

「……(分かりました、ファーレンハイト)」

 


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