黒絹の皇妃   作:朱緒

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第191話

 キルヒアイスの昇進に関して、彼女は思うところがあるので、後日それについて二人きりで話したいとラインハルトに申し出てから離れた。

 そして人混みから外れ、壁際へと移動し、フェルナーが差し出した、グラスを手に取り一口飲む。

 

「ノンアルコールのスパークリングワインですね。懐かしい」

 

 グラスを掲げて微笑む。

 かつては子供扱いされ(実際子供だったのだが)会場で一人だけ、ノンアルコールを提供されて不満を漏らしていた彼女だが、飲める年齢になってからは、ノンアルコールで良いのでは? と、なっていた。

 これは彼女が天邪鬼なのではなく、酒が自由に飲める年齢になったら、パーティー会場で問題が頻繁に持ち込まれるようになったので、ほろ酔い加減でふわふわして居られなくなってしまったのが理由である。

 

「そうです。ところで、ジークリンデさま、キルヒアイス提督を帝国騎士になさるのですか?」

 

 今日もこうして会場で「平民の壁」にぶち当たっている夫の部下と、それを解決できる立場にいる自分という問題に直面し ―― 帝国騎士の地位は下洛しているとは言うが、それは地位のある人間にとってのこと。平民はどれほど功績を挙げようとも、上級大将の壁は越えられない。

 上級大将の地位を目指すのであれば、その前に帝国騎士の地位を授からなければならず、それを授かるためには、典礼省へ寄付を行わなければならず、さりとて大将程度の地位では満足な寄付は行えず。

 実家が裕福であれば帝国騎士の地位を授かれるほどの寄付を行えるが、そのような財産を持っているものは、軍人を目指さない者のほうが多い。

 

「条件と言いますか、代償を支払ってもらえれば、考えます」

 

 彼女はキルヒアイスを帝国騎士にすることはできるが、簡単に与えるつもりはなかった。

 

「代償……ですか?」

「ええ。ただ代償を支払わずとも、いずれ帝国が公のものとなれば、自由にできるのですから」

 

 彼女の求めをラインハルトが拒んだとしても、いずれ帝国はラインハルトのものになり ―― ジークフリード・キルヒアイスは元帥に上り詰めることになるでしょうと。

 

「ジークリンデさま」

 

 フェルナーに咎められた彼女は、笑ってグラスを返す。

 

「良いではありませんか」

 

 いずれ実力と、それに見合った功績があれば昇進できる世界になるのだから、ここで自分が門閥貴族たちを押さえ、貴族にする必要などないと、彼女は考えていた。

 

「まったく。ジークリンデさま、もう一つお聞きしたいのですが、宜しいですか?」

「なにかしら?」

「ジークリンデさまは、キルヒアイス提督の想う方に、心当たりがおありのようですが」

 

―― 鋭いわー。さすがフェルナー

 

「え、ええ。なんとなく」

 

 フェルナーに聞かれた彼女は、嘘をつかず、それどころか驚きと尊敬の眼差しで見つめる。翡翠色の澄んだ美しい瞳に込められた、純粋な尊敬に、すこしばかり居心地悪くなりながら、フェルナーは否定した。

 

「多分、それ、勘違いだと思いますよ」

「え? どういう意味?」

「私は私で、心当たりがあるのです。どうです? ジークリンデさま、教えあいませんか?」

「良いわよ」

 

 彼女はキルヒアイスに囁いた時と同じように、扇子を開き口元を隠して、近づいてきたフェルナーの耳元に唇を近づけ、声をひそめて伝える。

 

「あのね、エッシェンバッハ公の姉上のアンネローゼさまよ」

 

 彼女は自信を持っているのだが、フェルナーの予想は別人であった。

 

「なるほど。では私の意見ですが、いま私と話しをしている大公妃殿下だと思っています」

 

 彼女は開いていた扇子を落としそうに ―― 実際取り落としたのだが、手から完全に離れる前にフェルナーが支えて落とさずに済んだ。

 

「…………えっ?」

 

 けぶるような睫をしばたたかせ、すっとしているが柔らかさのある眦を、やや大きく開いてフェルナーに”なにを言っているの”と無言で、だが全身で返す。

 

「ジークリンデさまですよ。なんですか、その”それはあり得ません”という表情は」

「あり得ないからあり得ないと」

 

 自分の口元とフェルナーの顔を隠す扇子。それを持っている手から力が抜けるが、フェルナーがそれを支えて隠し続ける。

 

「相変わらず、強情でいらっしゃる。では賭けませんか? 当たった方に、負けた方が五百帝国マルクを払うと」

「絶対に私が勝ちますわよ」

「本当にそうお思いですか?」

「思っていますわ。だって、キルヒアイスは黒髪の女は嫌いなのよ」

 

 彼女は”知らないでしょう”と笑顔で。

 

「……へー」

 

 彼女の言葉を聞いたフェルナーも笑顔で ―― ただし、目は笑っていないが、背筋を伸ばしたので彼女からは見えなかった。

 

 「フェルナーから五百帝国マルク貰うのは、悪いわね」と彼女が思っていると、治療を終えたミュラーが会場へと到着した。

 彼はラインハルト、そして彼女など身分や地位の高い者に挨拶をし、その後同僚たちと会話を交わす。

 ミュラーの様子をうかがい、そろそろ話し掛けても良いだろうと考えた彼女は、自分から声をかけるわけにはいかないので、フェルナーに依頼をする。

 

「フェルナー。ミュラーと二人きりで話したいのですけれど」

「分かりました。そちらのテラスでお話ください」

 

 フェルナーは人を遣わせミュラーを彼女の元へと呼ぶ。

 

 彼女がミュラーと二人きりで話そうとするのは、想定済み。だが前科があるので ―― 会場から丸見えだが、二人だけになれるガラス張りのテラスに案内する。

 テラスは総ブルーマラカイトの床で、明かりに照らされて、夜空との対比が美しい。

 夜空を散りばめたような柄の、金縁のアンティークソファーと、足置きが中心からすこし離れたところに置かれている。

 先にテラスに足を運んだのは彼女。

 

―― もうちょっと、こう……隠れたところで……

 

 彼女は背中に視線を感じるが、振り返らずに金製で透かし彫りの手すりの前に立ち、庭を眺める体勢を取る。

 この夜の彼女は、大公妃の身分に相応しい長めで豪華なトレーンが目を引く、チューブトップのAラインドレスを着ていた。

 ドレスの色は白に近い水色で、銀糸で裾から膝中ほどまで、蔦の刺繍が施されている。その刺繍部分には、ホワイトオパールが無数に縫い込まれており、それがブルーマラカイトの床に広がると、まさに幻想的であった。

 フェルナーは彼女のドレスの裾を丁寧に、ブルーマラカイトの床に広げる。

 百合の花がモチーフになった、幅のあるダイヤモンドのネックレスに、同じく百合モチーフのイヤリング。こちらはダイヤモンドと真珠で作られている。

 しっかりと黒髪は纏められているが、それでも艶やかさは隠しきれない。その黒髪を飾るのは、プラチナのティアラ。華奢な作りで、プラチナの台に細かな彫刻が施されており、飾る宝石はアクアマリンとダイヤモンド。

 

 彼女の背後に立ったミュラーの肩にフェルナーが手を置き、

 

「ジークリンデさまのお体を、卿の体で隠さないようにして会話するように」

 

 注意してテラスを去った。とは言っても、ガラスを挟んだ反対側から、監視しているような状態。

 彼女はガラスに映る、こちらを見ている将校たちの姿に、心の中で”あっちにいって!”と言うも、無論表情にも態度にも出さない。

 

「ジークリンデさま」

 

 彼女の斜め後ろにいたミュラーは、折れた肋骨が痛むものの、その背に跪き頭を下げる。

 前回の別れ際を考えると、この姿勢も致し方なく ―― 普段は頭を下げた相手と話すのを嫌う彼女だが、それと今回は違うので、そのまま話を続けることにした。

 ミュラーが取った姿勢から、彼がなにかしでかしたのだと会場にいる者たちにも伝わった。

 

「ミュラー。怪我は大丈夫ですか? 無理などしていませんか?」

「ご心配には及びません」

 

 ミュラーが生きて帰って来ると聞いた日から、再会した際には、どのように話そうか? 事情を知っているのはキスリングしかいないと、そのキスリングも本当のことは知らないから、自分一人で考えなくては ―― 本当はかなりの人に知られているのだが、彼女はそんなことは知らない。とにかく一人で、あの夜の出来事をどのように処理しようかと悩み、なんとか考えをまとめた。

 

「私が勝手に心配しているのですから、気にしないように。……ナイトハルト」

「はい」

 

 名を呼ばれたミュラーは驚き、面を上げる。

 彼の視線の前には青白い光に照らされた芸術品と評するのが相応しいドレスと、その先に肌理細やかな艶めかしい白い肌の背中が、目に飛び込んでくる。

 

「あの夜のことですが、あなたは私に言い忘れたことがあるわよね」

 

 彼女はガラスに映るミュラーを、ミュラーは彼女の後ろ姿を。

 

「この場で謝罪を……」

「違います。まあ謝罪でも良いですけれど、謝ってしまったら、それで終わりよ」

 

 彼女が何を言いたいのか、分からないミュラーは、やや身を前に乗り出す。緊張で乾いた口内に、傷を負ったことで上がっている熱でかさついた唇から紡ぎ出される言葉は、ややひび割れている。

 

「終わり……ですか?」

「そうよ。謝罪したら、終わり。あなたがこの先、私に好意を持つことは許さないわ」

 

 彼女はミュラー見返る。

 広げられたトレーンから腰、背中から肩、首筋に顎、そして頬にかけて、計算され尽くしたかのような、心を捕らえて放さないような魅惑的な体の曲線。

 そのラインにミュラーは息をのみ、体に力が籠もる。

 

「謝らなければ、お慕いし続けてもよろしいのでしょうか?」

 

 彼女はほっそりとした手を伸ばす。それは、跪いているミュラーを求めるかのような、切なげな雰囲気を纏っていた。

 

「もう一度言うわ、ナイトハルト。あなたはあの日、私に言い忘れたことがありますよね」

 

 あの夜、ミュラーが取った行動を許すのは、彼女としては違うような気がした。だからと言って無かったことにしてしまうのは、どうにもしっくりとこない。

 結局、あの夜感じた恐怖と感触と、残された感情など全てを飲み込んで、ミュラーの心をも奪ってみようと考え、実行に移してみることにしたのだ。

 

 この考えをフェルナーに言えば「えー今更」と忠告らしからぬ忠告をもらえただろうし、オーベルシュタインに告げれば「既に妃殿下の元におありでしょうに」なる答えをもらえただろうが、彼女は彼の夜のこと ―― 好青年による強姦未遂 ―― は誰も知らないと、信じて疑っていないので、このような行動に出たのだ。

 

「あります。私の気持ちを、お伝えしておりませんでした」

 

 ミュラーが力を込めて言い返す。

 彼は色々と喋ったが、自分の気持ちそのものを彼女には伝えていない。

 己の本当の感情を伝えてもいいと言われた彼は、体勢は更に前のめりになり、肋骨に負担が掛かる。痛み止めの効力が徐々に薄れているところに、無理な体勢が重なり、脂汗が滲む。

 

「ナイトハルト。私があなたの気持ちに応えるかどうかは別ですよ。それでもよければ、あの晩、言い忘れたことを、今ここで言いなさい。聞かなかったことにはしないから、安心なさい」

「もちろん……ジークリンデさま……」

 

 跪いていたミュラーは、許されはしなかったが拒否もされなかったことに安堵して意識を失い、前のめりに彼女のドレスに倒れ込んだ。

 彼女は驚き、倒れたミュラーに近寄り、ガラスの向こう側にいるフェルナーに声をかける。もちろん声は聞こえはしないのだが。

 

「フェルナー! 来て! 早く!」

 

 その後ミュラーは病院へと運ばれ、

 

―― まさにもぬけの殻ですね!

 

 彼女も病院に付き添った。それというのも、ミュラーが彼女のトレーンを掴んで、そのまま意識を失ってしまったのだ。彼女に対する思いの全てを込めて握ったせいか、ちょっとやそっとでは指を開くことができず。

 フェルナーが「手を放してください、ミュラー大将!」と叫びつつ、拳で頬を打つが意識は戻らない。

 

「フェ、フェルナー止めなさい。怪我が増えてしまいます」

 

 トレーンが取り外せるタイプのドレスでもなかったので、彼女はトレーンを切り、大至急病院に運びなさいと言ったが、大公妃殿下のドレスに傷を付けるなど、誰もしたくはない。

 彼女のドレスに縫い付けられている千を越えるホワイトオパールは、元は一つの原石で、このドレスの為だけに切り分けられたもの。

 誰が見ても高価であり、同じ品を弁償できるかと聞かれたら ―― ラインハルトの視線を受けたキルヒアイスは首を振る。

 脱ぐという選択肢もあったのだが、公衆の面前でドレスを脱ぐのは、彼女としては避けたく、その結果、病院へと付きそうことになった。

 病院で医師に鎮痛剤を打たれ、呼吸が落ち着くまで彼女はミュラーの枕元に。だが握った手が緩むことはなく、ドレスを脱いで帰宅することにした。

 施術が終わり、人払いができる状況まで待ち、着替えのドレスが届いたので、掴まれたままのドレスを脱ぎ、新しいものに着替える。

 副官のドレウェンツは彼女に何度も頭を下げたが、

 

「気にする必要はありません」

 

 彼女は本当にまったく気にしていないので、そう告げて帰宅した。

 

 目を覚ましたミュラーは、自分がしっかりと彼女のドレスを握っていることに気付き、最初は幸せな気持ちに、それから現実に引き戻される。

 一晩中握っていたドレスには皺が寄り、汗をかいていたので染みができてしまっていた。

 かつて彼女が着ていたドレスを汚した際、勤め人の給与では手が届かないと言われたことを思い出したミュラーは、朝日に煌めくホワイトオパールが縫い込まれているドレスを前に ―― 折られた肋骨の辺りがまた痛みだす。

 

「弁償できるだろうか……」

 

 上官の呟きにドレウェンツは苦渋の表情を浮かべて、首を振るしかなかった。

 


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